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計量計測データバンク ニュースの窓-262-
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計量計測データバンク ニュースの窓-262-
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├計量計測データバンク ニュースの窓-262-小野寺信ストックフォルム駐在武官の打電 ヤルタ密約(ドイツ降伏から3カ月後に)ソ連が日本に侵攻
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├計量計測データバンク ニュースの窓 目次
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├ヤルタ会談 - Wikipedia
アメリカとソ連の間でヤルタ秘密協定を締結し、ドイツ敗戦後90日後のソ連対日参戦及び千島列島・樺太・朝鮮半島・台湾などの日本の領土の処遇も決定。
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├バルト海のほとりにて
バルト海のほとりにて 武官の妻の大東亜戦争 小野寺百合子(著)
「ストックホルムの密使」の構想を組み立てる資料の一つが本書であったと後書きで著者が述べています。その詳細を知りたくて、本書を読みました。
著者の夫・小野寺信(スエーデン公使館付武官・大本営陸軍部兼任)が大和田市郎・駐スエーデン海軍武官のモデルで森四郎と行動を共にするコワレスキはイワノフ(注1)のようです。
ヤルタ会談の密約情報(注2)も出てきます。 なるほど、いくつかの事実が参考になっているようです。
(注1)イワノフ
三人目のイワノフは実はロシヤ人ではなくポーランド人で、しかもポーランド軍の優秀な参謀将校ミハール・リビコフスキーであることを夫は私に耳打ちしてくれた。彼は1939年(昭和14年)9月ポーランドがたった2週間のうちにソ連とドイツに攻略され分割されたとき、ルーマニヤ、ベルギー、オランダと逃げまわった末、リガにたどりついて日本の武官小野打さんを頼ったのであった。1940年(昭和15年)9月小野打さんがリガからストックホルムに移ることになったとき、彼もまたさまざまの苦労の末、再び小野打さんを頼って、ストックホルムの日本陸軍武官室にたどりついたのであった。その後小野打さんは駐フィンランド武官となってヘルシンキへ赴任されたが、彼は西村さんの許に残って情報提供者となったのであった。彼は満洲国に居た白系ロシヤ人と称して満洲国のパスポートを持っていた。それはリスアニヤに居た日本領事杉原氏の斡旋でベルリンの満洲国公使館から発行されたもののようである。
イワノフは杉原氏の計らいでベルリンの満洲国公使館発行の満洲国のパスポートを所持していたが、同公使館の秋草俊大佐(ポーランドへ赴任の予定が不能となり、そのまま同公使館総領事の資格でベルリンに居た)が彼に好意を持っていないことを夫は知り、またスウェーデン政府が満洲国を承認していないことも不安であった。そこで夫はイワノフの身柄保護のため、在ストックホルム日本公使館に頼んで、イワノフに日本のパスポートを発行してもらった。当時の代理公使神田(こうだ)嚢太郎一等書記官は快く協力してくた。パスポートの氏名は「岩延平太」と夫が名付け、彼の事務所も日本武官室の中に移した。イワノフは今もそれを感謝している。
(注2)ヤルタ会談の密約情報
この筋の情報で忘れることのできないのは、1945年(昭和20年)2月のヤルタ会談のあとで報告してきた、ソ連の対日参戦約に関するものである。「ソ連はドイツの降伏より3ケ月を準備期間として、対日参戦する」という重大情報を、私は特に心して暗号に組んだことを覚えている。中央からそれについて別に何の返答もなかったが、私どもはそれは当然、中央に届いているものと思い込んでいた。事実はドイツの全面降伏が5月8日、ソ連の対日宣戦布告が8月8日であったから、まさにヤルタ会談の通りであったことを思い知らされたのであった。
出典:バルト海のほとりにて。
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├連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信(1):誠実な人柄で情(なさけ)のつながり | nippon.com
2019.11.13
情報大国イギリスが「傑出した情報士官(インテリジェンスオフィサー)」と認めたストックホルム駐在陸軍武官、小野寺信(まこと)少将。ナチス・ドイツのソ連侵攻を見抜き、ソ連が対日参戦する「ヤルタ密約」をつかんで終戦工作に関わった小野寺の足跡を連載でたどる。
「世界標準」インテリジェンス・オフィサー
「日本のストックホルム駐在陸軍武官が、『ソ連の対日参戦』の情報をつかみ、日本の敗戦を認識して、スウェーデン王室筋に日本と連合国の仲介をお願いした」。終戦3か月前の1945年5月、英国政府は英連邦の主要国である自治領だったカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ共和国にこの最高機密情報を打電した。この終戦打診工作を行なった人物こそ、小野寺である。
小野寺は、ポーランドやバルト三国から協力を得て連合国の機密情報を次々と掴み、「枢軸国側諜報網の機関長」と恐れられた。ポーランドをはじめ全欧に築いた情報ネットワークに法王庁(バチカン)も関与し、一端には「命のビザ」を出して6000人のユダヤ人を救った外交官、杉原千畝もいた。同盟国ドイツも、ドイツ保安警察(SIPO)が41年7月作成した報告書で、「日本の『東』部門―対ソ諜報の長はストックホルムの小野寺で、補助役がケーニヒスベルク(現ロシア・カリーニングラード)領事の杉原千畝」と分析していた。
日本陸軍武官室があったストックホルム・リネーガータンのアパート。5階左の出窓のある部屋が武官事務所=筆者撮影
小野寺が成功したのは、ポーランド、エストニア、フィンランド、ハンガリーなど小国の情報士官らと友好関係を築けたためだ。これらの小国はソ連に侵略された共通項があり、祖国再興を夢みながら小野寺を「諜報の神様」と慕い、日本と密接な関係を構築した。
日本では、インテリジェンスといえば謀略や破壊工作など、市民の秘密を暴く、どこか後ろめたい「人を騙して情報を掠める」イメージがある。しかし、回想録で「情報活動で最も重要な要素の一つは、誠実な人間関係で結ばれた仲間と助力者」と語った小野寺は逆だった。他国の情報士官と信頼関係を結んだ誠実な人柄が、類い希な成果を生んだのだ。
新聞など公開情報を分析するオシント(オープン・ソース・インテリジェンス)は勿論、人間的信頼関係を構築して協力者から情報をとるヒューミント(ヒューマン・インテリジェンス)で成功した。リガ(バルト三国のラトビアの首都)、上海、ストックホルムで「人種、国籍、年齢、思想、信条」を超えて多くの人と誠実な「情」(なさけ)のつながりを築いたといえる。
小野寺夫妻が寄贈して、現在もスウェーデン軍事博物館で展示されている軍服と軍刀と、百合子夫人の着物の帯(暗号表を隠すため、外出の際に持ち歩いた)=筆者撮影
ソ連の対日参戦密約をつかむ
欧州駐在陸軍武官で唯一人、ドイツが英国本土ではなくソ連に侵攻すると説き、ドイツの対ソ戦の劣勢をいち早く掴んだ。さらに最も価値があった情報は、45年2月、ソ連のスターリン首相がクリミアのヤルタでルーズベルト米大統領、チャーチル英首相と決めた対日参戦密約だ。日本が最後の拠り所と望みをかけたソ連が背信する密約は、日本の敗戦を決定づけるもので、北方領土問題の原点になる最高機密だった。会談直後に小野寺は、ロンドンの亡命ポーランド政府陸軍情報部からヤルタ密約を得て参謀本部に打電するが、活かされなかった。ソ連仲介和平に奔走する日本の中枢に、握り潰されてしまったためだ。
しかし、ロンドンの英国立公文書館に所蔵されるガイ・リッデル英情報局保安部(MI5)副長官日記には、小野寺が英米を震撼させた情報士官として記されている。リッデル副長官は45年7月2日付けで、こう記した。
「ストックホルムで暗躍したドイツのカール・ハインツ・クレーマーが(ドイツ降伏後、2カ月して)秘密情報の交換のため日本の陸軍武官、オノデラと取り引きをしていたことを認めた。オノデラ情報は、イギリス軍の配備やフランス陸軍、空軍の配置、イギリスの航空機産業、極東の英米空挺部隊の配置、ソ連の暗号表、アメリカにおける原材料の所在地などに関する戦略的かつ戦術的なものだった。オノデラ情報は、クレーマー情報よりも価値があると考え、ドイツが気前よく報酬を支払った」
クレーマーは小野寺が戦後、家族に、「ドイツ随一の情報家」と回想した法学博士のインテリジェンス・オフィサーで、英米情報のスペシャリストだった。MI5は、安全を脅かす危険人物を調査してファイル(KV2)にまとめ、クレーマーに対して14冊も作った。だが、リッデル副長官は、クレーマーより小野寺情報の方が「価値があった」と評した。
リッデル日記に登場する日本の陸軍武官は小野寺だけだ。また小野寺のファイル(KV2/243)はあるが、対ソ諜報第一人者としてベルリンで大戦初期に暗躍した陸軍中野学校初代校長、秋草俊や、スイスで終戦工作を行なった岡本清福中将ら他の日本武官のファイルはない。英国立公文書所蔵公文書はインテリジェンス大国が小野寺を、「国際基準」で第一級の情報士官と認めて徹底マークしたことを物語っている。
終戦工作を英国が自治領と共有
情報収集だけではなかった。終戦工作に関し小野寺は表の外交で解決できないため、「バックチャンネル」(裏ルート)として携わった。ラトビア勤務後、単身乗り込んだ上海で、日中戦争に終止符を打つため、蒋介石との直接交渉の可能性を探った。
大戦ではドイツが無条件降伏する2カ月前の45年3月、リッベントロップ独外相からベルリンに呼ばれて、ストックホルムでの独ソ和平仲介の要請を受けた。降伏直前にも親衛隊情報部のシェレンベルク国外諜報局長からの依頼で、スウェーデン王室を通じて連合軍との和平を探った。
ドイツ降伏後の同年5月には、ストックホルムで、スウェーデン王室を通じた連合国と日本の和平仲介を打診した。英国立公文書館所蔵の英外交電報によると、小野寺の終戦工作について、サンフランシスコ会議(国連の設立を決めた連合国の会議)途中に米国務省から知らされたハリファックス駐米英国大使が、同月19日に英外務省に緊急電で伝えた。英政府は、「日本が初めて降伏の意志を示した」と判断したのだ。
そして、冒頭に記したように、小野寺がストックホルムにおいて、ドイツ敗戦から3カ月後にソ連が対日参戦するという「ヤルタ密約」をつかみ、和平仲介打診に乗り出した工作を、英国は「最高機密」と判断。英連邦の自治領だったカナダやオーストラリアなどと情報共有したのである。その際に、ハリファクス大使は「オーソライズされた陸軍武官は天皇の“代理”となるので、(スウェーデン)国王グスタフ五世は興味を持たれ、何事かアレンジされた」と1回限りの暗号で打電した。
小野寺の終戦工作に関する英自治領省からカナダなどに送られた最高機密情報=1945年5月25日
英国立公文書所蔵の秘密文書によると、英国が小野寺工作を評価した背景には、45年2月に3巨頭がヤルタで署名した「極東密約」について、英国がコピー15部を作成してジョージ国王はじめ戦時内閣の閣僚など中枢が情報共有していた事実がある。米国では、ルーズベルト米大統領が密約文書をホワイトハウスの金庫に封印し、トルーマン次期大統領でさえ、同年7月ポツダム会議に出発まで知らされなかった。
ヤルタ会談直後の1945年2月25日付けで外務省から首相官邸のチャーチル首相の秘書、マーチン氏に送った書簡(英国立公文書館所蔵、筆者撮影)
密約のコピーを配布して情報共有したリスト。コピーには15番まで番号が記され、1番からジョージ国王ら配布先の名前が記されている(英国立公文書館所蔵、筆者撮影)
密約のコピーを配布して情報共有したリスト。コピーには15番まで番号が記され、1番からジョージ国王ら配布先の名前が記されている(英国立公文書館所蔵、筆者撮影)
参謀本部の作戦課が小野寺電報を握りつぶした日本は、和平仲介への淡い幻想を抱き、ソ連にすり寄っていた。これに対し、北欧の中立国、スウェーデンで正鵠を得た情報を元に、ソ連ではなく米英との和平に乗り出した小野寺を、英国はキラリと光る枢軸側の情報士官と評価したのだ。チャーチルは、スターリンの野望を砕くべく米国などアングロサクソン諸国と連携し、ソ連の極東支配阻止に動き出すのである。
バナー写真:ストックホルムの日本大使館でドイツの中将と談笑する小野寺信陸軍武官(中央)=小野寺家提供
岡部 伸OKABE Noburu経歴・執筆一覧を見る
産経新聞論説委員。1981年立教大学社会学部卒業後、産経新聞社に入社。社会部記者として警視庁、国税庁など担当後、米デューク大学、コロンビア大学東アジア研究所に留学。外信部を経てモスクワ支局長、東京本社編集局編集委員、2015年12月から19年4月までロンドン支局長を務める。著書に『消えたヤルタ密約緊急電』(新潮選書/第22回山本七平賞)、『「諜報の神様」と呼ばれた男』(PHP研究所)、『イギリス解体、EU崩落、ロシア台頭』『新・日英同盟』(白秋社)『第二次大戦、諜報戦秘史』(PHP新書)など。
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├「バルトの真珠」で学んだインテリジェンスの極意:連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信(2) | nippon.com
情報大国の英国から「枢軸国側諜報網の機関長」と警戒された小野寺信(まこと)少将(最終階級)。彼が小国の情報士官から機密情報を得ることができたのは、誠実な人柄だけではなかった。ロシア語とドイツ語で高度なコミュニケーションが取れる「世界標準」の語学力を習得していたからだった。
ドイツ語とロシア語で「世界標準」の語学力
岩手県胆沢郡前沢町(現・奥州市)で生まれた小野寺は、1912(大正元)年、13歳で仙台陸軍幼年学校に入学する際、ドイツ語を選択し学んだ。「ドイツ語は幼年学校でも士官学校でも優等生であったので、ゆくゆくは陸大を卒業してからドイツへ行って勉強したいと心に期していたし、また自信もあった」(「小野寺信回想録」)からだ。
ドイツ語を得意としていたが、ロシア語にも取り組むようになった。転機はシベリア出兵だ。1921(大正10)年、ロシア極東ニコライエスクに派遣されると、旅団司令部のロシア人タイピスト姉妹、タチアーナ、クラ―ラから活きたロシア語を学んだ。語学の才もあったのだろう。わずか1年で新聞が読め、文章が書けるように上達した。
日露戦争から、脅威となったのはロシアで、ボルシェビキ革命で誕生したソ連も膨張政策を継続し、最大の仮想敵国となった。陸軍ではロシア研究の俊英の育成が焦眉の急だった。小野寺は1925年に陸軍大学校に進む際、ドイツ語で受験。見事合格すると、ロシア語を第1語学として専攻し、頭角を現した。
陸大卒業後は、陸大教官に任用され、1933(昭和8)年5月、36歳で、北満(現在の中国東北部)ハルビンに「短期留学」した。白系ロシア人家庭に1年間ホームステイして、ロシア語を磨き上げたのだ。陸軍有数のロシア専門家となった背景には、上司の小畑敏四郎大佐(当時)の引きがあった。小畑大佐は、当時、陸軍内で抗争した「皇道派」と「統制派」の派閥のうち「皇道派」の旗頭だった。
陸大在籍中の1927年、一戸(いちのへ)百合子と結婚した。百合子夫人は日露戦争の旅順攻略で勇名をはせ、退役後は学習院院長、明治神宮宮司などを務めた一戸兵衛の孫。また父の寛は黒羽藩藩主、大関増徳(増式)の六男で、陸軍皇族付武官少佐を務め、皇室との関係が深かった。この皇室に近い家柄は、小野寺が後にスウェーデン王室を通じた終戦打診工作に生きてくることになる。
ソ連ウォッチャー揺籃の地に
駐在武官として辞令を受けたのがラトビア公使館だった。二・二六事件が起きる1カ月前の1936年1月、バルト海のほとりのリガまでシベリア鉄道で赴いた。「バルト海の真珠」とたたえられる港町リガは、古代から交通の要衝にあたり、ハンザ同盟の時代から欧米のソ連専門家が育つ揺籃の地だった。ソ連と国境を接し、バルト海東岸に南北に並ぶバルト三国は地政学上、ソ連はじめ欧州各国の趨勢をうかがうには絶好だったからだ。
小野寺が駐在した1937年から40年までリガ武官室があった建物(2018年4月、筆者撮影)
小野寺が駐在した1937年から40年までリガ武官室があった建物(2018年4月、筆者撮影)
ロシア革命(1917年)の後、世界最初に誕生した社会主義国のソ連を西側諸国はなかなか承認しなかった(アメリカが承認したのは33年)。中国ウォッチャーが香港に集まったように、ラトビアが第一次世界大戦後の1918年に独立して40年に再びソ連に併合されるまで、首都リガは欧米の外交官や情報士官の対ソ最前線拠点となった。「ソ連封じ込め」政策を提言した米国の外交官、ジョージ・ケナンや、『歴史とは何か』の著者で英国の歴史家、E・H・カーもいた。
駐在していたのは、アメリカ、ポーランド、チェコスロバキア、スウェーデン、エストニア、リトアニア、イギリスとソ連の武官だった。日露戦争で大国ロシアを破った日本は武官団の間でも一目置かれ、スターリニズムの「真実」を探ろうと、ラトビアはじめ各国武官と密接な関係を築いた。欧米の白人は、宗教や文化が近く、片言で通じ合えるが、アジアの黄色人種である日本人が白人の輪に入ることは容易でない。しかし、ロシア語とドイツ語が堪能な小野寺は、臆することなく、家族ぐるみで肝胆相照らした。
百合子夫人は自著『バルト海のほとりにて』で語っている。「一番好意をよせてくれたのがポーランド武官ブルジェスクウィンスキー夫妻で、(中略)夫妻の好意が数年後に、信じ難いほどの厚い信義にまで発展しようとは、当時は思いもよらないことであった」
この後、ストックホルム駐在武官に転進したフェリックス・ブルジェスクウィンスキー武官は、再会した小野寺との友情を大戦終了後まで続けた。気脈を通じたのは、プライベートでも交流を重ねたからだ。3歳でリガに渡った二女の節子さんは、子供の誕生日パーティーでブルジェスクウィンスキーの同じ年の長男から、「人生で初めてプロポーズされた」ことを覚えている。子供が近しくなると親の距離も縮まった。
リガ陸軍武官室の自宅で小野寺(後列右から2人目)や百合子夫人(中列右から2人目)ら勤務していたスタッフ(小野寺家提供)
日独でエストニア工作員をソ連に潜入させる
親友となった武官がもう1人いた。エストニアの武官、ウィルヘルム・サルセンだ。エストニアの情報が質量ともに優れていたため、南のリトアニアと北のエストニアとバルト三国全体を兼任する希望を参謀本部に上申すると、1936年12月許可された。エストニアからの情報でスターリンの大粛正に伴ってソ連軍が弱体化している事情が次々に判明した。
情報収集には経費がかかる。提供の見返りにエストニアに諜報費として年額5000ドル(当時の為替は1ドル=4円で2万円。現在の貨幣価値は1500倍として3000万円程度)支払った。さらに「可能性があるならば広げてくれ」と要請すると、エストニアは極東までエージェントを配置した。その責任者がエストニア陸軍参謀本部第二部長(情報部長)のリカルト・マーシングだった。後に同参謀次長となるマーシングは1940年、ソ連に併合されると亡命したスウェーデンでドイツ軍情報部に入るが、再会した小野寺の右腕として支えた。
特筆すべき業績はエストニアとドイツと共同で行なった日独エ「対ソ」潜入工作だ。日本陸軍は、ベルリンに馬奈木敬信大佐(当時)を長とする参謀本部直轄の謀略組織、「馬奈木機関」を設けた。「小野寺信回想録」によると、ドイツのアプヴェーア(独軍情報機関)と共同で対ソ工作員や諜者を養成し、ソ連に潜入させて、情報収集や暴動を起こし、扇動する計画を立て実行していた。情報が漏洩して未遂に終わったが、スターリン暗殺計画も進めていた。
小野寺とマーシングは、エストニア情報部の工作員を「馬奈木機関」で養成。日本が1938年、ソ連と往復するため、国境にあるペイウス湖の高速船の購入資金1万6千マルクをエストニア軍に提供して高速船を購入し、ソ連に潜入させた。工作員の1人はソ連参謀本部に潜入し、39年まで情報を提供するなど、エストニア人の潜入は極東のハバロフスクや満州まで広がり、ロシア内(レニングラード、モスクワ、ボルガ、東シベリア)にスパイネットワークが出来たという。
世界遺産に登録されたエストニアの首都タリンの街並み(2018年4月、筆者撮影)
リガでの友情、ストックホルムで結実
「馬奈木機関」とエストニア情報部は、①ウクライナで革命家に反体制運動を起こさせる②グルジア(現ジョージア)などコーカサス地方で民族独立運動を支援して体制転覆工作――を試みた。「馬奈木機関」ではソ連から欧州各地に亡命したウクライナ人やグルジア人を工作員として養成、ペイウス湖から工作員を潜入させた。小野寺もテロ用爆弾をベルリンからエストニアまで鉄道で運んでいる。
ただし、大量の工作員をソ連に潜入させることに成功したが、戦後、小野寺は家族に「成果があったかどうかはわからない」と述べているように、ソ連の防諜に阻まれ、テロや暴動など攪乱する結果は残せていないようだ。しかし、多民族国家ソ連の弱い脇腹に、3国合同で工作を仕掛けたことは注目していいだろう。
1938(昭和13)年3月、参謀本部員兼大本営参謀の辞令が出た。リガでの2年間、ポーランドやバルト三国の情報士官たちと緊密な信頼関係を結んだことは小野寺の自信と財産になった。リガで学んだインテリジェンスの極意は諜報活動の基盤となり、後にストックホルムで結実する。リガで友情を育んだマーシングらは、再会した小野寺を「諜報の神様」と慕い、次々に機密情報をもたらしたのだった。
バナー写真:リガ駐在武官団(前列右端が小野寺信、右から2人目がエストニアのサルセン武官、後列右から3人目がポーランドのブルジェスクウィンスキー武官)(小野寺家提供)
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├小野寺信少将について | nejou-33のブログ
小野寺信少将について 2020-08-14 17:18:55
テーマ:小野寺信少将について 小野寺信という人物について述べる。
彼は1897年(明治30年)、岩手県前沢町の役場助役、小野寺熊彦の長男として生まれたが父が亡くなったため、叔父の小野寺三治の養子となった。遠野中学校を卒業後、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校を卒業した。陸軍士官学校では、同期の成績上位5名に天皇から軍刀が下賜されていた。
陸軍大学校は小野寺は卒業試験はトップだったがその前の成績が10番以下であったのが響いて総合で6番となり、拝受を逃した。
恩賜の軍刀組 刀袋に入れた恩賜の軍刀を持つ1930年代前半頃の陸軍大学校卒業者
(最左の「首席」1名と「優等」5名)。左腰に佩用している刀は当人が元より所有しているもの
この一番違いの成績は5番以内の成績の者が恩賜の軍刀組と呼ばれ、その殆んどが参謀本部に進む道が与えられたに対して、6番以下は外国の駐在武官などの勤務となった。小野寺信の最大エリートへの道はわずか一番違いで絶たれたのである。しかし、この悲劇が小野寺信を不世出のインテリジェンス・オフィサーの道へ導いたのである。ところが、この話を聞いた旧主の南部利淳が彼の能力とその不運を惜しみ、自ら刀を下賜したのである。
この43代当主南部利淳は東京大学を卒業し、芸術や文化に通じた優れた人物であり、また、学生への給費制度を設けるなど、人材の育成にも貢献した。大正3年(19149)には盛岡に「南部鋳金研究所」を設置し、東京美術学校鋳金科出身の松橋宗明を所長として迎えるなど、南部鉄器の改良発展に貢献した。
私も南部鉄器について調べたことがあり、拙書にも書いたが、彼が南部藩の旧藩主として小野寺信の実力を見抜き、認め自ら軍刀を与えた事は以上の経過から考えてもありえた事であり、小野寺信もこれを励みにしてその後の人生を精一杯生き抜いたのではないか。
さて下の写真の軍服や日本刀はストックホルムから小野寺信が引き揚げの際にスエーデン政府に寄贈したものであり、今もこうして展示されている。
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├ミハウ・リビコフスキ(Michał Rybikowski、別名ピーター・イワノフ、イアン・ヤコブセン
https://pl.wikipedia.org/wiki/Micha%C5%82_Rybikowski
ミハウ・リビコフスキ(1934年以前)
ミハウ・リビコフスキ(Michał Rybikowski、別名ピーター・イワノフ、イアン・ヤコブセン、アダム・ミハウホフスキ、アンジェイ・パシュコフスキ)(1900年2月3日
- 1991年1月27日)は、ポーランド陸軍歩兵中佐。
伝記
彼はカウナス県の当時のパネヴェジス地区のロカニで、アントニとパウリナ・ニー・パシュコフスカの家族に生まれた。18歳のとき、彼はポーランド軍に志願しました。彼はベラルーシとリトアニアで活動する諜報機関に配属された。ポーランド・ソビエト戦争に参加した。1927年、彼はオストルフ・マゾヴィエツカの歩兵士官候補生学校に転属した。1927/28年度には第4士官候補生中隊の小隊長、1928/29年度には中隊教官、1929/30年度には第3大隊の副官を務めた。1930年6月15日から9月15日まで、彼は砲兵と歩兵のインターンシップを完了した。1930年10月15日から12月15日まで、彼は高等戦争学校のトライアルコースを修了しました。1931年1月5日、彼はワルシャワの高等戦争学校に、1930年から1932年の第11コースの学生として任命された。1932年11月1日、課程を修了し認定将校の卒業証書を受け取った後、彼はグニェズノの第17大ポーランド歩兵師団の本部に参謀将校として転属となった。1933年4月29日、彼は1933年1月1日付けで大尉に昇進し、歩兵将校団では116位となった。1939年3月19日に年功序列で少佐に昇進し、歩兵将校軍団では88位となった。
彼は自由都市ダンツィヒ、ケーニヒスベルク、カウナスのポーランド諜報部員であり、1941年からストックホルムの日本大使館の職員である小野寺誠大佐の隠れ蓑でスパイネットワークを作った。ヒムラーはリビコフスキを「ポーランド諜報機関の最も危険な将校」と呼んだ。彼の活動は、スタニスワフ・ストルフ・ヴォイトキェヴィチの小説「ティーアガルテン」で紹介されました。
1944年10月24日から1945年2月1日まで、彼はカルパチア・ライフルズ第5大隊の指揮官であった。1945年8月6日、彼は第2カルパティア狙撃旅団の指揮を執り、1947年に解散するまで指揮を執った。
彼は1991年1月27日にモントリオールで亡くなりました。彼はポワントクレアのフィールドオブオナー退役軍人墓地に埋葬されています。
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├『消えたヤルタ密約緊急電』(岡部伸)をめぐって:海神日和:SSブログ
平洋戦争末期、スウェーデンのストックホルムから陸軍武官、小野寺信が打電していたヤルタ密約情報を大本営が真剣に検討していたら、日本の終戦はもっと早まり、その後の東京大空襲や沖縄戦、広島・長崎への原爆投下、シベリア抑留、北方四島の占領なども避けられたのではないか。
電報が伝えていたのは、「ソ連はドイツの降伏より3カ月後に対日参戦する」という密約である。だが、戦後判明したことに、大本営ではだれもそんな電報をみた覚えがないという。とうぜん政府上層部もヤルタ密約を知らなかった。すると、その電報はどこに消えたのか。ヤルタ会談が開かれたのは1945年2月上旬のことである。アメリカのルーズヴェルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンが一堂に会したこの会談では、敗戦間近いドイツの戦後処理がおもに話しあわれた。しかし、同時に日本を敗北に追いこむための方策として、ソ連が対日参戦することが求められ、スターリンも喜んで同意した。この約束は密約にする必要があった。当時、日本とソ連のあいだでは中立条約が結ばれていたからである。
会議が終わって早々に、この密約の存在に気づいた日本のインテリジェンス・オフィサーがいる。それがストックホルムに陸軍武官として駐在する小野寺信少将だった。どのようにして、かれはいちはやくその情報を手にいれたのか。そのカギとなるのは、かれが築きあげた信頼関係にもとづく正確無比な情報ネットワークである。
本書は、知将、小野寺信の人物像に迫るとともに、その諜報活動の実態、人的ネットワークの広がり、スクープの秘密をあますところなく明らかにしている。夫人、小野寺百合子が著した名作『バルト海のほとりにて』では、まだ曖昧であったり、謎として残されたりしていた部分が、長年の調査によって、より鮮明に描かれたといってもよい。
ペーター・イワノフという男が出てくる。本名ミハール・リビコフスキー(おそらく正確にはミハウ・リビコフスキ)。リトアニア出身で、ポーランド参謀本部に勤めていた。ドイツによるポーランド侵攻後、一時収容所に送られたが、そこを脱出し、ベルリンで満州国のパスポートを得て、ラトビアのリガにあった日本の陸軍武官室にもぐりこむ。そして、今度はバルト三国がソ連に吸収されると、ストックホルムに移り、そこで小野寺と出会った。ポーランドの愛国者である。
リトアニアのカウナスにいた杉原千畝が、ユダヤ系ポーランド人を救う「命のビザ」を発給した背景には、イワノフの部下たちの働きかけがあった。イワノフはロンドンに拠点を置く亡命ポーランド政府の参謀本部と連絡を保ちながら、ストックホルムを拠点にソ連情報の収集にあたっていた。日本に恩義を感じながら、反独反ソの姿勢をつらぬく微妙な立場にある。
そのためナチス親衛隊指導者ヒムラーはかれを「世界で最も危険な密偵」と呼び、その行方を必死で追っていた。小野寺はドイツの追及からイワノフを守りぬき、大戦末期にはロンドンに脱出させている。
1941年はじめ、ドイツが対ソ戦を準備しているらしいという情報を小野寺がつかんだのも、イワノフらからである。実際にバルバロッサ作戦がはじまってからも、表向きの快進撃宣伝とは裏腹にドイツの苦戦が伝わってきた。
イワノフの情報はきわめて正確だった。その年10月、ドイツの劣勢を知った小野寺は大本営に「日米開戦は不可なり」との電報を何十本も打ち続ける。だが、大本営からは一本の返信もないまま、日本は無謀な対米戦争に突入する。
ロンドンの亡命ポーランド政府に帰属してからも、イワノフは命の恩人の小野寺に秘密情報を送りつづける。「ソ連はドイツの降伏より3カ月後に対日参戦する」というヤルタ密約情報を知らせたのもイワノフだった。
そこには小野寺との友情に加えて、存亡の危機に立つ日本を何とかして救いたいという思いが働いていた。
だが日本の大本営は、このヤルタ密約緊急伝を握りつぶす。それどころか戦後になっても、そんな電報は届かなかったかのようにシラを切ったのだ。
著者は防衛省の史料室、米国立公文書館、英国立公文書館などを調査し、公刊された各国の戦史をひもとき、さらに当時の関係者とも会って、小野寺が参謀本部次長の秦彦三郎にあてた緊急電のゆくえを追い、ついにその痕跡を探り当てる。
それは当時、大本営参謀本部作戦課を動かしていた、あまりにも有名な参謀、瀬島龍三のところで途絶えていた。
著者はこう書いている。
〈間違いなく特別機密電報は届いていたのである。小野寺がヤルタ密約をスクープしたことは明らかだ。そして、それは一握りの者だけでなく……参謀本部の「常識の判断」になるほど多くの者が知り得ていたのだ。しかし、ソ連の対日参戦は敗戦をも意味する不吉な情報ゆえに、作戦課の「奥の院」は、本土決戦を控えた兵士の士気に大きく影響する軍事機密と判定し、これを握りつぶしたのである。もちろん、その背景に、ソ連を仲介とする和平工作の大きな動きがあったことを忘れてはならないだろう〉
戦争末期、日本の軍部は、沖縄や硫黄島を「捨て石」にしながら、本土決戦をし、米軍に一矢報いるという「一億玉砕」の作戦を本気で考えていた。
そのいっぽうで、ソ連のスターリンの仲介により、米英との和平にこぎつけようと画策していた。仲介の見返りは南樺太の返還、漁業権の解消、場合によっては北千島の譲渡、それに満州国の中立化とその利権の提供だったという。
日本の軍部はこうした妄想のシナリオにとりつかれていた。小野寺の緊急電はそれに警鐘を鳴らすものだったといってよい。だからこそ、参謀本部によって握りつぶされたのだ。
本書があぶりだすのは、国家的妄想のおろかさである。
インテリジェンスなき信念と、主観的願望への拘泥、必要な対策を怠る無為、何が重要であるかを判断できない愚劣さ、これらは「不都合な真実」に目をつぶる日本の中枢の硬直ぶりを示している。しかし、それらはすべて、どこかで見た光景ではないか。
スウェーデン赴任前の上海での日中和平工作も興味深いが、小野寺と杉原千畝との意外な接点、反ヒトラー派のドイツの情報士官カール・ハインツ・クレーマーとの関係、スウェーデン公使岡本季正の妨害工作なども浮かび上がってくる。よくここまで調べあげたものだと感心するほかない。
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├駐在武官・小野寺信 ~日米開戦ヲ回避セヨ!~ | らしんばん航海日誌 ~探訪という名の歴史旅~
小野寺は、後に、長男と次男を自宅に集めて、百合子さんと共に戦時中に自分たちがどのような事をしてきたか、初めて語りました。(貴重な歴史証言として、カセットテープに録音しました)戦時中の事については一貫して口を閉ざしてきた小野寺が、初めて、人前で「小野寺夫妻の戦争」を語り始めた瞬間でした。百合子夫人は、その証言テープを基にして、『バルト海のほとりにて』というタイプ印刷の私家版の本を書き上げます。1980(昭和56)年の事です。そして5年後の1985(昭和61)年、この私家版を出版したいという出版社が現れ『バルト海のほとりにてー武官の妻の大東亜戦争』というタイトルの書籍が世に出ました。昭和から平成に時代がうつった1989(平成元)年2月、NHKのドキュメンタリー番組「NHK特集」でも「日米開戦不可ナリ」というタイトルで、戦時中の小野寺夫妻の活動が紹介されました。なお、小野寺信は、1987(昭和62)年に89才で、百合子夫人はその11年後の1998(平成9)年に91才で亡くなりました.
小野寺信陸軍少将―1897(明治30)年生~1987(昭和62)年没。第二次世界大戦の中立国スウェーデンの首都ストックホルム駐在武官であった小野寺は、同盟国ドイツが日本政府や大本営が期待するイギリス本国侵攻ではなく、日本とは中立条約を結んでいたソヴィエト連邦へ侵攻する意図を持っていること、さらに独ソ戦がドイツにとって戦局不利な状況であるという正しい情報を入手し、ドイツの敗北は必至であり、「日米開戦不可」を30回以上も本国に打電しました。その内容の一つに、「ドイツ軍は東部に向かい戦死者のための棺を多く輸送している」(『正論』昭和天皇と激動の時代より)というものがあります。
小野寺は、ポーランド出身の愛国主義者ミハール=リビコフスキー(※ロシア人ぺーター=イワノフとして活動)から情報を得ていました。イワノフ(リビコフスキー)は主にソヴィエト情報を得るスパイでした。それゆえ小野寺は当時のヨーロッパ戦局を正確につかみ、本国へ「ドイツからの情報だけに頼るのは危険である。」「ドイツ軍の敗北は必至」と、何度も警告したのです。しかし、当時の大本営及び陸軍参謀本部は親ドイツ派で固められておりました。「反ドイツ的、親米的な意見は口にするな」という気質が小野寺の情報を排除し、ヒトラー(ナチス=ドイツ総統)を信奉する駐ドイツ大使大島浩(おおしまひろし)が発するベルリンからの情報だけを採用したのです。皮肉にも‟絶対に負けるはずがない“ドイツがモスクワで敗北した12月8日、日本は対米蘭開戦(太平洋戦争※当時は大東亜戦争と呼称)に舵を切ることになりました。
イワノフ(リビコフスキー)は、ドイツとソヴィエト連邦によって消滅させられた祖国ポーランドの復興のため尽力しますが、ドイツの軍事機密を収集しているとしてドイツ国防軍から命を狙われました。しかし小野寺は終始イワノフ(リビコフスキー)を匿い通します。戦後、イワノフ(リビコフスキー)は祖国ポーランドが共産化したため帰国できず、アメリカに渡り、その後カナダに移住しました。彼は「私が今日生きているのは全て小野寺のおかげ」(平成元年2月NHKスペシャルより)と語っています。また百合子夫人に対しても「小野寺が私をかばい続けてくれた恩は、一生わすれるものではない。」(小野寺百合子著『バルト海のほとりにて』より)と伝えたそうです。
NHK終戦スペシャルドラマ「百合子さんの絵本―陸軍武官・小野寺夫婦の戦争―」でも描かれていましたが、『バルト海のほとりにて』には駐在武官とその妻の仕事が詳細に書かれています。武官の仕事は各国の駐在武官や王侯貴族と接触して大日本帝国のためになる情報を入手し、素早く本国に通達すること、及び暗号書や重要文書の保管でした。その妻の役割は、武官が記した情報メモを暗号文書に変換したり解読したりすること、第三者に任せられない重要機密の扱い、金庫の管理などです。
小野寺が本国に発信し、無視された情報の中で最も重要なものは、1945(昭和20)年2月4日~11日まで、アメリカ大統領ローズヴェルト、イギリス首相チャーチル、ソヴィエト連邦共産党書記長スターリンが、クリミア半島のヤルタでヤルタ会談(ヤルタ密約)を行い、千島列島のソ連領有と引き換えに、ソヴィエト連邦はドイツ降伏後3カ月以内に日ソ中立条約を破棄して対日参戦する密約を交わしたことを伝えたことです。彼は「戦争ヲ終結スベシ」と何度も打電しました。さらに大本営の主戦派がこの情報を握り潰したことを悟った小野寺は、単独でスウェーデン国王を介した和平工作を試みています。
結局、大本営から鈴木貫太郎首相あるいは昭和天皇にこの情報が伝えられることはなく、近衛文麿(このえふみまろ)元首相を特使としてソヴィエト連邦に和平工作の仲介を依頼しようと画策するお粗末ぶりでした…。ドイツ降伏からちょうと3カ月経った8月8日にソヴィエト連邦は日本に宣戦布告。満州と南樺太に侵攻しました。その結果、60万人以上のシベリア抑留者を出し、中国大陸にいた100万人以上の日本人が帰国時に地獄の苦しみを経験し、多くの犠牲者や中国残留孤児をうみました。北方領土問題など今日まで未解決な問題も、ソ連の対日参戦に起因するものです。
1945(昭和20)年2月の段階で、小野寺の情報を大本営と政府が真剣に吟味し、スウェーデン国王を仲介に和平工作を進めていたら…。2月に「国体護持」を条件に終戦していたら、3月10日の東京大空襲、4月1日~6月23日の沖縄戦、5月29日の横浜大空襲など各都市への無差別爆撃、8月6日の広島への原爆投下、8月8日のソ連の対日参戦、8月9日の長崎への原爆投下…、これらの犠牲はなかったのかもしれません。さらにはポツダム宣言もなかったわけです。小野寺の情報を握り潰した大本営軍人に限定しますが、その者が戦争継続と敗北の責任をとらず。
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├「諜報の神様と呼ばれた男 連合国が恐れた情報士官・小野寺信の流儀」 - 好きなもの、心惹かれるもの
英国ロンドン郊外ミルトンキーンズにあるブレッチリーパークに英国に盗まれた日本陸軍の暗号書が展示されているのを見て衝撃を受けた。館内の一角でM16が密かに入手した日本陸軍の日本語とアルファベットで書かれた暗号書(乱数表)を展示していた。少なくとも1944年初め頃から太平洋諸島や欧州などで日本陸軍武官の電報を傍受して解読していた。
日本の暗号のうち最も早く解読されたのは外交暗号だった。1940年と真珠湾攻撃の1年以上前から終戦まで外交暗号電報が解読された。ベルリンの大島浩大使の暗号電報を解読して連合国側がナチス・ドイツの独裁者ヒトラーの本音を読み取っていたことはあまりにも有名である。
外務省電信課長などを務めた亀山一二はソ連大使館に参事官として勤務していた1945年12月、戦時中に外務省と在外公館などの間で情報伝達に用いた暗号は理論、技術がすこぶる幼稚だったと指摘。
海軍の暗号も日米開戦時から解読されていた。連合国は陸軍の暗号は十文字以内の短文でモールス信号を発信していて手こずった。ブレイクスルーを生んだのは、ニューギニアの村落で玉砕した日本軍が残していた暗号表を、連合軍が入手したことだった。
1943年、東大数学科名誉教授高木貞治という世界的権威の数学者の協力を仰ぎ、天文学者らを集め、小野寺がスウェーデンで入手したクリプト社の暗号機「クリプトテクニク」を改良して44年にアメリカの暗号の一部を解き始めた。
「暗号を盗んだ男たち」檜山良昭によると、45年4月からは解読が進み、5月21日は初めて米軍のZ暗号が完全解読できた記念すべき日となり、7月半ば、米国国務省が重慶の在中国大使館に打電した電文が解読された、という。
中央特殊情報部の本部は三宅坂の参謀本部にあったが、太平洋戦争開始と同時に市ヶ谷台に移り、赤坂に移転後、44年春に英国、米国の暗号を解読する研究部が杉並区高井戸の浴風園という日本最古の養老院に移った。数学、英語を専攻する学徒動員兵や勤労動員学生、女子挺身隊、旧姓中学生を加えると総人数512人が米国軍の各種暗号の解読作業を行なった。
M16がロンドン郊外ミルトンキーンズにあった庭園とマナーハウスで女性や若いオックスフォードやケンブリッジの学生を動員して各国の傍受電報を解読したステーションX(通称ブレッチリーパーク)と同じである。
後二年早く、開戦の1941年から数学者を使い始めていたら、あんなに簡単には負けなかっただろう。暗号少佐だった釜賀一夫は、戦後後悔の念が消えなかった。
支那課を中心として国民党No.2だった汪精衛を担いで傀儡親日政権を作り、戦争を終わらせる秘策、主導したのは参謀本部支那課長から謀略課長を務めた影佐禎昭である。ところがこの動きに疑念を抱いたロシア課は汪精衛工作が山場に来ていることを察知し、その前に重慶国民党政府との直接和平工作を図ろうと小野寺を急遽、上海に派遣した。小野寺はこの工作について、ロシア課の他に謀略課からも命令を受けていた。となると謀略課は、汪工作と直接和平工作の二つを同時に模索していたことになる。
リガからロシア課に復帰した直後の1938年7月、小野寺はロシア課課員として、板垣征四郎陸相の知遇を得た。中央にパイプを持った小野寺が行なった蒋介石への和平打診工作は、決してスタンドプレーでなかった。
小野寺に協力した人物に、蒋介石を対手とせず、と発言した近衛文麿首相の長男、近衛文隆の名を挙げていることに注目。プリンス近衛は、東亜同文書院理事の肩書きで近衛文麿が秘密裏に上海に送り込んだ密偵の早見親重と友人の武田信近と、小野寺と共に日中和平に傾注していた。
「木戸幸一日記」に、近衛文隆の行動記録として、小野寺さんの手先となり、重慶工作に深入りしつつ、との記載もある。早見と中支那派遣軍の同僚である三木亮孝がいた。早見、三木、近衛文隆を介して、鄭蘋如(テンピンルー)も出入りしていた。日中混血の美貌のスパイ鄭蘋如は、重慶政府の特務機関、国民党中央執行委員会調査統計局に属しながら、直接和平を進める構想に賛同して、小野寺機関に協力していた。翻訳係として働いていたと言われる。
影佐が傀儡政権を作って和平の道を見出そうとしたのに対し、小野寺はあくまで多くの中国国民の支持を集める蒋介石を相手に戦争を早く切り上げようと考えた。「中国のナショナリズムを考えると、傀儡の汪政権では、中国の民衆の信頼を得られない。根本的に解決するには、蒋介石政権に直接和平交渉を開くしかない。そして天皇の決断を得ずして、泥沼化した日中戦争の終結は無理だろう。」
バルト三國のラトビアの首都リガに駐在してヨーロッパで民族の興亡を見た小野寺は、傀儡政権では立ち行かないことを知っていた。最初のフィンランドのソ連との冬戦争のとき、ソ連が作った傀儡政権では国民が動かなかった。ドイツがノルウェーに作った傀儡政権も国民が動かなかった。
小野寺がラトビアで学んだことは、ソ連が世界を共産化する野心を持っていることだった。国民党の背後に、敵対関係にありながら抗日で合体を模索する中国共産党がいて、背後でコミンテルンが繰っていることを見抜いていたのだ。国民党政府との戦争が長期化すれば、利するのは中国共産党であり、ソ連である。小野寺は、早急に蒋介石国民党と和平し、ソ連、コミンテルン対策を優先すべきと考えた。
帰国した小野寺は、東海道線で京都から帰京する近衛文麿に、浜松-小田原間の車中で面会する。だが文麿は、軍が同意さえすれば、と言うだけで、諸手を挙げて賛成ではなかった。失意にくれた小野寺を同期の親友参謀本部謀略課の臼井茂樹が救う。蒋介石と直接交渉する委任状を発行した。
臼井の取り計らいで板垣征四郎陸相と中島鉄蔵参謀次長と面会。小野寺と同郷の板垣陸相は、こう語っている。「香港はもちろん、重慶まで行って蒋介石に会う」作戦課の中で、重慶直接交渉派だった秩父宮や堀場一雄からも激励された。
ドイツは潜水艦で、V1ロケットの情報ほか、日本に協力した一方、独ソ戦に踏み切ることを日本に内緒にしたのは、日本の暗号を信用していなかったから。小野寺信は、蒋介石、秩父宮、グスタフ五世、グスタフ五世の甥であるプリンス・カール・ベルナドッテという王族と実際に会っている。ほかのネゴシエーターとレベルが違う。
影佐には、陸軍上層部を説き伏せる政治力があった。自民党谷垣禎一の母方の祖父が影佐である。
大本営内にも、現地軍の中にも、汪工作に疑問を持つ軍人は多かったのだが、欧米勤務出身者が多く、インテリで政治力がない。汪派の人々は長年の中国勤務で、世界的見地に立つ視野を欠いていたが、政治力は強かった。結局中央は、汪派に振り回された。
小野寺が陸軍内の権力闘争に敗れた背景には盧溝橋事件の前年1936年2月に発生した二・二六事件があったとの見方もある。当時の陸軍内では、蒋介石と和解し、ソ連に対抗するため国力の充実を図ろうというグループと、対ソ連は棚上げにして、まず支那大陸を支配しようという派に大別された。前者は荒木貞夫、真崎甚三郎、小畑敏四郎らが率いて皇道派と呼ばれ、永田鉄山、東條英機が主導する後者の統制派と激しく対立した。
皇道派の若手将校が起こした二・二六事件後、皇道派の人々は陸軍中枢から外れ、統制派が主導権を握るようになった。
小野寺は小畑の一番弟子と見なされる皇統派の一端にあった。皇道派と統制派の対立は、その後の大戦に置いて小野寺が参謀本部に送る情報の取り扱いでも公平さを欠き、日本の国益を大きく損ねることになるのである。
東京で国民政府と直接交渉するため重慶に行く了承を得ようと工作を進めていた近衛文隆と早見は、閣議で汪工作が決まると、軟禁となる。鄭蘋如ら中国人工作員も逮捕され、日本の憲兵隊に処刑された。
汪政権が成立したが、日中和平は実現しなかった。日本政府が当初親日中国人に約束した、大陸からの日本軍の撤退を履行しなかったからだ。主流派だった影佐はラバウルの第三十八師団長に更迭された。
蒋介石は「蒋介石日記」の中で、自分に対する日本の和平案は1938年から1940年の間に12回提議され、和平要求を12回拒否したことを明らかにしている。小野寺は、12人のうち最も初期の段階の一人だった。
小野寺が上海から帰国する寸前、蒋介石は部下の姜豪を通じて金製のカフスボタンを贈った。カフスボタンには蒋介石が自筆で書いた「和平信義」の彫が入っていて、国と国の間は和平、人と人との間は信義、との言葉を小野寺に伝えたという。
ヒトラーは独ソ戦に踏み切る決断について、ベルリンを訪問した松岡外相に隠していた。
ロンドン駐在だった辰巳栄一少将も、1940年10月、独軍の英本土攻略は不可能と断言できぬまでも、その実現は困難と判断する、と報告している。しかしこれらは、英米に偏りすぎた情報として処理され、大島大使をはじめとするベルリンからの親独情報が優遇された。視野の狭い統師部が、独ソ戦に関する情報の価値判断を見誤り、国家の指導者に決断を促す材料として提供していなかった事実がある。
1943年小野寺はノルウェーを占領したドイツ軍に招待され、ノルウェーを訪問した際、ドイツ参謀本部のウォロギツキー大佐から、独ソ戦前のドイツ大本営は、作戦準備をカモフラージュするため、日本外交団に対して、ドイツ軍が英本土上陸作戦に向かうような印象を持たせるため、あれこれ技巧を凝らす逆宣伝をした、と聞かされた。
ヒトラーは自分たちが伝える情報を鵜呑みにする大島大使を最大限に利用して、偽情報に夜撹乱作戦をした。
ストックホルム武官室には、ペーター・イワノフという人物が出入りしていた。ポーランド参謀本部きっての大物インテリジェンス・オフィサー、ミハール・リビコフスキーである。独ソ開戦を掴む最後の決め手になったのは、彼の情報だった。
ドイツ軍が開戦に備え、ソ連国境に近いポーランド領内で次々と配置しており、同時に棺桶を準備したという内容だった。
エストニアとポーランドの情報武官が小野寺の味方について、非常に精度の高い情報を優先的に回したことで、どこよりも早くて正確な軍事情報を手に入れることができたのに、その重要さを理解できない日本政府中枢部によって握り潰された。(事実は、もっと知られて良いことだと思います。果たして小野寺の情報は、確実に昭和天皇の耳に入ったのでしょうか。)
ナチスはリビコフスキーを亡き者にしようとしていた。ゲシュタポで逮捕されたのは、リビコフスキーの直属部下のヤクビャニェツ大尉だった。ポーランド地下組織のリーダーとして、ドイツとソ連に対する諜報活動をしていた彼は、ベルリン満州公使館で匿われていた。彼は以前、リトアニアのカウナス日本領事館で、杉原千畝領事代理に協力している。密かな日本とポーランドの諜報協力は強固だった。
ドイツは、ベルリンの大島大使に自分たちに都合の良いニュースを日本に提供しているのに、ストックホルムで正反対の都合の悪い情報を集め、日本に提供されることに我慢がならなかった。
ドイツ諜報機関から、リビコフスキーの身柄引き渡し要請が、大島大使に行われた。しかし小野寺は、頑として受け付けなかった。
リビコフスキーの更なる身の安全のため、満州国のパスポートをストックホルム公使館の神田代理公使に依頼して、日本パスポートに変更した。リビコフスキーは、これで日本人になれた、と小野寺に深く感謝したという。(バチカンを通じた和平工作は、行われなかったようですね。むしろポーランド情報武官を通じて、早い時期にロシアの対日参戦という重要な情報がもたらされたことを生かせなかった。)
在ローマ日本大使館の河原峻一郎一等書記官とイエズス会総長のウラジミール・レドホウスキ神父が、ポーランドの地下組織が日本の外交クーリエを使って、ローマからベルリンなどへの情報が伝達できることに深く関与している、とイタリア国防省から警告を受けていた。
亡命ポーランド政府の情報士官達が、日本の外交特権の行嚢を使って、在欧公使館やバチカンの支援を受け、ワルシャワやヴィリニュスからスウェーデンを経由して、ロンドンのポーランド亡命政府へ情報を送る全欧規模の広範な諜報ネットワークを確立していたのである。(行嚢(こうのう)とは、郵便物や旅行用の袋を指す言葉です。郵便物を入れる袋。郵便物を入れて郵便局間で輸送する袋で、郵袋(ゆうたい)とも呼ばれる。郵袋は布製の袋で、郵便局から他の局へ送る際に使用される)
大戦末期、長年にわたる恩義に報いる大きなお礼が、ポーランドから小野寺を通じて日本に送られることになる。(戦局の全体像が見えていた少数派と、惑わされていた多数派の違いと混乱が、この本によく描かれています。負けるよう邪魔をするように、と指令されていた人々が混ざっていたの)
朝日新聞のストックホルム特派員として王室を取材していた衣奈多喜男は戦後、「証言 私の昭和史」で証言している。「あの時グスタフ五世陛下は、日本が戦争に突入してミリタリストが非常に強くなり、その厚い壁に囲まれて、日本の天皇陛下が大変お困りになっていられるのではないか、と言っておられたということも聞きました。もしそういうことなら、スウェーデン王室は、親戚でもあるイギリス王室を通して、アメリカとの交渉の道をつけて差し上げたい、というのがスウェーデン王室の偽らぬお気持であった、と私は推測しています。」
小野寺が意を決したのは、大本営と政府の連絡会議から特使として欧州に派遣された岡本清福中将とベルリンの日本大使館で会った1943年9月だった。ベルリン空襲で避難した防空壕の中で、和平工作に取り組むことで意気投合したのだ。渡欧した岡本中将の使命は、ドイツの本当の国力を探り、ヨーロッパで日本の終戦の機会を模索することだった。小野寺と、終戦工作は中立国でしかできない。互いにそれぞれの国で努力しよう、と固く約束し、岡本はチューリヒへ赴任した。
その後岡本中将はスイスで、欧州総局長アレン・ダレスを通じて和平工作を、加瀬俊一スイス公使、北村孝治郎国際決済銀行理事、吉村為替部長、ペル・ヤコブソン同行経済顧問と終戦間際まで行った。
真珠湾攻撃から半年後、1942年5月、珊瑚海海戦の直後、拝謁したスウェーデン国王グスタフ五世から、忠告を受けた。「日本は戦勝に酔っているようだが、戦いは勝つときばかりではないのだから、適当な時期に終戦を図るべきだろう」。
この国王の言葉が小野寺の心に深く響いた。親日的なスウェーデン国王が同じ君主国の日本に示した行為に感謝して、その機会が来れば、国王に仲介の労をとってもらい、国王が親戚関係にあるイギリス国王との間に和議の道が開けないだろうか。そんな期待を大戦初期から胸に秘めていたのである。
一方、重光外相が朝日新聞専務鈴木史朗を使って、駐日スウェーデン大使バッゲに英国を仲介とする和平工作を申し入れるという同時和平工作が発覚。
(どうして肝心なところで、足を引っ張る日本人が必ず現れ、ストップしてしまうんでしょう。)(東郷外相に告げ口した岡本スウェーデン公使。和平工作の助っ人扇大佐が駐スウェーデン海軍武官として任命されながら、ビザ発給の斡旋を頑として拒否し、国益を毀損した岡本公使のようなタイプの人物は、戦時中の本に必ず出てきますね。)
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├計量計測データバンク ニュースの窓-190-小野寺信大佐至急電「日米開戦絶対不可ナリ」「ソ連はドイツの降伏3カ月後に対日参戦」(1)
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├(83) 「日米開戦不可ナリ」|ストックホルム 小野寺大佐発至急電 - YouTube
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├日独伊三国同盟とユーラシア大陸ブロック構想 三宅正樹明治大学名誉教授(2023/11/18防衛研究所)
https://www.nids.mod.go.jp/event/proceedings/forum/pdf/2010/02.pdf
1) ユーラシア大陸ブロック構想の先駆者としての後藤新平
松岡洋右やリッベントロップが抱懐したと考えられるユーラシア大陸ブロック構想の先行形態というべきものは、日本の政治家後藤新平が提唱した「新旧大陸対峙論」のなかに見られる。後藤は、ベルリンとミュンヘンで衛生学を学び、ペッテンコーファーの指導のもとに、日本とその他の国々における医事警察(Medizinalpolizei)と医事行政(Medizinalverwaltung)の比較論によって、医学博士号を取得して帰国した。台湾の民生長官として台湾に滞在した時期にエミール・シャルクの遺著『特にアメリカ合衆国とドイツとの関連における諸民族の競争』(1905年)を熱心に読んで強い感銘を受ける。シャルクはドイツ人であるが、早くアメリカに渡って生涯をアメリカで過ごした。シャルクは、ロシアとアメリカ、とりわけアメリカが超大国へと発展を遂げるであろうことを予感し、ドイツはフランスとの抗争をやめ、ドイツとフランスだけでなくオランダ、イタリア、オーストリア・ハンガリー、スペインを含めた中央ヨーロッパ国家連合を結成して、強大化するロシアとアメリカに対抗すべきであると説いて、両国の強大化にほとんど気づいていない母国のドイツ人に警鐘を鳴らした。
後藤は、おそらくアメリカの超大国化に対するシャルクの予想と警告とに衝撃を受け、そこから、シャルクの論述を飛び越えて、シャルクがまったく論じていない「新旧大陸対峙論」を構想するに至った。強大化するアメリカに対抗するためには、旧大陸すなわちユーラシア大陸ブロックの連合が不可欠であると、後藤は、1907年に、当時韓国統監であった伊藤博文に伊藤が滞在していた広島県の厳島で面会を求めて、三日間にわたって、伊藤に自分の「新旧大陸対峙論」を開陳した。はじめは後藤の議論に耳を貸そうとしなかった伊藤が、次第に後藤に説得されていったいきさつは、後藤の著書『厳島夜話』のなかに印象的な筆致で叙述されている。伊藤に、後藤は、ロシアの有力政治家ココーフツォフとハルビンで会談することを勧め、後藤がすでにペテルスブルクで面識を得ていたココーフツォフをハルビンに招くことに成功した。伊藤のハルビンへの旅は、しかしながら死への旅となった。ハルビンでココーフツォフとの会談を終えた直後に、韓国併合に消極的な伊藤は暗殺された。
ロシア革命によるボリシェヴィキ政権成立後、後藤は短い期間外務大臣としてシベリア出兵を促進する役割を果たしたが、シベリア出兵が失敗であったことを見極めると、ソ連との国交回復に尽力し、1923年にはヨッフェを日本に招いた。右翼の反対運動によって後藤は暗殺の危険にさらされたがひるまず、更に27年12月には脳溢血の後の不自由なからだで厳寒のモスクワを訪問し、28年1月には二度にわたってスターリンと会談を行なった。後藤は、革命前であろうと後であろうと、日本にとってのロシアの地政学的位置は変らないと考え、日本とロシアにドイツをも加えた国家連合の結成を模索し続けた1。
2)陽明文庫から発見された日ソ独伊四国ブロック構想を示す文書(1939年7月19日)
京都市右京区宇多野に、近衛文麿もその一員である近衛家の文書館「陽明文庫」が、今も樹木にかこまれて静かなたたずまいを見せている。ここには、近衛家の祖先の藤原道長がみずから書き加えた日記である御堂関白記など、珍しい古文書の類が大切に保存されている。近衛文麿も自分が入手した重要文書をここに保管していた。
旧海軍軍人で、戦後は防衛庁戦史室長、防衛大学校教官などを歴任し、今は故人となった野村実博士の著書『太平洋戦争と日本軍部の研究』は、その経歴と立場から利用出来た貴重な史料を多数収録している。このような研究活動の一環として、野村は、陽明文庫に納められている近現代史関係の文書を閲覧することを許された。野村の記しているところによれば、野村はこれらの文書の閲覧中に、作成者の名が記してない縦罫の罫紙
11 枚にびっしりとタイプされた「事変を迅速且つ有利に終熄せしむべき方途」と題する文書に目をひかれた。この文書は、最後に「14・7・19・稿」とある。つまり昭和14(1939)年7月19日に書かれたことが記されているだけで、作者は記されていない。
この文書は、独ソ不可侵条約成立前に日ソ独伊の国家連合を日中戦争解決の手段として提唱した文書として注目される。野村は、この文書を作成して近衛文麿に渡したのは、従来推測されているように白鳥敏夫ではなく、1940
年 7 月に第二次近衛内閣の外相に就任する松岡洋右であるという考えが、最近ではますます強くなる、と述べている。この文書は、次の引用が示すように、日中戦争を解決する最善の手段は、日ソ独伊四国の提携であると述べている2。
1 三宅正樹「後藤新平の外交構想」『環 歴史・環境・文明』第 29 号、特集「世界の後藤新平 後藤新平の世界」、藤原書店、2007 年 4 月、ならびに、三宅正樹著『ユーラシア外交史研究』河出書房新社、2000
年、第1部第5章「後藤新平の『新旧大陸対峙論』」参照。エミール・シャルク(Emil Schalk 1838~1904 年)の遺著『特にアメリカ合衆国とドイツとの関連における諸民族の競争』の原題は次の通りで、懸賞論文の番外作品が筆者の歿後に刊行されたものである。Der
Wettkampf der Völker, mit besonderer Bezugsnahme auf Deutschland und die
Vereinigten Staaten von Nordamerika, Jena, 1905, Natur und Staat, Beiträge
zur naturwissenschaftlichen Gesellschaftslehre. Eine Sammlung von Preisschriften,
Herausgegeben von Prof. Dr. H. E. Ziegler in Verbindung mit Prof. Dr. Heackel,
Siebenter Teil. 2 野村実著『太平洋戦争と日本軍部の研究』山川出版社、1983 年、201~218 頁。三宅 日独伊三国同盟とユーラシア大陸ブロック構想
<目下、蔣政権は二本の柱、又は二本の脚で以て支持されて居ること世俗の知る通りである。それが英ソ両国であることにも疑問はない。
若し二本の柱の中、一本を奪うことが出来たら此の事変は意外に速(すみやか)に収拾出来るであろう。そして若し奪うべき一本の支柱がソ聯であった場合は、凡そ向後半歳を出でずして今次事変を完全に終熄せしむることが確実に可能である。
ソ聯は日本を敵視し、日本はソ聯を敵としてきた。この行き掛りを棄てて、この状態を逆にすることは出来ないか。即ち英仏の陣営よりソ聯を離間し、目下行われつつある英ソの交渉を暗礁に乗り上げさせることは出来ないか。そして日ソ独伊の陣営を結成する方法は無いか。
日ソが手を握れば、その事だけで支那の向背、事変の趨勢は忽ちの中に決定する。それでも猶お重慶政府が抗戦する場合は、重慶においてクーデターを断行することも容易となろうし、それこそ蔣を捕えることでも何でも出来る。但し左様な手段に及ばずして形勢が決定するであろうことを、断言して憚らない。そうなった暁、馬鹿をみるのは英国で、彼の手は長鞭馬腹に及ばず、彼が利権は東洋の天地より締め出しを喰うの外はない3。>
もしこの文書を作成したのが、野村の推測したように松岡洋右であったとすれば、この文書が陽明文庫から発見されたことから考えて、近衛文麿は当然、松岡の日ソ独伊連合構想を知っていたことになる。この推測が正しければ、その松岡を第二次近衛内閣の外相に起用した近衛は、松岡がこの構想を実現することを期待していたと考えられる。
3)独ソ不可侵条約独ソ不可侵条約調印
独ソ不可侵条約独ソ不可侵条約調印に際してモスクワを訪れたドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップとスターリンとの1939年8月23日から24日にかけての会談をモスクワのドイツ大使館参事官アンドール・ヘンケが記録に残し、ドイツ外務省外交文書に収録されている。リッベントロップは、ノモンハン事変で交戦中のソ連と日本との対立を調停する用意があると述べたが、日本の挑発に対する忍耐には限度があると述べたスターリンの日本に対する態度は強硬であり、リッベントロップの示唆したドイツの調停を拒絶している。
この条約の秘密付属議定書では、第一に、バルト四国を独ソ間で分割し、フィンランド、エストニア、ラトヴィアをソ連に、リトアニアをドイツに帰属させることが取極め
3 義井博著『増補 日独伊三国同盟と日米関係』南窓社、1987年、79~80頁。
られた。第二に、ポーランドをナレフ、ヴィスワ、サンの三河川を境として独ソ間で二
分割することが取極められた。第三に、ルーマニア北部のベッサラビアに対し、ドイツ
はいかなる政治的関心も持たぬ旨がドイツ側から表明された4。
この時点まで独ソ接近は無いと考え、独伊との軍事同盟条約の対象をソ連に限定するか、英仏をも含めるかで逡巡を重ねていた平沼騏一郎内閣は、独ソ不可侵条約成立に驚愕し、欧州に複雑怪奇なる新情勢が生じたという政府声明を発表して39
年8月28日に総辞職した。この時点から、日本国内に、にわかに日ソ独伊連合待望論が台頭した。
このような日ソ独伊四国連合待望論の最も早い出現は、独ソ不可侵条約が締結された翌日の39年8月24日に、海軍大佐高木惣吉の作成した「対外諸政策の得失」という文書である。高木はこの時、海軍省調査課長であり、西田哲学に傾倒していて、この年の二月には男爵原田熊雄のはからいで大磯の原田邸で西田幾多郎に面会している。
高木が作成したこの文書は、「孤立独往政策」、「英仏(米)トノ聯合政策」、「独伊蘇トノ聯合政策」という三とおりの政策について、それぞれ利点と不利点を論じ、結論としてドイツ、イタリア、ソ連との「聯合政策」が日本が選択すべき最も有利な策であると断定する。ドイツ、イタリア、ソ連との「聯合政策」の利点として、高木大佐は、この文書で、次の事柄を挙げている。第一に、この政策は現存する日独伊の友好関係を基礎として出発し得るが故に、たとえ独ソ不可侵条約によって若干の感情的なひびが生じたとしても、実現の可能性が極めて大である。第二に、イギリスの蔣介石支援(援蔣)政策は、主として経済的性質のものであるが、既におおむね行き詰まっていて、欧州情勢が緊迫すればいよいよ中国をかえりみる余裕が少なくなるであろう。これに反してソ連は武力援助を継続しており、今後一層これを強化し得る見通しが増大した。したがって、日独伊ソの聯合提携は、ソ連をして蔣介石支援を打ち切らせ、中国との事変を速やかに解決し得るに至る望み大である5。
日ソ独伊四国の提携が生み出す利点として、高木の文書が、当面の時局の収拾に貢献することとならんで、日ソ戦争が日本国家の運命を危うくするとしているところに、日本海軍の一部に日本陸軍の暴走による、ノモンハン事件よりもっと本格的な対ソ戦争が勃発することへの恐怖感が存在していた事実がうかがわれる。ノモンハンの戦場では、独ソ不可侵条約成立の八日前の39年8月20日から、極東ソ連軍とモンゴル軍との総攻撃が開始され、日本側の、陸軍中将小松原道太郎の指揮する第二十三師団は壊滅的な打撃を蒙っていた。しかし、ノモンハンでの大敗北が、日本陸軍上層部が、高木の憂慮していた対ソ戦開戦に少なくともこれ以前よりは慎重になる、という結果をもたらした。
4 三宅正樹著『スターリン、ヒトラーと日ソ独伊連合構想』(朝日選書)朝日新聞社、69~72頁参照。
5 三宅同書、80~87頁。三宅 日独伊三国同盟とユーラシア大陸ブロック構想
日本海軍上層部の中にはもともとソ連との友好を重んじたいという伝統があった。高木をも含めて、海軍上層部は日独伊三国同盟には反対していたが、独ソ不可侵条約によって俄かに可能性が開けてきた日ソ独伊四国連合の構想なら積極的に支持するという姿勢に転じたのは、海軍出身の首相加藤友三郎以来の親ソ的伝統を考えればそれ程不思議ではない6。
陸軍の中にも、独ソ不可侵条約成立直後から、日独伊ソの軍事同盟構想が芽生えていた。ノモンハン事変で関東軍が極東ソ連軍に大敗北を喫しつつあった39年8月27日に作成され、同日、関東軍司令官植田謙吉陸軍大将の名前で参謀総長の閑院宮仁載親王(かんいんのみや・ことひとしんのう)宛てに打電された「欧州情勢の急変に伴う時局処理対策に関する意見具申」に、この構想が示されていた。この意見具申では、ドイツとイタリアを利用してソ連側から休戦を申し出させて、ソ連に「日ソ不可侵条約」を締結させ、さらにイギリスに対抗する日独伊ソ四国の軍事同盟へと進むべきことが提案されていた。そこには、最初に次のように述べられていた。
「対ソ軍備を一層急速に充実すると同時に、ノモンハン方面のソ軍に対し徹底的打撃を与えつつ、他面ドイツ、イタリアを利用してソ連より休戦を提議せしむると同時に、速やかに日ソ不可侵条約を締結し、さらに進んで日独伊ソの対英同盟を結成し、東洋における英国勢力を根本的に芟除(せんじょ)してシナ事変の処理を促進完成するを要す」7。
イタリア大使として、ソ連と英仏を対象とする日独伊三国同盟の最も熱心な主張者のひとりであった白鳥敏夫は、日ソ独伊同盟推進論の急先鋒にかわった。東大法学部政治学教授矢部貞治は、39年10月30日に昭和研究会で白鳥が講演し、ヨーロッパ情勢を分析し、結論として日ソ独伊同盟論を展開したことを記録している8。
しばしば『西園寺・原田日記』と呼ばれている原田熊雄述『西園寺公と政局』第八巻には、39年11月4日に阿部信行首相に会った原田が、阿部から、白鳥大使がこの間イタリアから帰って来て、日独ソ同盟によって英米追い出しをやらなければならない、と言っていたことが記録されている9。これより少し前、独ソ不可侵条約成立直後の39年9月3日、平沼内閣で外相をつとめ
6 酒井哲哉著『大正デモクラシー体制の崩壊 内政と外交』東京大学出版会、1992年、153~155頁参照。
7 読売新聞社編、松崎昭一執筆『昭和史の天皇 29』(読売新聞社1976年)、261頁。
8 矢部貞治著『矢部貞治日記 銀杏の巻』読売新聞社、1974年、261頁。
9 原田熊雄述『西園寺公と政局』第八巻、岩波書店、1952年、112頁。
た有田八郎夫妻が大磯の原田熊雄男爵邸に来て一日をともに過ごした時に、有田が心配して語った話の内容が記されている。有田は、「最近陸軍は独伊と軍事同盟を結ぼうとしてああいふ結果になり、結局失敗に帰したが、その連中が今度は独ソの不可侵条約に日本も加はって、日独ソといふ関係で軍事同盟をやってイギリスを叩かうといふ運動があり、謂はば左翼から右翼に転向した連中がその主動的勢力になっていて、すこぶる危いものである。それに陸軍の一部が共鳴してしきりにやっているのである」と述べたという10。
4)シュターマーの約束
阿部信行、米内光政の、それぞれ短命な内閣のあとに 40 年 7 月 22 日に第二次近衛内閣が発足する。近衛は外相に松岡洋右を選んだ。
9月初めに、リッベントロップ外相の特使ハインリッヒ・シュターマーが来日し、9 日と10日に松岡と秘密に会談したが、今も残っている十五項目の会談記録の中でも、特に重要なのは日本とソ連との親善についてドイツは、1878年のベルリン会談の時にビスマルクが述べた「正直なる仲買人
honest broker」の役割を果たすことを約束した第十項目である。この第十項目は、以下のように述べられていた。
「先ツ日獨伊三国間の約定ヲ成立セシメ然ル後直チニ蘇聯ニ接近スルニ然カス。日蘇親善ニ付獨ハ『正直ナル仲買人』タルノ容易アリ而シテ両國接近ノ途上ニ越ユベカラサル障害アリトハ覚エス従テ差シタル困難ナク解決シ得ヘキカト思料ス。英国側ノ宣伝ニ反シ獨蘇関係ハ良好ニシテソ聯ハ獨トノ約束ヲ満足ニ履行シツツアリ」11。
第十四項目の中でシュターマーは、自分の述べている言葉は、ドイツ外相リッベントロップの言葉と受け取ってさしつかえない、と明言した。シュターマーの言っていることが正しいと仮定すれば、リッベントロップが、ノモンハンの戦争で極度に悪化した日ソ関係について、調停の役目をドイツが引き受けることを約束したことになる。そこから松岡が、独ソ不可侵条約をソ連と締結したドイツと同盟を締結すれば、ドイツとイタ
10 原田同書、66~67頁。
11 極東軍事裁判検察文書第1129号、法廷書証第549号、新田満夫編『極東軍事裁判速記録 第2巻』雄松堂書店、1968年、240頁。シュターマーと松岡の会談記録
15項目は『ドイツ外務省外交文書』D シリーズ(Akten zur deutschen auswärtigen Politik, Serie
D、 以下 ADAP-D と略記する)、第11巻の1、文書第44号、東京のドイツ大使館からドイツ外務省宛1940年9月10日発文書の註にも収録されている。三宅
日独伊三国同盟とユーラシア大陸ブロック構想
リアは 1939年5月に同盟条約を結んでいるのだから、日ソ独伊の連合、松岡の言葉では「四国協商」が可能になると考えたのも理解出来る。
5)オット大使発松岡外相宛て秘密書簡「G、1000号」
日独伊三国同盟への日本海軍上層部の反対を鎮め、枢密院での審議を容易にするために、松岡は、オイゲン・オット大使に、条約調印当日の 40 年 9
月 27 日の日付で、条約第三条に記された三国が攻撃を受けた場合について、攻撃を受けたかどうかは三締約国間の「協議(consultation)」によって決定されるべきことは勿論とする旨を含んだ秘密書簡「G、1000号」を書くことを強要した。
日独伊同盟条約第一条には「日本国は独逸国及伊太利国の欧州に於ける新秩序建設に関し指導的地位を認め且之を尊重す」、第二条には「独逸国及伊太利国は日本の大東亜に於ける新秩序建設に関し指導的地位を認め且之を尊重す」と規定され、第三条には次のように規定されていた。
「日本国、独逸国及伊太利国ハ前記ノ方針ニ基ク協力ニ付相互ニ協力スベキコトヲ約ス更ニ三締約国中何レ加野一国ガ現ニ欧州戦争又ハ日支紛争ニ参入シ居ラザル一国ニ依テ攻撃サレタルトキハ三国ハ有ラユル政治的、経済的及軍事的方法ニ依リ相互ニ援助スベキコトヲ約ス」
第三条だけを見る限り、日独伊三国のうちのいずれか一国がアメリカから攻撃を受けた場合、他の二国はただちに自動的にアメリカとの戦争に参戦するように見える。ところが、ドイツ大使オットが署名したこの「秘密書簡G、1000号」は、「一締約国が条約第三条の意味に於て攻撃されたりや否やは三締約国間の協議に依り決定せらるべきこと勿論とす」という内容をドイツ側が承認したことを意味していた。
攻撃を受けたかどうかは三締約国間の「協議(consultation)」によって決定するというのは、自動的に戦争にひきずりこまれることを回避することを意味する。これによって、松岡は、日本の自主参戦の権利が確保されたと主張して、ドイツによって世界戦争にひきずりこまれるのを恐れた日本海軍を説得したのである。
この書簡には、日ソ関係に関して、ドイツは力の及ぶ限り友好的了解を増進する(promote a friendly understanding)ことにつとめ、いかなる時にも右目的のために周旋の労をとる(offer
its good offices to this end)も記されていた12。
12 オット発松岡宛書簡G、一〇〇〇号の邦訳は、三宅正樹著『日独伊三国同盟の研究』南窓社、
オット発書簡G、1000号については、リッベントロップは、条約調印の時にも、またそれ以後にも知らされていなかった。このことについては、アメリカの歴史学者ヨハンナ・メンツェル・メスキルの、ドイツの学術雑誌『現代史四季報』1957年第2号に発表した論文13と、のちにドイツの代表的な週刊新聞『ディ・ツァイト』の主筆となったテオ・ゾンマーの博士論文『列強のあいだのドイツと日本:日独防共協定から三国同盟まで』(1962年)の綿密な考証がある14。
極東国際軍事裁判の国際検察局(International Prosecution Section, IPS)の記録に含まれているオットとシュターマーの訊問調書からも、両名が東京から電信でリッベントロップの許可を求める努力をせず、この秘密書簡を両名のいずれもリッベントロップに提示しなかったことが証明出来る。しかし、この書簡は、日本海軍と枢密院の抵抗を鎮める上では大いに役立ったのである。
5)日独伊三国同盟の成立と「秘密書簡G、1000号」
松岡シュターマー会談は、1941年9月9日と10日に、千駄ヶ谷の松岡洋右私邸で極秘裏に行なわれた。新聞記者に気付かれないように細心の注意が払われたようである。
この会談の要旨十五項目は、先に説明した通りである。この会談の後、シュターマーと松岡の間では、日独伊三国同盟条約第三条が想定している独米戦争勃発の際に、日本は自動的に参戦の義務を負うのではなく、日本が参戦するかしないかを日本は自主的に決定するという問題をめぐって、議論が続けられた。松岡は、参戦の自主的決定を条約の付属交換公文に書き込むことを要求した。結局、シュターマーの独断でドイツ大使オットから松岡宛の書簡に、一締約国が条約第三条の意味で攻撃されたか否かは三締約国間の協議により決定せられるべきは勿論のこととする、という文章を入れることで決着した。
同盟条約第三条には、「日本国、独逸国及伊太利国ハ前記ノ方針ニ基ク努力ニ付キ相互ニ協力スベキコトヲ約ス更ニ三締約国中何レカノ一国ガ現ニ欧州戦争又ハ日支紛争ニ参
1975 年、554~556頁、英文は557~558頁、独文は559~561頁に掲載されている。また、英文は1946年3月12日のタヴェナー検察官によるオットの尋問の記録にも含まれている。タヴェナーはこの文書をオットに示して、オットの確認を求めている。International
Prosecution Section, File No. 324: Interrogation of Major General Eugen
Ott. 粟屋憲太郎・吉田裕編集・解説『国際検察局(IPS)尋問調書』第 41 巻、日本図書センター、1993年。
13 Johanna Menzell Meskill, “Der geheime deutsch-japanische Notenaustausch
zum Dreimächtepakt (Dokumentation)”, Vierteljahrshefte für Zeitgeschichte(Stuttgart:
Deutsche Verlags-Anstalt, 1957), Heft 2.
14 Theo Sommer, Deutschland und Japan zwischen den Mächten. Vom Antikominternpakt
zum Dreimächtepakt(Tübingen:J.C.B.Mohr, 1962), S. 437f.金森誠也訳『ナチスドイツと軍国日本
防共協定から三国同盟まで』時事通信社、1964 年、575 頁。三宅 日独伊三国同盟とユーラシア大陸ブロック構想
入シオラザル一国ニ依テ攻撃セラレタルトキハ三国ハ有ラユル政治的、経済的及軍事的方法ニ依リ相互ニ援助スベキコトヲ約ス」と規定されていたが、自動的参戦を秘密書簡によって否定することによって、第三条の狙った威嚇の効果は減殺されることは疑いない。松岡は秘密書簡ではなく条約の付属交換公文(exchange
note)とすることを主張した。シュターマーが、このようなことを盛り込んだ条約の付属交換公文をベルリンは承諾しないであろう、と抵抗したのは当然であった15。
さらにここで、もう一つの問題を提起することが出来る。もし、オットとシュターマーのいずれかひとり、あるいは両名がそろって、東京からの電信で秘密書簡G、1000号の内容をベルリンに送信したと仮定すれば、その電信はただちにアメリカの諜報機関によって捕捉され、解読されていたであろう。そうならば、アメリカは、公開された三国同盟条約第三条の自動参戦の条項は、この秘密書簡によって骨抜きにされ、アメリカを威嚇する効果は消滅していた事実を知ったであろう。三国同盟がアメリカに対するこけおどしに過ぎない事実をアメリカが把握していたならば、アメリカが三国同盟をあれほど敵視することはなくなり、三国同盟が日米関係をあれほど悪化させることもなかったかも知れないのではなかろうか。
敗戦の直後の1945年12月から翌年1月にかけて海軍の首脳陣の人々が集まって海軍戦争検討会議という座談会を四回開催した。46年1月17日の座談会では日独伊三国同盟が主題として取り上げられた。40年9月5日に吉田善吾にかわって海軍大臣に就任したのは及川古志郎であるが、この座談会には吉田、及川、そして、シュターマーが来日した40年9月7日に海軍次官に就任した豊田貞次郎や、近藤信竹、井上成美らの五人の元海軍大将をはじめ、住山徳太郎ら三人の元海軍中将、四人の元海軍少将、七人の元海軍大佐、三人の元海軍中佐、そして榎本重治書記官が出席している。
この中で、第三次近衛内閣発足と同時に松岡にかわって41年7月18日に外相に就任した豊田貞次郎が、核心に迫る証言をしている。豊田は、証言の初めのほうで、次のように述べている。
「松岡の同盟の趣意は七、八項目あったが、その主眼点は、英独戦争に於いては日本の援助を要しないこと、および日、独、伊、ソ連にて米の参戦を牽制して、なるべく早く世界平和を回復したいというにあり。」
この書簡に盛り込まれた内容を、初め松岡が交換公文とすることを要求し、オットとシュターマーが強く抵抗したことについては、三宅同書収録の「日独伊同盟条約締結要録」の特に
499~500頁を参照。
この証言から、松岡がシュターマーとの会談記録にあった要点を豊田に伝えたらしいことが見て取れる。この後の証言はとりわけ重要と思われる。
「即ち支那事変解決のため、日本の孤立を防ぐため、米参戦を防止するには、ソ連を加えて四国同盟の他なく、この度は自動的参戦の条件もなく、平沼内閣当時、海軍が反対した理由は、ことごとく解消したのであって、出来た時の気持は、他に方法がないということだった。」16。
イギリスやアメリカとの戦争に、三国同盟条約第3条に規定されたような自動的参戦の条項によってひきずりこまれることこそ、海軍上層部が最も恐れていたところであった。
松岡は、日ソ独伊四国連合案と、ドイツ側から強引に取り付けた参戦についての自主的決定を容認する約束とによって、海軍上層部の反対論を鎮めてしまったが、松岡による条約の実質的な修正をアメリカは把握していなかった。
おそらく、1946年3月に国際検察局 IPS(International Prosecution Section)がオット、シュターマーの二人の元駐日ドイツ大使を尋問して初めて、アメリカはこの事実に気づいたものと思われる。
この訊問で、フランク・S.タヴェナー検察官が秘密書簡 G、1000号について執拗極まる訊問を続けたのは、アメリカ側がこの事実を知って愕然とした、その驚きの表れと考えられる。
ここに、粟屋憲太郎・吉田裕編集・解説『国際検事局(IPS)尋問調書』41 巻に収録されているオットの尋問調書の中で、1946年3月6日に行われたG、1000号をめぐる尋問のさらに極く一部をたどってみたいと考える。
オット元ドイツ大使への尋問から、同盟条約第三条の「攻撃」という表現に「挑発によらざる(unprovoked)」という文言を付け加えることにこだわり、ドイツ政府からこれが拒絶されると、松岡は、今度は条約に付属する秘密条項の中に第三条の意味で攻撃されたか否かは、三国の協議(consultation)によるという文言を入れることを要求したことが裏付けられる。
ドイツ政府が秘密条項を設けることを一切拒否したのに対して、松岡は、この方向で天皇に上奏してしまってあるのだから、拒否されると自分はたいへん困った立場に置かれることになると主張した。
オットによれば、それが松岡の発案であったか、自分か或いはシュターマーの発案であったかは、忘れてしまってもう思い出せないが、ともかく、オットが松岡宛ての書簡を書き、そこに日本側の要求を盛り込むことで決着がついた。この書簡すなわち「秘密書簡G、1000号」の中に、条約締結に
16 新名丈夫編『海軍戦争検討会議記録 太平洋戦争開戦の経緯』毎日新聞社、1976年、77~78頁。三宅 日独伊三国同盟とユーラシア大陸ブロック構想
至るまでの松岡の努力に感謝すること、同盟三国のうちの一国が同盟条約第三条の意味で攻撃を受けたか否かは、三国の協議によって決定されること、戦争になった場合にはドイツは日本に資源を援助すること、ソ連をこの同盟条約に加盟させるためにドイツは最善を尽くすことが記されていた。
このようなオットの証言に対して、タヴェナー検察官は、この書簡が秘密条項の代替物であった事実をオットから確認し、協議という文言によってオットが条約の効力を限定しようとしたのか、と鋭く迫っている。
これに対し、オットは、この協議が、紛争が生じた場合に自動的参戦を回避する結果を生ずるから賛成したのだと、自分の平和への意図をほのめかして自己弁護をするとも考えられる弁明をしている。
また、この書簡について本国の承認を取り付けたのか、というタヴェナーの問に対しては、その時間がなかったと弁解し、ドイツに帰国するシュターマーに、リッベントロップ外相への報告を一任したが、41年3月に、松岡外相のドイツ訪問に際してベルリンに戻ってシュターマーに質したところ、次の回答を得たと証言している。
シュターマーが40年11月にベルリンに到着した時、丁度ソ連のモロトフ外相がベルリンを訪問していて、ソ連を三国同盟に加盟させるという秘密書簡に盛り込まれた希望がまさに成就されようとしていたので、自分(シュターマー)は秘密書簡をリッベントロップに見せる必要はない、と判断して、見せることをしなかった、とシュターマーがオットに答えた、と。
何とも驚くべき無責任ぶりで、オットも仰天したらしく、貴君は条約締結の責任者であり、秘密書簡をリッベントロップに見せなければならない、とシュターマーに述べた、とオットは証言している。
三国条約をめぐる、以上の興味深い内幕を、オットの証言は明らかにしている。また、タヴェナーは、日本の外務省から押収した「秘密書簡G、1000号」をオットに見せて、確認を求めている。
ユーラシア大陸ブロックの問題については、以上の尋問の数日前の、2月27日の尋問で、ロシアを三国同盟の軌道に取り込もうとしたドイツの試みは、日本に英国を攻撃させようとすることを目的としたものではなかったのか、というタヴェナーの問に対して、オットは次のように答えている。
すなわち、オットは、日本を英国との戦争、具体的にはシンガポール攻撃に誘い込むために日独伊三国同盟を日ソ独伊四国同盟へと発展させようとしたというのが、ヒトラーやリッベントロップの考えであったのかも知れないが、自分は、ソ連の三国同盟加盟によって、同盟は極めて強力なものとなり、アメリカ合衆国との戦争の可能性はなくなる、と答えている。これは、明らかに自己弁護のための証言である。
日独伊三国同盟締結の時点でオットの答のように考えていたのは、むしろリッベントロップであって、オットが東京で日本をシンガポール攻撃に誘い込むために工作24していたのは、よく知られた事実である17。
6)独ソ関係の悪化
独ソ関係は、1939年9月28日に、リッベントロップがモスクワを訪問し、ドイツ軍が独ソ不可侵条約秘密付属議定書に規定された独ソの境界線を越えて占領してしまったワルシャワ市を中心とする地域とルブリン州の領有をドイツに認めるかわりに、ドイツがリトアニアをソ連に譲渡することを規定した独ソ境界ならびに友好条約に調印した時が頂点であった。
その後、40年6月27日にソ連がルーマニア領ベッサラビアと、秘密付属議定書に規定されていなかった北部ブコヴィナを併合したことによって、独ソ関係は悪化した。特に旧ハプスブルク帝国領ブコヴィナを併合したことは、ヒトラーを怒らせた。
ドイツ外相とイタリア外相チアーノは、6月30日、第二回ウィーン裁定によって、残されたルーマニア領に保証を与えて、石油の確保をめざしたが、このことが独ソ関係をさらに悪化させた。
40年9月27日に、フィンランド政府がドイツ軍のフィンランド通過を承認する協定をドイツと締結したことは、独ソ関係を決定的に悪化させた。ヒトラーは、すでに40年7月30日のハルダーら軍幹部との会合で、翌年春に対ソ作戦を開始する決意を語っていた18。
7)モロトフ・ヒトラー・リッベントロップ会談
40年11月12日と13日のベルリンでのモロトフとヒトラーの会談は、フィンランドへのドイツ軍派遣をめぐって事実上決裂した。両者が最もはげしく対立したのは、このフィンランド問題であったが、ルーマニアのブコヴィナをソ連が併合したしまった事実やドイツとイタリアが残されたルーマニアの領土を保障した「ウィーン裁定」についても両者は対立した。
ブルガリアについても、モロトフは強硬な主張を突きつけた。このように、モロトフとヒトラーの会談が事実上決裂したあと、リッベントロップは13日夜のモロトフとの最後の会談で日ソ独伊四国連合案を提示した。
モロトフは会談の結果をモスクワで検討することだけ約束してベルリンを去った。11月25日のスターリンの回答は、フィンランドからのドイツ軍の即時撤兵など、ヒトラーが到底受け入れられない条件を、ソ連の四国連合加盟への条件としたものであった。この会談の記録は、1948年
17 International Prosecution Section, File No. 324: Interrogation of Major
General Eugen Ott. 粟屋憲太郎・吉田裕編集・解説『国際検事局(IPS)尋問調書』第41巻。
18 Generaloberst Halder, Kriegstagebuch, Band I. Vom Polenfeldzug bis zum
Ende der Westoffensive (14.8.1939~30.6.1940), Bearbeitet von Hans-Adolf
Jacobsen in Verbindung mit Alfred Philippi
(Stuttgart:1962、Kohlhammer), S. 24f. 三宅 日独伊三国同盟とユーラシア大陸ブロック構想
にアメリカ国務省によって公表された独ソ関係の文書集『Nazi-Soviet Relations 1938~1941』(邦訳『大戦の秘録』)19 に収録されていてよく知られているので、ここでは詳しくは立ち入らないことにする。
ただし、モロトフ、リッベントロップ両外相が、英国空軍のベルリン爆撃が始まったためにリッベンロップ外相専用の豪華な防空壕の中で40年11月13日の夜9時45分から12時まで行われた会談に際して、リッベンロップが日ソ独伊四国連合協定草案をモロトフに提示した経緯だけを記しておきたい。
この会談で、リッベントロップは、日独伊三国とソ連との協力に関する案を作成したので、まだ輪郭だけであるが、今日モロトフ氏に提示したい、と述べた。
そして、この問題については、日本ともイタリアとも、このような具体的な形では、自分は話し合いをしていない、先ずドイツとソ連の間で、この問題を明らかにしておくことが必要だ、と自分は考えている、と付け加えた。
さらに、これはドイツの提案というわけではなく、まだ荒削りな考えであって、ドイツとソ連の間で、そしてモロトフ氏とスターリン氏の間で検討しなければならないであろう、と述べた。この件についてイタリアと日本との外交交渉を進めるのは、問題をドイツとソ連の間ではっきりさせた時に、初めて意味を持つであろう、ともリッベントロップは述べた。
リッベントロップは、この協定を次のような形で提示した。
「三国協定参加国のドイツ、イタリア、日本の政府を一方とし、ソ連政府を他方とする四国政府は、各国の自然な境界の中で、参加するすべての国民の福祉に奉仕する秩序を導入し、これら国民のこの目的に向けられた協力に対して、確固たる、そして持続する基礎を創出することを願望して、次のように協定した。
第一条
一九四〇年九月二七日の三国条約において、ドイツ、イタリアと日本は、戦争の世界的抗争への拡大にあらゆる手段をもって対抗し、世界平和の早急な再建のために協力することを協定した。三国はその際に、彼らの努力に同様な方向を付与しようとする世界の他の地域の諸国民に協力を拡大する意思を表明した。ソ連は、この目標設定と連帯する旨を宣言し、三国とこの路線上で政治的に協力することを決意した。
第二条
ドイツ、イタリア、日本ならびにソ連は、相互にその自然的勢力範囲を尊重する義務
19 Nazi-Soviet Relations 1938~1941. Documents from the Archives of the
German Foreign Office, Edited by Raymond James Sontag and James Stuart
Beddie, Originally published by United States Government Printing Office,
for the Department of State, Washington, 1948, Reprinted in 1976 by Greenwood
Press, Westport, Connecticut.米国国務省編纂『大戦の秘録 独外務省の機密文書より』読売新聞社、1948 年。
を負う。この勢力範囲が抵触しあう場合には、四国はそこから生ずる諸問題について、継続して友好的に協議するであろう。
第三条
ドイツ、イタリア、日本ならびにソ連は、四国が、四国に敵対する諸国の集団にも参加せず、四国に敵対する諸国の集団を支持しないであろうということにおいて、意見が一致している。
四国は、経済的に全ての点で支援し合い、四国間に現存する諸協定を補完し拡大するであろう。」20。
リッベントロップは、この条約の有効期間を 10 年と考えており、この期間満了前に条約の延長について協議することとしたい、また、この条約は公開とし、四国の領土に関する希望について秘密協定を作成することが可能であろう、と述べた。
そして、ドイツに関しては、講和条約によって実現される領土の変更を別とすれば、中央アフリカを領土として獲得することを希望する、イタリアの領土に関する希望の重点は、講和条約によって実現される領土の変更を別とすれば、北アフリカおよび北東アフリカにある、と述べた。
日本の希望に関しては、まだ外交によって解明される必要があるが、例えば日本帝国と満州国の南に引かれる線が確定されるというような方式で、簡単に境界線が見出されるであろうし、ソ連の領土に関する希望の重点は、恐らくソ連の領域の南、インド洋の方向にあるであろう、とリッベントロップは付け加えた21。
リッベントロップは、日ソ関係について、次のように述べた。
「モロトフ氏もご承知の通り、自分(ドイツ外相)は常に、日本とソ連との関係に対して特別の関心を表明して参りました。もしモロトフ氏が、この関係は現在どうなっているかを教えて下さることが出来れば有り難い次第です。
ドイツ政府が知らされている限りでは、日本は不可侵条約締結を特別に重要視しています。自分に直接かかわりのない事柄に介入する積りはありませんが、この問題も自分とモロトフ氏の間で検討されれば有益であると考えます。
ドイツ側からの仲介のための影響力行使が望ましいのであれば、私はよろこんでそうする用意があります。スターリン氏が、自分はフォン・リッベントロップ氏よりもアジア人をもっとよく知っていると言われた時のスターリン氏の言葉を、私は、たしかにまだよく記憶しています。
にもかかわらず、私は、日本政府のソ連との広範囲にわたる合意の用意がある事実を自分が知っていることについて、言及せずに済ましたいとは思いません。私は、不可侵条約が成立すれば、日本は他の全ての問
20 Nazi-Soviet Relations 1938~1941、pp. 249.『大戦の秘録』324 頁。
21 Ibid., pp.249f.『大戦の秘録』324~325 頁。三宅 日独伊三国同盟とユーラシア大陸ブロック構想
題を寛大なやり方で解決する用意があるという印象を持っています。私は、日本がドイツ政府に仲介を求めてはいないという事実をはっきりと強調しておきたい、と思います。
けれども自分(ドイツ外相)は、事態がどうなっているかを知らされており、日本側には、不可侵条約調印の場合に、外蒙古と新疆におけるロシアの勢力範囲を、中国との合意を前提として承認する用意があることを知っております。
英領インドの方向へのロシアのあり得べき希望についても、ソ連と三国条約締約国との間の協定が成立した場合には、合意が達成されるでありましょう。
日本政府は、樺太の石油と石炭の採掘権に関するソヴィエトの希望に応じる用意があるが、しかし前もって国内の抵抗を克服しなければなりません。
もし、前もってソ連との不可侵条約が締結されるならば、このことは、日本政府にとってより容易になるでしょう。その後に、疑いもなく他の全ての点についても、協調の可能性が開かれるでありましょう。」22。
リッベントロップが、自分の提示した諸問題についてのモロトフ氏の見解をうかがいたい、と言ったのに対して、モロトフは、日ソ関係について次のように答えた、と記録されている。
「モロトフ氏は、自分は日本に関して、協調の過程において、これまでそうであったよりはより迅速に進行するであろう、という期待と確信を持っています、と答えた。日本との関係は、常に困難と悪化に満ちたものでありました。
にもかかわらず、今、協調への見通しが存在しているように思われます。日本政府は、ソ連政府に不可侵条約の締結を、しかもまだ内閣の交替の前に(原注
一九四〇年七月一六日に米内内閣が退陣し、翌日に近衛公爵が新内閣を組閣した)、提案しました。その際に、ソ連政府は、いくつかの質問を日本政府に提起しました。これらの質問への回答は、現在まだ届いていません。
回答が到着した時に初めて、交渉が開始され得ます。この交渉は、全ての他の入りくんだ問題と切り離すことは出来ません。その結果、この問題の解決には若干の時間が必要でしょう。」23。
モロトフは、イギリスとの戦争にすでに勝利を収めた、という考えからドイツ側が出発している、と指摘し、それ故、ドイツはイギリスとの戦争を、生死を賭して戦っている、ということが言われる場合には、自分としては、ドイツは「生を」、そしてイギリスは「死を」賭して戦っているとしか、理解出来ない、とかなりの皮肉をまじえて述べた。
勢力範囲の確定については、スターリンなどのこれに関する見解を自分は存じていない
22 Ibid., p. 251.『大戦の秘録』326 頁。 23 Ibid., p. 252.『大戦の秘録』327 頁。
ので、最終的な態度の表明は出来ない、とモロトフは語った。そしてモロトフはリッベントロップに心からの別れの挨拶を述べ、空襲警報のおかげで、ドイツ外相殿とこれだけたっぷりと話し合いが出来たのだから、空襲警報を恨んではいません、と強調した24。
空襲警報のおかげで、ドイツ外相殿とこれだけたっぷりと話し合いが出来た、というのも痛烈な皮肉であった。この会談には、ウインストン・チャーチルの『第二次大戦回顧録』第二巻が伝えている後日談がある。
イギリスの戦時内閣首相チャーチルは、1942年夏にモスクワを初めて訪問した。スターリンは、この時チャーチルに、モロトフが1940年11月に、ベルリンにリッベントロップを訪問した時、貴方はそれを察知してベルリンを空襲させましたね、と質問し、チャーチルは肯定の意味でうなずいた。
リッベントロップは豪華な内装の防空壕にモロトフを案内し、モロトフが部屋に入った時に空襲が始まった。スターリンによれば、「イギリスは終わりだ」と言うリッベントロップに対して、モロトフは、「もしそうだとすれば、何故我々はこの防空壕に入っているのですか、そして、落ちてくる爆弾はどの国のものなのですか」とやり返したという25。
8)モスクワのドイツ大使館で戦後発見された日ソ独伊四国協定案
独ソ戦がドイツの敗北で終結した後、モスクワにあった旧ドイツ大使館の秘密文書の中から、「三国条約締結国とソ連との間の協定草案」が発見された。
インゲボルク・フライシュハウアーは、この草案はモスクワのドイツ大使館で、40 年 11 月 11 日のモロトフのモスクワ出発に間に合うように作成されたものと断定している26。
フライシュハウアーによれば、モロトフの一行に随行するドイツ大使シューレンブルクが、ベルリンにこの草案を携行した27。
従って、この日ソ独伊四国協定案は、モスクワのドイツ大使館で作成され、シューレンブルクがベルリンでモロトフに提示し、説明した、ということになる。
フライシュハウアーは、40年9月22日から10月15日までモスクワを離れてベルリンに滞在していたシューレンブルクのベルリンでの成果は、モロトフのベルリンへの招待の実現と、10月13日付けのリッベントロップからスターリン宛ての書簡である、
24 『ドイツ外務省外交文書』D シリーズ第 11 巻の 1、文書第 329 号。ヒルガー大使館参事官による独ソ外相最終会談の覚書。Nazi-Soviet
Relations, p. 254.『大戦の秘録』329~330頁。
25 Winston S. Churchill, The Second World War, Volume II, Their Finest
Hour (London:Cassell, 1949), pp. 517~518. ウインストン・チャーチル著、毎日新聞翻訳委員会訳『第二次大戦回顧録
8』毎日新聞社、1951 年、148~149頁。
26 Ingeborg Fleischhauer, Diplomatischer Widerstand gegen “Unternehmen
Barbarossa”. Die Friedensbemühungen der Deutschen Botschaft Moskau 1939-1941(Berlin/Frankfurt
am Main:Ullstein, 1991), S. 224. 27 Ebenda, S. 229. 三宅 日独伊三国同盟とユーラシア大陸ブロック構想
と考えている。この書簡は、シューレンブルクからの顕著な直接の影響を示している28。
同じくフライシュハウアーによれば、日ソ独伊四国条約の理念は、シューレンブルクがベルリン滞在中に提案したものであるが、この理念がドイツ外務省の中でどのような発展をたどったのかを厳密に検証することは不可能である。
リッベントロップがロシアを含めた強力な大陸ブロックの創設に、イギリスを屈服させる可能性を認めたことは疑いないが、ヒトラーがこのような理念に肯定的であったとは考えにくい。このような解決法をヒトラーがそもそも真剣に考慮したかどうかも疑問である、とフライシュハウアーは論じている29。
モスクワで発見されたこの四国条約案の内容は、リッベントロップがモロトフに提示したものと第一条と第二条については完全に、第三条については若干の表現の違いはあっても、ほぼ合致している。ただし、リッベントロップの提案は第三条までであったのに対して、リッベントロップが口頭で述べた有効期限が、第四条として条文化されている。
「三国条約締約国とソ連との間の協定案
三国協定参加国のドイツ、イタリア、日本の政府を一方とし、ソ連政府を他方とする四国政府は、各国の自然な境界の中で、参加するすべての国民の福祉に奉仕する秩序を導入し、これら国民のこの目的に向けられた協力に対して、確固たる、そして持続する基礎を創出することを願望して、次のように協定した。
第一条
一九四〇年九月二七日の三国条約において、ドイツ、イタリアと日本は、戦争の世界的抗争への拡大にあらゆる手段をもって対抗し、世界平和の早急な再建のために協力することを協定した。三国はその際に、彼らの努力に同様な方向を付与しようとする世界の他の地域の諸国民に協力を拡大する意思を表明した。ソ連は、この目標設定と連帯する旨を宣言し、三国とこの路線上で政治的に協力することを決意した。
第二条
ドイツ、イタリア、日本ならびにソ連は、相互にその自然的勢力範囲を尊重する義務を負う。この勢力範囲が抵触しあう場合には、四国はそこから生ずる諸問題について、継続して友好的に協議するであろう。
第三条
28 Ebenda, S. 218f.
29 Ebenda, S. 224f.
ドイツ、イタリア、日本ならびにソ連は、四国が、四国に敵対する諸国の集団にも参加せず、四国に敵対する諸国の集団を支持しないであろうということにおいて、意見が一致している。
四国は、経済的関係において全ての方向に支援し合い、四国間に現存する諸協定を補完し拡大するであろう。
第四条
この協定は調印と同時に効力を発生し、十年間有効とする。四国政府はこの期間終了前に協定の延長問題について適時に相互に協議する。 ドイツ語、イタリア語、日本語とロシア語の四通の原本で作成された。モスクワ、一九四〇年
月 日。」30。
モスクワのドイツ大使館で作成され、リッベントロップの承認を得たと考えられる以上の四国協定案には、ドイツ外務省外交文書集の原注によると、最初の頁の右上に鉛筆で「9.11.40」という書き込みがあるとのことである。
モロトフがモスクワを出発する 40年9月11日に間に合うように、シューレンブルクを初めとするモスクワのドイツ大使館員が大急ぎで完成させたことがうかがわれる。40
年11月9日という日付けは、この案が完成した日を示すものであろう。
リッベントロップがモロトフに、この案の説明をしたことはドイツ外務省外交文書集に収録されたヒルガーの記録からはっきりしている。
しかし、連合軍が押収したベルリンのドイツ外務省外交文書からはこの案が発見されず、モスクワのドイツ大使館からだけ発見された、というのはいささか不可解であり、謎が残る。
普通であれば、ベルリンのドイツ外務省に、原本でなくともコピーは残されていたはずである。モロトフがリッベントロップからコピーを渡されて持ち帰ったことは確実であろう。
これから紹介するソ連側の回答に、日ソ独伊四国協定案を条件付で受諾する、とあることからも、そのことが推測される。日ソ独伊四国協定案は、旧ソ連外務省文書の中に今でも保存されているか、ナチス・ドイツと協議した事実を隠蔽するために廃棄されたかのいずれかであろう。
9)スターリンの日ソ独伊四国協定案への条件つき受諾回答ヒトラーの対ソ戦準備指令
モロトフは、11月25日にシューレンブルクを招いて、リッベントロップが提示した日ソ独伊四国協定案についてのソ連政府の回答を口述した。シューレンブルクが11月26日午前5時34分にモスクワからリッベントロップ宛てに発信した至急電報によれば、
30 『ドイツ外務省外交文書』D シリーズ(ADAP-D)第 11 巻の 1、文書第 309 号。三国条約締約国とソ連との間の協定案。三宅 日独伊三国同盟とユーラシア大陸ブロック構想
その内容は以下の通りであった。
「ソ連政府はドイツ国外相殿の11月13日の最終会談における説明の内容を検討した。そして、これについて以下のような立場を明らかにする。ソ連政府は、ドイツ国外相殿によって
11 月 13 日の最終会談において略述された、政治的協力と相互の経済的支援に関する四国条約案を、次の条件のもとに受諾する用意がある。
一) 1939 年の協定によりソ連の勢力範囲に属するフィンランドから、ドイツ軍が直ちに撤収される場合。その際、ソ連は、フィンランドとの平和的関係を確保すること、ならびにフィンランド内のドイツの経済的権益(木材とニッケルの輸出)を保護することの義務を負う。
二) 次の数ヶ月中に、両海峡におけるソ連の安全が、ソ連と、その地理上の状況からすればソ連の黒海領域の安全保障地帯に位置するブルガリアとの間での、相互援助条約の締結、ならびに、ボスポラス・ダーダネルス両海峡地帯における、長期租借の基礎の上に立つ、ソ連の陸海軍兵力のための基地の創設によって保障される場合。
三) ソ連の希望の重点として、バツームとバクーの南、おおよそペルシャ湾の方向における地域が承認される場合。
四) 日本が北サハリンの石炭と石油に関する採掘権を放棄する場合。」31。
モロトフが読み上げたこのソ連側回答は、実質的にはスターリンのヒトラー宛ての回答であった。アメリカの外交官でソ連大使もつとめ、外交史の研究者でもあったジョージ・F・ケナンは、これはソ連外交政策の歴史の中で最も興味深い文書のひとつである、と述べている。
ケナンも示唆しているように、このスターリンの回答は、スターリンがまだ、四国条約への参加に対して高い代価をヒトラーから強要出来る、ヒトラーとくらべてはるかに有利な立場に自分がいると過信し、また、この回答を出発点としてこれからの交渉が始まるのであり、今回の交渉は全て予備的な取引に過ぎない、と考えていた事実を示す、と推定してよいであろう32。
しかし、この四条件のうち、フィンランドからの撤兵要求は、ヒトラーの側では受け容れる積りが全くなかった。このことは、モロトフとヒトラーとの第二回目の会談での
31 『ドイツ外務省外交文書』D シリーズ(ADAP-D)第11巻の2、文書第 404号。モスクワ大使館からドイツ外務省宛て至急電報。
32 George F. Kennan, Russia and the West under Lenin and Stalin, (Boston/Toronto:Atlantic-Little
Brown, 1960), p. 344. ジョージ・F・ケナン著、尾上正男・武内辰治監修、川端末人・岡俊孝他訳『レーニン、スターリンと西方世界――現代国際政治の分析』未来社、1970年、237頁。
ヒトラーの発言から明らかである。独ソ不可侵条約秘密付属議定書でドイツが約束した通りに、フィンランドを先ずソ連に引き渡しなさい、木材とニッケルがそんなにほしいのならば、後で供給することを約束するから、というのがこの回答の意味するところである。
以下、モロトフのベルリンでの要求と、スターリンの回答ならびにシューレンブルクがリッベントロップ宛ての至急電報で伝えたモロトフの回答についての補足説明とを比較してみると、後者は前者をさらに吊り上げたものとなっている。
詳細は三宅正樹著『スターリン、ヒトラーと日ソ独伊連合構想』を参照されたい。モロトフの説明には、日本の北サハリンにおける石炭と石油採掘権の、適当な補償を引き換えにしての放棄に関する日ソ間の議定書までもが要求されていた33。
日ソ独伊四国条約に、以上のような条件付きでソ連は参加する用意がある、というこのソ連側の回答に対して、ヒトラーはもはや一切返事をしなかった。四条件に対応して、ソ連側は四国条約に付属する秘密議定書の案まで示している。このようなソ連側の態度から、ソ連側が、ヒトラーの独ソ戦決定が近くに迫っているとは見ていなかった事実がはっきりと浮かび上がってくる。
モロトフがベルリンに到着した 40 年11月12 日に、ヒトラーは「総統指令第一八号」を発令した。この指令は、フランス、スペイン、ポルトガル、エジプト、バルカン、イギリスなど広範囲の項目にわたるものであるが、ロシアの項目では、「近い将来のロシアの態度を明らかにする目的で、政治的会談が開始された。この会談がどのような結果をたらすかに関係なく、すでに口頭で命令した東方に対する準備は続行されなければならない」と記してあった34。
しかし、対ソ戦争に対して具体的にどのような準備をすべきかをヒトラーが命令したのは、12月18日の「総統指令第二一号(バルバロッサ作戦指令)」によってである。11月12
日の段階では、もしモロトフの伝達するであろうスターリンの態度が、ドイツに予想外の譲歩を示すものであったならば、対ソ戦をヒトラーが回避するか、あるいは少なくとも延期することはあり得たかも知れなかった。
しかし、そのような事態は生じなかった。そして、スターリンの11月25日の最終回答は、ベルリンでモロトフが述べたものよりも、例えばボスポラス・ダーダネルス両海峡へのソ連軍事基地設置の要求では、さらに一層強硬であった。この回答へのヒトラーの対応が「総統指令第二一号」であった。
33 『ドイツ外務省外交文書』D シリーズ(ADAP-D)第11巻の2、文書第404号、モスクワ大使館からドイツ外務省宛て至急電報。三宅正樹著『スターリン、ヒトラーと日ソ独伊連合構想』、19~192頁。
34 『ドイツ外務省外交文書』D シリーズ(ADAP-D)第11巻の2、文書第323号「総統指令第一八号。」、三宅同書、193 頁。三宅 日独伊三国同盟とユーラシア大陸ブロック構想
総統指令第二一号」の最初の、総論に相当する部分には、以下のように記されている。対ソ戦準備完了の期限、すなわち対ソ開戦の予定日として、41年5月15日が想定されていたことがわかる。対ソ戦準備を絶対に秘密にしておくように、とも命じている。
「ドイツ国防軍は、イギリスに対する戦争の終結以前にも、ソヴィエト・ロシアを迅速な作戦行動によって打倒する準備をしなければならない。陸軍は、このために全ての使用可能な部隊を投入しなければならない。ただし、占領地域が奇襲に対して確保されなければならないことが条件となる。
空軍に関しては、東部の作戦行動に対して、地上作戦の迅速な終了が見込まれ、東ドイツ地域の敵の空襲による被害が可能な限り僅少にとどまる程の、極めて強力な戦力を、陸軍支援のために動員することが重要となるであろう。東部におけるこの重点の形成は、我々によって占領された戦闘地域ならびに武装地域が敵の空襲に対して十分に防衛されなければならず、イギリスに対する戦闘行為、特に補給が停止を許されない、という要請の中に、その限界を見出す。
海軍の投入の重点は、東部の作戦行動の期間中も、明確にイギリスに向けられ続ける。
ソヴィエト・ロシアに対する進軍を、私は、場合によっては、予定された作戦開始の八週間前に命令するであろう。かなりの期間を必要とする諸々の準備は、まだ為されていない場合には、すでに今、着手しなければならず、41年5月15日までに完了しなければならない。攻撃の意図が認識されないようにすることが決定的に重要視されなければならない。」
この後に、ロシア西部に存在するロシア陸軍の大軍を、ドイツ軍戦車をくさび型に展開するによって壊滅させ、広大なロシアの領土に戦闘能力のあるロシア軍が逃げ込まないようにすることや、作戦の最終目標は、ヴォルガ河とアルハンゲリスクの線で、ロシアのアジアの部分に対する防御線を確立することにあり、ウラル山脈ぞいの、ロシアに最後に残された工業地帯はドイツ空軍の空襲によって攻撃することなどの指令が続く。同盟国として、ルーマニアとフィンランドの軍事協力が予定されている。陸軍、海軍、空軍のそれぞれには、細部にわたる指令が記されている36。
「バルバロッサ作戦指令」の発令によって、ソ連との妥協による平和の余地は消えた。そして、日ソ独伊四国条約の構想も完全に消滅した。
35 『ドイツ外務省外交文書』D シリーズ(ADAP-D)第 11 巻の 2、文書第 532 号「総統指令第二一号」。三宅同書、193~194頁。
36 同文書、三宅同書、195頁。
8)日ソ中立条約
41年3月末から4月にかけて、モスクワ、ベルリン、ローマを歴訪した松岡外相は、ヒトラーやリッベントロップが、対ソ戦開始が近いことをほのめかしてソ連との条約締結を思いとどまらせようとしたのを無視して、4月13日にモスクワで日ソ中立条約に調印した。
かなりの限定を付けなければならないけれども、1941年4月13日に第二次近衛内閣外相の松岡洋右がモスクワで調印した日ソ中立条約は、最初に述べた後藤新平の日ソ提携の遺志を継いだものと見ることも可能である。
松岡は初代総裁の後藤から数えて第一三代の満鉄総裁であったし、後藤より22年後に外相に就任している。松岡は1921年には外交官を辞任して満鉄理事となり、27年から29年までは満鉄副総裁、35年から3年までは満鉄総裁であったから、かなりの時期を後藤が初代総裁をつとめた満鉄で過ごしている。
松岡は、41年3月24 日にモスクワでソ連の首相兼外相のモロトフと会い、その時に日ソ関係は改善されなければならないと自分は確信しているし、日ソ関係改善については、約三〇年前に後藤新平伯爵の本部で一種の課長のようなことをしていて、ロシアと日本との間に良好な関係を樹立するという、後藤伯爵の意見に共鳴した時から心にかけている、とモロトフに語っている。
後藤新平伯爵の本部で一種の課長のようなことをしていたというのは、先にも見たように、1906年11月から翌年の11月まで、旅順に置かれていた関東都督府の外事課長をしていたことを指している。
スターリンがモスクワのヤロスヴラリ驛に現われて松岡一行を見送り、松岡の肩を抱いて「我々はアジア人だ」と叫んだ話はよく知られている。
モスクワ駐在ドイツ大使シューレンブルクは、スターリンが見送りの人々の中にドイツ大使シューレンブルクを見つけると、肩に腕を廻して、「我々は友人であり続けなければなりません。そのために、貴方は今、全力を尽くさなければなりません」と語ったことを、リッベントロップに電報で報告している。
スターリンは、居合わせたドイツの陸軍武官補ハンス・クレープス(Hans Krebs)大佐がドイツ人であることを確めると、彼にも「我々は貴方がたとも、必ず、友人であり続けるでしょう」と語った。
シューレンブルクは、「スターリンは、私とクレープス大佐への挨拶を故意に強調し、それによって意図的に、居合わせた大勢の人たちの注目を惹き付けたのです」と報告した37。
ドイツの対ソ戦開始こそ、日ソ独伊四国連合構想の最終的死亡宣告であった。しかし、
37 三宅同書、204~208頁、215~226頁参照。三宅 日独伊三国同盟とユーラシア大陸ブロック構想
ヒトラーとモロトフとの会談が決裂した後にヒトラーが40年12月18日にバルバロッサ作戦準備指令を発した時に、この構想は死んだのであり、この構想にかなりの熱意をもっていたらしいリッベントロップも、これ以後はこの構想を断念したらしい。
松岡に向ってベルリンでリッベントロップは、松岡がモスクワでソ連と条約を結ぶことにはっきりと反対した。6月22日の独ソ開戦は、松岡の立場に不利に作用し、7月16日の第二次近衛内閣総辞職によって、内閣から放逐された。
9)ヒトラーの親英反ソ路線とリッベントロップの反英親ソ路線
1936年11月に日独防共協定が出来てから1941年6月に独ソ戦が開始されるまで、日本の外交はヒトラーとリッベントロップの二人に振り回され続けた。
リッベントロップは、ソ連を仮想敵とする日独防共協定を成立させておきながら、ソ連にドイツと日本が東西から圧力をかけようとする防共協定の路線への関心を失い、ドイツの仮想敵としてのイギリスを牽制するドイツとイタリアと日本とが協力する、という構想に強い関心を寄せるようになった。
この構想は、リッベントロップがイギリス駐在大使としてロンドンに赴任していた時期に、1938年1月2日の日付けで作成された「総統のための覚書」(以下では「リッベントロップ覚書」と記す)に、ヒトラーへの進言としてはっきりと示されていた38。
「リッベントロップ覚書」の中で、リッベントロップは、フランスがポーランド、チェコスロヴァキア、ルーマニア、ユーゴスラヴィアなどの「東方の諸同盟国」を守るためにドイツに対する軍事行動を起こすことは十分あり得ることであり、その際にフランスはイギリスの援助を当てにしているが、ドイツ、イタリア、日本の結合によって英帝国を牽制出来れば、フランスはイギリスの援助を当てに出来なくなり、動きがとれなくなる、と主張している39。そして、次のように述べている。
「このような諸理由からして、我々は、ベルリン=ローマ枢軸およびベルリン=ローマ=東京の三角形を強化すること、ならびに他の国々をこの結合に参加させることに、今後も利害関係を持ち続けるのである。我々の友情による結合が強固なものであればあるほど、イギリスは、そしてフランスもまた、中央ヨーロッパにおける、ドイツを巻き込むいかなる紛争についても局外にとどまるという確率は増大するであろう。」40。
38 三宅正樹著『日独伊三国同盟の研究』第三章「リッベントロップ覚書」をめぐって、参照。 39 三宅同書、第三章第七節〔史料〕「リッベントロップ覚書」一三〇~一三二頁。
40 三宅同書、132頁。原史料は、ドイツ外務省外交文書、D シリーズ、第一巻、文書第93号。
このように考えていたリッベントロップから見れば、いわゆる「防共協定強化問題」で、ソ連を対象とするのならば協定の強化に賛成するが、英仏両国をも対象に加えるのにはしりごみする、という日本の態度は歯がゆい限りであると同時に、「ベルリン=ローマ=東京の三角形」によって英仏を牽制するという、当時彼が到達していた立場とは遠くへだたっていた。
リッベントロップは、自分のイニシアティヴで独ソ不可侵条約を成立に持ち込んだ後でも、ドイツに裏切られたと考えていた日本を、今度は日ソ独伊の、「イギリスにほこ先を向けた四国の協力関係」に誘い込もうとしていた41。
このように、リッベントロップの外交路線は、ひと口でいえば「反英親露路線」であった。ところが、ヒトラーの外交路線は、これもひと口でいえば「親英反露路線」であった。
日本が散々に振り回されたのは、このように相反する路線が、ドイツ外交の中に同時に存在していたためであった。
このようなドイツ外交の二層性をはっきりと剔り出してみせたのが、ボン大学史学科教授クラウス・ヒルデブラントの『1933年から1941年までのドイツの外交:計算かドグマか?』42である。
現在にいたるまで、独ソ不可侵条約から日独伊三国同盟を経て対ソ開戦に至るまでの時期のドイツ外交について、最も説得力のある整理をしているのは、ヒルデブラントのこの著作、中でも第五章「『世界分割』の思想(1939~1940
年)である、と著者は考えている。
著者は、『日独伊三国同盟の研究』の中で、ヒルデブラントのこの著作と、特にその第五章について詳しく紹介した43。
ごく簡単にいえば、ヒトラーは、イギリスをドイツとの講和に持ち込むことに希望を持ち続け、その手段として対ソ戦を思いついたのに対して、リッベントロップは、常にロシアの強国としての存続を願い、マドリッドからモスクワを経て東京に至る大陸ブロックをつくりだすことによってイギリスに譲歩を強要しようとした。
ヒトラーが一時的にこの大陸ブロック構想に賛成したために、リッベントロップ構想の一頂点である日独伊三国同盟が成立した。
けれども、この同盟がイギリスをドイツの側に引き寄せるというヒトラーの期待に役立たなかったので、ヒトラーはおそくも 1940 年 10 月末までに、この大陸ブロック構想を放棄し、ソ連との対決という、彼のもともとの構想に戻ってしまった。
リッベントロップは40年11月のモロトフとの会談で、もう一度、独伊ソ日の四国の勢力範囲を確定しようとしたが、モロトフの具体的な領土要求によって、それは41 三宅同書、237頁。原史料は、ドイツ外務省外交文書、D シリーズ、第八巻、文書第40 号、リッベントロップ発オット宛て電報。
失敗に帰した。
おおよそ以上が、ヒルデブラントの同書第五章のあらましである44。
日本側は、このようなドイツ外交の二層性を見抜けなかった。
外側からは外務大臣であるリッベントロップが交渉相手として巨大な存在であるかのように見えたが、ドイツの進路を最終的に決定するのは、独裁者ヒトラーであった。
ヒトラーが対ソ戦を決定してしまえば、外務大臣に過ぎないリッベントロップはこれに服従する他はなかった。
リッベントロップの 1940年 9月段階での、日ソ間を「正直な仲買人」として仲介するという約束と、さらには日ソ独伊四国ブロック構想とに、40年12月18日の対ソ戦決定以後も期待をかけ続けた日本は、11月のモロトフ・ヒトラー会談の実質的決裂以降独ソ関係に生じた変化に、はなはだ鈍感であったといわなければならない。
日ソ独伊四国ブロック構想は、リッベントロップの構想であり、ヒトラーも短い期間これに傾いていたけれども、ヒトラーの本来の主張はソ連の打倒であった。我国でも何種類も邦訳が出回っていたヒトラーの『我が闘争』を読めば、ヒトラーの本来の主張がソ連打倒であることは、すぐわかったはずなのに、陸軍の一部まで、日ソ独伊四国ブロック構想にとり付かれた。ヒトラーとスターリンの握手である独ソ不可侵条約の衝撃は、それほどまでに大きかったということであろう。
ヒルデブラントが前掲書で示唆した、ヒトラーの親英反ソ路線とリッベントロップの反英親ソ路線が同時に存在していた事態は、日本の外交を混乱させた。
リッベントロップは、独ソ不可侵条約に結実したような親ソ路線に熱意を示し、このことは、松岡シュターマー会談記録第十項にも反映している。
シュターマーは、自分の述べる内容は、リッベントロップ外相の言葉と受け取って差支えないと確言していた。
日ソ独伊四国協定案にも、リッベントロップは熱心であったと推測される。しかし、独裁者ヒトラーの対ソ戦開始決定の前に、リッベントロップは無力であった。
ワシーリー・モロジャコフ博士が 2008 年にモスクワで公刊したリッベントロップ論のロシア語の494頁に及ぶ大著のなかで、1940年11月13日の最後の会談でリッベントロップがモロトフに示した日ソ独四国連合案を、リッベントロップのユーラシア大陸ブロック構想の具体化として重視し、おそらくヒトラーの完全な同意を得ていなかったものという重要な推測をしておられることを、最後に示唆に富む指摘として付け加えておきたい。この大著の英文要旨(Synopsis)の中で、モロジャコフ博士は次のように述べている。
フォン・リッベントロップの伝記にとって、モロトフとの彼の最後の会話は、最も重要な出来事であった。
ドイツ外相は、彼の客人(モロトフ)に対して、ドイツ、イタリア、日本を一方の側とし、ソ連を他方の側とする協定についての彼の草稿(draft)を、締約国の『領土的希望』とトルコに対するコントロールとにかかわる二つの秘密付属議定書と合わせて紹介した。
私(モロジャコフ博士)は、彼(フォン・リッベントロップ)が、彼の――私の思うに、主として彼自身のオリジナルな――計画に対して、ヒトラーの完全かつ真摯な承認を得ていなかった。
或いはおそらく得ていなかったであろう。」45。
リッベントロップは、外務大臣でありながら、ヒトラーのバルバロッサ作戦(対ソ作戦)計画を、作戦指令が発せられた1940年12月には知らされず、41年春になって知らされたようである。
モロジャコフ博士によれば、バルバロッサ作戦を打ち明けられたリッベントロップは、ヒトラーの意向を替えさせようと必死になった。
彼は、先ず、ヒトラーに駐ソ大使シューレンブルクの意見を聴くことをすすめ、会見は1941年4月28日に実現した。
シューレンブルクはヒトラーの対ソ戦決意を察知して驚いてモスクワに帰った。また、リッベントロップは、ヒトラーの注意をソ連からイラクへと転換させて、イラクで反英クーデターを支援するようにすすめ、また、対ソ戦のかわりに、スバス・チャンドラ・ボースとインドの反英勢力を支援しようとも試みたが、すべては無駄であった46。
モロジャコフ博士によれば、対ソ宣戦布告が行われた1941年6月22日の朝の、リッベントロップとベルリン駐在ソ連大使ウラディミール・デカノゾフとの最後の会話を通訳したヴァレンテフィン・ベレシュコフは、リッベントロップのこの時の様子について、心乱れ、取り乱し、ほとんど呂律が回らなくなるほど混乱していた、と後に語った。
そして、ベレシュコフは、「どうか、モスクワで、私がこの侵略に反対していた、と告げて欲しい」と言ったリッベントロップの最後の言葉を記憶に留めていた。「私は彼の話を信じる(I
believe his tale.)」とモロジャコフ博士は付け加えている47。
45 Vassili Molodiakov , RIBBENTROP. Führer’s Stubborn Adviser (Moscow:
AST-Press, 2008). Synopsis p. 9.
46 Synopsis p. 10.
47 Synopsis, ibid. 本論文の論旨は以下のドイツ語の論文において詳細に提示されている。Masaki Miyake, “Die
Idee eines eurasischen Blocks Tokio-Moskau-Berlin-Rom 1939-41”, Internationale
Dilemmata und europäische Visionen. Festschrift zum 80. Geburtstag von
Helmut Wagner, herausgegeben von Martin Sieg und Heiner Timmermann, Berlin,
2010.
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├官僚制度と計量の世界(24) 戦争への偽りの瀬踏み 日米の産業力比較 陸軍省戦争経済研究班「秋丸機関」の作業 執筆 夏森龍之介
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├計量計測データバンク ニュースの窓-233-三宅正樹明治大学名誉教授日独伊三国同盟とユーラシア大陸ブロック構想 2010年執筆(2023/11/18防衛研究所)
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├日本ニュース第17号 日独伊三国同盟
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├日本ニュース第241号 - 大東亜戦争
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├バルバロッサ作戦 - Wikipedia
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├小野寺信 - Wikipedia
小野寺信(おのでら まこと、1897年〈明治30年〉9月19日 - 1987年〈昭和62年〉8月17日)は、日本の陸軍軍人、翻訳家。最終階級は陸軍少将。1897年、岩手県胆沢郡前沢町(現在の奥州市)において町役場助役・小野寺熊彦の長男として生まれる。12歳の時に熊彦が病死し、本家筋の農家・小野寺三治の養子となる。遠野中学校、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校を卒業(31期、歩兵科。歩兵科5位で恩賜の銀時計を拝受。
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├大島浩 - Wikipedia
大島浩(おおしま ひろし、1886年(明治19年)4月19日 - 1975年(昭和50年)6月6日)は、日本の陸軍軍人、外交官。最終階級は陸軍中将。第二次世界大戦前から戦中にかけて駐ドイツ特命全権大使を務め、日独伊三国同盟締結の立役者としても知られる。終戦後の極東国際軍事裁判ではA級戦犯として終身刑の判決を受けた。陸軍士官学校、及び陸軍大学校を卒業した陸軍軍人であった。1921年(大正10年)、駐在武官補として初めてドイツに赴任、ナチ党とのあいだに強い個人的関係を築くようになった。1938年(昭和13年)には駐ドイツ日本大使に就任、日独同盟の締結を推進し、1940年(昭和15年)に調印された日独伊三国同盟も強力に支持した。終戦後にはA級戦犯として終身刑に処せられ、1955年(昭和30年)まで服役した。
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├オーラルヒストリー 蓑輪善蔵氏インタビュー 「計量制度に係わっ て 69 年」
http://161.34.12.161/book-for-collecting-news-/new-holder-5-news-collection-/2024-02-17-news-materia-content-collection-/digidepo_10632249_po_ART0009947795.pdf
松本榮壽、黒須茂、高松宏之
○小泉袈裟勝さん
小泉袈裟勝さんのお話をお伺いしたいのですが。(黒須茂)
蓑輪善蔵
袈裟勝さんはね私より7つ年上でした。背が高い人ですが、干支は午ですよ。彼は1937(昭 和 12)年か 1938(昭和 13)年に中検に入って、それで渡辺襄さんの光の光波干渉の測定を手伝っていたんです。1942(昭和17)年に兵隊にとられてビルマに行ったのかな。出征するときのことも私は知っています。野砲でしたかね。馬の世話をしたりしながら。
それで帰ってきたときに 、計圧器係がいる3階から小泉さんが 2階の岡田さんの部屋に入ったのを見ました。小泉さんが帰ってきたというのは、上から見ればわかるわけ。役所の中は狭いから。
「小泉が帰ってきたけれど、手を出すな」と係員に言っていたのを覚えてい ます。小泉さんは、うるさ型で通っていたんですよ。それでけっこう切れるんだよね。彼は頭がいいんですよ。
長いこと所長をやっていた玉野光男さんにかわいがられて、メートル法の宣伝とか、計量課とのつき合いとか、計量法を基本的にどうするとかという話に携わったりしていました。だから法律も含めて計量全般に関してよく知っているんですよ。行政マンとしての適性もありました。
○進級が難しい物理学校
旧制中学を出て計量教習を出ているだけなんですよ。それで物理学校へ 1年間だけ行って、2年生になれなかったようです。物理学校って進級が非常に厳しくて簡単には2年になれないんです。
○計量教習
蓑輪善蔵
「計量教習」というものが中検にはあったんですよ。これは、本所、大阪支所、名古屋支所、福岡支所に申学卒で入ってきた人を対象に試験をやりまして 10人ばかり集めるわけです、それを東京へ呼びまして1年間みっちり仕込むんです。けれどそれが
1937(昭和12)年から始まっているんですよ。
なるほど。戦前ですね。(松本榮壽)
蓑輪善蔵
それを1年間やるんです。仕事をさせないんですよ。仕事をしないで朝の9時から夕方の4 時までみっちり講義をやるわけです。製図までやったんですから。数学、物理、電気、計量器学を含めまして、はかり、精密測定もやりました。
本当の学校ですね。それで、教育が終われば、彼らをもとの部署に返すんですか。(松本榮壽)
蓑輪善蔵
返します。それを義務づけるのではなく所長の権限でやるわけです。そういう金を所長は持っているんです。小泉袈裟勝さんなんかも出ているんですよ。その最初だっ
たと思うけれども、1937(昭和12)年ごろ、専門学校出以外の中学出の職員の内で 計量教習をやってから検定の責任者にし、任官させようということでした。
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社会学用語。それ自体は客観的であったり、また多義的に理解されているような物や言語や行動様式をシンボル (象徴) として使い、特定の意味内容をこめて多くの人々のそれへの同調ないし反動形成を促し、一定の方向に行動させること。シンボル操作の典型的な技術の一つが、人々の態度・行為・価値観をあらかじめ意図された方向へ誘導するための組織的コミュニケーション活動といわれる政治宣伝である。マス・メディアの驚異的な発達と宣伝技術の高度化により、現代社会ではシンボル操作の余地は拡大した。
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