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計量計測データバンク ニュースの窓-428-
NHKスペシャル 知られざる核危機(ハルペリン文書の警告)と ハルペリン文書に関する論考
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計量計測データバンク ニュースの窓-428-
NHKスペシャル 知られざる核危機(ハルペリン文書の警告)と ハルペリン文書に関する論考


計量計測データバンク ニュースの窓 目次

計量計測データバンク ニュースの窓-428-

計量計測データバンク ニュースの窓-428-NHKスペシャル 知られざる核危機(ハルペリン文書の警告)と ハルペリン文書に関する論考

NHKスペシャル 知られざる核危機 ハルペリン文書の警告 - 動画配信
2026年8月9日放送 (C)NHK NHKスペシャル 知られざる核危機 ハルペリン文書の警告
 かつて台湾海峡で核兵器が使用されそうになった…。これまで、広島・長崎への原爆投下以降、初めて核戦争の寸前に至ったのは、1962年のキューバ危機とされてきた。しかし、実はその4年前の台湾海峡危機で、アメリカが核兵器の使用を現実的に検討していたことが機密文書によって明らかに。アメリカ軍はどのように核使用へと傾斜していったのか。そして作戦には日本も無関係ではなかった―。“知られざる核危機”の全貌に迫る。

モートン・ハルペリン - Wikipedia
コロンビア大学卒業後、イェール大学で博士号取得。ハーバード大学を経て、ジョンソン政権時代に国防次官補代理(1966-1969年)、ニクソン政権時代に国家安全保障会議メンバー(1969年)、そしてクリントン政権時代には大統領特別顧問、国家安全保障会議メンバー、国務省政策企画本部長(1998-2001年)などを歴任。

モートン・ハルペリン氏記者会見 2014年05月09日 15:00 〜 16:30 10階ホール動画


モートン・ハルペリン氏記者会見 2014年05月09日 15:00 〜 16:30 10階ホール
日本弁護士連合会が主催する秘密保護法に関するシンポジムなどに出席のため来日した、米外交・安全保障の専門家・ハルペリン氏が会見した。日本との安保・外交交渉に携わった経験から、最もレベルの高い核兵器関連情報についても米国は日本側に伝えてきている。新たな秘密法ができなければ、そのような情報が日本に入ってこないとの日本政府の説明は説得力がないとした。司会:杉田弘毅、日本記者クラブ企画委員(共同通信)。通訳:西村好美(サイマル・インターナショナル)。


モートン・ハルペリン記者会見 質疑応答(修正版)

冒頭あいさつ・司会者紹介

それではお待たせいたしました。本日は、日本では非常に有名な方でいらっしゃいます、モートン・ハルペリン氏をお迎えしております。

ハルペリン氏は1960年代からアメリカの対日、あるいはアジア安全保障政策に深く関わってこられ、政府の要職も何度も務められています。特に沖縄返還交渉に関わられ、京都産業大学の若泉敬氏とともに、交渉の最前線で活躍されたことで知られています。

今回の来日は、昨年成立した特定秘密保護法に関する様々なシンポジウムや講演会に出席し、ご意見を述べられるという機会に合わせてのものです。ただ、ここは日本記者クラブですので、特定秘密保護法のテーマだけでなく、広く日米安保が現在抱えている問題や、沖縄返還交渉の話なども含めて幅広くお話を伺えればと思っております。

冒頭にハルペリン氏より簡単なオープニングのお話をいただき、その後私から何点か質問をさせていただき、そのあとフロアからご質問をお受けするという形で進めたいと思います。

なお、私は本日のモデレーター役を務めます、企画委員会・共同通信編集委員の杉田でございます。通訳は西村さんにお願いしております。

それでは、ハルペリンさん、お願いいたします。

ハルペリン氏 冒頭発言

ご紹介ありがとうございます。このような形で記者会見に臨めることを大変嬉しく思っております。私からも、できる限り皆様のどのようなご質問にもお答えできるようにしたいと思います。

まず、冒頭に簡単に申し上げたいと思います。今回の来日の主な目的は特定秘密保護法についてですので、その点に触れさせていただきます。

日本政府はこの法律の必要性について、次のように説明したと私は理解しております。すなわち、「日本側にこのような法律がない限り、米国政府としては日本に対して完全な形での情報開示はできない」ということを、その理由として説明されたと聞いております。

しかしながら、私自身が政府関係者として長年携わってきた経験から申し上げるならば、非常にセンシティブな安全保障情報についても、日米間の協議においてそのような法律が必要とされたことはありません。むしろ、事実はその逆であるというのが私の認識です。

私は国防総省ならびに国家安全保障会議のスタッフとして、1960年代に多くの日本の安全保障に関わる上級幹部の方々との協議に携わってまいりました。

また、ごく最近のことですが、オバマ政権最後の時期に、いわゆる「ペリー・シュレシンジャー委員会」と呼ばれる、核兵器に関わる問題を扱う議会の委員会にも関与しておりました。

この委員会は米国政府に対して提言を行いました。その提言とは、日本が新たな核兵器政策を策定するにあたって、日本政府との協議を強化すべきである、というものです。

私どもがこの提言について、国防総省をはじめとするアメリカ側の様々な政府機関の幹部と話し合いを持った際、その中で「日本側が十分な秘密保護法を持っていないため、そうした提言は実施できない」と言った人は誰もいませんでした。

オバマ政権下で行われた核態勢の見直し(Nuclear Posture Review)に関わった政府関係者からは、日本側と非常に詳細かつ集中的な協議が行われたと聞いております。

日本での法制化プロセスについて

次に、日本でこの秘密保護法制がどのようなプロセスを経て成立したかについて触れたいと思います。

秘密保護法というのは、いわば民主主義社会の仕組みの根幹に関わるものです。情報を公開した際の刑事罰といった側面も含めて、民主主義社会の仕組みそのものに関わる問題であるため、慎重に、そして熟議を重ねた上で制定すべきものです。

私は、政府がこうした法制化を検討する際には、政府内だけでなく、国会および国民とも協議をしなければならないと考えます。

また、日本をはじめとする多くの国々は自由権規約の締約国でもありますので、その点も踏まえて広く協議をしておくべきだったと思います。

さらに、政府には世界中の民主主義国家がこうした問題にどう対処してきたか、そのベストプラクティスを参照する義務もあると思います。

加えて「ツワネ原則」というものがあります。これはどの国の政府に対しても法的義務として課されるものではありませんが、民主主義国家がこの原則を遵守できない場合には、その理由をきちんと説明する責任があるという考え方が広く行き渡っています。

例を挙げますと、ドイツ政府も最近、秘密保護法を制定しましたが、それまでに2、3年をかけて公開の場で議論を重ね、市民社会、野党、そして世界中の専門家とも協議を重ねました。最終的に採択された法律は完璧とは言えませんが、当初考えられていたものよりもずっと良いものになったと思います。つまり、取るべき適切な手続きを踏んで法制化を進めたということです。ところが、日本はそうした手続きを踏みませんでした。

以上で、皆様からのご質問をお受けしたいと思います。

質疑応答

杉田氏: まず、ご自身のご経験に基づいてですが、日本政府との交渉の中で、日本にこうした法律がないことによって情報を開示できなかった、というような経験はなかったとおっしゃいました。もう一度確認させてください。つまり、ご自身の日本政府との交渉の中で、特定秘密保護法のような法律がないことについて、アメリカ政府が懸念を持つことはなかった、という趣旨でよろしいでしょうか。

一方で、今回の法案が提案された際の日本政府の説明では、アメリカや他の同盟国との安全保障に関する機密情報について、日本にはこうした法律がないために情報を受け取れていない、あるいは情報交換の機会を持てていない、という説明がなされています。日本政府のこの説明について、ハルペリンさんはどのようにお考えでしょうか。日本政府の説明には正当性がないとお考えでしょうか。

ハルペリン氏: 疑いなく、一部のアメリカ政府関係者や他国の政府関係者から、日本政府に対して「このような秘密保護法を持つべきだ」と言われたことはあったと思います。アメリカ政府内にもそう主張する人はいます。

しかし、事実として、これまでの長年にわたる日米間の協議の中で、そうした法律がなかったために情報が共有されなかった、情報交換ができなかった、ということはありませんでした。これが私の申し上げたかったことです。

日本政府についても、たとえば核兵器政策ほどセンシティブな政策はないと思いますが、そうした重要な政策に関してさえ、アメリカ政府は日本政府との間で長年にわたり全面的かつ率直な意見交換・情報交換を行ってきました。

しかも、今回の日本の特定秘密保護法を見ますと、アメリカのほとんどの同盟国が持つ同様の秘密保護法と比べて、内容がかなり厳しいものになっている点を指摘したいと思います。たとえばNATO諸国の秘密保護法を見ても、報道をしたことを理由に記者が刑事罰の対象になる例はあまり見られません。公務員に対する罰則も、1、2年程度にとどまり、10年といった厳しい罰則にはなっていません。しかも、そうした情報が報道された場合には公益の抗弁が認められる形になっています。内部告発者を保護する法律も制定されています。

そういう意味で、日本の特定秘密保護法は非常に厳しい内容になっていると言えます。しかも、これまでのところ、日本にこうした保護法がなかったために情報が開示されなかった、という例を私は知りません。フランスやドイツ、ベルギーなど、他のヨーロッパ諸国やアメリカの同盟国と同じレベルの法律がなかったとしても、それらの国々と同じレベルの協議をしてこなかったということは一切なかったはずです。

私が関わってきたこれまでの経験に照らすならば、証拠はむしろその逆を示しています。しかも、日本には今回新設された特定秘密保護法の前から、既に秘密保護に関する法律が存在していました。今回の法律はその点を補うものとされていますが、それまでの法律が機能していなかったわけではありません。むしろ、今回新たに作られた法律は、他の同盟国と比べてさらに厳しいものになってしまっている、というのが問題だと思います。

質問者: ハルペリンさんのご発言の中に「政府が持つ情報はその国の市民のものである」というものがあります。安全保障など特別な目的での秘匿は可能だが、その範囲は非常に狭く、精密に限定をかけるべきだ、というご意見にも納得できます。そこで具体的にお伺いしたいのですが、たとえばハルペリンさんが関わられた沖縄返還交渉における「有事の際の核の持ち込み」についての秘密合意がありました。これは当時の状況において、安全保障上の特別な目的として秘匿されるべき情報だったとお考えでしょうか。それとも、当時からこうした秘密合意も全てオープンにしておくべきだったとお考えでしょうか。

ハルペリン氏: 非常に良い質問です。情報を秘匿する際にはその目的をきちんと明記しなければならない、という要件に関わってくると思います。これはアメリカの機密保護法ではきちんと規定されている要件ですが、日本の特定秘密保護法にはそうした規定がありません。

当時、アメリカ政府としては抑止のため、核兵器がどこに保有されているかという情報を秘密にしなければならないという立場を取っていました。しかし私自身としては、そうした懸念よりも、国民が核兵器がどこに配備されているかを知る権利の方が重要だと考えます。

日本政府はアメリカに対し、沖縄から核兵器を確実に撤去することを強く求めましたが、それを再び沖縄に持ち込む、あるいは戻すという取り決めについては、国民に対して一切明らかにしませんでした。

日本政府としては、アメリカ政府に対し公の場で「沖縄から核兵器は完全に撤去する」ときちんと言ってほしかったのだと思いますが、アメリカ政府はそれを望みませんでした。そして、再び核兵器が沖縄に戻される可能性について、日本の国民に対して一切知らせなかったことは、間違いだったと私は思います。日本の国民がもしそれを知れば絶対に支持しないだろうと考えたからこそ、日本政府は言わなかったのだと思いますが、これは潜在的な敵に情報を開示する場合とは全く異なる話であり、やはり自国民に知らせなかったことは間違っていたと思います。

続いて、秘密にすべき情報の範囲を狭くすべきだという点についてコメントしたいと思います。この「狭い範囲」という考え方は、2つの異なる文脈から見る必要があります。第一に、どのような情報をいつ機密扱いにするかという点。第二に、許可を得ずに情報を開示した場合にどのような刑事罰を科すかという点です。

秘密扱いにすべき情報のカテゴリーの範囲は、刑事罰の対象となる情報のカテゴリーよりも広くすることができます。ところが、日本の法律の問題点の一つは、この両者を全く同じカテゴリーにしてしまっていることです。

杉田氏: もう一つお伺いしたいのですが、「拡大抑止」についてです。沖縄への有事の核持ち込みも、この拡大抑止の一環と考えられると思います。現在の東アジア・北東アジアの状況を踏まえて、拡大抑止は地域の安定の基礎になっているとお考えでしょうか。それとも、拡大抑止という考え方自体が、現在のアジアにおいてはあまり妥当性を持たないとお考えでしょうか。

ハルペリン氏: 今や大きな「秘密」になってしまっているようですが、沖縄に存在していた核兵器は、拡大抑止のためのものではありませんでした。

実際に核が持ち込まれたのは1950年代、アイゼンハワー政権の時代です。当時のアメリカの軍事政策では、どのような紛争であっても、2、3日以上続いた場合には核兵器を使用しうる、という計画を持っていました。

しかし、実際に核兵器が沖縄から撤去された時点では、その作戦上の意味合いは既になくなっていました。私が推測するに、アメリカ政府は日本政府に対して、沖縄に再び核兵器を戻すことについて許可を求める必要はないと考えていたのだと思います。というのも、わざわざ沖縄に核兵器を戻して有事の際に使用するといった計画は、実際には存在しなかったからです。

冷戦時代、アメリカは前線に核兵器を配備することを、通常兵器および核兵器による攻撃への抑止として位置づけていました。当時、韓国やヨーロッパにおいても、アメリカ・NATOとソ連が対峙していた国境線沿いに核兵器が配備されていたことが分かっています。しかし、アメリカ政府は核兵器の前方展開が拡大抑止に役立つとは考えていませんでした。実際、クリントン政権第一期において、すべての核兵器はアジアから撤去されました。ヨーロッパに残された核兵器も数が少なく、前線への配備ではありませんでした。

集団的自衛権について

杉田氏: 次は少し話題を変えて、日本が抱えている安全保障政策についての質問です。ハルペリンさんは日本の外交・安保政策をフォローしてこられたと思いますが、現在、安倍政権が進めている集団的自衛権の行使に関する動きを、どのようにご覧になっていますか。歓迎すべきものとお考えでしょうか、それとも批判的なお考えをお持ちでしょうか。

ハルペリン氏: この問題は、どのような文脈でこれが提案されているかによって評価が変わってくると思います。

現時点で見ますと、日本政府は他にも様々な動きを見せており、それがアメリカやアジア全体において大きな懸念や不安感を呼んでいます。すなわち、日本の外交政策全体の方向性に関する不安感です。

他の政策面で変化がない限り、集団的自衛権に関するこうした主張も、大きな危険をはらんでいると見られてしまうと思います。日本の過去の姿勢が再び頭をもたげようとしているのではないか、という懸念の目で見られてしまう可能性があるということです。

もし日本政府が、疑いの余地なく世界の他の国々と同様に、第一次・第二次世界大戦前後の戦争犯罪、人道に対する罪について責任を認めるならば、これは今申し上げたような懸念を払拭する重要な一歩となると思います。

また、日本政府がこの構想を、現行憲法の改正ではなく再解釈によるものだと明確に打ち出せば、これもその一助になると思います。さらに、安全保障政策の見直しにあたり、日本が核兵器を開発することは含まれない、ということを明言することも重要だと思います。

その文脈で言うならば、集団的自衛権が必要かつ有用かどうかについて、完全かつオープンな議論を行うことが適切ではないかと思います。

長年にわたり、アメリカ国内では日米安保条約について「一方的な条約だ」との不満がありました。アメリカは日本を守る義務があるが、日本はアメリカを守る義務がないではないか、という感触です。ですから、その視点から見れば、日本政府が取ろうとしている措置は、我々としても歓迎すべきものと言えます。しかし、他の要素が絡んでくると、それが悲惨な結果を招きかねないという点には注意が必要です。

杉田氏: 最後に、ハルペリンさんが政府にいらした1960年代や、クリントン政権時代と比べて、アジアで大きく変わった状況として、中国の軍事力の大幅な拡大があります。この中国の軍事的拡大に対して、日本やアメリカはどのような対策が可能なのでしょうか。

ハルペリン氏: 集団的自衛権の議論は、中国だけでなく北朝鮮という要素も含めて考える必要があると思います。この状況に対しては、日米が協力して対処することが重要です。その中には、中国と協力する方法を見出すこと、中国との新たな関係を構築する方法を見出すことも含まれます。日米、あるいは他のアジア諸国との新たな関係づくりも重要です。

また、他の国々の協力も得て、力による現状変更の試みには断固として抵抗する、という姿勢を中国に明確に示すことも大事だと思います。その一つの重要な一歩として、日本と韓国の間の関係改善が挙げられるのではないでしょうか。

フロアからの質疑応答

稲(日本経済新聞): 秘密保護法についてのハルペリンさんのご意見には同意するのですが、関連するかどうか分からない点として、1971年のニクソン・ショックについてお伺いします。当時の説明では、日本の秘密保護体制に対する不信があった、という話を読んだことがあります。当時、その近くにいらしたハルペリンさんから見て、彼らは本当に日本の秘密保護体制を信頼していなかったのでしょうか。その記憶をたどっていただければと思います。

ハルペリン氏: そうではなかったと思います。キッシンジャーもこの点について質問されたことがあり、「外国政府を信頼していないわけではない。ただ、その国の議会に伝わってしまうことを懸念していた」という趣旨の答えをしていました。

一部には、キッシンジャーがアメリカ国民に様々なことを知らせたくないという動機があったのではないかとも思われます。もし日本政府に事前に知らせれば、日本の国会に伝わり、そこから公になってしまうことを恐れたのではないか、と私は推察します。

というのも、アメリカ政府の当時のトップの人間は、過去の経緯や歴史的事実についてあまり把握していないという問題があったからです。実は、アメリカ政府は日本政府に対して「中国に接近する政策を取る際には必ず事前に知らせる」という約束をしていました。むしろ日本に先にそうした機会を与える、という取り決めがあったのです。ニクソンとキッシンジャーの周辺の多くの人はこの約束を知っていたはずですが、この件については二人だけで決定し、実行に移してしまったため、その約束の存在を知らなかったのではないかと思います。ですから、彼らは日本にあれほどのショックを与えるとは考えていなかったに違いありません。

倉(毎日新聞): 先ほどの集団的自衛権に関するお話の中で、戦争責任を明確にし続けること、核武装しないという宣言、という2つの具体例を挙げられました。今の安倍政権にはそれが欠けているというご認識かと思いますが、具体的にどの点が欠落しているとお考えですか。慰安婦問題なのか、靖国参拝なのか、具体的にお聞かせください。また、日本が将来的に核武装するとアメリカ国内で見られているのでしょうか。

もう一点よろしいでしょうか。ニクソン・キッシンジャーの名前が出ましたので伺いますが、日本の田中角栄元首相がロッキード事件で失脚した背景には、「アメリカのエネルギー政策に逆らったから切られた」という説がまことしやかに語られていますが、ハルペリンさんから見て、そこに真実味はあるのでしょうか。

ハルペリン氏: 2つ目の質問(田中角栄氏の件)については、全く分かりません。

1つ目の質問についてお答えします。おっしゃった両方の要素が関わってくると思いますが、これは文脈の中で見る必要があります。現政権は、世界の他の国々から見て、日本の戦争犯罪、人道に対する罪について十分な責任を取ろうとしていないと見られています。そうした文脈で見ると、大きな懸念を覚えざるを得ないということになってしまいます。ですから、より大局的な政策全体という観点から見られるべきであり、日本にとっても世界にとっても最悪の事態とならないよう、日本の立場が正しく理解されるような形で、集団的自衛権の議論も進められるべきだと思います。日本の姿勢が世界の目から見て今とは異なると受け止められれば、集団的自衛権に関する主張もより受け入れられやすくなるはずです。

核兵器については、アメリカの多くのアナリストは、日本が核兵器を保有することはないだろうという見方をしています。しかし一部には、もし日本の外交政策が「我々はもはや偉大な国家なのだから核を持っても当然ではないか」という方向に振れる可能性も否定できない、という懸念も残っています。日本政府がこうした懸念を払拭するためには、たとえば北東アジア非核兵器地帯構想への加盟や、NPTの関連議定書・条約への加盟などを通じて、核開発の道を放棄すると明言することが考えられます。

藤川(東京新聞): 以前、アメリカの情報機関関係者に取材した際、「秘密保護法ができれば、北朝鮮の核についてより具体的な情報を提供できる」と言われたことがあります。秘密保護法によって、情報機関同士がより密接に連携できるようになる、という側面はないのでしょうか。

ハルペリン氏: そうした情報は既に頻繁に交換されていると思いますので、そのご指摘は当たらないと思います。秘密保護法がなかったからといって、そうした情報交換ができなかったということはなかったはずです。

ただし、核兵器の作戦情報など特定のカテゴリーの情報については、秘密保護法の有無とは関係なく、核兵器に関する情報交換について日米間の合意・協定が別途必要になります。これまでのところ、日本側がそうした合意を結ぶための交渉に消極的だったという経緯があり、これは秘密保護法の有無とは関係のない話です。もし日米間でそうした技術的情報の交換を望むのであれば、まずその点についての合意を両国間で結ぶ必要があります。それ以外の情報、たとえば北朝鮮の核弾頭数といった情報については、これまでも交換されてきたと思います。

池田(沖縄関連): 沖縄は今月15日で本土復帰から42年目を迎えますが、米軍基地負担がなかなか減らない現状の中、県民の8割が辺野古への新基地建設に反対しています。日米両政府はボーリング調査などを進めていますが、県民の意見に応えられない現状の中で、新基地建設が戦略的に本当に必要なのか、この点をお伺いしたいと思います。また、アメリカ政府も新基地建設に同意して進めていますが、それには日本側の応分の負担という側面もあるのではないかと考えますが、いかがでしょうか。

ハルペリン氏: 戦略的に絶対に必要な基地というのは、まずないと私は考えています。どの国の軍に聞いても、「この基地は絶対に必要か」と聞けば必ず「イエス」と答えます。しかし、そのような聞き方をしてはいけません。聞くべき質問は、「その基地から実際にどのような軍事機能が発揮されているのか」「その基地がなくなった場合、その機能は全く行使できなくなるのか、それとも他の場所で代替できるのか」「代替できないとしても、より多くの予算をかければ可能になるのではないか」というものであるべきです。

沖縄返還が実現できたのも、こうした適切な問いかけによって問題提起ができたからだと考えています。他に移すことで、その場所でしか果たせない軍事機能が完全に失われるということは、基本的にありえません。もちろん移行に1、2年程度の期間や、コスト増が必要になる場合もあるでしょうが、「この基地でしかこの機能は果たせない」ということはまずないはずです。沖縄についても、海兵隊基地が絶対に沖縄になければならない、ということはないと思います。

そもそも、なぜ沖縄にそのような基地が置かれるようになったのかを考える必要があります。私が最初にこの問題に関わったのは1966年、国防総省でのことでした。当時、海軍の担当者に「実際にアメリカは沖縄にどのような軍事基地を置いているのか」と尋ねたところ、「何もない」という答えが返ってきました。驚いて聞き返すと、「沖縄に軍事基地があるのではない。沖縄そのものが軍事基地なのだ」と言われたのです。つまり、アメリカ海軍は島全体を基地とみなしていたのです。アメリカは沖縄に基地を置きたいところに自由に置き、沖縄の住民の懸念などは一切考慮されていませんでした。

新基地建設についても、私はこれは間違っていると思います。沖縄の市民自身が望んでいないのですから、その意向を米軍にはっきり伝えるべきです。新基地で想定されている軍事機能についても、周辺の他の基地で代替できないということはまずないはずです。米軍は長年この基地を欲しがってきましたが、これまでそれなしでもやってこられたわけですから、これからもそれでやっていけるはずです。民主主義社会においては、市民の要求と軍事的なニーズとのバランスを取ることが必要だと思います。

尖閣諸島・日米安保条約第5条について

杉田氏: 4月にオバマ大統領が来日した際、日本のメディアで大きく報じられたのは、尖閣諸島が日米安保条約第5条の適用範囲、すなわちアメリカの防衛義務の対象であると大統領が発言し、それが共同文書にも明記されたことです。一方でアメリカ政府は、領有権問題についてはどちらの立場も取らないとの立場を繰り返しています。米中の経済的な結びつきの深さを考えると、この第5条適用発言は「レッドライン」とまでは言えないのではないか、という指摘もあります。この点について、どこまで信じてよいものでしょうか。

ハルペリン氏: 信頼できると思いますし、オバマ大統領も真摯にその発言をされたのだと思います。アメリカ政府の基本的な立場として、武力による現状変更は一切認められないというのが根本にあります。ただし、領有権の問題自体についてはどちらの側にも立たず、当事者間でオープンに解決してほしいという立場も事実だと思います。

アメリカは安全保障上の約束を非常に真摯に受け止めています。日本に対する日米安保条約上のコミットメントも議会で批准されていますので、これは必ず守られると思います。ただし、それは同盟関係を持たない国に対する対応とは全く異なるものです。

小林(個人会員): 昨年6月の米中首脳会談についてお伺いします。本来、同盟国に対しては、あれだけ2日間・8時間以上の会談を行ったのであれば、その内容について何らかの説明があってしかるべきだと思いますが、それが全くありませんでした。安倍首相が何度も面会を申し込んでも「忙しい」との理由で断られ続け、会えても30分程度でした。これは同盟国としての扱いではなく、日本の一部から「中国が新たなアメリカの同盟国になったのではないか」という批判の声さえ出ています。この点についてどうお考えでしょうか。また、その際に話題になった「新型大国関係」とは具体的に何を意味するのか、アメリカから明確な説明がありません。この点も併せてお伺いします。

ハルペリン氏: 私はアメリカ政府のその立場を擁護するつもりはありません。そのやり方は間違っていたと思います。確かに米中間には相互に強い関心を持ち合う関係が生まれてきていますが、中国のこれだけの台頭に対する懸念がある以上、日本をはじめとする同盟国にきちんと説明すべきだったと思います。

私自身、政権を離れた今、よく「日本は米中関係をどう見ているか」と聞かれます。私はこう答えています。日本が米中関係について不満や怒りを覚えるのは2つのケースがある、と。第一に、アメリカが中国に近づきすぎた時。第二に、アメリカが中国に対して冷淡すぎる時です。つまり日本は、米中間の対立に巻き込まれたくない一方で、蚊帳の外に置かれるのも望まない、という、ある種の「分裂症」的な立場に置かれているのです。アメリカにとって日本は扱いにくい相手だと思います。これはニクソン・ショックの頃から続く問題であり、アメリカの対日ハンドリングは長年にわたってまずかったと思っています。

小田川(朝日新聞?): 最後の質問です。今、日本の国民・市民の間で大きな怒りが渦巻いているのは、安倍政権が集団的自衛権を解釈変更によって容認しようとしていること、そしてもう一つが特定秘密保護法の問題です。日本の国民がアメリカに対して不満を感じている点として、「アメリカが日本の集団的自衛権の行使を歓迎・支持する」という姿勢があります。日本はかつてアジアへ侵略し、日本人だけでも300万人以上、アジア全体では1000万人ともいわれる犠牲を払った国です。それにもかかわらず、再びアメリカと共に戦争への道を進むのではないか、という不安を多くの市民が抱いています。それを支持するアメリカに対して、もやもやとした怒りを感じているのが現状です。この現状について、ハルペリンさんはどのようにお考えでしょうか。

ハルペリン氏: 私も先ほど申し上げた通り、今おっしゃられた懸念には全く共感いたします。日本政府が今打ち出そうとしている集団的自衛権に関する政策、そしてそれがどこへ導かれるのかという点について、私自身も強い懸念を持っています。

先ほど申し上げたように、アメリカが日本に何かを求める際には、日本国内の政治事情を考慮する必要があるのと同様に、アメリカの政策を理解する際にも、アメリカ国内の政治状況を踏まえる必要があります。実は多くのアメリカ人、その中には議員も含まれますが、日米安保条約について「アメリカは日本を守る義務があるのに、日本はアメリカを守る義務がない」という不公平感を持つ人々が存在します。アメリカは日本以外にそうした片務的な安保条約を結んでいる国はありません。

そうした文脈で言えば、どの大統領であっても、「日本が条約のもとでより対等な責任を担う一歩を踏み出すことを歓迎する」という以外の反応は難しいと思います。だからといって、アメリカ政府が本音でそれを望んでいるかどうかは別問題ですし、その歓迎の表明がどのような問題をはらんでいるかを全く認識していないわけでもありません。

皆様のご清聴に感謝するとともに、大変興味深いご質問をいただいたことに御礼申し上げます。

閉会

杉田氏: ありがとうございました。本日は1時間半を超える中で、特定秘密保護法に始まり、日米間の歴史的な出来事、さらに現在の集団的自衛権の問題まで、非常に長いタイムスパンにわたる深いお話を、日米安全保障関係の生き証人であるハルペリンさんから伺うことができ、大変勉強になりました。

それでは最後に、記者クラブから記念品のネクタイをお贈りしたいと思います。皆さん、拍手をお願いいたします。


(本記録は音声書き起こしを基に、文脈から明らかな誤字・誤変換・重複・言い淀みを整理し、読みやすく修正したものです。断片的な英語部分は、通訳の発言が音声認識により正しく処理されなかったものと判断し、文脈に沿った日本語表現に整えています。人名・固有名詞・数値等は文脈から推定して補っており、正確性の確認が必要な場合は原資料をご参照ください。)


モートン・ハルペリン記者会見の問答 モートン・ハルペリン氏記者会見 2014年05月09日 15:00 〜 16:30 10階ホール

モートン・ハルペリン記者会見の問答 モートン・ハルペリン氏記者会見 2014年05月09日 15:00 〜 16:30 10階ホール

モートン・ハルペリン記者会見の問答

## 冒頭あいさつ・司会者紹介

それではお待たせいたしました。本日は、日本では非常に有名な方でいらっしゃいます、モートン・ハルペリン氏をお迎えしております。

ハルペリン氏は1960年代からアメリカの対日、あるいはアジア安全保障政策に深く関わってこられ、政府の要職も何度も務められています。特に沖縄返還交渉に関わられ、京都産業大学の若泉敬氏とともに、交渉の最前線で活躍されたことで知られています。

今回の来日は、昨年成立した特定秘密保護法に関する様々なシンポジウムや講演会に出席し、ご意見を述べられるという機会に合わせてのものです。ただ、ここは日本記者クラブですので、特定秘密保護法のテーマだけでなく、広く日米安保が現在抱えている問題や、沖縄返還交渉の話なども含めて幅広くお話を伺えればと思っております。

冒頭にハルペリン氏より簡単なオープニングのお話をいただき、その後私から何点か質問をさせていただき、そのあとフロアからご質問をお受けするという形で進めたいと思います。

なお、私は本日のモデレーター役を務めます、企画委員会・共同通信編集委員の杉田でございます。通訳は西村さんにお願いしております。

それでは、ハルペリンさん、お願いいたします。

## ハルペリン氏 冒頭発言

ご紹介ありがとうございます。このような形で記者会見に臨めることを大変嬉しく思っております。私からも、できる限り皆様のどのようなご質問にもお答えできるようにしたいと思います。

まず、冒頭に簡単に申し上げたいと思います。今回の来日の主な目的は特定秘密保護法についてですので、その点に触れさせていただきます。

日本政府はこの法律の必要性について、次のように説明したと私は理解しております。すなわち、「日本側にこのような法律がない限り、米国政府としては日本に対して完全な形での情報開示はできない」ということを、その理由として説明されたと聞いております。

しかしながら、私自身が政府関係者として長年携わってきた経験から申し上げるならば、非常にセンシティブな安全保障情報についても、日米間の協議においてそのような法律が必要とされたことはありません。むしろ、事実はその逆であるというのが私の認識です。

私は国防総省ならびに国家安全保障会議のスタッフとして、1960年代に多くの日本の安全保障に関わる上級幹部の方々との協議に携わってまいりました。

また、ごく最近のことですが、オバマ政権最後の時期に、いわゆる「ペリー・シュレシンジャー委員会」と呼ばれる、核兵器に関わる問題を扱う議会の委員会にも関与しておりました。

この委員会は米国政府に対して提言を行いました。その提言とは、日本が新たな核兵器政策を策定するにあたって、日本政府との協議を強化すべきである、というものです。

私どもがこの提言について、国防総省をはじめとするアメリカ側の様々な政府機関の幹部と話し合いを持った際、その中で「日本側が十分な秘密保護法を持っていないため、そうした提言は実施できない」と言った人は誰もいませんでした。

オバマ政権下で行われた核態勢の見直し(Nuclear Posture Review)に関わった政府関係者からは、日本側と非常に詳細かつ集中的な協議が行われたと聞いております。

## 日本での法制化プロセスについて

次に、日本でこの秘密保護法制がどのようなプロセスを経て成立したかについて触れたいと思います。

秘密保護法というのは、いわば民主主義社会の仕組みの根幹に関わるものです。情報を公開した際の刑事罰といった側面も含めて、民主主義社会の仕組みそのものに関わる問題であるため、慎重に、そして熟議を重ねた上で制定すべきものです。

私は、政府がこうした法制化を検討する際には、政府内だけでなく、国会および国民とも協議をしなければならないと考えます。

また、日本をはじめとする多くの国々は自由権規約の締約国でもありますので、その点も踏まえて広く協議をしておくべきだったと思います。

さらに、政府には世界中の民主主義国家がこうした問題にどう対処してきたか、そのベストプラクティスを参照する義務もあると思います。

加えて「ツワネ原則」というものがあります。これはどの国の政府に対しても法的義務として課されるものではありませんが、民主主義国家がこの原則を遵守できない場合には、その理由をきちんと説明する責任があるという考え方が広く行き渡っています。

例を挙げますと、ドイツ政府も最近、秘密保護法を制定しましたが、それまでに2、3年をかけて公開の場で議論を重ね、市民社会、野党、そして世界中の専門家とも協議を重ねました。最終的に採択された法律は完璧とは言えませんが、当初考えられていたものよりもずっと良いものになったと思います。つまり、取るべき適切な手続きを踏んで法制化を進めたということです。ところが、日本はそうした手続きを踏みませんでした。

以上で、皆様からのご質問をお受けしたいと思います。

## 質疑応答

**杉田氏**: まず、ご自身のご経験に基づいてですが、日本政府との交渉の中で、日本にこうした法律がないことによって情報を開示できなかった、というような経験はなかったとおっしゃいました。もう一度確認させてください。つまり、ご自身の日本政府との交渉の中で、特定秘密保護法のような法律がないことについて、アメリカ政府が懸念を持つことはなかった、という趣旨でよろしいでしょうか。

一方で、今回の法案が提案された際の日本政府の説明では、アメリカや他の同盟国との安全保障に関する機密情報について、日本にはこうした法律がないために情報を受け取れていない、あるいは情報交換の機会を持てていない、という説明がなされています。日本政府のこの説明について、ハルペリンさんはどのようにお考えでしょうか。日本政府の説明には正当性がないとお考えでしょうか。

**ハルペリン氏**: 疑いなく、一部のアメリカ政府関係者や他国の政府関係者から、日本政府に対して「このような秘密保護法を持つべきだ」と言われたことはあったと思います。アメリカ政府内にもそう主張する人はいます。

しかし、事実として、これまでの長年にわたる日米間の協議の中で、そうした法律がなかったために情報が共有されなかった、情報交換ができなかった、ということはありませんでした。これが私の申し上げたかったことです。

日本政府についても、たとえば核兵器政策ほどセンシティブな政策はないと思いますが、そうした重要な政策に関してさえ、アメリカ政府は日本政府との間で長年にわたり全面的かつ率直な意見交換・情報交換を行ってきました。

しかも、今回の日本の特定秘密保護法を見ますと、アメリカのほとんどの同盟国が持つ同様の秘密保護法と比べて、内容がかなり厳しいものになっている点を指摘したいと思います。たとえばNATO諸国の秘密保護法を見ても、報道をしたことを理由に記者が刑事罰の対象になる例はあまり見られません。公務員に対する罰則も、1、2年程度にとどまり、10年といった厳しい罰則にはなっていません。しかも、そうした情報が報道された場合には公益の抗弁が認められる形になっています。内部告発者を保護する法律も制定されています。

そういう意味で、日本の特定秘密保護法は非常に厳しい内容になっていると言えます。しかも、これまでのところ、日本にこうした保護法がなかったために情報が開示されなかった、という例を私は知りません。フランスやドイツ、ベルギーなど、他のヨーロッパ諸国やアメリカの同盟国と同じレベルの法律がなかったとしても、それらの国々と同じレベルの協議をしてこなかったということは一切なかったはずです。

私が関わってきたこれまでの経験に照らすならば、証拠はむしろその逆を示しています。しかも、日本には今回新設された特定秘密保護法の前から、既に秘密保護に関する法律が存在していました。今回の法律はその点を補うものとされていますが、それまでの法律が機能していなかったわけではありません。むしろ、今回新たに作られた法律は、他の同盟国と比べてさらに厳しいものになってしまっている、というのが問題だと思います。

**質問者**: ハルペリンさんのご発言の中に「政府が持つ情報はその国の市民のものである」というものがあります。安全保障など特別な目的での秘匿は可能だが、その範囲は非常に狭く、精密に限定をかけるべきだ、というご意見にも納得できます。そこで具体的にお伺いしたいのですが、たとえばハルペリンさんが関わられた沖縄返還交渉における「有事の際の核の持ち込み」についての秘密合意がありました。これは当時の状況において、安全保障上の特別な目的として秘匿されるべき情報だったとお考えでしょうか。それとも、当時からこうした秘密合意も全てオープンにしておくべきだったとお考えでしょうか。

**ハルペリン氏**: 非常に良い質問です。情報を秘匿する際にはその目的をきちんと明記しなければならない、という要件に関わってくると思います。これはアメリカの機密保護法ではきちんと規定されている要件ですが、日本の特定秘密保護法にはそうした規定がありません。

当時、アメリカ政府としては抑止のため、核兵器がどこに保有されているかという情報を秘密にしなければならないという立場を取っていました。しかし私自身としては、そうした懸念よりも、国民が核兵器がどこに配備されているかを知る権利の方が重要だと考えます。

日本政府はアメリカに対し、沖縄から核兵器を確実に撤去することを強く求めましたが、それを再び沖縄に持ち込む、あるいは戻すという取り決めについては、国民に対して一切明らかにしませんでした。

日本政府としては、アメリカ政府に対し公の場で「沖縄から核兵器は完全に撤去する」ときちんと言ってほしかったのだと思いますが、アメリカ政府はそれを望みませんでした。そして、再び核兵器が沖縄に戻される可能性について、日本の国民に対して一切知らせなかったことは、間違いだったと私は思います。日本の国民がもしそれを知れば絶対に支持しないだろうと考えたからこそ、日本政府は言わなかったのだと思いますが、これは潜在的な敵に情報を開示する場合とは全く異なる話であり、やはり自国民に知らせなかったことは間違っていたと思います。

続いて、秘密にすべき情報の範囲を狭くすべきだという点についてコメントしたいと思います。この「狭い範囲」という考え方は、2つの異なる文脈から見る必要があります。第一に、どのような情報をいつ機密扱いにするかという点。第二に、許可を得ずに情報を開示した場合にどのような刑事罰を科すかという点です。

秘密扱いにすべき情報のカテゴリーの範囲は、刑事罰の対象となる情報のカテゴリーよりも広くすることができます。ところが、日本の法律の問題点の一つは、この両者を全く同じカテゴリーにしてしまっていることです。

**杉田氏**: もう一つお伺いしたいのですが、「拡大抑止」についてです。沖縄への有事の核持ち込みも、この拡大抑止の一環と考えられると思います。現在の東アジア・北東アジアの状況を踏まえて、拡大抑止は地域の安定の基礎になっているとお考えでしょうか。それとも、拡大抑止という考え方自体が、現在のアジアにおいてはあまり妥当性を持たないとお考えでしょうか。

**ハルペリン氏**: 今や大きな「秘密」になってしまっているようですが、沖縄に存在していた核兵器は、拡大抑止のためのものではありませんでした。

実際に核が持ち込まれたのは1950年代、アイゼンハワー政権の時代です。当時のアメリカの軍事政策では、どのような紛争であっても、2、3日以上続いた場合には核兵器を使用しうる、という計画を持っていました。

しかし、実際に核兵器が沖縄から撤去された時点では、その作戦上の意味合いは既になくなっていました。私が推測するに、アメリカ政府は日本政府に対して、沖縄に再び核兵器を戻すことについて許可を求める必要はないと考えていたのだと思います。というのも、わざわざ沖縄に核兵器を戻して有事の際に使用するといった計画は、実際には存在しなかったからです。

冷戦時代、アメリカは前線に核兵器を配備することを、通常兵器および核兵器による攻撃への抑止として位置づけていました。当時、韓国やヨーロッパにおいても、アメリカ・NATOとソ連が対峙していた国境線沿いに核兵器が配備されていたことが分かっています。しかし、アメリカ政府は核兵器の前方展開が拡大抑止に役立つとは考えていませんでした。実際、クリントン政権第一期において、すべての核兵器はアジアから撤去されました。ヨーロッパに残された核兵器も数が少なく、前線への配備ではありませんでした。

## 集団的自衛権について

**杉田氏**: 次は少し話題を変えて、日本が抱えている安全保障政策についての質問です。ハルペリンさんは日本の外交・安保政策をフォローしてこられたと思いますが、現在、安倍政権が進めている集団的自衛権の行使に関する動きを、どのようにご覧になっていますか。歓迎すべきものとお考えでしょうか、それとも批判的なお考えをお持ちでしょうか。

**ハルペリン氏**: この問題は、どのような文脈でこれが提案されているかによって評価が変わってくると思います。

現時点で見ますと、日本政府は他にも様々な動きを見せており、それがアメリカやアジア全体において大きな懸念や不安感を呼んでいます。すなわち、日本の外交政策全体の方向性に関する不安感です。

他の政策面で変化がない限り、集団的自衛権に関するこうした主張も、大きな危険をはらんでいると見られてしまうと思います。日本の過去の姿勢が再び頭をもたげようとしているのではないか、という懸念の目で見られてしまう可能性があるということです。

もし日本政府が、疑いの余地なく世界の他の国々と同様に、第一次・第二次世界大戦前後の戦争犯罪、人道に対する罪について責任を認めるならば、これは今申し上げたような懸念を払拭する重要な一歩となると思います。

また、日本政府がこの構想を、現行憲法の改正ではなく再解釈によるものだと明確に打ち出せば、これもその一助になると思います。さらに、安全保障政策の見直しにあたり、日本が核兵器を開発することは含まれない、ということを明言することも重要だと思います。

その文脈で言うならば、集団的自衛権が必要かつ有用かどうかについて、完全かつオープンな議論を行うことが適切ではないかと思います。

長年にわたり、アメリカ国内では日米安保条約について「一方的な条約だ」との不満がありました。アメリカは日本を守る義務があるが、日本はアメリカを守る義務がないではないか、という感触です。ですから、その視点から見れば、日本政府が取ろうとしている措置は、我々としても歓迎すべきものと言えます。しかし、他の要素が絡んでくると、それが悲惨な結果を招きかねないという点には注意が必要です。

**杉田氏**: 最後に、ハルペリンさんが政府にいらした1960年代や、クリントン政権時代と比べて、アジアで大きく変わった状況として、中国の軍事力の大幅な拡大があります。この中国の軍事的拡大に対して、日本やアメリカはどのような対策が可能なのでしょうか。

**ハルペリン氏**: 集団的自衛権の議論は、中国だけでなく北朝鮮という要素も含めて考える必要があると思います。この状況に対しては、日米が協力して対処することが重要です。その中には、中国と協力する方法を見出すこと、中国との新たな関係を構築する方法を見出すことも含まれます。日米、あるいは他のアジア諸国との新たな関係づくりも重要です。

また、他の国々の協力も得て、力による現状変更の試みには断固として抵抗する、という姿勢を中国に明確に示すことも大事だと思います。その一つの重要な一歩として、日本と韓国の間の関係改善が挙げられるのではないでしょうか。

## フロアからの質疑応答

**稲(日本経済新聞)**: 秘密保護法についてのハルペリンさんのご意見には同意するのですが、関連するかどうか分からない点として、1971年のニクソン・ショックについてお伺いします。当時の説明では、日本の秘密保護体制に対する不信があった、という話を読んだことがあります。当時、その近くにいらしたハルペリンさんから見て、彼らは本当に日本の秘密保護体制を信頼していなかったのでしょうか。その記憶をたどっていただければと思います。

**ハルペリン氏**: そうではなかったと思います。キッシンジャーもこの点について質問されたことがあり、「外国政府を信頼していないわけではない。ただ、その国の議会に伝わってしまうことを懸念していた」という趣旨の答えをしていました。

一部には、キッシンジャーがアメリカ国民に様々なことを知らせたくないという動機があったのではないかとも思われます。もし日本政府に事前に知らせれば、日本の国会に伝わり、そこから公になってしまうことを恐れたのではないか、と私は推察します。

というのも、アメリカ政府の当時のトップの人間は、過去の経緯や歴史的事実についてあまり把握していないという問題があったからです。実は、アメリカ政府は日本政府に対して「中国に接近する政策を取る際には必ず事前に知らせる」という約束をしていました。むしろ日本に先にそうした機会を与える、という取り決めがあったのです。ニクソンとキッシンジャーの周辺の多くの人はこの約束を知っていたはずですが、この件については二人だけで決定し、実行に移してしまったため、その約束の存在を知らなかったのではないかと思います。ですから、彼らは日本にあれほどのショックを与えるとは考えていなかったに違いありません。

**倉(毎日新聞)**: 先ほどの集団的自衛権に関するお話の中で、戦争責任を明確にし続けること、核武装しないという宣言、という2つの具体例を挙げられました。今の安倍政権にはそれが欠けているというご認識かと思いますが、具体的にどの点が欠落しているとお考えですか。慰安婦問題なのか、靖国参拝なのか、具体的にお聞かせください。また、日本が将来的に核武装するとアメリカ国内で見られているのでしょうか。

もう一点よろしいでしょうか。ニクソン・キッシンジャーの名前が出ましたので伺いますが、日本の田中角栄元首相がロッキード事件で失脚した背景には、「アメリカのエネルギー政策に逆らったから切られた」という説がまことしやかに語られていますが、ハルペリンさんから見て、そこに真実味はあるのでしょうか。

**ハルペリン氏**: 2つ目の質問(田中角栄氏の件)については、全く分かりません。

1つ目の質問についてお答えします。おっしゃった両方の要素が関わってくると思いますが、これは文脈の中で見る必要があります。現政権は、世界の他の国々から見て、日本の戦争犯罪、人道に対する罪について十分な責任を取ろうとしていないと見られています。そうした文脈で見ると、大きな懸念を覚えざるを得ないということになってしまいます。ですから、より大局的な政策全体という観点から見られるべきであり、日本にとっても世界にとっても最悪の事態とならないよう、日本の立場が正しく理解されるような形で、集団的自衛権の議論も進められるべきだと思います。日本の姿勢が世界の目から見て今とは異なると受け止められれば、集団的自衛権に関する主張もより受け入れられやすくなるはずです。

核兵器については、アメリカの多くのアナリストは、日本が核兵器を保有することはないだろうという見方をしています。しかし一部には、もし日本の外交政策が「我々はもはや偉大な国家なのだから核を持っても当然ではないか」という方向に振れる可能性も否定できない、という懸念も残っています。日本政府がこうした懸念を払拭するためには、たとえば北東アジア非核兵器地帯構想への加盟や、NPTの関連議定書・条約への加盟などを通じて、核開発の道を放棄すると明言することが考えられます。

**藤川(東京新聞)**: 以前、アメリカの情報機関関係者に取材した際、「秘密保護法ができれば、北朝鮮の核についてより具体的な情報を提供できる」と言われたことがあります。秘密保護法によって、情報機関同士がより密接に連携できるようになる、という側面はないのでしょうか。

**ハルペリン氏**: そうした情報は既に頻繁に交換されていると思いますので、そのご指摘は当たらないと思います。秘密保護法がなかったからといって、そうした情報交換ができなかったということはなかったはずです。

ただし、核兵器の作戦情報など特定のカテゴリーの情報については、秘密保護法の有無とは関係なく、核兵器に関する情報交換について日米間の合意・協定が別途必要になります。これまでのところ、日本側がそうした合意を結ぶための交渉に消極的だったという経緯があり、これは秘密保護法の有無とは関係のない話です。もし日米間でそうした技術的情報の交換を望むのであれば、まずその点についての合意を両国間で結ぶ必要があります。それ以外の情報、たとえば北朝鮮の核弾頭数といった情報については、これまでも交換されてきたと思います。

**池田(沖縄関連)**: 沖縄は今月15日で本土復帰から42年目を迎えますが、米軍基地負担がなかなか減らない現状の中、県民の8割が辺野古への新基地建設に反対しています。日米両政府はボーリング調査などを進めていますが、県民の意見に応えられない現状の中で、新基地建設が戦略的に本当に必要なのか、この点をお伺いしたいと思います。また、アメリカ政府も新基地建設に同意して進めていますが、それには日本側の応分の負担という側面もあるのではないかと考えますが、いかがでしょうか。

**ハルペリン氏**: 戦略的に絶対に必要な基地というのは、まずないと私は考えています。どの国の軍に聞いても、「この基地は絶対に必要か」と聞けば必ず「イエス」と答えます。しかし、そのような聞き方をしてはいけません。聞くべき質問は、「その基地から実際にどのような軍事機能が発揮されているのか」「その基地がなくなった場合、その機能は全く行使できなくなるのか、それとも他の場所で代替できるのか」「代替できないとしても、より多くの予算をかければ可能になるのではないか」というものであるべきです。

沖縄返還が実現できたのも、こうした適切な問いかけによって問題提起ができたからだと考えています。他に移すことで、その場所でしか果たせない軍事機能が完全に失われるということは、基本的にありえません。もちろん移行に1、2年程度の期間や、コスト増が必要になる場合もあるでしょうが、「この基地でしかこの機能は果たせない」ということはまずないはずです。沖縄についても、海兵隊基地が絶対に沖縄になければならない、ということはないと思います。

そもそも、なぜ沖縄にそのような基地が置かれるようになったのかを考える必要があります。私が最初にこの問題に関わったのは1966年、国防総省でのことでした。当時、海軍の担当者に「実際にアメリカは沖縄にどのような軍事基地を置いているのか」と尋ねたところ、「何もない」という答えが返ってきました。驚いて聞き返すと、「沖縄に軍事基地があるのではない。沖縄そのものが軍事基地なのだ」と言われたのです。つまり、アメリカ海軍は島全体を基地とみなしていたのです。アメリカは沖縄に基地を置きたいところに自由に置き、沖縄の住民の懸念などは一切考慮されていませんでした。

新基地建設についても、私はこれは間違っていると思います。沖縄の市民自身が望んでいないのですから、その意向を米軍にはっきり伝えるべきです。新基地で想定されている軍事機能についても、周辺の他の基地で代替できないということはまずないはずです。米軍は長年この基地を欲しがってきましたが、これまでそれなしでもやってこられたわけですから、これからもそれでやっていけるはずです。民主主義社会においては、市民の要求と軍事的なニーズとのバランスを取ることが必要だと思います。

## 尖閣諸島・日米安保条約第5条について

**杉田氏**: 4月にオバマ大統領が来日した際、日本のメディアで大きく報じられたのは、尖閣諸島が日米安保条約第5条の適用範囲、すなわちアメリカの防衛義務の対象であると大統領が発言し、それが共同文書にも明記されたことです。一方でアメリカ政府は、領有権問題についてはどちらの立場も取らないとの立場を繰り返しています。米中の経済的な結びつきの深さを考えると、この第5条適用発言は「レッドライン」とまでは言えないのではないか、という指摘もあります。この点について、どこまで信じてよいものでしょうか。

**ハルペリン氏**: 信頼できると思いますし、オバマ大統領も真摯にその発言をされたのだと思います。アメリカ政府の基本的な立場として、武力による現状変更は一切認められないというのが根本にあります。ただし、領有権の問題自体についてはどちらの側にも立たず、当事者間でオープンに解決してほしいという立場も事実だと思います。

アメリカは安全保障上の約束を非常に真摯に受け止めています。日本に対する日米安保条約上のコミットメントも議会で批准されていますので、これは必ず守られると思います。ただし、それは同盟関係を持たない国に対する対応とは全く異なるものです。

**小林(個人会員)**: 昨年6月の米中首脳会談についてお伺いします。本来、同盟国に対しては、あれだけ2日間・8時間以上の会談を行ったのであれば、その内容について何らかの説明があってしかるべきだと思いますが、それが全くありませんでした。安倍首相が何度も面会を申し込んでも「忙しい」との理由で断られ続け、会えても30分程度でした。これは同盟国としての扱いではなく、日本の一部から「中国が新たなアメリカの同盟国になったのではないか」という批判の声さえ出ています。この点についてどうお考えでしょうか。また、その際に話題になった「新型大国関係」とは具体的に何を意味するのか、アメリカから明確な説明がありません。この点も併せてお伺いします。

**ハルペリン氏**: 私はアメリカ政府のその立場を擁護するつもりはありません。そのやり方は間違っていたと思います。確かに米中間には相互に強い関心を持ち合う関係が生まれてきていますが、中国のこれだけの台頭に対する懸念がある以上、日本をはじめとする同盟国にきちんと説明すべきだったと思います。

私自身、政権を離れた今、よく「日本は米中関係をどう見ているか」と聞かれます。私はこう答えています。日本が米中関係について不満や怒りを覚えるのは2つのケースがある、と。第一に、アメリカが中国に近づきすぎた時。第二に、アメリカが中国に対して冷淡すぎる時です。つまり日本は、米中間の対立に巻き込まれたくない一方で、蚊帳の外に置かれるのも望まない、という、ある種の「分裂症」的な立場に置かれているのです。アメリカにとって日本は扱いにくい相手だと思います。これはニクソン・ショックの頃から続く問題であり、アメリカの対日ハンドリングは長年にわたってまずかったと思っています。

**小田川(朝日新聞?)**: 最後の質問です。今、日本の国民・市民の間で大きな怒りが渦巻いているのは、安倍政権が集団的自衛権を解釈変更によって容認しようとしていること、そしてもう一つが特定秘密保護法の問題です。日本の国民がアメリカに対して不満を感じている点として、「アメリカが日本の集団的自衛権の行使を歓迎・支持する」という姿勢があります。日本はかつてアジアへ侵略し、日本人だけでも300万人以上、アジア全体では1000万人ともいわれる犠牲を払った国です。それにもかかわらず、再びアメリカと共に戦争への道を進むのではないか、という不安を多くの市民が抱いています。それを支持するアメリカに対して、もやもやとした怒りを感じているのが現状です。この現状について、ハルペリンさんはどのようにお考えでしょうか。

**ハルペリン氏**: 私も先ほど申し上げた通り、今おっしゃられた懸念には全く共感いたします。日本政府が今打ち出そうとしている集団的自衛権に関する政策、そしてそれがどこへ導かれるのかという点について、私自身も強い懸念を持っています。

先ほど申し上げたように、アメリカが日本に何かを求める際には、日本国内の政治事情を考慮する必要があるのと同様に、アメリカの政策を理解する際にも、アメリカ国内の政治状況を踏まえる必要があります。実は多くのアメリカ人、その中には議員も含まれますが、日米安保条約について「アメリカは日本を守る義務があるのに、日本はアメリカを守る義務がない」という不公平感を持つ人々が存在します。アメリカは日本以外にそうした片務的な安保条約を結んでいる国はありません。

そうした文脈で言えば、どの大統領であっても、「日本が条約のもとでより対等な責任を担う一歩を踏み出すことを歓迎する」という以外の反応は難しいと思います。だからといって、アメリカ政府が本音でそれを望んでいるかどうかは別問題ですし、その歓迎の表明がどのような問題をはらんでいるかを全く認識していないわけでもありません。

皆様のご清聴に感謝するとともに、大変興味深いご質問をいただいたことに御礼申し上げます。

## 閉会

**杉田氏**: ありがとうございました。本日は1時間半を超える中で、特定秘密保護法に始まり、日米間の歴史的な出来事、さらに現在の集団的自衛権の問題まで、非常に長いタイムスパンにわたる深いお話を、日米安全保障関係の生き証人であるハルペリンさんから伺うことができ、大変勉強になりました。

それでは最後に、記者クラブから記念品のネクタイをお贈りしたいと思います。皆さん、拍手をお願いいたします。

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*(本記録は音声書き起こしを基に、文脈から明らかな誤字・誤変換・重複・言い淀みを整理し、読みやすく修正したものです。断片的な英語部分は、通訳の発言が音声認識により正しく処理されなかったものと判断し、文脈に沿った日本語表現に整えています。人名・固有名詞・数値等は文脈から推定して補っており、正確性の確認が必要な場合は原資料をご参照ください。)*


第1次、第2次、第3次台湾海峡危機

第1次、第2次、第3次台湾海峡危機(文章は計量計測データバンク編集部)

 第1次および第2次台湾海峡危機は、1954年から1958年にかけて中国(中華人民共和国)と台湾(中華民国)、そしてアメリカ合衆国を巻き込んで発生した一連の軍事衝突です。

 第一次台湾海峡危機(1954年〜1955年)時期: 1954年9月〜1955年5月主な出来事: 中国軍が中国本土沖にある金門島や一江山島などを砲撃・攻撃し、中華民国軍(国民党)と戦闘になりました。背景と結果:アメリカが台湾(中華民国)と「米華相互防衛条約」を締結して台湾防衛の姿勢を明確にしたことで、戦線が拡大するのを防ぎ、停戦に至りました。

 第二次台湾海峡危機(1958年)時期:1958年8月23日〜10月5日(金門砲戦)主な出来事: 中国の人民解放軍が、台湾が実効支配する金門島と馬祖列島に対して突如として大規模な砲撃を開始しました。背景と結果:台湾側も反撃し、アメリカ軍が護衛や補給支援を行いました。全面戦争は回避されたものの、その後も隔日での砲撃戦が長期にわたって続けられました。

 第三次台湾海峡危機は、1995年7月から1996年3月にかけて、台湾周辺海域で中国がミサイル実験や軍事演習を行い、米中間の緊張が高まった軍事的危機です。

 危機の背景と引き金李登輝総統の訪米:1995年6月、台湾の李登輝総統が母校の米コーネル大学で講演し、「民有、民治、民享(人民の、人民による、人民のための政治)」という言葉を用いて台湾の民主化の成果をアピールしました。中国の反発:「一つの中国」原則に反し、台湾独立の動きを助長するものとみなした中国(中華人民共和国)は激しく反発しました。

 危機の経過ミサイル発射と軍事演習:中国人民解放軍は1995年7月と1996年3月の2回にわたり、台湾北部(基隆沖)や南部(高雄沖)の海域に向けて弾道ミサイルを発射し、大規模な上陸演習などの威嚇行為を行いました。

 台湾初の総統直接選挙:1996年3月に行われた台湾初の総統直接選挙(李登輝氏が当選)の直前まで、軍事的圧力が続けられました。

 アメリカの軍事介入:事態を重大視したアメリカのクリントン政権は、1996年3月に空母「ニミッツ」や「インディペンデンス」を中心とする空母機動部隊を台湾周辺海域へ急派し、中国を牽制しました。その後、衝突には至らず緊張は収束しました。

 その後の影響中国の軍事戦略の変化:当時の中国は米軍の圧倒的な海空・空母戦力の前になす術がなく、この屈辱的な経験が、将来の米軍介入を阻止するための「A2/AD(接近阻止・領域拒否)」能力や弾道ミサイル戦力の本格的な強化へ向かわせる大きな契機となりました。

 台湾アイデンティティの形成:中国の威嚇にもかかわらず台湾で民主的な選挙が遂行されたことで、台湾住民の民主主義体制への意識や独自のアイデンティティが強まる結果となりました。

 当時の日本政府や周辺国の対応近年の台湾海峡情勢(第4次危機以降)との比較

├ハルペリン文書とその概要

ハルペリン文書とその概要(文章は計量計測データバンク編集部)

ハルペリン文書

 ハルペリン文書とは、1958年の第2次台湾海峡危機において、アメリカ軍が中国本土への戦術核兵器の使用を具体的に検討していた実態を記した最高機密報告書です。

 ハルペリン文書の概要作成者: 政治学者モートン・ハルペリン(Morton H. Halperin)博士。

背景:1960代半ば(1966年)にランド研究所が1958年の危機についてまとめた約600ページの報告書で、のちにダニエル・エルズバーグ氏によって外部に共有されました。

内容:1958年8月に始まった中国軍による金門島などの砲撃に対し、アイゼンハワー政権や米軍高官らが中国本土への核攻撃を真剣に検討し、軍が核使用へと傾斜していったプロセスが克明に記録されています。当時、米軍の攻撃によってソ連が参戦し、沖縄や台湾への核報復を行う危険性も想定されていました。

 キューバ危機(1962年)よりも前に、人類が初めて核戦争の危機材に直面していた歴史的事実を示す文書として注目され、2026年8月にはNHKスペシャル『知られざる核危機 ハルペリン文書の警告』でも取り上げられました。

ハルペリン文書の概要

ハルペリン文書とは、米国の政治学者モートン・H・ハルペリンが1966年に国防総省の依頼でまとめた、1958年の第2次台湾海峡危機(金門砲戦)における米国の意思決定や軍事行動に関する機密調査報告書です。

ハルペリン文書の具体的な内容

核攻撃の検討:中国軍による金門島・馬祖島への砲撃に対し、米軍幹部は戦局を転換させるため中国本土への核先制攻撃を真剣に検討しました。

段階的な核使用計画:初期段階ではアモイ地域への10〜15キロトンの小型核爆弾の使用を想定し、それでも中国が引かない場合は上海に至る中国奥部への拡大を統合参謀本部は主張しました。

沖縄への被害容認:米軍指導部の一部は、中国やソ連からの反撃によって沖縄などの米軍基地が核攻撃を受けるリスクも事実上容認する意向でした。

文民統制と大統領の歯止め:アイゼンハワーは軍への指令書に「核使用の際は実行前に改めて大統領の判断を仰ぐ」制限を加え、軍の独走や自動的な核エスカレーションにブレーキをかけました。

中国側の砲撃停止:1958年10月に中国が砲撃中止の方針を示したことで軍事衝突が緩和され、結果として米国が核の引き金を引くことは回避されました。

計量計測データバンク ニュースの窓-429-モートン・ハルペリン氏 記者会見 文字起こし(モートン・ハルペリン氏記者会見 2014年05月09日 15:00 〜 16:30 10階ホール)


冷戦初期における米国の対中核威嚇について —「通常兵器化」の試みと不使用規範の相克 梅原季哉 https://www.peace.hiroshima-cu.ac.jp/wp/wp-content/uploads/2022/06/HPRJ9_49.pdf

冷戦初期における米国の対中核威嚇について —「通常兵器化」の試みと不使用規範の相克 梅原季哉
広島市立大学大学院平和学研究科博士後期課程


(2)核の「通常兵器化」を企図

 1950年代初頭の東アジアでもう一つの火薬庫は台湾海峡だった。中国で、毛沢東が率いる共産党との内戦を続けていた蒋介石の国民党は49年に敗走し台湾へ退いた。翌50年6月に朝鮮戦争が勃発した直後、トルーマン米政権は第7艦隊を台湾海峡に派遣した。共産党と国民党が海峡を挟んで対峙する中、力による現状変更を認めない姿勢を明確にすることで、朝鮮半島の戦火が台湾海峡へと飛び火する事態を防ぐ目的だった。第7艦隊は、米国の台湾防衛へのコミットメント(確約)を象徴しつつ、その裏面では、成功の見込みがない大陸反攻に動きかねない蒋介石を牽制する存在でもあった。アイゼンハワー政権になり、53年6月に朝鮮戦争停戦が成立し、再び台湾海峡をめぐる緊張激化が懸念された。

 こうした国際情勢を背景に、アイゼンハワー政権には、冷戦全般に臨む基本姿勢として、前政権が曖昧なまま放置した核兵器の位置づけを明確に盛り込んだ国家安全保障戦略を打ち出す動機があった。特にアジアの個別紛争に関連した文脈では、広まりつつあった核の不使用規範に封じられて核威嚇のツールを外交的切り札として使えなくなる状況は避けたいという思惑もあった。

 53年10月末、政策文書NSC162/2が大統領の認可を受けて策定された。対ソ連抑止力としての戦略核による大量報復能力の開発と維持を強調し、同時に共産主義勢力による個別の侵略事案に対応して「紛争が生じた場合は、米国は核兵器がほかの弾薬類と同様に使用に供されうるものと考える」と明記する内容だった。

 続いてダレス国務長官が54年1月、外交評議会での演説で大量報復ドクトリン(軍事行動指針)を発表する。この戦略は事実上、初の核兵器運用の宣言政策として打ち出されたが、どんな小さな挑発に対しても相手国を滅亡させるような大量の核報復で応じるという考え方だと受け止められ、非倫理的だとの批判をすぐに浴びた。

 そこでダレスは軌道修正し、攻撃を受ければ必ず報復するが、対称性に縛られると究極的に全面戦争で応じる以外に選択肢がない状況に追い込まれてしまうので、主導権を手中に取り戻すため、報復の水準については柔軟性が重要なのだと強調するようになった。

 このように政治的なツールとしての威嚇の信憑性を維持するため、ダレスらアイゼンハワー政権高官が使用姿勢を誇示し繰り広げた集中的な広報宣伝活動を、タネンワルドは「通常兵器化キャンペーン」と形容している。そこには核不使用規範による倫理的制限を取り払おうとの目的意識がうかがえる。

 例えば、国務省は1953年4月22日付のNSC 宛ての政策メモで、一般大衆にとっての核兵器の「倫理的スティグマ(汚名)」を減少させようとする活動全般に言及し、核兵器を「我々の軍備のより平常かつ包括的な一部」と化し、その特殊性を減じることができれば、使用に関する米軍の「行動の自由」は増大すると主張した。すでに核兵器は非倫理的だとの批判をそれだけ意識していた反映といえよう。

(3)防衛へ戦術核使用「弾丸と同様に」

 台湾海峡危機で具体的な焦点となったのは、中国本土から目と鼻の先でありながら国民党が実効支配を続け、共産党政権にとって喉に刺さった小骨のような存在となっていた金門・媽祖両島だった。蒋介石は金門媽祖に国民党軍の精鋭を重点配備し、大陸反攻の可能性をうかがう姿勢を保っていた。

 これに対し54年夏、対岸の人民解放軍が両島への砲撃を開始し、武力紛争状態に入った。同年9月12日のNSC 会合では、アイゼンハワーは「我々は戦争の話をしているのだ」と強調し、もし共産中国を攻撃しなければならないなら朝鮮戦争のように事前に軍事介入の限界を定めることには反対する、と述べた。ダレスは、金門から国民党が撤退することになれば朝鮮半島、日本、台湾、フィリピンでも惨憺たる事態を招くことになるが、中国との戦争は国内外から戦うに値しないと批判を浴びるだろうし、米国はひどいディレンマに直面していると述べた。

 軍事的にはほとんど価値のない小島でも、対共産圏のドミノ理論が適用され、ひとたび失えば悲惨な波及効果を招きかねないからこそ、防衛のコミットメント供与が求められているとの受け止めだった。

 その一方、蒋介石の挑発行動によって対中戦争、ひいてはソ連も加わった全面戦争に巻き込まれるリスクも軽視できず、板挟みになる米国という構図があった。政権内で核威嚇の効果への期待感がいっそう高まったのは、このディレンマの認識ゆえだっただろう。

 急速に金門媽祖が東アジアにおける冷戦の最前線と位置づけられ、改めて台湾防衛の意思表明が必要となる中で、法的な保障を確実にする意味合いから、米華相互防衛条約(55年2月に批准承認)に加えて、広範な武力行使権限を大統領に付与する「台湾決議」が議会で可決される。

 だが、決議に基づく交戦権限が及ぶ地理的な対象範囲に関しては、台湾と澎湖列島以外は「現在、友好勢力の手中にある関係する地点や領域」と、なお曖昧さを残していた。蒋介石は米国の説得で、金門媽祖よりさらに北方の中国本土沿岸部に近い離島である大陳諸島からは国民党軍を撤退させた。単独でみれば防衛対象を縮小するかのようにもとれる動きだったが、一方で金門媽祖からは国民党軍は全く動こうとしなかった。

 2月末にダレスは東アジアを歴訪し、米国が軍事的コミットメントを固めた後も共産党には挑発を止める兆候はなく、むしろ台湾侵攻の意図を強めているとの判断に至った。

 3月6日、ワシントンに帰任したダレスはアイゼンハワーと会談して金門媽祖の防衛意図を再確認し、「原子ミサイル」使用が必要になるだろうとの見方に同意を得た。「通常兵器と不可分な原子兵器」使用の意思を翌日のラジオ演説で発信すると良い、との助言まで得ている。

 アイゼンハワー自身が3月16日の記者会見で、戦術核の使用について問われ、厳密な軍事目標を対象にする限り「弾丸やほかの兵器を使うのと同様に使ってはならない理由はない」と発言し、戦術核使用の意図を明確にした。

 4月になると、太平洋軍司令官が、中国の侵攻にはワシントンでの素早い決定に基づく対応が必要となり、作戦の成否は原子兵器の即時使用ができるかどうかにかかっている、と海軍作戦部長へ打電するなど、緊張はさらに高まった。

 しかし、最悪の事態は来なかった。インドネシア・バンドンで開かれたアジア・アフリカ会議に中国政府を代表して出席した周恩来首相が4月23日、「米国との戦争は望んでいない」旨を言明したため、事態は一転、急速に収束へ向かった。

(4)ポーズか使用覚悟か

 アイゼンハワー政権は第1次台湾海峡危機で、実際に核兵器を使用する決意を固めていたのか、それとも圧力をかけるための巧みなポーズに過ぎなかったのか。

 先行研究の評価はやはり分かれる。

 冷戦史研究の権威であるジョン・ルイス・ギャディスは、アイゼンハワー政権は危機を通じて核使用に踏み切るだけの用意があったし、その威嚇なしには人民解放軍は攻撃の手を緩めなかっただろう、とみる。

 一方、アイゼンハワー政権のアジアでの核威嚇と核のタブー生成過程を分析したリチャード・ハナニアは、55年3月の段階で核使用を準備していたというよりは、将来に備えて戦術核をオプションとして持ち続けられる状況を国内向けに作ろうとしていたのだし、ほかの選択肢が尽きる前に核使用を決定したとは考えにくい、との見解を示している。

 ここでも真相を確定するのは困難である。だが、いずれにせよアイゼンハワー政権は核威嚇を、共産主義陣営を抑止し、あるいは政策変更を強要するため、意図のコミュニケーション手段として有用だとみていた。その威嚇に説得力を持たせるために核使用への傾斜を強めた面もあろう。

 国際社会や米国民の間ですでに芽生えていた「核のタブー」意識に基づき不使用規範が強まれば、使用の威嚇は根拠をなくしかねないため、その状況を打破しようと「通常兵器化」に力を注いだのである。では、米国側の威嚇は狙い通りに効果を上げられたのか。その答えを得るには、第1 次台湾海峡危機から3 年を経て再発した次の危機を考察する必要がある。

1.第2次台湾海峡危機での核戦争リスク

(1)中国の侵攻意図の有無

 いわゆる第2次台湾海峡危機は1958年8月23日、人民解放軍が金門への砲撃を再開して始まり、今度こそ台湾侵攻の「序曲」ではないかとみたアイゼンハワー政権は即応して米軍による高度な警戒態勢を敷いたが、10月6日に毛沢東が砲撃の1週間停止を発表して沈静化した、とされる。

 第1次危機と比べると短期集中的で、米国によるむき出しの核威嚇は鳴りを潜め、核オプションに関する公の場での議論も直截さを欠いた。

 一方、ソ連はすでに関係がきしんでいた中国に対し、対米戦争につながりかねない「冒険主義」を危ぶみ、表向きの中国支持姿勢も時間を置いて表明するなど熱を欠いたことを挙げ、その背景としてやはり米国の核威嚇が効果を上げた可能性がある、との分析が冷戦期からあった。

 こうした伝統的解釈に対し、タネンワルドは、両危機の間、1957年には米英の代表的な反核団体が発足するなど、米国内外の世論が核使用への抵抗感を強めたことや、米政府内でも例えば国務省などから核使用への異論が広がったことに注意を向ける。

 やはり「核のタブー」を研究対象としたハナニアは、第2 次危機の下での方がタブーの存在ゆえに核使用の可能性は低くなっていたと論じた。

 一方、最新の研究としては、グレゴリー・カラーキーが2020年、中国の内部文書なども合わせた史料研究に基づいて提示した新たな知見が注目に値する。カラーキーは、先行研究の枠組みでは第1次、第2次と分けられてきた台湾海峡危機は、これまで「狭間」と位置づけられていた、紛争が落ち着いていた時期の米中交渉過程も含めて一体の危機とみるべきだと指摘した。

 その上で、中国には台湾はおろか、金門媽祖へ直接侵攻する意図は当初から存在せず、軍事的圧力と外交の組み合わせで、国民党軍が両島から撤退するよう、米国に蒋介石を説得させるのが目的だったと論じた。

 カラーキーは、米国の核威嚇には中国を畏怖させる効果はなく、①中国の態度変更につながらなかった②米国の目標達成の助けにもならなかった③中国による攻撃的行動への抑止効果はなかった④米国の同盟国への安心供与にもならなかった、つまり非生産的でしかなかった、と結論づけた。

 強制外交のツールとしての核兵器の有用性に関する重要な指摘といえよう。

(2)機密レポートの全文公開

 2021年春、別の角度から第2 次台湾海峡危機における米国の核威嚇に光を当てる史料の詳細が明るみに出た。ニューヨーク・タイムズが同年5月22日、米政府と密接な関係を持つシンクタンクであるランド研究所によって1966年に国防総省の委託を受けて作成された機密分析レポート「1958年台湾海峡危機:史料に基づく歴史」全文619頁を入手し、第2 次台湾海峡危機での核戦争リスクは「公に知られているより大きかった」と報じた。

 すでに一部は機密解除され研究者には存在が知られていたファイルだったが、その全文を公開したのは米政府ではなく、ベトナム戦争での米国の関与が泥沼化する過程を記した国防総省の機密文書「ペンタゴン・ペーパーズ」を内部告発者として流出させたダニエル・エルズバーグだった。やはり内部告発の意図から同時期に写しを取っていたものの、これまでは公の場に出さなかったのだという。

 レポートの筆者は政治学者のモートン・ハルペリンだった。

 当時ランド研究所のコンサルタントも務めており、後にクリントン政権の国務省政策企画局長などを歴任した人物である。機密指定がかかった軍の詳細な指令書など内部文書へのアクセスや関係者のインタビューも実施して調査にあたっており、報道目的で表に出す性質のものではなく、政府内での政策冷戦初期における米国の対中核威嚇について——「通常兵器化」の試みと不使用規範の相克評価のために、危機からまだそれほど年月を経ていない段階で記されたこともあり、迫真のディテールに満ちている。

 エルズバーグが所有していた文書コピーは、外交安保政策の情報公開請求や機密解除文書の分析を行っている民間研究機関ナショナル・セキュリティー・アーカイブがネット上で公開した。

 このレポート(以下、ハルペリン文書と記す)から浮かび上がってくるのは、ワシントンの国防総省に詰めていた米軍高級将官の多くが、大統領が示す核攻撃への留保にもかかわらず、中国に金門媽祖を侵攻されたら通常兵器では防衛不可能だと主張し、戦術核使用へと傾斜する姿勢を強めていた政府内政治の一断面である。

 例えば、砲撃開始前に中国人民解放軍の動向を察知して危機管理モードにあった58年8 月14日のNSC 会合では、制服組のトップである統合参謀本部議長のトワイニング空軍大将による以下のような発言が記されている。

 トワイニングは、中共が空域封鎖作戦に出てきた場合、その成功を阻止するためには米国は核兵器を使わざるを得ないだろう、という点を明確にした。彼の説明では、米軍は10~15ktの低出力核兵器を使って厦門地域の2、3の飛行場を攻撃することから始める。この時点で望むらくは中共が攻撃を中止してほしいものだが、そうでない場合は、米国としては、中国本土に深く入って北は上海まで核攻撃を実施する以外に選択肢はなくなる、とトワイニングは言明した。これは議長の推察では、ほぼ確実に台湾に対して、また可能性としては沖縄に対しても核報復を招くのではないかとみられる。しかし彼は、金門媽祖を防衛するのが国家としての政策であるなら、その帰結は受け入れられなければならないと強調した。

 この日のNSC会合について、米国外交文書史料集(Foreign Relations of the United States: FRUS)に収録され公開されている記録では、トワイニングが台湾情勢について統合参謀本部の見解を述べた箇所はあるが、核兵器への言及はまったくない。

 この箇所には2 行分について機密指定未解除との編注がつけられており、その非開示部分が核兵器への言及とみられるが、ハルペリン文書の描写から感じられる前のめりの姿勢はおそらく含まれていないだろう。

 台湾海峡危機に際してのアイゼンハワー政権の政策決定に関して、ハルペリン文書が描く詳細は、構造的にみればまったく未知というものではない。しかし、意思決定の過程での関係者の言動に込められたニュアンスを白日の下にさらしたことで、中国側がもし挑発的な行動をさらに進めたり、米国側がその意図を誤認したりした場合には、アイゼンハワー政権は米軍の核使用へ突き進んだ可能性があることを浮き彫りにした点にこそ、史料的価値があるといえる。

(3)アイゼンハワーの真意は

 ハルペリン文書は、第2次台湾海峡危機では米国が核使用に踏み切るリスクはこれまで知られていたより高かったことを示唆する。だが、最高指揮官であるアイゼンハワー自身の判断がどうだったのかはそれでも判断しにくい。この期間、第1次危機での「弾丸を使うのと同様に」発言に類するあからさまな威嚇は、アイゼンハワーは発していない。このため、例えばハナニアは、アイゼンハワーは核使用の評判リスクを懸念するようになり軍高官らと反対の結論に達したため、統合参謀本部の主張にも関わらず、民主主義国としての文民統制は機能した、と評価している。

 カラーキーも、58年8月下旬のホワイトハウスでの台湾関係の複数の会合記録で、米軍の台湾防衛司令部あての指令書の文言に、核使用にあたっては実行前に大統領の判断を改めて仰ぐよう義務づける条項をアイゼンハワーが挿入させたり、「命令を受けた場合の核攻撃」という表現が削除されたりしたことに注目し、アイゼンハワーは金門媽祖の重要性に関して深刻な疑義を呈し、ブレーキをかけた、と解釈している。

 しかし、ハルペリン文書によると、58年危機でワシントンの統合参謀本部から太平洋軍や台湾防衛司令部へ出された訓電では、確かに大統領の意向を受けた形で、作戦の初期段階は通常兵器のみ使用という命令が伝達された一方、必要であれば中国領土内に深く侵入し核兵器を使用する準備もしておくようにと付言されていた。

 さらに、太平洋空軍から麾下各部隊への詳細な命令書には「原爆投下能力に集中せよ」との指令が盛り込まれた。初期段階で通常爆弾使用を準備するよう命じた8月30日付の太平洋軍から太平洋空軍への指令書に付属して、台湾海峡沿岸部以外の中国本土へ作戦を拡大する場合は、核使用を保証する旨が現場部隊の司令官らに伝えられたともいう。

 米軍の運用態勢は大統領の留保に関わらず、すでに核使用を想定した動きが標準的処理と化していた可能性がうかがえる。

 また、9月3日に統合参謀本部が回覧を始めた指令書草案では、人民解放軍が金門媽祖に侵攻し制止されなかった場合の核兵器使用は「不可避」となっていたが、ホワイトハウスで同月6日に正式承認された指令書の文言は、表現は弱められこそしたものの、核使用が「最も可能性が高い」との修正にとどまった。

 これは、アイゼンハワーの意向で核使用オプションが削除されたという、前述したカラーキーの見立てとは相容れない。核使用に懸念を強めていた兆候は確かにあったが、少なくとも、強い指導力を発揮して止めさせた姿は見えてこない。

 反対にハルペリンは、アイゼンハワーは軍に対してあらゆる方法で、もしも中国が金門媽祖に侵攻し、米国による通常兵器での反撃の初期の兆候を受けても作戦を停止しなければ、米軍には核使用の許可が与えられるという印象をにじませていたと指摘し、大統領が最終的にどう意思決定したかはおそらく本人も分かっていなかったであろう、と推察している。

 少なくとも、アイゼンハワーが核の冷戦初期における米国の対中不使用規範を完全に内在化させた形で受容していたと断言することは難しい。

(4)続いた使用前提の運用態勢と助言

 台湾海峡危機の後も、米軍の運用態勢には核の不使用規範は影響せず、アイゼンハワーも戦術核を限定紛争シナリオで使うことへの積極姿勢を維持した結果、1958年からの2 年間で米軍が保有する戦術核は6000発から3倍の18000発に膨れ上がった。

 エリック・ムリンは、対都市核攻撃の「恐怖の均衡」で相互確証破壊態勢を支える米政府の宣言政策と、実際の戦闘で対兵力打撃を想定した米軍の運用計画は併存してきたと指摘し、その原点をアイゼンハワー政権とする。

 さらにアイゼンハワーは大統領を退任した後、ベトナム戦争や北朝鮮とのプエブロ号事件などに際して、後任に核使用を勧める助言を与えている。

 この事実を指摘した歴史学者のベンジャミン・グリーンは、広島・長崎原爆について自分は投下直後から強く懸念を表明していたのだ、といったアイゼンハワー本人の弁についても、自己都合による記憶の書き換えの色彩が強いと分析している。

 これまで、アイゼンハワーの核兵器観を示す有名なエピソードとしては、1954年4月に仏領インドシナでフランス軍がベトミンの攻勢を受け、拠点ディエンビエンフーが陥落寸前になった際の逸話がある。対仏支援策として米軍から原爆投下を進言されたアイゼンハワーが「君たちは正気か。

 あんな恐ろしいものをアジア人に対して10年以内に2度も使うことはできない」と述べ、退けたとする説である。

 スティーブン・アンブローズが著した1984年刊行のアイゼンハワーの代表的な伝記でこの挿話が紹介され、半ば定説となってきた。

 だが、これについてもグリーンは、公文書の記録やその会合に居合わせた関係者の回想録などと矛盾しており、アンブローズが生前のアイゼンハワーと面会して取材したのは3回、計5時間足らずだったことも合わせて、重大な疑義があると指摘している。

 核兵器についてはおそらくアイゼンハワー自身に揺らぎがあり、台湾海峡危機の時点では、最高司令官として核使用も辞さない覚悟を抱きつつも、その一方で核のタブーがすでに定着しつつあるという障害も認識しており、核を使えば外交的に米国を傷つけかねないという逡巡の念に駆られ、矛盾した思いを内面で並立させていた、と考えるのが妥当ではないだろうか。

 その傍らで、ダレス国務長官は核攻撃による住民への放射能被害リスクを認識しつつ、「放射能被害を出さない」とうたった新しいタイプの戦術核兵器の能力へ強い関心を示し、使用可能性にも言及していた。

 二人とも、タブーを意識した言動をみせていたのは確かだが、単なる威嚇のための外交ツールとしてではなく、実際に核兵器を戦闘で使うことを真剣に考慮したからこそ取った態度だった、とみることも可能であろう。

おわりに:核威嚇の歴史にみる教訓は何か

(1)意図のコミュニケーションの問題

 本稿ではこれまで、1950年代の米国が中国に加えた核威嚇について、当時すでに国際世論の中で形成されつつあった核不使用規範との連関を意識した上で、威嚇に至る経緯や、米国、特にアイゼンハワー政権の高官らが持っていた意図、その効果が見られたのかどうかなどについて概観してきた。そこから導き出しうる結論、及び今後の課題について、以下に記したい。

 朝鮮戦争終盤と2 度にわたる台湾海峡危機での、核兵器を媒介とした米国の中国に対するシグナリング(意図伝達)の過程から浮かび上がる問題の一つとして、核抑止論が前提とする意図のコミュニケーション回路が本来の狙い通りに機能せず、不全を来していた可能性は軽視できない。

 「安全保障の政治的基盤が、国家間に誤解を生じさせない《表明された意図の説得力》にある」との前提に立った時、アイゼンハワー政権が発した核威嚇は、安全保障政策の道具として有効だっただろうか。

 前節で引いたカラーキーが指摘したように、威嚇の誘因となった、中国が金門媽祖への直接侵攻を企てているとの情勢判断そのものが誤認だった可能性があり、それを受けた米国のシグナリングは、前提条件からして確固たる基盤に基づくものではなかった。

 第2 次台湾海峡危機でのアイゼンハワーの核使用についての態度にみられた抑制的な変化を重視するカラーキーは、「米国の核使用の可能性は低いとみた中国側の情勢分析は正確だった」と評価する。

 しかし、ハルペリン文書にみられる米軍の前のめり姿勢を踏まえると、実際には中国側に金門媽祖侵攻の意図が存在しなくとも、現場で何らかの挑発的軍事行動が起き、それを「戦争の霧」のプレッシャーがかかる状況下で、本格的侵攻開始の動きであると米国側が誤認してしまった場合には、米軍が短期間で反射的に核使用に向けて走り始めてしまうリスクがあったことは看過できない。

 あくまで仮定の話であるが、そうした危機の拡大状況が生じたとしても、ノルマンディー上陸作戦を指揮した陸軍大将だったアイゼンハワー本人の洞察力がブレーキとして作用した可能性はあっただろう。

 だがその一方で逆に、軍人たちから「ここで座視すれば共産主義陣営の攻勢は止められない」と訴えられ、結局は同調してしまった可能性も否定できない。要するに、第2次台湾海峡危機では偶発核戦争のリスクは従来考えられてきたよりも大きく存在したのにも関わらず、それが米政府の中でシステムとして管理されていた証左はない。

 ましてや、相手方の中国にはそのリスクが正確に認識されていなかった可能性は相当程度あるといえよう。

(2)多層的なディレンマ

 米国が威嚇を発信する際、台湾決議で定められた防衛コミットメントが及ぶ地理的範囲として、金門媽祖が明記されていなかったことに象徴されるように、常に一定の曖昧さがつきまとった。

 このことは、意図のコミュニケーションをいっそう複雑にした。曖昧さによって敵の計算を複雑にしようという打算が作用したとみられるが、一方では、当時の米華相互防衛条約による米国と中華民国の同盟関係において、米国からみれば無謀な大陸反攻の可能性を諦めようとしない蒋介石に引きずられ、共産中国と再び戦火を交えることになりかねないという「巻き込まれ」の不安も曖昧戦略の背景に見て取れる。

 蒋介石の不安を解消するべく、安心供与策として拡大抑止を確約し戦術核使用へ傾斜すると、今度は同じアジアの同盟国である日本の「巻き込まれ不安」がかき立てられかねなかった。現実に国務省は、対中核使用によって日本が米軍基地供用を断ってくるリスクを心配していた。

 石田敦が指摘したような、冷戦期の東アジアで米国が取った「ハブ・アンド・スポークス」と呼ばれる2 国間同盟の組み合わせの中で生じる「拡大版同盟のディレンマ」の典型といえる。

 対立関係にある国家間で意図のコミュニケーションが成立するためには、「ゲームのルール」といえる法的枠組みなどの大前提が共有されている必要がある。

 ところが1950年代の米中間では、そもそも米国が共産中国との対話を極力回避しようとした。第1次台湾海峡危機の収束後にやっと開始されたジュネーブでの大使級協議では55年末、双方が武力不行使の原則を認めることで交渉が収斂しかけた矢先に、ダレスの指示で、武力行使を認める例外として「個別的または集団的自衛権」を入れるべきだと米国側が主張し始めたことから、中国側が一転して硬化し、不首尾に終わっていたという。

 米中が話し合いの前提となる枠組みすら共有できなかった状況下で、核威嚇の危うさはいっそう先鋭化していた。

 また、米国による核威嚇が中国に核武装の道を促したとみる先行研究は少なくない。

 不安の念を抱いた相手国が、それを解消するために対抗して軍備獲得に動いたという点で、典型的な安全保障のディレンマが生じたのである。

(3)戦術核に使用限度はあるか

 前節までで見てきたように、敵対的な相手国の態度変更をもたらす「強制外交のツール」としての戦術核兵器は、1950年代にやっと技術的可能性が開けたものだった。にもかかわらず、核不使用規範との関係でみると、すでに形成されつつあった核兵器への国際世論や大衆の忌避感の中で、朝鮮戦争や2度の台湾海峡危機では、核使用の威嚇は万全の信頼性を持って作用したという確証は得られず、むしろ時を経ずしてその有用性に疑問が生じる結果になった。

 この文脈では、意図のコミュニケーションをめぐる戦略理論を構築したトーマス・シェリングが、同時代人として台湾海峡危機に極めて強い関心を払っていたこと、及びその過程で戦術核使用の可能性や核戦争のエスカレーション制御の成否を考察し、到達した説は注目に値する。シェリングは、限定戦争と核兵器の関係を論じる中で、当事国が事前の交渉抜きで共有しうる暗黙の了解事項であり「互いに踏み越えてはならない一線」として認められる制約条件、シェリング本人の用語を使えば「フォーカルポイント(収束点)」について分析している。「

 核兵器に関する数量的なフォーカルポイントは0、つまり不使用しか予測できないというのが彼の結論であった。

 言うまでもなく、シェリングはリアリズムの極北ともいうべきゲーム理論に基づいて、冷酷無比とも受け止められるような相互確証破壊(MAD)を柱とする核抑止戦略理論の形成に大きく寄与した。そのシェリングが、一方で核不使用の強い拘束性を認識していた。

 これは、全く立場の異なるタネンワルドのような構成主義者の規範論とも結果的には一致しており、興味深い結論である。

(4)現代国際関係への含意

 本稿が取り扱った、1950年代における戦術核による威嚇を媒介とした米国と中国の関係は、当然ながら現代の米中関係とは全く異なる文脈の中にある。

 何より、その後1964年に核実験を実施し、核保有国となった中国に対しては、別の核保有国が核兵器使用の威嚇を加えようとするなら、直接核で報復されるリスクを考慮に入れなければならなくなった。

 また、冷戦期の共産圏ではソ連のジュニア・パートナー格で、アジア・アフリカ諸国の希望の星であったものの、国内の社会経済はなお混乱の中にあった中国と、世界第2位の経済力で米国を追い越す機会をもうかがう現代中国では、対外的な存在感にも著しい差がある。

 しかし、1950年に両国間で見られたような意図のコミュニケーションの問題、特に曖昧さや非対称性に基づくディレンマは、位相を異にしながらも、米中間の核問題として現在も存在する。まず、一般的な安全保障政策としては、米中国交正常化及び台湾関係法によって、米国が台湾防衛のコミットメントに関して「戦略的曖昧さ」を1979年から掲げてきたことが、意図のコミュニケーションをいっそう難しくしている。さらに、核兵器に関しても意思疎通不全のリスクがある。

 中国は宣言政策として、核の先行(先制)不使用を核保有した時点から掲げ続け、自国の核兵器は核攻撃の抑止と防衛にしか使わない旨を主張するが、そのコミットメントの信頼性には米国側から「検証不能な政治的発表に過ぎない」と疑問が投げかけられる。

 一方、米国は同盟国への拡大核抑止の信頼性を損なうとして先行不使用政策を採用せずにおり、中国内には、それは米国が核を先行使用する意図を抱き続けていることの表れであると、疑心暗鬼になって受け止める声も存在する。

 核兵器に関して、明快な宣言政策と不透明な運用実態を持つ中国と、曖昧な宣言政策を掲げるが運用実態では一定の透明性が確保されている米国という両者の間にみられる非対称性は、核危機が万一生じた際の事態の制御をいっそう困難にしかねない。そうした状況下で、核不使用規範がどのような影響力を及ぼしうるのかは、更なる分析検討を必要とする。

 最後に、日本にとっては、米国から拡大核抑止の供与を受ける同盟国としてのディレンマも看過できない。1950年代に日本の政権が懸念したのは「巻き込まれリスク」だったが、冷戦後の米中対立の文脈では「見捨てられリスク」の方が日本で不安要因として意識されるようになった。

 コロナ禍の影響で、本稿の研究過程では一連の米国による対中核威嚇をめぐる日本政府の一次史料調査は実施できなかったが、今後は日米間のやりとりにも光を当てる必要がある。東アジアを再度の核使用の舞台にしないため、現代の我々が冷戦初期から学ぶべき教訓は決して少なくない。


冷戦初期における米国の対中核威嚇について——「通常兵器化」の試みと不使用規範の相克 49
特集論文
冷戦初期における米国の対中核威嚇について
——「通常兵器化」の試みと不使用規範の相克
梅原 季哉
広島市立大学大学院平和学研究科博士後期課程
はじめに:核兵器と東アジアの特異性
 核兵器に関して、東アジアは幾層もの特異性を帯びた地域である。これまで唯
一、戦時の核兵器使用で被害を受けた広島、長崎がこの地域に属するのは言うま
でもない。さらに今日的な文脈でいえば、核軍備の集中がある。核不拡散条約
(NPT)上の核兵器国である中国とロシアが域内国として存するのに加え、域外核
大国である米国も、日韓それぞれと軍事同盟を結び米軍基地に兵力を前方展開さ
せ、この地域に深く関与する。一方でNPT から脱退を宣言した北朝鮮は独自の核
兵器開発を進め、四半世紀以上に及ぶ多国間外交を経てもなお、非核化に応じる
気配をみせない。東アジアには非核兵器地帯条約が存在せず1、2021年1 月に発効
した核兵器禁止条約に関しては、一国で非核地帯を宣言しているモンゴル以外の
諸国は否定的で、現状としては署名した国も批准した国もない。中東や南アジア
と並び、核問題が集約した形で表出しかねない危うい状況が続いている。
 本稿では、核兵器に関係するもう一つの国際政治上の問題が冷戦初期に、やは
り東アジアを舞台に生じたことに注目する。それは核威嚇、つまり敵対的な相手
国を、核兵器を使った攻撃を加えることも辞さないと脅すことによって、自国に
とって望ましくない現状変更を断念させたり、逆に望ましい方向へ態度変更を強
要したりすることを目標とする政策である。具体的には米国が1950年代、当時は
まだ非核兵器国だった中国を相手に、朝鮮戦争と、2 回にわたる台湾海峡危機の
際、核攻撃するとの威嚇を公然と加えた。核戦略の変遷を研究してきたローレン
ス・フリードマンが指摘しているように、広島・長崎以降、中国ほど核攻撃の危
険に瀕した国はない2。しかもその背後に複雑な国際関係が絡み合っていた3。
 この歴史は、冷戦期の一挿話にとどまらない意味を持つ。具体的には、核抑止
と規範の関係について考える上での重要な実例といえる。
 核超大国の米国とソ連が、第3 次世界大戦につながりかねない直接交戦は避け
る暗黙の了解を互いに交わすという、冷戦を規定した「ゲームのルール」の下に
あった時期、両国の戦略核戦力は「恐怖の均衡」による戦略的安定をもたらす抑
止力としての機能が期待された。いわば「使われない」ことに意義がある矛盾を
50 広島平和研究:Hiroshima Peace Research Journal, Volume 9
はらんだ兵器だった。それは冷戦後ロシアとの関係でも変わっていない。これに
対し、限定的な強制外交のツールとしての核威嚇を実現可能にしたのが「実際に
戦場で使える」戦術核兵器の登場だった。威嚇の信頼性を担保するのは「いざと
いう時には核兵器を使う」という明確な意図のはずだが、実際には戦術核も含め
て過去76年間、戦時下の核兵器使用例は存在しなかった。この不使用の蓄積をど
う考えるのか。リアリズムの国際関係論では、核威嚇の力が限定的な文脈で相手
を抑止した効果として解釈されうる。一方、規範やアイデンティティといった社
会的に共有される理念の作用を重視するコンストラクティビズム(構成主義)の
研究者らは異なる視点を持つ。核兵器は、その非人道性から「事実上、使うこと
ができない兵器である」という認識に立った規範が国際社会の中で提唱され、次
第に根付き内在化されたため核は使われなかったと説明するのである。その嚆矢
が、ニーナ・タネンワルドの著書『核のタブー』で展開された核の不使用規範論
である。この研究の中では、核不使用規範が形成途上では、「通常兵器と変わらな
い」とみなす他の規範と競争関係にあったことも指摘される4。
 1950年代の東アジアで核兵器が使われなかったのは、威嚇が効き抑止が成立し
ていたためなのか、それとも核のタブーが障壁となったのか。これは今日にも通
じる問題といえよう。2010年代半ば以降強まった「大国間競争の再来5」という意
識が核問題にも影を投げ落とす中で、東アジアでは、米中が紛争で直接対峙する
事態となれば、限定核使用へと拡大するリスクが存在するという懸念が強まりつ
つある6。
 ヘンリー・キッシンジャーが指摘したように、抑止の成否は現実には起きてい
ない出来事による逆説的な形でしか検証しえない一方で、なぜある事態が起きな
かったかの確証を示すことは不可能である7。本稿も、核不使用の原因について確
定的な答えを出すものではない。以下の各節では、異なる理論的背景を持つ先行
研究を踏まえた上で、核威嚇は米国側の意図を伝達する外交ツールとして有効だっ
たのかを意識しつつ、核戦争へと発展するリスクは存在しなかったのか、直近で
公になった新たな一次資料による知見も交え、時系列に沿って分析する。結果と
して核使用には至らなかったこの時期の東アジアの歴史と、形成途上にあった核
不使用規範との関係性を探り、ひいては現代からみたその意味を考えることにし
たい。
1. トルーマン政権 核戦略の萌芽期
(1)大統領自身は忌避感
 広島・長崎原爆の衝撃的な破壊力によって、「戦争は他の手段をもってする政治
の延長である」とするクラウゼヴィッツ的戦争観が崩れた、という、いわゆる「核
冷戦初期における米国の対中核威嚇について——「通常兵器化」の試みと不使用規範の相克 51
革命論」の言説は現在に至るまで広く流布している8。その一方で、見落とされが
ちだが、第二次世界大戦直後、「冷戦」という意識がまだ固まっていなかった時期
には、国際政治の中での核兵器の位置づけ、そうした兵器をどのように活用する
のかという政策や戦略自体が形成され始めたばかりだった。
 益田肇は、米国市民がソ連との第3 次世界大戦へ抱く恐怖感が強かったその時
代、原爆投下で先手を打てと求める意見は特に珍しくなかったと指摘する9。しか
し、米国の外交安保政策に携わる文民指導者らの間では、原爆は非倫理的な兵器
であるとの認識が早くから広まった10。何より、広島・長崎への原爆投下を命じ
たトルーマン大統領自身が事後、原爆の標的は純粋に軍事上の目標に限定される
べきだと考え、「絶対に必要な時を除き、こんなものを使うべきだとは私には思え
ない」「これは軍事兵器ではないことを理解する必要がある。それは女性や子供、
そして非武装の人々を皆殺しにするために使われるのだ。軍事的な目的ではない」
といった強い嫌悪感を内輪の場で口にしたとされる11。制度面でも、トルーマン
政権では原爆の製造管理は原子力委員会(AEC)が担い、直接のアクセスが禁じ
られた軍部は、どこに何発貯蔵されているのかも知らず、どう使うのかという計
画は存在しないも同然だった12。
 ただし、政府最上層部の忌避感にも関わらず、米軍内部では、原爆は本質的に
特別な兵器ではなく、単なる「より爆発力の大きな爆弾」であるとの認識がむし
ろ優勢で、それは第2 次世界大戦中の戦略爆撃思想の延長線上にあった13。日本
への戦略爆撃と広島・長崎原爆への投下作戦の双方を指揮したカーティス・ルメ
イ空軍大将は、日本の戦闘能力を戦略爆撃がすでに破壊した後に投下された原爆
は「勝敗決定後で、クライマックスを逸した」といった程度にしか受け止めなかっ
た14。人脈面からみても、核運用を担う戦略空軍の枢要はドイツか日本への空襲
攻撃経験者が揃い15、萌芽期の核戦略は「空軍戦略の申し子」16として構築されて
いった。
(2)朝鮮戦争の開戦
 朝鮮戦争が1950年6 月に開戦し、米国は緒戦から劣勢に立たされたが、トルー
マンは核戦力を活用することには消極的であり続けた。使用の威嚇を思わせる発
信は修辞上のもので、おそらく意図的な発言ですらなかった。その典型が、中国
参戦で米軍が再び劣勢にあった同年11月30日の記者会見だった。「あらゆる手段を
講じる」という発言の意味を記者団から詰められ、やりとりの中で一般論として
「保有するあらゆる兵器を含む」「積極的考慮はこれまでも下されてきた」「軍が決
めなければならない事柄だ」といった発言を繰り返したのが、原爆使用を示唆し
たという趣旨で報じられた。直後に報道官が、米国の政策は不変であり原爆使用
権限は現場の軍人には与えられていないと言明して沈静化を図ったが、すでに国
52 広島平和研究:Hiroshima Peace Research Journal, Volume 9
際的な反響が広がっていた。特に英国では反対論が沸騰し、アトリー首相が急遽
訪米し、トルーマンと会談して、核使用への事前協議の確約を取り付けようとす
る騒ぎになった17。
 その際、米政府内では国連代表部などから、各国外交官の間に、米国は原爆を
欧州の白人対象ではなくアジア人に対して使う兵器だと考えているとの受け止め
があるという報告が上がった18。広島・長崎への原爆投下という「過去」ゆえに、
アジアでの「次」の核使用を逡巡する構図は、この後も繰り返されていく。一方
で冷戦初期、東西陣営が雌雄を決する「主戦場」は欧州という想定が支配的だっ
た。核兵器の量的拡大はまだ緒についたばかりで、米軍も、貴重な原爆をアジア
で使ってしまい主戦場たる欧州で使えなくなる事態を懸念していた19。前年にソ
連が核実験に成功し、米国の核の独占は破られたものの、まだ核兵器といえば原
爆しか実用化されておらず、弾道ミサイル技術も発展していなかったため、東西
両陣営の戦略核応酬で人類破滅に至るシナリオはそこまで現実味を帯びていなかっ
た。それでも、朝鮮戦争が世界大戦へと拡大するリスクについてはすでにこの段
階で東西両陣営が認識し、防ごうとしたとの分析がある20。戦争の質的拡大を意
味する核兵器の投入が、トルーマン政権内部で積極的な検討課題として上ること
はなかった。
 もちろん、原爆使用推進派も存在した。連邦議会、特に野党からは、原爆使用
を含む「毅然たる対応」を要求する圧力が続いた。軍内部では推進派の筆頭がマッ
カーサーで、開戦間もない50年7 月中旬にはすでに、中国が参戦したなら、朝鮮
半島への進路にあるトンネルや橋を原爆で破壊して中国軍を封じ込めることがで
き、核使用のまたとない機会となると軍上層部に訴えていた21。政権内では、核
使用にふさわしい標的がないと判断する者は使用もすべきではないとの結論に傾
き、逆に、適した標的はあるとみる者は使用すべきだと主張する傾向がみられた
とタネンワルドは指摘する22。後者に属する論者の間では、一般社会の原爆に関
する認識が使用の妨げになっているとの見方も生じていた。例えば、推進派の一
人だったゴードン・ディーンAEC 委員長は51年7 月12日付の日記に、朝鮮半島で
約25万人の中国・北朝鮮軍の兵力集中に対して原爆を戦術使用したとしてもソ連
による報復の恐れはない、との自らの見立てを記した上で、「大統領のような高官
まで含めた人々の頭の中で、原爆は戦略的な攻撃対象、具体的には長崎や広島が
明確な例となった都市に用いられ、軍人ではなく文民が犠牲になると思われてい
ることこそが、(原爆使用への)真の障害になっている」との懸念を記している23。
そこで作用していたのは、戦略爆撃の伝統を受け継いできた対都市攻撃の核戦略
に関して、この種の戦略は罪のない市民を犠牲にする非人道的な論理だという倫
理的抵抗感がすでに国内外で築かれつつあるとの認識であり、米国にとってはそ
れが戦場での自由な核使用の妨げになっているという焦燥感である。この認識は、
冷戦初期における米国の対中核威嚇について——「通常兵器化」の試みと不使用規範の相克 53
核不使用規範が根付きつつある状況を打破するために、対兵力打撃の核ドクトリ
ンを確立させ、戦術核兵器の活用法をさらに模索しようとする動きへとつながっ
ていく。
(3)曖昧な威嚇のシグナル
 一方、実戦での原爆使用には消極的だったトルーマンも、開戦の翌春になると、
戦況が停滞する中で、外交的圧力をねらった曖昧な威嚇ともとれる核運用を米軍
に試みさせた。トルーマンは、中国本土への戦線拡大の是非をめぐりマッカーサー
と対立、解任へと動いたのとほぼ同時期に、完全に核装備した部隊を太平洋戦域
へと展開させた。51年4 月6 日、AEC から戦略空軍に原爆が移管され、B29爆撃
機群がグアムへと出動した。大戦後初めて、核兵器を米本土外へ持ち出す動きだっ
た。それはマッカーサー解任に対する軍部の支持を取り付けるための宥和策だっ
たとの見方もある24。仮に中国側の作戦行動を牽制する意図があったとするなら、
同月22日には人民志願軍が大攻勢に出ており、むしろ逆効果だった。強制外交の
ツールとしての空戦力に関する実証研究で知られるロバート・ペイプによれば、
そうした状況下で米国は威嚇の度合いをかえって強め、同月28日には核指揮管制
チームの東京到着を発表し、前後して米軍偵察機を中国東北部の軍用飛行場上空
域で飛行させた。それでも中国側には何の態度変更もみられず、結局米軍のB29
部隊は同年6 月末には米本土に帰還した。翌月には中国側は停戦協議の開始を認
める姿勢へ転じたが、ペイプはこの態度変更は通常兵器による拒否型抑止作戦の
成果であって、曖昧な核威嚇の方は説得力が欠如しており、効果がなかったと分
析する25。
 停戦協議が開始すると、トルーマン政権が朝鮮戦争での核使用に傾斜する姿勢
をみせることはなくなった。膠着状態が続いたまま、トルーマンは53年1 月、退
任した。後任のアイゼンハワーは停滞打破を公約に掲げて大統領選に勝利したこ
ともあり、前政権とはまったく異なる姿勢で核兵器の問題に向き合った。
2. 核威嚇の舞台は台湾海峡へ
(1)「安上がりに終わらせる」期待
 アイゼンハワー政権が発足した1953年ごろになると、限定核戦争という机上の
戦略に、実際の兵器技術としての戦術核開発が追いつき始める26。多大な米兵死
傷者と戦費をかけて前政権下から続いてきた朝鮮戦争を「安上がりに終わらせる」
方法として、核兵器への期待が生まれていた。アイゼンハワー政権は発足直後の
同年初めから春にかけ、国家安全保障会議(NSC)で少なくとも7 回、核使用を
検討した27。大統領と二人三脚で推進派として動いたのがダレス国務長官である。
54 広島平和研究:Hiroshima Peace Research Journal, Volume 9
ダレスは政権スタートからわずか3 週間後、53年2 月11日のNSC 会合で「核と通
常兵器の区別は廃されるべきだ」と発言した28。その後も大統領と国務長官は核
使用に関して「タブーは何としても破る必要がある」「武器庫の中にある単なる兵
器の一つに過ぎないと考えなければいけない」といった発言をNSC 会合で繰り返
す29。アイゼンハワーは、沖縄への原子戦闘能力の展開も指示している30。こうし
た姿勢は抑止効果をねらって強硬な態度を取っただけで実際の使用の意向は強く
なかったのではないかという解釈に対して、タネンワルドは、外部、特に敵国向
けのコミュニケーションではなく、政権内部の政策討議でみせた姿勢であること
を論拠に反駁している31。朝鮮戦争で核兵器が使われなかったことは、抑止論で
は、ソ連の核を含む報復への懸念が制約要因となって不使用に至ったと説明され
る。だが、例えばNSC での53年4 月8 日の討議の資料として用意された「可能な
行動についての代替策」とする論点メモの中では、「原子兵器の使用」という項目
で、その「軍事的利点」の中で「ソ連に対する(中略)……抑止効果を、世界戦
争と限定戦争に関して増大させるかもしれない」という期待感がむしろ挙げられ
ており、反対に「軍事的に不利な点」としては、原爆使用が決定的な勝利に結び
つかなかった場合は上記の抑止効果は減少するかもしれない、と記されているも
のの、報復の可能性には言及されていない32。
 捕虜の取り扱いなどをめぐり暗礁に乗り上げていた停戦交渉が53年初夏に進展
をみせ、同年7 月27日に停戦協定が成立する。では、アイゼンハワー政権が発足
直後から中国にかざした核威嚇は相手の態度変更につながったのか。先行研究の
評価は分かれる。ペイプは、すでに当時の中ソ関係に緊張感が芽生え始め、中国
側が2 年前はあてにできたソ連の拡大抑止に期待できなくなったこと、実際に中
国でこの時期に核攻撃へ備えた民間防衛体制の構築が進んでいたことなどを根拠
に、核威嚇に停戦を受諾させる効果はあったとみる33。一方、タネンワルドは、ロ
シアで冷戦後公開された史料に基づく先行研究を根拠に、独裁者だったスターリ
ンがこの年3 月に死去した段階で、ソ連は戦争終結の意向を固めていたことが推
察される一方、ダレスが後に主張したような「核威嚇が停戦樹立の決定打だった」
との主張を裏付ける証左は少なくとも存在しないと指摘する34。大筋で幕引きが
決まっていたものの各論でつまずいていた交渉への促進効果はあったかもしれな
いが、いずれにせよ断言はできない。しかし、ほぼ確実なのは、ダレスやアイゼ
ンハワーが、核威嚇で中国側に停戦協定を受け入れさせることができたと認識し、
その後の政策に反映させたことである。
(2)核の「通常兵器化」を企図
 1950年代初頭の東アジアでもう一つの火薬庫は台湾海峡だった。中国で、毛沢
東が率いる共産党との内戦を続けていた蒋介石の国民党は49年に敗走し台湾へ退
冷戦初期における米国の対中核威嚇について——「通常兵器化」の試みと不使用規範の相克 55
いた。翌50年6 月に朝鮮戦争が勃発した直後、トルーマン米政権は第7 艦隊を台
湾海峡に派遣した。共産党と国民党が海峡を挟んで対峙する中、力による現状変
更を認めない姿勢を明確にすることで、朝鮮半島の戦火が台湾海峡へと飛び火す
る事態を防ぐ目的だった。第7 艦隊は、米国の台湾防衛へのコミットメント(確
約)を象徴しつつ、その裏面では、成功の見込みがない大陸反攻に動きかねない
蒋介石を牽制する存在でもあった。アイゼンハワー政権になり、53年6 月に朝鮮
戦争停戦が成立し、再び台湾海峡をめぐる緊張激化が懸念された。
 こうした国際情勢を背景に、アイゼンハワー政権には、冷戦全般に臨む基本姿
勢として、前政権が曖昧なまま放置した核兵器の位置づけを明確に盛り込んだ国
家安全保障戦略を打ち出す動機があった。特にアジアの個別紛争に関連した文脈
では、広まりつつあった核の不使用規範に封じられて核威嚇のツールを外交的切
り札として使えなくなる状況は避けたいという思惑もあった。53年10月末、政策
文書NSC162/2が大統領の認可を受けて策定された。対ソ連抑止力としての戦略
核による大量報復能力の開発と維持を強調し、同時に共産主義勢力による個別の
侵略事案に対応して「紛争が生じた場合は、米国は核兵器がほかの弾薬類と同様
に使用に供されうるものと考える」と明記する内容だった35。続いてダレス国務
長官が54年1 月、外交評議会での演説で大量報復ドクトリン(軍事行動指針)を
発表する36。この戦略は事実上、初の核兵器運用の宣言政策として打ち出された
が、どんな小さな挑発に対しても相手国を滅亡させるような大量の核報復で応じ
るという考え方だと受け止められ、非倫理的だとの批判をすぐに浴びた。そこで
ダレスは軌道修正し、攻撃を受ければ必ず報復するが、対称性に縛られると究極
的に全面戦争で応じる以外に選択肢がない状況に追い込まれてしまうので、主導
権を手中に取り戻すため、報復の水準については柔軟性が重要なのだと強調する
ようになった37。
 このように政治的なツールとしての威嚇の信憑性を維持するため、ダレスらア
イゼンハワー政権高官が使用姿勢を誇示し繰り広げた集中的な広報宣伝活動を、
タネンワルドは「通常兵器化キャンペーン」と形容している38。そこには核不使
用規範による倫理的制限を取り払おうとの目的意識がうかがえる。例えば、国務
省は1953年4 月22日付のNSC 宛ての政策メモで、一般大衆にとっての核兵器の
「倫理的スティグマ(汚名)」を減少させようとする活動全般に言及し、核兵器を
「我々の軍備のより平常かつ包括的な一部」と化し、その特殊性を減じることがで
きれば、使用に関する米軍の「行動の自由」は増大すると主張した39。すでに核
兵器は非倫理的だとの批判をそれだけ意識していた反映といえよう。
(3)防衛へ戦術核使用「弾丸と同様に」
 台湾海峡危機で具体的な焦点となったのは、中国本土から目と鼻の先でありな
56 広島平和研究:Hiroshima Peace Research Journal, Volume 9
がら国民党が実効支配を続け、共産党政権にとって喉に刺さった小骨のような存
在となっていた金門・媽祖両島だった。蒋介石は金門媽祖に国民党軍の精鋭を重
点配備し、大陸反攻の可能性をうかがう姿勢を保っていた。これに対し54年夏、
対岸の人民解放軍が両島への砲撃を開始し、武力紛争状態に入った。同年9 月12
日のNSC 会合では、アイゼンハワーは「我々は戦争の話をしているのだ」と強調
し、もし共産中国を攻撃しなければならないなら朝鮮戦争のように事前に軍事介
入の限界を定めることには反対する、と述べた。ダレスは、金門から国民党が撤
退することになれば朝鮮半島、日本、台湾、フィリピンでも惨憺たる事態を招く
ことになるが、中国との戦争は国内外から戦うに値しないと批判を浴びるだろう
し、米国はひどいディレンマに直面していると述べた40。軍事的にはほとんど価
値のない小島でも、対共産圏のドミノ理論が適用され、ひとたび失えば悲惨な波
及効果を招きかねないからこそ、防衛のコミットメント供与が求められていると
の受け止めだった。その一方、蒋介石の挑発行動によって対中戦争、ひいてはソ
連も加わった全面戦争に巻き込まれるリスクも軽視できず、板挟みになる米国と
いう構図があった。政権内で核威嚇の効果への期待感がいっそう高まったのは、
このディレンマの認識ゆえだっただろう。
 急速に金門媽祖が東アジアにおける冷戦の最前線と位置づけられ、改めて台湾
防衛の意思表明が必要となる中で、法的な保障を確実にする意味合いから、米華
相互防衛条約(55年2 月に批准承認)に加えて、広範な武力行使権限を大統領に
付与する「台湾決議」が議会で可決される。だが、決議に基づく交戦権限が及ぶ
地理的な対象範囲に関しては、台湾と澎湖列島以外は「現在、友好勢力の手中に
ある関係する地点や領域」と、なお曖昧さを残していた。蒋介石は米国の説得で、
金門媽祖よりさらに北方の中国本土沿岸部に近い離島である大陳諸島からは国民
党軍を撤退させた。単独でみれば防衛対象を縮小するかのようにもとれる動きだっ
たが、一方で金門媽祖からは国民党軍は全く動こうとしなかった41。
 2 月末にダレスは東アジアを歴訪し、米国が軍事的コミットメントを固めた後
も共産党には挑発を止める兆候はなく、むしろ台湾侵攻の意図を強めているとの
判断に至った42。3 月6 日、ワシントンに帰任したダレスはアイゼンハワーと会
談して金門媽祖の防衛意図を再確認し、「原子ミサイル」使用が必要になるだろう
との見方に同意を得た。「通常兵器と不可分な原子兵器」使用の意思を翌日のラジ
オ演説で発信すると良い、との助言まで得ている43。アイゼンハワー自身が3 月
16日の記者会見で、戦術核の使用について問われ、厳密な軍事目標を対象にする
限り「弾丸やほかの兵器を使うのと同様に使ってはならない理由はない」と発言
し、戦術核使用の意図を明確にした44。4 月になると、太平洋軍司令官が、中国
の侵攻にはワシントンでの素早い決定に基づく対応が必要となり、作戦の成否は
原子兵器の即時使用ができるかどうかにかかっている、と海軍作戦部長へ打電45
冷戦初期における米国の対中核威嚇について——「通常兵器化」の試みと不使用規範の相克 57
するなど、緊張はさらに高まった。
 しかし、最悪の事態は来なかった。インドネシア・バンドンで開かれたアジア・
アフリカ会議に中国政府を代表して出席した周恩来首相が4 月23日、「米国との戦
争は望んでいない」旨を言明したため、事態は一転、急速に収束へ向かった。
(4)ポーズか使用覚悟か
 アイゼンハワー政権は第1 次台湾海峡危機で、実際に核兵器を使用する決意を
固めていたのか、それとも圧力をかけるための巧みなポーズに過ぎなかったのか。
先行研究の評価はやはり分かれる。冷戦史研究の権威であるジョン・ルイス・ギャ
ディスは、アイゼンハワー政権は危機を通じて核使用に踏み切るだけの用意があっ
たし、その威嚇なしには人民解放軍は攻撃の手を緩めなかっただろう、とみる46。
一方、アイゼンハワー政権のアジアでの核威嚇と核のタブー生成過程を分析した
リチャード・ハナニアは、55年3 月の段階で核使用を準備していたというよりは、
将来に備えて戦術核をオプションとして持ち続けられる状況を国内向けに作ろう
としていたのだし、ほかの選択肢が尽きる前に核使用を決定したとは考えにくい、
との見解を示している47。
 ここでも真相を確定するのは困難である。だが、いずれにせよアイゼンハワー
政権は核威嚇を、共産主義陣営を抑止し、あるいは政策変更を強要するため、意
図のコミュニケーション手段として有用だとみていた。その威嚇に説得力を持た
せるために核使用への傾斜を強めた面もあろう。国際社会や米国民の間ですでに
芽生えていた「核のタブー」意識に基づき不使用規範が強まれば、使用の威嚇は
根拠をなくしかねないため、その状況を打破しようと「通常兵器化」に力を注い
だのである。では、米国側の威嚇は狙い通りに効果を上げられたのか。その答え
を得るには、第1 次台湾海峡危機から3 年を経て再発した次の危機を考察する必
要がある。
3. 第2 次台湾海峡危機での核戦争リスク
(1)中国の侵攻意図の有無
 いわゆる第2 次台湾海峡危機は1958年8 月23日、人民解放軍が金門への砲撃を
再開して始まり、今度こそ台湾侵攻の「序曲」ではないかとみたアイゼンハワー
政権は即応して米軍による高度な警戒態勢を敷いたが、10月6 日に毛沢東が砲撃
の1 週間停止を発表して沈静化した、とされる48。第1 次危機と比べると短期集
中的で、米国によるむき出しの核威嚇は鳴りを潜め、核オプションに関する公の
場での議論も直截さを欠いた49。一方、ソ連はすでに関係がきしんでいた中国に
対し、対米戦争につながりかねない「冒険主義」を危ぶみ、表向きの中国支持姿
58 広島平和研究:Hiroshima Peace Research Journal, Volume 9
勢も時間を置いて表明するなど熱を欠いたことを挙げ、その背景としてやはり米
国の核威嚇が効果を上げた可能性がある、との分析が冷戦期からあった50。
 こうした伝統的解釈に対し、タネンワルドは、両危機の間、1957年には米英の
代表的な反核団体が発足するなど、米国内外の世論が核使用への抵抗感を強めた
ことや、米政府内でも例えば国務省などから核使用への異論が広がったことに注
意を向ける51。やはり「核のタブー」を研究対象としたハナニアは、第2 次危機
の下での方がタブーの存在ゆえに核使用の可能性は低くなっていたと論じた52。
 一方、最新の研究としては、グレゴリー・カラーキーが2020年、中国の内部文
書なども合わせた史料研究に基づいて提示した新たな知見が注目に値する。カラー
キーは、先行研究の枠組みでは第1 次、第2 次と分けられてきた台湾海峡危機は、
これまで「狭間」と位置づけられていた、紛争が落ち着いていた時期の米中交渉
過程も含めて一体の危機とみるべきだと指摘した53。その上で、中国には台湾は
おろか、金門媽祖へ直接侵攻する意図は当初から存在せず、軍事的圧力と外交の
組み合わせで、国民党軍が両島から撤退するよう、米国に蒋介石を説得させるの
が目的だったと論じた54。カラーキーは、米国の核威嚇には中国を畏怖させる効
果はなく、①中国の態度変更につながらなかった②米国の目標達成の助けにもな
らなかった③中国による攻撃的行動への抑止効果はなかった④米国の同盟国への
安心供与にもならなかった、つまり非生産的でしかなかった、と結論づけた55。強
制外交のツールとしての核兵器の有用性に関する重要な指摘といえよう。
(2)機密レポートの全文公開
 2021年春、別の角度から第2 次台湾海峡危機における米国の核威嚇に光を当て
る史料の詳細が明るみに出た。ニューヨーク・タイムズが同年5 月22日、米政府
と密接な関係を持つシンクタンクであるランド研究所によって1966年に国防総省
の委託を受けて作成された機密分析レポート「1958年台湾海峡危機:史料に基づ
く歴史」全文619頁を入手し、第2 次台湾海峡危機での核戦争リスクは「公に知ら
れているより大きかった」と報じた56。すでに一部は機密解除され研究者には存
在が知られていたファイルだったが、その全文を公開したのは米政府ではなく、
ベトナム戦争での米国の関与が泥沼化する過程を記した国防総省の機密文書「ペ
ンタゴン・ペーパーズ」を内部告発者として流出させたダニエル・エルズバーグ
だった。やはり内部告発の意図から同時期に写しを取っていたものの、これまで
は公の場に出さなかったのだという。レポートの筆者は政治学者のモートン・ハ
ルペリンだった。当時ランド研究所のコンサルタントも務めており、後にクリン
トン政権の国務省政策企画局長などを歴任した人物である。機密指定がかかった
軍の詳細な指令書など内部文書へのアクセスや関係者のインタビューも実施して
調査にあたっており、報道目的で表に出す性質のものではなく、政府内での政策
冷戦初期における米国の対中核威嚇について——「通常兵器化」の試みと不使用規範の相克 59
評価のために、危機からまだそれほど年月を経ていない段階で記されたこともあ
り、迫真のディテールに満ちている。エルズバーグが所有していた文書コピーは、
外交安保政策の情報公開請求や機密解除文書の分析を行っている民間研究機関ナ
ショナル・セキュリティー・アーカイブがネット上で公開した57。
 このレポート(以下、ハルペリン文書と記す)から浮かび上がってくるのは、
ワシントンの国防総省に詰めていた米軍高級将官の多くが、大統領が示す核攻撃
への留保にもかかわらず、中国に金門媽祖を侵攻されたら通常兵器では防衛不可
能だと主張し、戦術核使用へと傾斜する姿勢を強めていた政府内政治の一断面で
ある。例えば、砲撃開始前に中国人民解放軍の動向を察知して危機管理モードに
あった58年8 月14日のNSC 会合では、制服組のトップである統合参謀本部議長の
トワイニング空軍大将による以下のような発言が記されている。
トワイニングは、中共が空域封鎖作戦に出てきた場合、その成功を阻止するために
は米国は核兵器を使わざるを得ないだろう、という点を明確にした。彼の説明では、
米軍は10~15kt の低出力核兵器を使って厦門地域の2 、3 の飛行場を攻撃すること
から始める。この時点で望むらくは中共が攻撃を中止してほしいものだが、そうで
ない場合は、米国としては、中国本土に深く入って北は上海まで核攻撃を実施する
以外に選択肢はなくなる、とトワイニングは言明した。これは議長の推察では、ほ
ぼ確実に台湾に対して、また可能性としては沖縄に対しても核報復を招くのではな
いかとみられる。しかし彼は、金門媽祖を防衛するのが国家としての政策であるな
ら、その帰結は受け入れられなければならないと強調した58。
 この日のNSC会合について、米国外交文書史料集(Foreign Relations of the United
States: FRUS)に収録され公開されている記録では、トワイニングが台湾情勢につ
いて統合参謀本部の見解を述べた箇所はあるが、核兵器への言及はまったくない59。
この箇所には2 行分について機密指定未解除との編注がつけられており、その非
開示部分が核兵器への言及とみられるが、ハルペリン文書の描写から感じられる
前のめりの姿勢はおそらく含まれていないだろう60。台湾海峡危機に際してのア
イゼンハワー政権の政策決定に関して、ハルペリン文書が描く詳細は、構造的に
みればまったく未知というものではない。しかし、意思決定の過程での関係者の
言動に込められたニュアンスを白日の下にさらしたことで、中国側がもし挑発的
な行動をさらに進めたり、米国側がその意図を誤認したりした場合には、アイゼ
ンハワー政権は米軍の核使用へ突き進んだ可能性があることを浮き彫りにした点
にこそ、史料的価値があるといえる。
60 広島平和研究:Hiroshima Peace Research Journal, Volume 9
(3)アイゼンハワーの真意は
 ハルペリン文書は、第2 次台湾海峡危機では米国が核使用に踏み切るリスクは
これまで知られていたより高かったことを示唆する。だが、最高指揮官であるア
イゼンハワー自身の判断がどうだったのかはそれでも判断しにくい。この期間、
第1 次危機での「弾丸を使うのと同様に」発言に類するあからさまな威嚇は、ア
イゼンハワーは発していない。このため、例えばハナニアは、アイゼンハワーは
核使用の評判リスクを懸念するようになり軍高官らと反対の結論に達したため、
統合参謀本部の主張にも関わらず、民主主義国としての文民統制は機能した、と
評価している61。カラーキーも、58年8 月下旬のホワイトハウスでの台湾関係の
複数の会合記録で、米軍の台湾防衛司令部あての指令書の文言に、核使用にあたっ
ては実行前に大統領の判断を改めて仰ぐよう義務づける条項をアイゼンハワーが
挿入させたり、「命令を受けた場合の核攻撃」という表現が削除されたりした62こ
とに注目し、アイゼンハワーは金門媽祖の重要性に関して深刻な疑義を呈し、ブ
レーキをかけた、と解釈している63。
 しかし、ハルペリン文書によると、58年危機でワシントンの統合参謀本部から
太平洋軍や台湾防衛司令部へ出された訓電では、確かに大統領の意向を受けた形
で、作戦の初期段階は通常兵器のみ使用という命令が伝達された一方、必要であ
れば中国領土内に深く侵入し核兵器を使用する準備もしておくようにと付言され
ていた64。さらに、太平洋空軍から麾下各部隊への詳細な命令書には「原爆投下
能力に集中せよ」との指令が盛り込まれた。初期段階で通常爆弾使用を準備する
よう命じた8 月30日付の太平洋軍から太平洋空軍への指令書に付属して、台湾海
峡沿岸部以外の中国本土へ作戦を拡大する場合は、核使用を保証する旨が現場部
隊の司令官らに伝えられたともいう65。米軍の運用態勢は大統領の留保に関わら
ず、すでに核使用を想定した動きが標準的処理と化していた可能性がうかがえる。
また、9 月3 日に統合参謀本部が回覧を始めた指令書草案では、人民解放軍が金
門媽祖に侵攻し制止されなかった場合の核兵器使用は「不可避」となっていたが、
ホワイトハウスで同月6 日に正式承認された指令書の文言は、表現は弱められこ
そしたものの、核使用が「最も可能性が高い」との修正にとどまった66。これは、
アイゼンハワーの意向で核使用オプションが削除されたという、前述したカラー
キーの見立てとは相容れない。核使用に懸念を強めていた兆候は確かにあったが、
少なくとも、強い指導力を発揮して止めさせた姿は見えてこない。
 反対にハルペリンは、アイゼンハワーは軍に対してあらゆる方法で、もしも中
国が金門媽祖に侵攻し、米国による通常兵器での反撃の初期の兆候を受けても作
戦を停止しなければ、米軍には核使用の許可が与えられるという印象をにじませ
ていたと指摘し、大統領が最終的にどう意思決定したかはおそらく本人も分かっ
ていなかったであろう、と推察している67。少なくとも、アイゼンハワーが核の
冷戦初期における米国の対中核威嚇について——「通常兵器化」の試みと不使用規範の相克 61
不使用規範を完全に内在化させた形で受容していたと断言することは難しい。
(4)続いた使用前提の運用態勢と助言
 台湾海峡危機の後も、米軍の運用態勢には核の不使用規範は影響せず、アイゼ
ンハワーも戦術核を限定紛争シナリオで使うことへの積極姿勢を維持した結果、
1958年からの2 年間で米軍が保有する戦術核は6000発から3 倍の18000発に膨れ上
がった68。エリック・ムリンは、対都市核攻撃の「恐怖の均衡」で相互確証破壊
態勢を支える米政府の宣言政策と、実際の戦闘で対兵力打撃を想定した米軍の運
用計画は併存してきたと指摘し、その原点をアイゼンハワー政権とする69。
 さらにアイゼンハワーは大統領を退任した後、ベトナム戦争や北朝鮮とのプエ
ブロ号事件などに際して、後任に核使用を勧める助言を与えている70。この事実
を指摘した歴史学者のベンジャミン・グリーンは、広島・長崎原爆について自分
は投下直後から強く懸念を表明していたのだ、といったアイゼンハワー本人の弁
についても、自己都合による記憶の書き換えの色彩が強いと分析している。これ
まで、アイゼンハワーの核兵器観を示す有名なエピソードとしては、1954年4 月
に仏領インドシナでフランス軍がベトミンの攻勢を受け、拠点ディエンビエンフー
が陥落寸前になった際の逸話がある。対仏支援策として米軍から原爆投下を進言
されたアイゼンハワーが「君たちは正気か。あんな恐ろしいものをアジア人に対
して10年以内に2 度も使うことはできない」と述べ、退けたとする説である。ス
ティーブン・アンブローズが著した1984年刊行のアイゼンハワーの代表的な伝記
でこの挿話が紹介され、半ば定説となってきた。だが、これについてもグリーン
は、公文書の記録やその会合に居合わせた関係者の回想録などと矛盾しており、
アンブローズが生前のアイゼンハワーと面会して取材したのは3 回、計5 時間足
らずだったことも合わせて、重大な疑義があると指摘している71。
 核兵器についてはおそらくアイゼンハワー自身に揺らぎがあり、台湾海峡危機
の時点では、最高司令官として核使用も辞さない覚悟を抱きつつも、その一方で
核のタブーがすでに定着しつつあるという障害も認識しており、核を使えば外交
的に米国を傷つけかねないという逡巡の念に駆られ、矛盾した思いを内面で並立
させていた、と考えるのが妥当ではないだろうか。その傍らで、ダレス国務長官
は核攻撃による住民への放射能被害リスクを認識しつつ、「放射能被害を出さな
い」とうたった新しいタイプの戦術核兵器の能力へ強い関心を示し、使用可能性
にも言及していた72。二人とも、タブーを意識した言動をみせていたのは確かだ
が、単なる威嚇のための外交ツールとしてではなく、実際に核兵器を戦闘で使う
ことを真剣に考慮したからこそ取った態度だった、とみることも可能であろう。
62 広島平和研究:Hiroshima Peace Research Journal, Volume 9
おわりに:核威嚇の歴史にみる教訓は何か
(1)意図のコミュニケーションの問題
 本稿ではこれまで、1950年代の米国が中国に加えた核威嚇について、当時すで
に国際世論の中で形成されつつあった核不使用規範との連関を意識した上で、威
嚇に至る経緯や、米国、特にアイゼンハワー政権の高官らが持っていた意図、そ
の効果が見られたのかどうかなどについて概観してきた。そこから導き出しうる
結論、及び今後の課題について、以下に記したい。
 朝鮮戦争終盤と2 度にわたる台湾海峡危機での、核兵器を媒介とした米国の中
国に対するシグナリング(意図伝達)の過程から浮かび上がる問題の一つとして、
核抑止論が前提とする意図のコミュニケーション回路が本来の狙い通りに機能せ
ず、不全を来していた可能性は軽視できない。「安全保障の政治的基盤が、国家間
に誤解を生じさせない《表明された意図の説得力》にある」73との前提に立った時、
アイゼンハワー政権が発した核威嚇は、安全保障政策の道具として有効だっただ
ろうか。
 前節で引いたカラーキーが指摘したように、威嚇の誘因となった、中国が金門
媽祖への直接侵攻を企てているとの情勢判断そのものが誤認だった可能性があり、
それを受けた米国のシグナリングは、前提条件からして確固たる基盤に基づくも
のではなかった。第2 次台湾海峡危機でのアイゼンハワーの核使用についての態
度にみられた抑制的な変化を重視するカラーキーは、「米国の核使用の可能性は低
いとみた中国側の情勢分析は正確だった」と評価する74。しかし、ハルペリン文
書にみられる米軍の前のめり姿勢を踏まえると、実際には中国側に金門媽祖侵攻
の意図が存在しなくとも、現場で何らかの挑発的軍事行動が起き、それを「戦争
の霧」のプレッシャーがかかる状況下で、本格的侵攻開始の動きであると米国側
が誤認してしまった場合には、米軍が短期間で反射的に核使用に向けて走り始め
てしまうリスクがあったことは看過できない。あくまで仮定の話であるが、そう
した危機の拡大状況が生じたとしても、ノルマンディー上陸作戦を指揮した陸軍
大将だったアイゼンハワー本人の洞察力がブレーキとして作用した可能性はあっ
ただろう。だがその一方で逆に、軍人たちから「ここで座視すれば共産主義陣営
の攻勢は止められない」と訴えられ、結局は同調してしまった可能性も否定でき
ない。要するに、第2 次台湾海峡危機では偶発核戦争のリスクは従来考えられて
きたよりも大きく存在したのにも関わらず、それが米政府の中でシステムとして
管理されていた証左はない。ましてや、相手方の中国にはそのリスクが正確に認
識されていなかった可能性は相当程度あるといえよう。
冷戦初期における米国の対中核威嚇について——「通常兵器化」の試みと不使用規範の相克 63
(2)多層的なディレンマ
 米国が威嚇を発信する際、台湾決議で定められた防衛コミットメントが及ぶ地
理的範囲として、金門媽祖が明記されていなかったことに象徴されるように、常
に一定の曖昧さがつきまとった。このことは、意図のコミュニケーションをいっ
そう複雑にした。曖昧さによって敵の計算を複雑にしようという打算が作用した
とみられるが、一方では、当時の米華相互防衛条約による米国と中華民国の同盟
関係において、米国からみれば無謀な大陸反攻の可能性を諦めようとしない蒋介
石に引きずられ、共産中国と再び戦火を交えることになりかねないという「巻き
込まれ」の不安も曖昧戦略の背景に見て取れる。蒋介石の不安を解消するべく、
安心供与策として拡大抑止を確約し戦術核使用へ傾斜すると、今度は同じアジア
の同盟国である日本の「巻き込まれ不安」がかき立てられかねなかった。現実に
国務省は、対中核使用によって日本が米軍基地供用を断ってくるリスクを心配し
ていた75。石田敦が指摘したような、冷戦期の東アジアで米国が取った「ハブ・
アンド・スポークス」と呼ばれる2 国間同盟の組み合わせの中で生じる「拡大版
同盟のディレンマ」の典型といえる76。
 対立関係にある国家間で意図のコミュニケーションが成立するためには、「ゲー
ムのルール」といえる法的枠組みなどの大前提が共有されている必要がある。と
ころが1950年代の米中間では、そもそも米国が共産中国との対話を極力回避しよ
うとした。第1 次台湾海峡危機の収束後にやっと開始されたジュネーブでの大使
級協議では55年末、双方が武力不行使の原則を認めることで交渉が収斂しかけた
矢先に、ダレスの指示で、武力行使を認める例外として「個別的または集団的自
衛権」を入れるべきだと米国側が主張し始めたことから、中国側が一転して硬化
し、不首尾に終わっていたという77。米中が話し合いの前提となる枠組みすら共
有できなかった状況下で、核威嚇の危うさはいっそう先鋭化していた。
 また、米国による核威嚇が中国に核武装の道を促したとみる先行研究は少なく
ない78。不安の念を抱いた相手国が、それを解消するために対抗して軍備獲得に
動いたという点で、典型的な安全保障のディレンマが生じたのである。
(3)戦術核に使用限度はあるか
 前節までで見てきたように、敵対的な相手国の態度変更をもたらす「強制外交
のツール」としての戦術核兵器は、1950年代にやっと技術的可能性が開けたもの
だった。にもかかわらず、核不使用規範との関係でみると、すでに形成されつつ
あった核兵器への国際世論や大衆の忌避感の中で、朝鮮戦争や2 度の台湾海峡危
機では、核使用の威嚇は万全の信頼性を持って作用したという確証は得られず、
むしろ時を経ずしてその有用性に疑問が生じる結果になった。
 この文脈では、意図のコミュニケーションをめぐる戦略理論を構築したトーマ
64 広島平和研究:Hiroshima Peace Research Journal, Volume 9
ス・シェリングが、同時代人として台湾海峡危機に極めて強い関心を払っていた
こと79、及びその過程で戦術核使用の可能性や核戦争のエスカレーション制御の
成否を考察し、到達した説は注目に値する。シェリングは、限定戦争と核兵器の
関係を論じる中で、当事国が事前の交渉抜きで共有しうる暗黙の了解事項であり
「互いに踏み越えてはならない一線」として認められる制約条件、シェリング本人
の用語を使えば「フォーカルポイント(収束点)」について分析している。核兵器
に関する数量的なフォーカルポイントは0 、つまり不使用しか予測できないとい
うのが彼の結論であった80。言うまでもなく、シェリングはリアリズムの極北と
もいうべきゲーム理論に基づいて、冷酷無比とも受け止められるような相互確証
破壊(MAD)を柱とする核抑止戦略理論の形成に大きく寄与した。そのシェリン
グが、一方で核不使用の強い拘束性を認識していた。これは、全く立場の異なる
タネンワルドのような構成主義者の規範論とも結果的には一致しており、興味深
い結論である。
(4)現代国際関係への含意
 本稿が取り扱った、1950年代における戦術核による威嚇を媒介とした米国と中
国の関係は、当然ながら現代の米中関係とは全く異なる文脈の中にある。何より、
その後1964年に核実験を実施し、核保有国となった中国に対しては、別の核保有
国が核兵器使用の威嚇を加えようとするなら、直接核で報復されるリスクを考慮
に入れなければならなくなった。また、冷戦期の共産圏ではソ連のジュニア・パー
トナー格で、アジア・アフリカ諸国の希望の星であったものの、国内の社会経済
はなお混乱の中にあった中国と、世界第2 位の経済力で米国を追い越す機会をも
うかがう現代中国では、対外的な存在感にも著しい差がある。
 しかし、1950年に両国間で見られたような意図のコミュニケーションの問題、
特に曖昧さや非対称性に基づくディレンマは、位相を異にしながらも、米中間の
核問題として現在も存在する。まず、一般的な安全保障政策としては、米中国交
正常化及び台湾関係法によって、米国が台湾防衛のコミットメントに関して「戦
略的曖昧さ」を1979年から掲げてきたことが、意図のコミュニケーションをいっ
そう難しくしている。さらに、核兵器に関しても意思疎通不全のリスクがある。
中国は宣言政策として、核の先行(先制)不使用を核保有した時点から掲げ続け、
自国の核兵器は核攻撃の抑止と防衛にしか使わない旨を主張するが、そのコミッ
トメントの信頼性には米国側から「検証不能な政治的発表に過ぎない」と疑問が
投げかけられる81。一方、米国は同盟国への拡大核抑止の信頼性を損なうとして
先行不使用政策を採用せずにおり、中国内には、それは米国が核を先行使用する
意図を抱き続けていることの表れであると、疑心暗鬼になって受け止める声も存
在する82。核兵器に関して、明快な宣言政策と不透明な運用実態を持つ中国と、曖
冷戦初期における米国の対中核威嚇について——「通常兵器化」の試みと不使用規範の相克 65
昧な宣言政策を掲げるが運用実態では一定の透明性が確保されている米国という
両者の間にみられる非対称性は、核危機が万一生じた際の事態の制御をいっそう
困難にしかねない。そうした状況下で、核不使用規範がどのような影響力を及ぼ
しうるのかは、更なる分析検討を必要とする。
 最後に、日本にとっては、米国から拡大核抑止の供与を受ける同盟国としての
ディレンマも看過できない。1950年代に日本の政権が懸念したのは「巻き込まれ
リスク」だったが、冷戦後の米中対立の文脈では「見捨てられリスク」の方が日
本で不安要因として意識されるようになった。コロナ禍の影響で、本稿の研究過
程では一連の米国による対中核威嚇をめぐる日本政府の一次史料調査は実施でき
なかったが、今後は日米間のやりとりにも光を当てる必要がある。東アジアを再
度の核使用の舞台にしないため、現代の我々が冷戦初期から学ぶべき教訓は決し
て少なくない。
注1
非核地帯がある東南アジア諸国も含んだ「東アジアサミット」のような広義の用法もある
が、本稿の「東アジア」は狭義の範囲で、「北東アジア」とほぼ同義である。本稿では、歴
史的な文脈により即した地域名として前者を用いた。
2 Freedman, Lawrence and Jeffrey Michaels, The Evolution of Nuclear Strategy: New, Updated and
Completely Revised( London: Palgrave Macmillan UK, 2019): 391
3 中国は中ソ対立が深刻化した1969年の国境紛争でも、ソ連から核攻撃を辞さないとの威嚇
を受けた。アンドリュー・J・ネイサン、アンドリュー・スコベル『中国安全保障全史』
(河野順治訳)みすず書房、2016年、73頁。
4 Tannenwald, Nina, The Nuclear Taboo: The United States and the Non-Use of Nuclear Weapons
Since 1945( Cambridge: Cambridge University Press, 2007): 68
5 United States, Nuclear Posture Review Final Report( Washington, DC: U.S. Dept. of Defense,
2018): 6
6 Ibid., 32
7 Kissinger, Henry, Diplomacy( New York: Simon & Schuster, 1994): 608
8 Bull, Hedley, The Anarchical Society: A Study of Order in World Politics, 2nd. Ed. (London:
Macmillan, 1995): 48
9 益田肇『人々のなかの冷戦世界:想像が現実となるとき』岩波書店、2021年、69、168頁。
10 Farrell, Theo, The Norms of War: Cultural Beliefs and Modern Conflict( London: Lynne Rienner,
2005): 106
11 Rhodes, Richard, Dark Sun: The Making of the Hydrogen Bomb( New York: Simon & Schuster, 1
995): 327
12 Rosenberg, David Alan, “The Origins of Overkill: Nuclear Weapons and American Strategy, 1945-
1960,” International Security 7, no. 4( Spring 1983): 11-12
13 Farrell( 2005): 114
14 Clodfelter, Mark, Beneficial Bombing: The Progressive Foundations of American Air Power, 1917-
1945( Lincoln; London: University of Nebraska Press, 2010): 241
15 Rosenberg( 1983): 20
16 Heuser, Beatrice, Evolution of Strategy: Thinking War from Antiquity to the Present( Cambridge:
66 広島平和研究:Hiroshima Peace Research Journal, Volume 9
Cambridge University Press, 2010): 356
17 Betts, Richard K., Nuclear Blackmail and Nuclear Balance( Washington DC: The Brookings Institution,
1987): 33-34
18 Ibid.,
19 Tannenwald( 2007): 119
20 Halperin, Morton H., “The Limiting Process in the Korean War,” Political Science Quarterly 78, no.
1( March 1963): 23
21 Tannenwald( 2007): 130-131
22 Ibid., 133
23 Dean, Gordon E.( edited by Roger M. Anders), Forging the Atomic Shield: Excerpts From the
Office Diary of Gordon E. Dean( Chapel Hill, London: The University of North Carolina Press,
1987): 158-159
24 Dingman, Roger, “Atomic Diplomacy during the Korean War” International Security 13, no. 3
(Winter 1988-1989): 72-74
25 Pape, Robert A., Bombing to Win: Air Power and Coercion in War( Ithaca: Cornell University Press,
1996): 146, 153
26 Halperin( 1963): 373
27 Tannenwald( 2007): 140-141, 143
28 Betts( 1987): 39
29 Ibid., 40
30 Hanania, Richard, “Tracing the Development of the Nuclear Taboo: The Eisenhower Administration
and Four Crises in East Asia,” Journal of Cold War Studies 19 no. 2( April 2017): 49-50
31 Tannenwald( 2007): 148
32 Foreign Relations of the United State(s FRUS), 1952–1954, Korea, Volume XV, Part 1, Document
437. Note by the Executive Secretary( Lay) to the National Security Council, Washington, April 2,
1953. https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1952-54v15p1/d437
33 Pape( 1996): 168-173
34 Tannenwald( 2007): 150n
35 FRUS, 1952–1954, National Security Affairs, Volume II, Part 1, Document 101. Report to the
National Security Council by the Executive Secretary( Lay) NSC 162/2: Washington, October 30,
1953. https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1952-54v02p1/d101
36 Gaddis, John Lewis, Strategies of Containment: A Critical Appraisal of American National Security
Policy during the Cold War, Rev. and exp. Ed(. New York: Oxford University Press, 2005): 144-
146.
37 Mlyn, Eric, The State, Society, and Limited Nuclear War( Albany: State University of New York
Press, 1995): 57-58
38 Tannenwald( 2007): 166
39 Memorandum for the Executive Secretary of the NSC from the Acting Secretary of State, Custody
of Atomic Weapons, Appendix 6, Statement by the Department of State, April 22, 1953. White
House Office, Office of the Special Assistant for National Security Affairs, Box 1, DDEL. Cited by
Ibid., 168
40 FRUS, 1952–1954, China and Japan, Volume XIV, Part 1 Document 293. Memorandum of Discussion
at the 214th Meeting of the National Security Council, Denver, September 12, 1954. https://
history.state.gov/historicaldocuments/frus1952-54v14p1/d293
41 Chang, Gordon H., “To the Nuclear Brink: Eisenhower, Dulles, and the Quemoy-Matsu Crisis,”
冷戦初期における米国の対中核威嚇について——「通常兵器化」の試みと不使用規範の相克 67
International Security 12, no.4( Spring 1988): 104
42 Ibid., 106
43 FRUS, 1955–1957, China, Volume II. Document 141. Memorandum of a Conversation Between the
President and the Secretary of State, Washington, March 6, 1955, 5:15 p.m. https://history.state.
gov/historicaldocuments/frus1955-57v02/d141
44 “Transcript of Presidential Press Conference on Foreign and Domestic Affairs,” New York Times,
March 17, 1955, 18.
45 FRUS, 1955–1957, China, Volume II. Document 199. Telegram from the Commander in Chief, Pacific
(Stump) to the Chief of Naval Operations( Carney). https://history.state.gov/historicaldocuments/
frus1955-57v02/d199
46 Gaddis( 2005): 168-169
47 Hanania( 2017): 62, 68, 72
48 マクマン、ロバート『冷戦史』(青野利彦、平井和也訳)勁草書房、2018年、107-109頁。
49 Betts( 1987): 71
50 Ibid., 72
51 Tannenwald( 2007): 158-159, 162, 185
52 Hanania( 2017): 74
53 Kulacki, Gregory, “Nuclear Weapons in the Taiwan Strait Part I,” Journal for Peace and Nuclear
Disarmament 3, no. 2( October 2020): 311 https://doi.org/10.1080/25751654.2020.1834963
54 Kulacki, Gregory, “Nuclear Weapons in the Taiwan Strait Part II,” Journal for Peace and Nuclear
Disarmament 3, no. 2( October 2020): 349 https://doi.org/10.1080/25751654.2020.1834962
55 Ibid., 351
56 Savage, Charlie, “Risk of Nuclear War over Taiwan in 1958 Said to Be Greater Than Publicly
Known,” New York Times, May 22, 2021. https://www.nytimes.com/2021/05/22/us/politics/
nuclear-war-risk-1958-us-china.html
57 Halperin, Morton H., THE 1958 TAIWAN STRAITS CRISIS: A DOCUMENTED HISTORY: An
Analysis, Memorandum RM-4803-ISA, January 1966, Secret( Santa Monica: The Rand Corporation,
1966) https://archive.org/details/The1958TaiwanStraitsCrisisADocumentedHistory_201712
58 Ibid., 78-79
59 FRUS, 1958–1960, China, Volume XIX. Document 33. Memorandum for the Record, August 14,
1958. https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1958-60v19/d33
60 カラーキーは前述の論文で、トワイニングがこのハルペリン文書に記された発言とよく似た
趣旨をダレスとの会話で述べたと記し、FRUS 収録の9 月2 日付ホワイトハウスでの会合記
録を引用根拠としているが、実際のFRUS には、上海まで北上しての核攻撃や沖縄への核報
復の可能性といった記述はない。別の史料との混同か、転記を誤った引用ミスではないだろ
うか。Kalacki( 2020b): 344; See also, FRUS 1958–1960. China, Volume XIX. Document 62. Memorandum
of Conversation, September 2, 1958. https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1958-
60v19/d62
61 Hanania( 2017): 80, 82-83
62 FRUS, 1958–1960, China, Volume XIX. Document 43. Memorandum of Meeting, August 25, 1958.
https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1958-60v19/d43; Ibid. Document 52. Memorandum
of Meeting, August 29, 1958. https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1958-60v19/
d52
63 Kulacki( 2020b): 345
64 Halperin( 1966): 112-114
68 広島平和研究:Hiroshima Peace Research Journal, Volume 9
65 Ibid., 126-127n, 208
66 Ibid., 280-282
67 Ibid., 292-293
68 Rosenburg( 1983): 66
69 Mlyn( 1995): 58-59
70 Greene, Benjamin P., “’You boys must be crazy!’ Reconsidering Eisenhower, Ambrose, and Atomic
Diplomacy in Asia,” Journal for Liberal Arts and Sciences 20, no. 2( Spring 2016): 79-80
71 Ibid., 71
72 Kulacki( 2020a) 324-325; Betts( 1987): 70
73 石田淳「安全保障の政治的基盤」遠藤誠治・遠藤乾編『安全保障とは何か』岩波書店、
2014年、78頁。
74 Kulacki( 2020b): 354
75 FRUS, 1958–1960, China, Volume XIX. Document 62.( See above)
76 石田、2014年、75頁
77 Kulacki( 2020a): 334
78 Ibid., 316; Chang( 1988): 121-122
79 シェリングは「コミットメントの技術」の理論を打ち立てた主著の一章で、56頁中10カ所
にわたり「金門媽祖」の具体例に言及している。Schelling, Thomas, “The Art of Commitment,”
in Arms and Influence( New Haven and London: Yale University Press, 1966): 43, 49-50,
51, 59, 63, 65, 66, 67, 73, 83
80 Schelling, Thomas, “Nuclear Weapons and Limited War,” in The Strategy of Conflict( Cambridge,
MA: Harvard University Press, 1960): 262-264, 266; Schelling, Thomas, “An Astonishing Sixty
Years: The Legacy of Hiroshima,” The American Economic Review 96, no. 4( September 2006):
931-932, 937
81 Santoro, David and Robert Gromoll, On the Value of Nuclear Dialogue with China: A Review and
Assessment of the Track 1.5 “China-US Strategic Nuclear Dynamics Dialogue”( Honolulu: Pacific
Forum, 2020): 13
82 Ibid., 13-14


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日本の国家公務員の機構を旧日本軍の将校機構(士官学校、兵学校、陸軍大学、海軍大学)と対比する

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