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├計量計測データバンク ニュースの窓-332-富士山の火山活動を理解する資料集
├「日本計量新報」今週の話題と重要ニュース(速報版)2025年12月18日号「日本計量新報週報デジタル版」
├計量計測データバンク ニュースの窓 目次
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├富士山の火山活動史1 伊豆衝突帯、先史時代の富士火山

Shimpei Sato
www.youtube.com/@Shimpei_Sato
日本 2011/10/09 に登録 チャンネル登録者数 1.38万人 23 本の動画 3,512,519 回視聴
48,102 回視聴 2025/12/06
伊豆衝突帯という特異な環境から生まれた火山、富士山の火山体形成史です。富士山の巨大さを肌で感じたことがあります。富士市街から北に向かう途中、まだまだ富士山が遠くにある市街地(吉原~今泉あたり)から、延々と続く上り坂が始まったときです。地質図によると曽比奈溶岩流の分布域。遥か遠方に見える富士山と目の前の坂道とが一体のものとは信じられず、驚愕した経験でした。「富士山の火山活動史2 歴史時代の富士山」は現在まだ制作中です。完成予定は2026年1月下旬頃。
文字起こし
富士山は際立って美しい火山ですその美しさの由来は均整の取れた円錐形にあります。それだけでしょうか。円錐形のほか、富士山の美観を特徴づけるいくつかの要素を挙げてみます。巨大な山体急峻な山頂部広大な裾野、そしてそれらを繋ぐ輪郭の垂れ下がる曲線富士山は決してありふれた火山ではありません。このような山体を形成する条件が揃い難いからこそ孤高の山となったのです。
巨大な山体が示すとおり富士山は高いマグマ噴出率を誇ります。それは10万年前の活動開始以来現在まで一貫して続くものです。富士山の積算噴出量は日本列島にある陸上火山の中で最も高い部類に入ることがわかります。特徴的なのは、ここに列挙される火山のほとんどがカルデラ噴火を経験している中で富士山だけがそうではないことです。高い噴出率の中
破壊的な噴火を起こさずに山体を積み上げたからこそ巨大な成層火山を築くことができたのです。
なぜこの場所に富士山が生まれたのでしょうか。その答えは伊豆衝突帯と呼ばれるこの地域の形成過程に隠されているかもしれません。複数のプレートがせめぎ合う日本列島の中でもここは特異な場所です。ここはプレート収束境界と火山フロントとが交差する場所、そして陸地が増加し続ける場所でもあります。伊豆衝突帯と呼ばれる地域です。同じ収束境界でもトラフや海溝とは明らかな地形の違いが見られます。
なぜここには深い溝が形成されていないのでしょうか。プレートの収束境界では通常重い海洋プレートが軽い大陸プレートの下に沈み込む沈み込み帯を形成します。大部分が重い海洋地殻で形成されているフィリピン海プレートも北西方向に進行を続けトラフや海溝に至ると沈み込みを開始します。しかし火山列だけはある理由によりトラフから沈み込みきれず衝突付加しながら地表に取り残されていくのです。
伊豆小笠原弧のような海洋島弧の地殻は三層構造となっています。重い下部地殻が本州の下に沈み込んでいく一方軽い上部地殻は沈み込むことができず上部地殻だけが剥がれて取り残されます。その結果上部地殻は本州と連続衝突を起こしていきます。連続衝突の過程でトラフは順次南側へと移動してきました。現在も伊豆半島の衝突が続く中次の地塊、伊豆七島もすでに衝突が始まっているとみられます。そして安山岩質の軽い中部地殻はプレートとともに若干は沈み込むもののマントルまでは戻ることができませんある程度の深さで溶けマグマとして上昇・貫入します。再浮上した中部地殻は長い年月をかけて地表に露出しています。富士山はこのような連続衝突の発生する只中で誕生した火山です。この特異な環境がなければ生まれなかったかもしれません。
1500万年前この地域には海が広がっていました。日本海がその拡大を終えた頃本州の中央部には深く広い海峡が横たわっていました。海峡西側の海岸線は糸魚川-静岡構造線そして海峡の間に浮かぶ島は。後の関東山地です。陸地は起伏の少ない地形でした。ほとんどが海底火山であった伊豆小笠原火山列は沈み込み境界を目指して北上を続けます。しかしここまで到達した火山列はその軽さゆえに沈み込むことができず衝突が開始されます
突き刺さる地塊は関東山地の地層をも変形させていきます。
900万年前頃には御坂地塊がその後は丹沢地塊の衝突も起こり衝突帯では少しずつ陸域が増えていきました海峡が閉塞したのはおよそ800万年前のことです。500万年前頃、関東山地付近ではいくつかの火山性の陥没が起きています。このマグマ活動の活発化が関東山地の隆起を促進したようです。300万年前頃になるとフィリピン海プレートの運動方向が変化します。それに伴って本州では東西方向の圧縮が起こり起伏の少なかった本州中部が隆起を始めます。伊豆地塊は年間4センチメートル程の速度で近づいていました。当時の御坂・丹沢山地は現在ほどの標高はまだありません。約100万年前伊豆地塊の衝突が本格化します。
この頃、伊豆地塊と伊豆衝突帯ではにわかに火山活動が活発化します。足柄トラフは堆積と隆起が続いた結果70万年前頃には陸化しました。足柄トラフが陸地化した直後箱根火山群の活動が始まります。伊豆地塊の火山活動が東側へと収束する中本州側では西側への活動の広がりが見られるようになります。愛鷹火山に続き丹沢山地の西方の尾根から先小御岳火山が誕生します。続いて小御岳火山も丹沢山地上で成長しました。その中で約10万年前に誕生した富士火山が急激な成長を遂げて今に至ります。
もう一度30万年ほど前に戻ります。現在富士山のある場所には丹沢山地が続いていました。富士山の内部には丹沢山地の一部が隠れているのです。富士山がこれほどの高い標高を獲得できたのは一つには陸上火山だからです。かつて深い溝が存在していた南部フォッサマグナ地域は陸地化を成し遂げるまで1500万年を要しました。陸上火山である富士山の基盤にはその長い積み重ねがあるのです。富士山の内部には丹沢山地の他にも伏在する山塊があります。約27万年前に誕生した先小御岳火山は現在の富士火山とほぼ同じ位置で活動した火山です。富士山が3つの火山体で構成されていると考えると富士山の一部といえます。
先小御岳火山のマグマ組成は他の伊豆弧の火山と同様に玄武岩からデイサイトまでの多様なマグマ噴出が見られますこの点で富士火山とは区別されます。先小御岳火山の噴出物が地表に露出するのはわずか1か所のみです。しかし掘削により発見された2か所のほか宝永火口の直下にも山体が及んでいると考えられています。かなり大きな山体なのかもしれません。
約16万年前先小御岳火山の活動停止と入れ替わるように同様の地点で活動を始めたのが小御岳火山です。小御岳火山のマグマ組成は先小御岳火山から大きく変化しています。しかしマグマ噴出率の点では小御岳火山までは通常の沈み込み帯火山の範囲内であったとみられています。その様子が劇的に変化するのは約10万年前のことです。およそ10万年前小御岳火山のやや南側から新たな火山活動が始まります。その火山は、先小御岳や小御岳その他の伊豆弧火山とは異なるマグマ組成を有していました。噴出されるマグマはもっぱら玄武岩ですその玄武岩は新鮮なマグマとは程遠い結晶分化の進んだマグマでしたそしてそれまでの活動と比較してマグマ噴出率も劇的に増加します。
このような富士山の特異な火山活動が開始された要因はどこにあるのでしょうか。フィリピン海スラブは富士山の直下でも裂けることなく続いています。また先小御岳火山までの活動にさしたる特異性がないことからも位置的な特異性のみではこの変化を説明することができません。ある時この地域で何らかの構造変化が起きた可能性があります。しかし何が起きたのかはいまだ明らかではありません。
いくつかある学説のうちこれを説明しうる2つのモデルを紹介します。ひとつは次のようなものですこのモデルでは富士山の特異性をマグマ溜りの深さに求めます先小御岳火山は伊豆弧の他の火山と同様の深さにマグマ溜りを有していました十数万年前のあるとき地殻の厚みが急激に増す何らかの変化が起きます。地殻の断片が伊豆衝突帯にもたらされたのかもしれません。その影響によりこの場所にあったマグマ溜りが地下深くに移動させられます。このとき先小御岳火山のマグマ供給は一旦断ち切られます。深さ20キロメートルの高圧下に置かれたマグマ溜りでは玄武岩質のまま分化の進んだマグマが生成されていきます。そして十分に結晶分化が進み含水量が一定量に達した後に上昇したのが富士火山のマグマであるというものです。
次のモデルは伊豆衝突体そのものの特異性と関連しています。伊豆小笠原弧は火山配列とプレート進行方向がおおむね一致するという稀有な島弧です。そのことは古いマグマ溜まりがプレートとともに移動し衝突体において既存のマグマ上昇経路と重なりうることを意味します。かつて富士山の南東方面にあった火山その火山を乗せたプレートが収束境界に達すると中部地殻以下は沈み込みを開始します。一方上部地殻は取り残されるため直下のマグマ溜りは上昇経路を塞がれて地殻内に閉じ込められますマグマ溜りは上部を塞がれたままプレートとともに移動する間ゆっくりと結晶分化が進みます。そして10万年前頃に富士山直下のマグマ上昇経路と合致し混合したとするモデルです。このモデルによると10万年前にマグマ噴出率が急上昇したことそしてマグマ組成が変化したことをよく説明することができます。
いずれのモデルも十数万年前の特定の期間伊豆衝突帯における地殻構造の変化があったとする前提に基づいています。富士山のマグマ供給の構造はいずれ明らかになるかもしれません。活動を開始した富士火山は当初から爆発的噴火を繰り返していました。中には宝永噴火級の大噴火もあります。しかし個別の大噴火が重要なのではありません。非常に長い期間、顕著な休止期間を挟むことなく数百に及ぶ激しい噴火を繰り返していたことがこの活動期の何よりの特徴です8万年余りに及ぶこの活動期では南関東方面におびただしい量のテフラを堆積させました。東山麓でのテフラの厚さは100メートルを優に超えます。その影響で丹沢山地西部の斜面が丸みを帯びるほどです。
この爆発的噴火を繰り返した活動期を星山期と呼びます。火山体中心部では溶岩流と火砕物の互層により山体を積み上げていきました。星山期に爆発的噴火が相次いだ理由はこの時期のマグマ溜りがより深くにあり揮発性成分を溜め込んでいたためと考えられています。星山期の末期は最終氷期極大期と重なります。山頂部の火山活動が氷河の融解を引き起こした結果融雪泥流が幾度も山麓に堆積しました。富士山の広大な裾野はこの時期に山体を削った泥流堆積物あってのものです。そして驚くべきことは、この時点ですでに現在の山体に匹敵する規模を有していたことです。しかし火砕物と溶岩の互層による山体は必ずしも堅固ではありません。星山期の終盤には少なくとも3回の山体崩壊が発生しています。約2万8000年前には東山麓に約2万年前には東山麓と南西山麓にそれぞれ岩屑なだれが堆積しました。富士山の山体は崩壊と再生を繰り返しながら成長してきたのです。
2万年前の山体崩壊では山頂部ごと崩壊し南西方向に開く馬蹄形火口が形成されました。1万7000年前頃からは崩壊した山頂部より多量の溶岩流が流出し始めます。爆発的噴火活動はまだ続いていましたしかし1万年前を過ぎると爆発性が急速に低下していきます。この時期マグマ供給系が変化し揮発性成分の放出が十分に行われるようになったことで穏やかな噴火に移行したようです。高いマグマ噴出率のまま多量の溶岩流が裾野を固めていきます。富士山の堅固な基盤はこれらの溶岩流がなくては形成し得なかったでしょう。このような多量の溶岩を流出した活動期を富士宮期と呼びます。
富士火山の噴出物は主に北西南東方向に走る割れ目火口列を給源とします。なぜこの方向に噴火口が集中するのでしょうか。これらの火口列は伊豆弧が本州に衝突する方向と一致するものです。岩脈は最も圧縮される方向と平行に形成されるからです。強く圧縮されている地殻内部にマグマが注入されると圧縮方向と同一方向に幅数メートル以下の岩脈が形成されます。中心火道の周辺では放射状にも派生しますが離れるに従い次第に圧縮方向にたなびいていきます。これらの岩脈が地表面に達したところに生ずるのが側火山です。富士山の側火山がこの方向に著しく集中するのは広域応力場に規定されているためです。 ただし富士山の割れ目噴火はもう少し複雑です。理想的な配置とは程遠い北東南西方向にも活動的な軸が伸びることがあります。富士宮期では特に顕著です。富士火山の内部にある古い山体を避けて上昇しているのかもしれません。富士宮期では火山体の基盤となる規模の大きい溶岩流を集中的に流出しました。膨大なマグマ噴出量を誇る三島溶岩流40キロメートルにわたる長大な猿橋溶岩流富士市街の地下深くに横たわる大淵溶岩流などがあります。
富士山麓に多数存在する湧水のうち特に規模が大きいものは富士宮期の溶岩流の末端付近に位置しています。層状に重なった溶岩流が地下水脈を形成しているのです。まず溶岩が薄い上部の破砕された箇所から雨水などが浸透します。溶岩の上下には細かい隙間がある一方緻密に冷え固まった溶岩の中心部は水を通しません。こうして溶岩層の間に水を蓄えています。そして溶岩の末端部において水圧により湧き出るというメカニズムです。 白糸ノ滝は溶岩の末端の層構造がむき出しになった場所。柿田川の源流は溶岩の末端が地中にある場所。湧玉池や小浜池はその中間にあるような場所です。
富士宮期の溶岩流の形状からこの時期の富士山は全体的に緩やかな。傾斜を持つ山容であったと考えられます。現在のエトナ火山に似た山容であったのかもしれません。巨大な山体を築いていた富士山ですが現在のような急峻な山頂部はまだありませんでした。満遍なく流れた溶岩が唯一東側に分布しないのは星山期の山体が壁となっていたものと思われます。この段階の標高ではまだ壁を乗り越えられなかったのです。
約1万1000年前前後桂川の谷を流下した二つの長大な溶岩流がありました。これらの溶岩流は谷筋にいくつもの堰止湖を生み出します。また同じ時期の溶岩流によって富士五湖に連なる堰止湖も誕生します。縄文時代の早期にあたるこの時代富士山の爆発的噴火が途絶えて静かな溶岩の流出に卓越した時代です。気温の上昇も相まってここからの5000年間は縄文時代の富士山麓において最も穏やかな時代が到来します。
桂川の流域はかつて堰止湖が多数存在した地域です。富士山麓では溶岩が流出するたびに湖の生成と消滅が繰り返されてきました。湖の消滅後もアシ原が広がる湿地帯となっていたときの面影をこの風景は残しています。約8000年前からの2400年間は富士山10万年の活動史における初めての長い静穏期です。この期間の溶岩流は確認されていません
噴出したスコリアもごく小規模なものだけです。人々の生活を妨げるほどの活動もなく気候も温暖なこの時期は。富士山麓でも多くの縄文遺跡が確認されています。
富士宮期溶岩流がもたらした数多くの堰止湖当時の山麓の人々はその堰止湖の湖畔を特に好んで集落を営んでいました。葛飾北斎が描いた誇張された富士山このように、急峻な山頂部からなだらかな裾野へと繋がる曲線は富士山の美観を特徴づける要素です。成層火山一般の特徴でもあります。しかし富士山の曲線が特に際立っているのは間違いありません広くなだらかな裾野は富士火山の特徴的な活動により獲得したものです。
高い噴出率 玄武岩質のマグマ最終氷期に頻発した泥流堆積物そして富士宮期に噴出された多量の玄武岩溶岩。これらのいずれも広くなだらかな山体を築くための不可欠な要素です。しかし富士山の形成にそれだけでは足りません。
富士山には急峻な山頂部が必要です。富士山の山体の表層は密度が極めて不均質です。山頂付近の平均密度は裾野の平均密度と比較して小さくなっています。これが示すのは富士山の裾野部分が堅固な溶岩流で固められているのに対し山頂付近では隙間の多い火砕物が多いことです。つまり玄武岩マグマのみの噴出によって鋭角の山頂部を獲得するためには溶岩流だけでは足りないということです。山頂火口からのある程度の爆発的噴火が必要です。
5600年前頃から再び火山活動が活発化します。まだなだらかであった山頂部からの爆発的噴火の再開です。活動再開の最初期に2回の爆発的噴火が発生します。長い間噴火の影響を受けていなかった山麓の住居にスコリアが降り注ぎました。これ以後の富士山は縄文時代の人々にとって荒ぶる火山となったのです。この活動期で目立つのは山頂部の円錐を構成する噴出物です。溶岩と溶結火砕物の互層から成るこの構成物により流動性の高い溶岩流だけでは構築し得なかった高さを手に入れます。
東斜面にはいまだ星山期の山体が残っていました。しかし山頂部の高まりにより一部の噴出物はそれを乗り越えるようになっていきます。約3500年前以降も続く活動は爆発的噴火に偏るようになります。短い頻度で大噴火が繰り返されました。多数存在する富士山の側火山のうち最大の体積を有する大室山は。この時期の噴火により形成されたものです。
ここまでにほぼ形成されていた急峻な山頂部は噴火に伴う火砕流の発生も引き起こします。特に山頂部の西側斜面は傾斜角34度を超える急崖となっています。規模の大きい噴火が起こると大量の火砕物が山頂付近に堆積します。そのとき西斜面に降下した火砕物は急傾斜ゆえにとどまることができず、なだれ落ちることにより火砕流が発生するのです。火砕流の本体の堆積範囲は山腹にとどまります。しかし本体から派生するサージの範囲はさらに山麓まで広がっていると思われます。約3200年前、南東山腹で発生した噴火はデイサイト質の軽石を伴うという富士火山にとっては変わった噴火でした。軽石噴火に始まりすぐにスコリア噴火に移行するという噴火推移は。後の宝永噴火にも見られる特徴です。いずれも南東斜面からの噴火であることと関係しています。宝永噴火のところで詳しく説明します。
山頂東側の斜面には星山期より残る高まりが存在していました。これまで溶岩の流下を阻んでいた壁です。3500年前以降山頂や斜面での噴気活動が活発化し古い山体内部では熱水変質が進んでいました。次第に脆くなっていたのです。約2900年前、おそらく強い地震を引き金に富士山の東斜面が大規模に崩壊します。山体崩壊は連続して3回発生しました脆弱となっていた古い山体内部にすべり面が形成され東斜面がえぐられます。岩屑なだれは御殿場周辺を広く覆い尽くしました。堆積物の厚さは10メートルを超えます。そのため小高い場所では縄文遺跡が発見されているものの岩屑なだれの分布域では全く欠けています。
山体崩壊により大きくえぐられた東斜面でしたがその姿が長く続いたわけではありません。山頂火口からの噴火が続いたことによって崩壊の跡は急速に修復されていきます。元々あった東斜面の高まりが崩壊しそして崩壊の跡が修復されたことにより富士山は均整の取れた円錐形となりました。この時期の噴火活動は山麓の人々にとって過酷なものだったはずです。噴火は集落の形成を阻むほど激しいものだったようです。弥生時代中期、静岡県の東部地域は周辺地域と比べて遺跡自体が著しく低調でした。
そして2300年前現時点での山頂火口最後の噴火S-22が発生します。このサブプリニー式噴火により深い山頂火口、大内院が形成されます。馴染み深い富士山の山容が形成されたのはたった2300年前のことです。山頂火口、大内院が形成された後は山頂からの噴火が途絶えます。山頂に代わり山腹からの爆発的でない割れ目噴火が中心となりました。最後の山頂噴火により形成された火口大内院の底は山頂から約240メートルの深さです。形成当初はさらに深かったはずです。
この山頂火口の形成により中心火道のマグマが露出した結果、揮発性成分である火山ガスの放出が活発になった可能性があります。いわば蓋のあいた炭酸飲料です。これが2300年前を境として爆発性が減少したことの理由なのかもしれません。溶岩流を主体とする噴火は中心火道と連結したことで脱ガスが進んだ後の噴出であったと考えられます。西暦300年から500年頃富士山の北東斜面では火砕流を伴う噴火が発生しています。西斜面で発生していた火砕流と同様こちらも急傾斜に起因する火砕流です。
北東斜面は西斜面ほどの急傾斜ではありません。しかし山腹噴火により急傾斜に火砕丘が形成される度に傾斜角は増していきます。そして火砕丘が安息角を超えて積み上がったとき雲仙火山のような崩壊型の火砕流が発生するという仕組みです。一つ一つの火砕流は大規模とまではいえないものですがそれでも流下距離は最大7キロメートルに及びます。
6世紀以降、潤井川の下流域には先進的な集落が発達していました。どこよりも高い場所から噴気を上げる富士山古代の人々が。その山に関心を示さないはずはありません。ここからの富士山は噴火により、あるいは存在そのものにより人々の歴史と関わっていくことになります。
参考資料
文字数制限のためURL記載は一部のみとしました。なお以下に掲げる文献のうち8割以上はウェブ上で閲覧可能です。各標題で検索するとすぐに見つかると思います。
全編にわたり参照:
高田亮・山元孝広・石塚吉浩・中野俊.(2016)富士火山地質図(第2版).
https://gbank.gsj.jp/volcano/Act_Vol/...
荒牧重雄, 藤井敏嗣, 中田節也, 宮地直道編集.(2007)富士火山. 山梨県環境科学研究所(現山梨県富士山科学研究所).
https://www.mfri.pref.yamanashi.jp/fu...
噴出量比較:
山元孝広 (2014) 日本の主要第四紀火山の積算マグマ噴出量階段図. 地質調査総合センター研究資料集, no.613, 産総研地質調査総合センター.
伊豆弧地殻の三層構造:
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伊豆七島の沈み込み:
新妻信明(2006)「16.南部フォッサマグナ16.1概説」『日本地方地質誌4中部地方』日本地質学会編, 朝倉書店, p374-375
本多亮, 安部祐希, 道家涼介(2023)伊豆衝突帯とその周辺における地殻構造と地震テクトニクス. 地震 第2輯, 76巻, p135-148.
伊豆衝突帯の形成史:
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石塚治・及川輝樹(2008)伊豆半島及び周辺地域の火成活動史. 日本火山学会講演予稿集.
岡野裕一・秩父盆地団体研究グループ(2018)秩父堆積盆地の地史と関東山地の隆起. 地球科学,72巻2号 p143-152.
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須走-b期、曽利のスコリア:
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須走-c期、西斜面の火砕流:
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須走-c期、砂沢スコリアの噴火推移:
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深澤麻衣(2020)「第2部 富士山噴火による罹災遺跡 第1章 縄文時代 2 静岡県」『富士山噴火の考古学』富士山考古学研究会編, 吉川弘文館,
p101-108.
宮地直道・富樫茂子・千葉達朗(2004)富士火山東斜面で2900年前に発生した山体崩壊. 火山, 49巻5号 p237-248.
弥生時代中期の静岡県東部:
藤村翔(2020)「第2部 富士山噴火による罹災遺跡 第2章 弥生時代から古墳時代 2 静岡県」『富士山噴火の考古学』富士山考古学研究会編,
吉川弘文館, p128-140
須走-d期、北東斜面の火砕流:
田島靖久・宮地直道・吉本充弘・阿部徳和・千葉達朗(2007)富士火山北東斜面で発生した最近2,000年間の火砕丘崩壊に伴う火砕流(富士火山17.
冒頭URL参照)
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├1.富士の成り立ち

富士山資料館 www.youtube.com/@ 2020/08/31 に登録 チャンネル登録者数 2770人
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├富士山噴火のCG公開 降灰被害を表現 内閣府
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├【公表】“富士山噴火”で新宿にも火山灰10㎝か? 鉄道・水・電気ストップも…想定される影響は?【めざまし8ニュース】
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├富士山の噴火史 - Wikipedia
├防災総合センター 1.火山の基礎知識
├防災総合センター 2.富士山のおいたち・歴史時代の噴火史
2.富士山のおいたち・歴史時代の噴火史
富士山がいまの姿になるまで
富士山はいまからおよそ10万年前に誕生したと考えられています。日本の火山の多くが数十万年から100万年にもおよぶ歴史を持っているのに比べると、まだ若く、元気いっぱいの火山と言えます。
富士山は、大きさの点でも形の美しさの点でも、日本を代表する火山です。この富士山は、どのようにして生まれ、いま見られるような姿になったのでしょうか。
およそ20~10万年前、現在の富士山のやや北側に、小御岳(こみたけ)火山が誕生しました。周辺の愛鷹山(あしたかやま)や箱根山などの火山も噴火し、大量の噴出物が地表に積もりました。
10万年ほど前に、小御岳火山の中腹で新しい火山(古富士火山)が噴煙を上げはじめました。富士山の誕生です。古富士火山は噴火をくりかえしながら成長し、小御岳の大部分と愛鷹山の北半分を埋めつくし、さらに高くそびえる火山に成長していきました。
古富士火山は、数百回におよぶ噴火と数度の山体崩壊をへて、およそ1万年前から現在の富士火山(新富士火山)が成長を始めました。その後も山体崩壊が起きたことがありますが、度重なる噴火が崩壊の傷跡をおおい、美しい円錐形をした現在の富士山がつくられました。
噴火をくり返す富士山
有史以来、富士山は活発な噴火をくり返してきました。山麓に残された火山灰や溶岩流などの堆積物、いにしえの人たちが残した文書や絵図から、その事実をうかがい知ることができます。
8世紀以降、富士山の噴火は少なくとも10回記録されています。なかでも平安時代に起きた貞観噴火(864年)と、江戸時代の宝永噴火(1707年)は規模が大きく、具体的な記録も豊富です。
「日本記略」に記された延暦の噴火
富士山の火山現象に関するもっとも古い文字記録は、8世紀後半までに編纂されたと考えられる歌集『万葉集』です。この中に富士山の火山現象を詠んだと思われる歌がいくつか収められています。しかし、発生年がはっきりしている具体的な噴火についての記述が初めて現れるのは、朝廷によって編纂(へんさん)された『続日本紀(しょくにほんぎ)』の天応元年(781年)の条です。ここに、富士山が噴火して灰が降ったという記録があります。
その19年後、平安時代初期の西暦800年(延暦19年)に発生した延暦噴火については、噴火による被害の状況など、もう少し詳しい記述が『日本紀略(にほんきりゃく)』の中に残されています。
それによれば、噴火は4月11日から5月15日までほぼ1ヶ月間続き、噴煙のため昼でも夜のように暗くなり、火山灰が雨のように降ったということです。また、同じく『日本紀略』には、このときの噴火で「足柄路」がふさがってしまったため、箱根路を新たに開いたという記述も出てきます。
足柄路は古代東海道の一部で、駿河国から足柄峠を越えて相模国へ至った路と考えられています。
万葉歌人が見た富士の噴火
いにしえの人たちにとって、富士山の火山現象はどう映っていたのでしょうか。『万葉集』には富士山を詠んだ歌が11首収められていますが、その中には富士山から火柱や噴煙が上がっている光景を思わせる歌もあります。
有名なのは高橋虫麻呂の作とされる長歌「不尽山(ふじさん)を詠ふ歌」です。
「・・・不尽の高嶺は 天雲も い行きはばかり
飛ぶ鳥も 飛びものぼらず もゆる火を 雪もち消ち
降る雪を 火もち消ちつつ・・・」
とあります。
ほかにも、富士山の火山現象を詠んだと思われる歌があります。
「吾妹子(わぎもこ)に 逢ふ縁(よし)を無み
駿河なる 不尽の高嶺の 燃えつつかあらむ」
「妹が名も 吾が名も立たば 惜しみこそ
布士(ふじ)の高嶺の 燃えつつ渡れ」
いずれも火山現象に
恋人への激しい思いをたとえた、
恋の歌です。
信仰の山からレジャーの山へ -富士登山の歴史-
富士山には、聖徳太子が空飛ぶ馬に乗って登頂したという伝説や、伊豆大島に流された役小角(えんのおづぬ、?~701年)が、夜な夜な海の上を歩いて富士山に登ったなどという伝説もありますが、上代の富士登山がどのようなものであったかを示す記録は残っていません。平安朝廷の役人であった都良香(みやこのよしか、?~879年)がまとめた『富士山記』には、富士山の山頂火口の詳しい情景描写があります。このことから、平安時代前期には誰かが実際に山頂まで登っていたことがわかります。その後、平安時代に富士山頂に寺が建てられたという記録もあり、実際に富士山頂で鎌倉時代の経文が発掘されたこともあります。
しかし、富士登山が隆盛を極めるのは、江戸時代に富士講と呼ばれる信仰登山が庶民の間に広まってからです。富士講は人々が登山資金を積み立て、輪番制で富士山に登るというもので、江戸には八百八講と呼ばれるほどたくさんの富士講がありました。当時、江戸から出発する場合は1週間の行程だったそうです。
昭和39年(1964年)に富士スバルラインが開通、昭和45年(1970年)には富士山スカイラインが開通して、それ以降、富士山の観光地化が急速に進みました。
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├富士山噴火による首都圏の降灰被害鮮明に 内閣府がCG公開し「国難級」への備え呼びかけ | Science Portal - 科学技術の最新情報サイト「サイエンスポータル」
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├気象庁|富士山
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├日本火山学会第11回公開講座・1
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├「山体崩壊」、大噴火だけではない富士山の脅威(巽好幸) - エキスパート - Yahoo!ニュース

写真出典:米国地質調査所(USGS)
巽好幸 ジオリブ研究所所長(神戸大学海洋底探査センター客員教授)2017/7/10(月) 7:00
富士山はバリバリの活火山であるにもかかわらず、江戸時代の「宝永大噴火(宝永4年、1707年)」の後300年以上も沈黙を守っている。このこと自体が既に危険信号なのだが、さらにあの3・11巨大地震の影響で地盤が引き伸ばされて、いつマグマが活動的になってもおかしくない状態にある。つまり、近い将来富士山は必ず噴火する。もはや、ある種の期待感を持って無邪気に心配している場合ではない。覚悟して大噴火に備えるべきだ。
「噴火のデパート」と言われる富士山では、実に多様な火山活動が起きている。宝永噴火では1万メートル以上の高さまで火山灰を噴き上げたが、西暦864年に始まった貞観噴火では数キロメートルに及ぶ割れ目から大量の溶岩を流した。マグマと火山ガスなどが渾然一体となって山腹を流れ下る火砕流を噴き出したこともある。さらにこの山は、時にはその優美な姿からはとても想像できないような凄まじい振る舞いをする。それが「山体崩壊」だ。
2900年前に起きた山体崩壊
そもそも火山では、数十万年を超えるその一生の中で山が崩壊することは珍しくない。例えば磐梯山は1888年の水蒸気噴火で大きく崩れ、発生した「岩屑(がんせつ)なだれ」は477人を飲み込んだ。また1980年には、米国西海岸のセントヘレンズ山が崩壊する様子が記録された。
岩屑なだれには、火山体を作っていた溶岩や火山灰、それに地表にあった土壌などが含まれる。また河川の流れる谷へなだれが浸入すると水を多量に含み、いわゆる土石流の様相を呈する。
富士山でもこのような堆積物がその東麓に広く分布し、「御殿場岩屑なだれ堆積物」と呼ばれる。厚さは御殿場駅周辺で10メートル、もう少し山に近い自衛隊滝ヶ原駐屯地付近では40メートルにも達する。その分布や周辺の地層との関係、それに含まれる溶岩の特徴などを総合すると、この山体崩壊は約2900年前に発生したようだ。破壊された山体の体積はなんと2立方キロメートル、黒部ダム10杯分にもなる。当時の富士山には山頂に加えてその東側にも古い山体が顔を出し、いわば「ふたこぶ」の形をしていた。その1つが山体崩壊で消え去ったのだ。
なぜこの大崩落は起きたのか? 磐梯山やセントヘレンズ山ではマグマの活動、つまり噴火が引き金となった。しかし富士山ではこの時期に顕著な噴火活動は認められない。一方でこの活火山の直下には、南海トラフ巨大地震の元凶となるプレート境界や付随する活断層が潜んでいる。この活断層帯が動けば直下型地震が富士山を強烈に揺さぶり、この巨大な構造物、特に熱水やガスで軟弱化した部分が崩壊する可能性がある。
過去3万年で少なくとも6回起きた山体崩壊
近年、産業総合研究所などの調査によって富士山の詳細な活動史が明らかにされつつある。その結果2900年前と同程度、あるいはそれをしのぐ規模の山体崩壊が、過去3万年に限っても少なくとも6回は起きたようだ。統計学的に言うと、今後100年間に富士山で山体崩壊が発生する確率は約2%である。これと同じくらい「低い」確率だったにもかかわらず阪神淡路大震災や熊本地震は起きた。つまり、富士山の山体崩壊は明日起きても不思議ではない。
このような富士山崩壊は巨大な岩屑なだれや土石流を引き起こす。過去の例でも周辺地域はもちろんのこと、はるかに離れた今の神奈川県県央から湘南地域まで土石流が到達したことがある。静岡大学の小山教授の試算によると、このような場合には最悪40万人が巻き込まれる。この被災者数は、現在想定されている富士山の大噴火と比べると圧倒的に大きい。
富士山大噴火と山体崩壊のハザードマップ:内閣府と静岡大学小山教授のデータに基づく
山体崩壊は大噴火に比べて発生の確率や頻度が低いので、ハザードマップはまだ整備されていない。しかし富士山ではこのような山体崩壊がいずれ必ず起きることを、行政も私たちもしっかりと認識すべきだ。
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