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計量計測データバンク ニュースの窓-261-
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計量計測データバンク ニュースの窓-261-
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├計量計測データバンク ニュースの窓-261-ポーランド諜報機関の最も危険な将校ミハウ・リビコフスキと小野寺信大佐
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├計量計測データバンク ニュースの窓 目次
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├ミハウ・リビコフスキ(Michał Rybikowski、別名ピーター・イワノフ、イアン・ヤコブセン
https://pl.wikipedia.org/wiki/Micha%C5%82_Rybikowski
ミハウ・リビコフスキ(1934年以前)
ミハウ・リビコフスキ(Michał Rybikowski、別名ピーター・イワノフ、イアン・ヤコブセン、アダム・ミハウホフスキ、アンジェイ・パシュコフスキ)(1900年2月3日
- 1991年1月27日)は、ポーランド陸軍歩兵中佐。
伝記
彼はカウナス県の当時のパネヴェジス地区のロカニで、アントニとパウリナ・ニー・パシュコフスカの家族に生まれた。18歳のとき、彼はポーランド軍に志願しました。彼はベラルーシとリトアニアで活動する諜報機関に配属された。ポーランド・ソビエト戦争に参加した。1927年、彼はオストルフ・マゾヴィエツカの歩兵士官候補生学校に転属した。1927/28年度には第4士官候補生中隊の小隊長、1928/29年度には中隊教官、1929/30年度には第3大隊の副官を務めた。1930年6月15日から9月15日まで、彼は砲兵と歩兵のインターンシップを完了した。1930年10月15日から12月15日まで、彼は高等戦争学校のトライアルコースを修了しました。1931年1月5日、彼はワルシャワの高等戦争学校に、1930年から1932年の第11コースの学生として任命された。1932年11月1日、課程を修了し認定将校の卒業証書を受け取った後、彼はグニェズノの第17大ポーランド歩兵師団の本部に参謀将校として転属となった。1933年4月29日、彼は1933年1月1日付けで大尉に昇進し、歩兵将校団では116位となった。1939年3月19日に年功序列で少佐に昇進し、歩兵将校軍団では88位となった。
彼は自由都市ダンツィヒ、ケーニヒスベルク、カウナスのポーランド諜報部員であり、1941年からストックホルムの日本大使館の職員である小野寺誠大佐の隠れ蓑でスパイネットワークを作った。ヒムラーはリビコフスキを「ポーランド諜報機関の最も危険な将校」と呼んだ。彼の活動は、スタニスワフ・ストルフ・ヴォイトキェヴィチの小説「ティーアガルテン」で紹介されました。
1944年10月24日から1945年2月1日まで、彼はカルパチア・ライフルズ第5大隊の指揮官であった。1945年8月6日、彼は第2カルパティア狙撃旅団の指揮を執り、1947年に解散するまで指揮を執った。
彼は1991年1月27日にモントリオールで亡くなりました。彼はポワントクレアのフィールドオブオナー退役軍人墓地に埋葬されています。
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├ヤルタ会談 - Wikipedia
アメリカとソ連の間でヤルタ秘密協定を締結し、ドイツ敗戦後90日後のソ連対日参戦及び千島列島・樺太・朝鮮半島・台湾などの日本の領土の処遇も決定。
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├バルト海のほとりにて
バルト海のほとりにて 武官の妻の大東亜戦争 小野寺百合子(著)
「ストックホルムの密使」の構想を組み立てる資料の一つが本書であったと後書きで著者が述べています。その詳細を知りたくて、本書を読みました。
著者の夫・小野寺信(スエーデン公使館付武官・大本営陸軍部兼任)が大和田市郎・駐スエーデン海軍武官のモデルで森四郎と行動を共にするコワレスキはイワノフ(注1)のようです。
ヤルタ会談の密約情報(注2)も出てきます。 なるほど、いくつかの事実が参考になっているようです。
(注1)イワノフ
三人目のイワノフは実はロシヤ人ではなくポーランド人で、しかもポーランド軍の優秀な参謀将校ミハール・リビコフスキーであることを夫は私に耳打ちしてくれた。彼は1939年(昭和14年)9月ポーランドがたった2週間のうちにソ連とドイツに攻略され分割されたとき、ルーマニヤ、ベルギー、オランダと逃げまわった末、リガにたどりついて日本の武官小野打さんを頼ったのであった。1940年(昭和15年)9月小野打さんがリガからストックホルムに移ることになったとき、彼もまたさまざまの苦労の末、再び小野打さんを頼って、ストックホルムの日本陸軍武官室にたどりついたのであった。その後小野打さんは駐フィンランド武官となってヘルシンキへ赴任されたが、彼は西村さんの許に残って情報提供者となったのであった。彼は満洲国に居た白系ロシヤ人と称して満洲国のパスポートを持っていた。それはリスアニヤに居た日本領事杉原氏の斡旋でベルリンの満洲国公使館から発行されたもののようである。
イワノフは杉原氏の計らいでベルリンの満洲国公使館発行の満洲国のパスポートを所持していたが、同公使館の秋草俊大佐(ポーランドへ赴任の予定が不能となり、そのまま同公使館総領事の資格でベルリンに居た)が彼に好意を持っていないことを夫は知り、またスウェーデン政府が満洲国を承認していないことも不安であった。そこで夫はイワノフの身柄保護のため、在ストックホルム日本公使館に頼んで、イワノフに日本のパスポートを発行してもらった。当時の代理公使神田(こうだ)嚢太郎一等書記官は快く協力してくた。パスポートの氏名は「岩延平太」と夫が名付け、彼の事務所も日本武官室の中に移した。イワノフは今もそれを感謝している。
(注2)ヤルタ会談の密約情報
この筋の情報で忘れることのできないのは、1945年(昭和20年)2月のヤルタ会談のあとで報告してきた、ソ連の対日参戦約に関するものである。「ソ連はドイツの降伏より3ケ月を準備期間として、対日参戦する」という重大情報を、私は特に心して暗号に組んだことを覚えている。中央からそれについて別に何の返答もなかったが、私どもはそれは当然、中央に届いているものと思い込んでいた。事実はドイツの全面降伏が5月8日、ソ連の対日宣戦布告が8月8日であったから、まさにヤルタ会談の通りであったことを思い知らされたのであった。
出典:バルト海のほとりにて。
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├連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信(1):誠実な人柄で情(なさけ)のつながり | nippon.com
2019.11.13
情報大国イギリスが「傑出した情報士官(インテリジェンスオフィサー)」と認めたストックホルム駐在陸軍武官、小野寺信(まこと)少将。ナチス・ドイツのソ連侵攻を見抜き、ソ連が対日参戦する「ヤルタ密約」をつかんで終戦工作に関わった小野寺の足跡を連載でたどる。
「世界標準」インテリジェンス・オフィサー
「日本のストックホルム駐在陸軍武官が、『ソ連の対日参戦』の情報をつかみ、日本の敗戦を認識して、スウェーデン王室筋に日本と連合国の仲介をお願いした」。終戦3か月前の1945年5月、英国政府は英連邦の主要国である自治領だったカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ共和国にこの最高機密情報を打電した。この終戦打診工作を行なった人物こそ、小野寺である。
小野寺は、ポーランドやバルト三国から協力を得て連合国の機密情報を次々と掴み、「枢軸国側諜報網の機関長」と恐れられた。ポーランドをはじめ全欧に築いた情報ネットワークに法王庁(バチカン)も関与し、一端には「命のビザ」を出して6000人のユダヤ人を救った外交官、杉原千畝もいた。同盟国ドイツも、ドイツ保安警察(SIPO)が41年7月作成した報告書で、「日本の『東』部門―対ソ諜報の長はストックホルムの小野寺で、補助役がケーニヒスベルク(現ロシア・カリーニングラード)領事の杉原千畝」と分析していた。
日本陸軍武官室があったストックホルム・リネーガータンのアパート。5階左の出窓のある部屋が武官事務所=筆者撮影
小野寺が成功したのは、ポーランド、エストニア、フィンランド、ハンガリーなど小国の情報士官らと友好関係を築けたためだ。これらの小国はソ連に侵略された共通項があり、祖国再興を夢みながら小野寺を「諜報の神様」と慕い、日本と密接な関係を構築した。
日本では、インテリジェンスといえば謀略や破壊工作など、市民の秘密を暴く、どこか後ろめたい「人を騙して情報を掠める」イメージがある。しかし、回想録で「情報活動で最も重要な要素の一つは、誠実な人間関係で結ばれた仲間と助力者」と語った小野寺は逆だった。他国の情報士官と信頼関係を結んだ誠実な人柄が、類い希な成果を生んだのだ。
新聞など公開情報を分析するオシント(オープン・ソース・インテリジェンス)は勿論、人間的信頼関係を構築して協力者から情報をとるヒューミント(ヒューマン・インテリジェンス)で成功した。リガ(バルト三国のラトビアの首都)、上海、ストックホルムで「人種、国籍、年齢、思想、信条」を超えて多くの人と誠実な「情」(なさけ)のつながりを築いたといえる。
小野寺夫妻が寄贈して、現在もスウェーデン軍事博物館で展示されている軍服と軍刀と、百合子夫人の着物の帯(暗号表を隠すため、外出の際に持ち歩いた)=筆者撮影
ソ連の対日参戦密約をつかむ
欧州駐在陸軍武官で唯一人、ドイツが英国本土ではなくソ連に侵攻すると説き、ドイツの対ソ戦の劣勢をいち早く掴んだ。さらに最も価値があった情報は、45年2月、ソ連のスターリン首相がクリミアのヤルタでルーズベルト米大統領、チャーチル英首相と決めた対日参戦密約だ。日本が最後の拠り所と望みをかけたソ連が背信する密約は、日本の敗戦を決定づけるもので、北方領土問題の原点になる最高機密だった。会談直後に小野寺は、ロンドンの亡命ポーランド政府陸軍情報部からヤルタ密約を得て参謀本部に打電するが、活かされなかった。ソ連仲介和平に奔走する日本の中枢に、握り潰されてしまったためだ。
しかし、ロンドンの英国立公文書館に所蔵されるガイ・リッデル英情報局保安部(MI5)副長官日記には、小野寺が英米を震撼させた情報士官として記されている。リッデル副長官は45年7月2日付けで、こう記した。
「ストックホルムで暗躍したドイツのカール・ハインツ・クレーマーが(ドイツ降伏後、2カ月して)秘密情報の交換のため日本の陸軍武官、オノデラと取り引きをしていたことを認めた。オノデラ情報は、イギリス軍の配備やフランス陸軍、空軍の配置、イギリスの航空機産業、極東の英米空挺部隊の配置、ソ連の暗号表、アメリカにおける原材料の所在地などに関する戦略的かつ戦術的なものだった。オノデラ情報は、クレーマー情報よりも価値があると考え、ドイツが気前よく報酬を支払った」
クレーマーは小野寺が戦後、家族に、「ドイツ随一の情報家」と回想した法学博士のインテリジェンス・オフィサーで、英米情報のスペシャリストだった。MI5は、安全を脅かす危険人物を調査してファイル(KV2)にまとめ、クレーマーに対して14冊も作った。だが、リッデル副長官は、クレーマーより小野寺情報の方が「価値があった」と評した。
リッデル日記に登場する日本の陸軍武官は小野寺だけだ。また小野寺のファイル(KV2/243)はあるが、対ソ諜報第一人者としてベルリンで大戦初期に暗躍した陸軍中野学校初代校長、秋草俊や、スイスで終戦工作を行なった岡本清福中将ら他の日本武官のファイルはない。英国立公文書所蔵公文書はインテリジェンス大国が小野寺を、「国際基準」で第一級の情報士官と認めて徹底マークしたことを物語っている。
終戦工作を英国が自治領と共有
情報収集だけではなかった。終戦工作に関し小野寺は表の外交で解決できないため、「バックチャンネル」(裏ルート)として携わった。ラトビア勤務後、単身乗り込んだ上海で、日中戦争に終止符を打つため、蒋介石との直接交渉の可能性を探った。
大戦ではドイツが無条件降伏する2カ月前の45年3月、リッベントロップ独外相からベルリンに呼ばれて、ストックホルムでの独ソ和平仲介の要請を受けた。降伏直前にも親衛隊情報部のシェレンベルク国外諜報局長からの依頼で、スウェーデン王室を通じて連合軍との和平を探った。
ドイツ降伏後の同年5月には、ストックホルムで、スウェーデン王室を通じた連合国と日本の和平仲介を打診した。英国立公文書館所蔵の英外交電報によると、小野寺の終戦工作について、サンフランシスコ会議(国連の設立を決めた連合国の会議)途中に米国務省から知らされたハリファックス駐米英国大使が、同月19日に英外務省に緊急電で伝えた。英政府は、「日本が初めて降伏の意志を示した」と判断したのだ。
そして、冒頭に記したように、小野寺がストックホルムにおいて、ドイツ敗戦から3カ月後にソ連が対日参戦するという「ヤルタ密約」をつかみ、和平仲介打診に乗り出した工作を、英国は「最高機密」と判断。英連邦の自治領だったカナダやオーストラリアなどと情報共有したのである。その際に、ハリファクス大使は「オーソライズされた陸軍武官は天皇の“代理”となるので、(スウェーデン)国王グスタフ五世は興味を持たれ、何事かアレンジされた」と1回限りの暗号で打電した。
小野寺の終戦工作に関する英自治領省からカナダなどに送られた最高機密情報=1945年5月25日
英国立公文書所蔵の秘密文書によると、英国が小野寺工作を評価した背景には、45年2月に3巨頭がヤルタで署名した「極東密約」について、英国がコピー15部を作成してジョージ国王はじめ戦時内閣の閣僚など中枢が情報共有していた事実がある。米国では、ルーズベルト米大統領が密約文書をホワイトハウスの金庫に封印し、トルーマン次期大統領でさえ、同年7月ポツダム会議に出発まで知らされなかった。
ヤルタ会談直後の1945年2月25日付けで外務省から首相官邸のチャーチル首相の秘書、マーチン氏に送った書簡(英国立公文書館所蔵、筆者撮影)
密約のコピーを配布して情報共有したリスト。コピーには15番まで番号が記され、1番からジョージ国王ら配布先の名前が記されている(英国立公文書館所蔵、筆者撮影)
密約のコピーを配布して情報共有したリスト。コピーには15番まで番号が記され、1番からジョージ国王ら配布先の名前が記されている(英国立公文書館所蔵、筆者撮影)
参謀本部の作戦課が小野寺電報を握りつぶした日本は、和平仲介への淡い幻想を抱き、ソ連にすり寄っていた。これに対し、北欧の中立国、スウェーデンで正鵠を得た情報を元に、ソ連ではなく米英との和平に乗り出した小野寺を、英国はキラリと光る枢軸側の情報士官と評価したのだ。チャーチルは、スターリンの野望を砕くべく米国などアングロサクソン諸国と連携し、ソ連の極東支配阻止に動き出すのである。
バナー写真:ストックホルムの日本大使館でドイツの中将と談笑する小野寺信陸軍武官(中央)=小野寺家提供
岡部 伸OKABE Noburu経歴・執筆一覧を見る
産経新聞論説委員。1981年立教大学社会学部卒業後、産経新聞社に入社。社会部記者として警視庁、国税庁など担当後、米デューク大学、コロンビア大学東アジア研究所に留学。外信部を経てモスクワ支局長、東京本社編集局編集委員、2015年12月から19年4月までロンドン支局長を務める。著書に『消えたヤルタ密約緊急電』(新潮選書/第22回山本七平賞)、『「諜報の神様」と呼ばれた男』(PHP研究所)、『イギリス解体、EU崩落、ロシア台頭』『新・日英同盟』(白秋社)『第二次大戦、諜報戦秘史』(PHP新書)など。
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├「バルトの真珠」で学んだインテリジェンスの極意:連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信(2) | nippon.com
情報大国の英国から「枢軸国側諜報網の機関長」と警戒された小野寺信(まこと)少将(最終階級)。彼が小国の情報士官から機密情報を得ることができたのは、誠実な人柄だけではなかった。ロシア語とドイツ語で高度なコミュニケーションが取れる「世界標準」の語学力を習得していたからだった。
ドイツ語とロシア語で「世界標準」の語学力
岩手県胆沢郡前沢町(現・奥州市)で生まれた小野寺は、1912(大正元)年、13歳で仙台陸軍幼年学校に入学する際、ドイツ語を選択し学んだ。「ドイツ語は幼年学校でも士官学校でも優等生であったので、ゆくゆくは陸大を卒業してからドイツへ行って勉強したいと心に期していたし、また自信もあった」(「小野寺信回想録」)からだ。
ドイツ語を得意としていたが、ロシア語にも取り組むようになった。転機はシベリア出兵だ。1921(大正10)年、ロシア極東ニコライエスクに派遣されると、旅団司令部のロシア人タイピスト姉妹、タチアーナ、クラ―ラから活きたロシア語を学んだ。語学の才もあったのだろう。わずか1年で新聞が読め、文章が書けるように上達した。
日露戦争から、脅威となったのはロシアで、ボルシェビキ革命で誕生したソ連も膨張政策を継続し、最大の仮想敵国となった。陸軍ではロシア研究の俊英の育成が焦眉の急だった。小野寺は1925年に陸軍大学校に進む際、ドイツ語で受験。見事合格すると、ロシア語を第1語学として専攻し、頭角を現した。
陸大卒業後は、陸大教官に任用され、1933(昭和8)年5月、36歳で、北満(現在の中国東北部)ハルビンに「短期留学」した。白系ロシア人家庭に1年間ホームステイして、ロシア語を磨き上げたのだ。陸軍有数のロシア専門家となった背景には、上司の小畑敏四郎大佐(当時)の引きがあった。小畑大佐は、当時、陸軍内で抗争した「皇道派」と「統制派」の派閥のうち「皇道派」の旗頭だった。
陸大在籍中の1927年、一戸(いちのへ)百合子と結婚した。百合子夫人は日露戦争の旅順攻略で勇名をはせ、退役後は学習院院長、明治神宮宮司などを務めた一戸兵衛の孫。また父の寛は黒羽藩藩主、大関増徳(増式)の六男で、陸軍皇族付武官少佐を務め、皇室との関係が深かった。この皇室に近い家柄は、小野寺が後にスウェーデン王室を通じた終戦打診工作に生きてくることになる。
ソ連ウォッチャー揺籃の地に
駐在武官として辞令を受けたのがラトビア公使館だった。二・二六事件が起きる1カ月前の1936年1月、バルト海のほとりのリガまでシベリア鉄道で赴いた。「バルト海の真珠」とたたえられる港町リガは、古代から交通の要衝にあたり、ハンザ同盟の時代から欧米のソ連専門家が育つ揺籃の地だった。ソ連と国境を接し、バルト海東岸に南北に並ぶバルト三国は地政学上、ソ連はじめ欧州各国の趨勢をうかがうには絶好だったからだ。
小野寺が駐在した1937年から40年までリガ武官室があった建物(2018年4月、筆者撮影)
小野寺が駐在した1937年から40年までリガ武官室があった建物(2018年4月、筆者撮影)
ロシア革命(1917年)の後、世界最初に誕生した社会主義国のソ連を西側諸国はなかなか承認しなかった(アメリカが承認したのは33年)。中国ウォッチャーが香港に集まったように、ラトビアが第一次世界大戦後の1918年に独立して40年に再びソ連に併合されるまで、首都リガは欧米の外交官や情報士官の対ソ最前線拠点となった。「ソ連封じ込め」政策を提言した米国の外交官、ジョージ・ケナンや、『歴史とは何か』の著者で英国の歴史家、E・H・カーもいた。
駐在していたのは、アメリカ、ポーランド、チェコスロバキア、スウェーデン、エストニア、リトアニア、イギリスとソ連の武官だった。日露戦争で大国ロシアを破った日本は武官団の間でも一目置かれ、スターリニズムの「真実」を探ろうと、ラトビアはじめ各国武官と密接な関係を築いた。欧米の白人は、宗教や文化が近く、片言で通じ合えるが、アジアの黄色人種である日本人が白人の輪に入ることは容易でない。しかし、ロシア語とドイツ語が堪能な小野寺は、臆することなく、家族ぐるみで肝胆相照らした。
百合子夫人は自著『バルト海のほとりにて』で語っている。「一番好意をよせてくれたのがポーランド武官ブルジェスクウィンスキー夫妻で、(中略)夫妻の好意が数年後に、信じ難いほどの厚い信義にまで発展しようとは、当時は思いもよらないことであった」
この後、ストックホルム駐在武官に転進したフェリックス・ブルジェスクウィンスキー武官は、再会した小野寺との友情を大戦終了後まで続けた。気脈を通じたのは、プライベートでも交流を重ねたからだ。3歳でリガに渡った二女の節子さんは、子供の誕生日パーティーでブルジェスクウィンスキーの同じ年の長男から、「人生で初めてプロポーズされた」ことを覚えている。子供が近しくなると親の距離も縮まった。
リガ陸軍武官室の自宅で小野寺(後列右から2人目)や百合子夫人(中列右から2人目)ら勤務していたスタッフ(小野寺家提供)
日独でエストニア工作員をソ連に潜入させる
親友となった武官がもう1人いた。エストニアの武官、ウィルヘルム・サルセンだ。エストニアの情報が質量ともに優れていたため、南のリトアニアと北のエストニアとバルト三国全体を兼任する希望を参謀本部に上申すると、1936年12月許可された。エストニアからの情報でスターリンの大粛正に伴ってソ連軍が弱体化している事情が次々に判明した。
情報収集には経費がかかる。提供の見返りにエストニアに諜報費として年額5000ドル(当時の為替は1ドル=4円で2万円。現在の貨幣価値は1500倍として3000万円程度)支払った。さらに「可能性があるならば広げてくれ」と要請すると、エストニアは極東までエージェントを配置した。その責任者がエストニア陸軍参謀本部第二部長(情報部長)のリカルト・マーシングだった。後に同参謀次長となるマーシングは1940年、ソ連に併合されると亡命したスウェーデンでドイツ軍情報部に入るが、再会した小野寺の右腕として支えた。
特筆すべき業績はエストニアとドイツと共同で行なった日独エ「対ソ」潜入工作だ。日本陸軍は、ベルリンに馬奈木敬信大佐(当時)を長とする参謀本部直轄の謀略組織、「馬奈木機関」を設けた。「小野寺信回想録」によると、ドイツのアプヴェーア(独軍情報機関)と共同で対ソ工作員や諜者を養成し、ソ連に潜入させて、情報収集や暴動を起こし、扇動する計画を立て実行していた。情報が漏洩して未遂に終わったが、スターリン暗殺計画も進めていた。
小野寺とマーシングは、エストニア情報部の工作員を「馬奈木機関」で養成。日本が1938年、ソ連と往復するため、国境にあるペイウス湖の高速船の購入資金1万6千マルクをエストニア軍に提供して高速船を購入し、ソ連に潜入させた。工作員の1人はソ連参謀本部に潜入し、39年まで情報を提供するなど、エストニア人の潜入は極東のハバロフスクや満州まで広がり、ロシア内(レニングラード、モスクワ、ボルガ、東シベリア)にスパイネットワークが出来たという。
世界遺産に登録されたエストニアの首都タリンの街並み(2018年4月、筆者撮影)
リガでの友情、ストックホルムで結実
「馬奈木機関」とエストニア情報部は、①ウクライナで革命家に反体制運動を起こさせる②グルジア(現ジョージア)などコーカサス地方で民族独立運動を支援して体制転覆工作――を試みた。「馬奈木機関」ではソ連から欧州各地に亡命したウクライナ人やグルジア人を工作員として養成、ペイウス湖から工作員を潜入させた。小野寺もテロ用爆弾をベルリンからエストニアまで鉄道で運んでいる。
ただし、大量の工作員をソ連に潜入させることに成功したが、戦後、小野寺は家族に「成果があったかどうかはわからない」と述べているように、ソ連の防諜に阻まれ、テロや暴動など攪乱する結果は残せていないようだ。しかし、多民族国家ソ連の弱い脇腹に、3国合同で工作を仕掛けたことは注目していいだろう。
1938(昭和13)年3月、参謀本部員兼大本営参謀の辞令が出た。リガでの2年間、ポーランドやバルト三国の情報士官たちと緊密な信頼関係を結んだことは小野寺の自信と財産になった。リガで学んだインテリジェンスの極意は諜報活動の基盤となり、後にストックホルムで結実する。リガで友情を育んだマーシングらは、再会した小野寺を「諜報の神様」と慕い、次々に機密情報をもたらしたのだった。
バナー写真:リガ駐在武官団(前列右端が小野寺信、右から2人目がエストニアのサルセン武官、後列右から3人目がポーランドのブルジェスクウィンスキー武官)(小野寺家提供)
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├小野寺信少将について | nejou-33のブログ
小野寺信少将について 2020-08-14 17:18:55
テーマ:小野寺信少将について 小野寺信という人物について述べる。
彼は1897年(明治30年)、岩手県前沢町の役場助役、小野寺熊彦の長男として生まれたが父が亡くなったため、叔父の小野寺三治の養子となった。遠野中学校を卒業後、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校を卒業した。陸軍士官学校では、同期の成績上位5名に天皇から軍刀が下賜されていた。
陸軍大学校は小野寺は卒業試験はトップだったがその前の成績が10番以下であったのが響いて総合で6番となり、拝受を逃した。
恩賜の軍刀組 刀袋に入れた恩賜の軍刀を持つ1930年代前半頃の陸軍大学校卒業者
(最左の「首席」1名と「優等」5名)。左腰に佩用している刀は当人が元より所有しているもの
この一番違いの成績は5番以内の成績の者が恩賜の軍刀組と呼ばれ、その殆んどが参謀本部に進む道が与えられたに対して、6番以下は外国の駐在武官などの勤務となった。小野寺信の最大エリートへの道はわずか一番違いで絶たれたのである。しかし、この悲劇が小野寺信を不世出のインテリジェンス・オフィサーの道へ導いたのである。ところが、この話を聞いた旧主の南部利淳が彼の能力とその不運を惜しみ、自ら刀を下賜したのである。
この43代当主南部利淳は東京大学を卒業し、芸術や文化に通じた優れた人物であり、また、学生への給費制度を設けるなど、人材の育成にも貢献した。大正3年(19149)には盛岡に「南部鋳金研究所」を設置し、東京美術学校鋳金科出身の松橋宗明を所長として迎えるなど、南部鉄器の改良発展に貢献した。
私も南部鉄器について調べたことがあり、拙書にも書いたが、彼が南部藩の旧藩主として小野寺信の実力を見抜き、認め自ら軍刀を与えた事は以上の経過から考えてもありえた事であり、小野寺信もこれを励みにしてその後の人生を精一杯生き抜いたのではないか。
さて下の写真の軍服や日本刀はストックホルムから小野寺信が引き揚げの際にスエーデン政府に寄贈したものであり、今もこうして展示されている。
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├『消えたヤルタ密約緊急電』(岡部伸)をめぐって:海神日和:SSブログ
平洋戦争末期、スウェーデンのストックホルムから陸軍武官、小野寺信が打電していたヤルタ密約情報を大本営が真剣に検討していたら、日本の終戦はもっと早まり、その後の東京大空襲や沖縄戦、広島・長崎への原爆投下、シベリア抑留、北方四島の占領なども避けられたのではないか。
電報が伝えていたのは、「ソ連はドイツの降伏より3カ月後に対日参戦する」という密約である。だが、戦後判明したことに、大本営ではだれもそんな電報をみた覚えがないという。とうぜん政府上層部もヤルタ密約を知らなかった。すると、その電報はどこに消えたのか。ヤルタ会談が開かれたのは1945年2月上旬のことである。アメリカのルーズヴェルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンが一堂に会したこの会談では、敗戦間近いドイツの戦後処理がおもに話しあわれた。しかし、同時に日本を敗北に追いこむための方策として、ソ連が対日参戦することが求められ、スターリンも喜んで同意した。この約束は密約にする必要があった。当時、日本とソ連のあいだでは中立条約が結ばれていたからである。
会議が終わって早々に、この密約の存在に気づいた日本のインテリジェンス・オフィサーがいる。それがストックホルムに陸軍武官として駐在する小野寺信少将だった。どのようにして、かれはいちはやくその情報を手にいれたのか。そのカギとなるのは、かれが築きあげた信頼関係にもとづく正確無比な情報ネットワークである。
本書は、知将、小野寺信の人物像に迫るとともに、その諜報活動の実態、人的ネットワークの広がり、スクープの秘密をあますところなく明らかにしている。夫人、小野寺百合子が著した名作『バルト海のほとりにて』では、まだ曖昧であったり、謎として残されたりしていた部分が、長年の調査によって、より鮮明に描かれたといってもよい。
ペーター・イワノフという男が出てくる。本名ミハール・リビコフスキー(おそらく正確にはミハウ・リビコフスキ)。リトアニア出身で、ポーランド参謀本部に勤めていた。ドイツによるポーランド侵攻後、一時収容所に送られたが、そこを脱出し、ベルリンで満州国のパスポートを得て、ラトビアのリガにあった日本の陸軍武官室にもぐりこむ。そして、今度はバルト三国がソ連に吸収されると、ストックホルムに移り、そこで小野寺と出会った。ポーランドの愛国者である。
リトアニアのカウナスにいた杉原千畝が、ユダヤ系ポーランド人を救う「命のビザ」を発給した背景には、イワノフの部下たちの働きかけがあった。イワノフはロンドンに拠点を置く亡命ポーランド政府の参謀本部と連絡を保ちながら、ストックホルムを拠点にソ連情報の収集にあたっていた。日本に恩義を感じながら、反独反ソの姿勢をつらぬく微妙な立場にある。
そのためナチス親衛隊指導者ヒムラーはかれを「世界で最も危険な密偵」と呼び、その行方を必死で追っていた。小野寺はドイツの追及からイワノフを守りぬき、大戦末期にはロンドンに脱出させている。
1941年はじめ、ドイツが対ソ戦を準備しているらしいという情報を小野寺がつかんだのも、イワノフらからである。実際にバルバロッサ作戦がはじまってからも、表向きの快進撃宣伝とは裏腹にドイツの苦戦が伝わってきた。
イワノフの情報はきわめて正確だった。その年10月、ドイツの劣勢を知った小野寺は大本営に「日米開戦は不可なり」との電報を何十本も打ち続ける。だが、大本営からは一本の返信もないまま、日本は無謀な対米戦争に突入する。
ロンドンの亡命ポーランド政府に帰属してからも、イワノフは命の恩人の小野寺に秘密情報を送りつづける。「ソ連はドイツの降伏より3カ月後に対日参戦する」というヤルタ密約情報を知らせたのもイワノフだった。
そこには小野寺との友情に加えて、存亡の危機に立つ日本を何とかして救いたいという思いが働いていた。
だが日本の大本営は、このヤルタ密約緊急伝を握りつぶす。それどころか戦後になっても、そんな電報は届かなかったかのようにシラを切ったのだ。
著者は防衛省の史料室、米国立公文書館、英国立公文書館などを調査し、公刊された各国の戦史をひもとき、さらに当時の関係者とも会って、小野寺が参謀本部次長の秦彦三郎にあてた緊急電のゆくえを追い、ついにその痕跡を探り当てる。
それは当時、大本営参謀本部作戦課を動かしていた、あまりにも有名な参謀、瀬島龍三のところで途絶えていた。
著者はこう書いている。
〈間違いなく特別機密電報は届いていたのである。小野寺がヤルタ密約をスクープしたことは明らかだ。そして、それは一握りの者だけでなく……参謀本部の「常識の判断」になるほど多くの者が知り得ていたのだ。しかし、ソ連の対日参戦は敗戦をも意味する不吉な情報ゆえに、作戦課の「奥の院」は、本土決戦を控えた兵士の士気に大きく影響する軍事機密と判定し、これを握りつぶしたのである。もちろん、その背景に、ソ連を仲介とする和平工作の大きな動きがあったことを忘れてはならないだろう〉
戦争末期、日本の軍部は、沖縄や硫黄島を「捨て石」にしながら、本土決戦をし、米軍に一矢報いるという「一億玉砕」の作戦を本気で考えていた。
そのいっぽうで、ソ連のスターリンの仲介により、米英との和平にこぎつけようと画策していた。仲介の見返りは南樺太の返還、漁業権の解消、場合によっては北千島の譲渡、それに満州国の中立化とその利権の提供だったという。
日本の軍部はこうした妄想のシナリオにとりつかれていた。小野寺の緊急電はそれに警鐘を鳴らすものだったといってよい。だからこそ、参謀本部によって握りつぶされたのだ。
本書があぶりだすのは、国家的妄想のおろかさである。
インテリジェンスなき信念と、主観的願望への拘泥、必要な対策を怠る無為、何が重要であるかを判断できない愚劣さ、これらは「不都合な真実」に目をつぶる日本の中枢の硬直ぶりを示している。しかし、それらはすべて、どこかで見た光景ではないか。
スウェーデン赴任前の上海での日中和平工作も興味深いが、小野寺と杉原千畝との意外な接点、反ヒトラー派のドイツの情報士官カール・ハインツ・クレーマーとの関係、スウェーデン公使岡本季正の妨害工作なども浮かび上がってくる。よくここまで調べあげたものだと感心するほかない。
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├駐在武官・小野寺信 ~日米開戦ヲ回避セヨ!~ | らしんばん航海日誌 ~探訪という名の歴史旅~
小野寺は、後に、長男と次男を自宅に集めて、百合子さんと共に戦時中に自分たちがどのような事をしてきたか、初めて語りました。(貴重な歴史証言として、カセットテープに録音しました)戦時中の事については一貫して口を閉ざしてきた小野寺が、初めて、人前で「小野寺夫妻の戦争」を語り始めた瞬間でした。百合子夫人は、その証言テープを基にして、『バルト海のほとりにて』というタイプ印刷の私家版の本を書き上げます。1980(昭和56)年の事です。そして5年後の1985(昭和61)年、この私家版を出版したいという出版社が現れ『バルト海のほとりにてー武官の妻の大東亜戦争』というタイトルの書籍が世に出ました。昭和から平成に時代がうつった1989(平成元)年2月、NHKのドキュメンタリー番組「NHK特集」でも「日米開戦不可ナリ」というタイトルで、戦時中の小野寺夫妻の活動が紹介されました。なお、小野寺信は、1987(昭和62)年に89才で、百合子夫人はその11年後の1998(平成9)年に91才で亡くなりました.
小野寺信陸軍少将―1897(明治30)年生~1987(昭和62)年没。第二次世界大戦の中立国スウェーデンの首都ストックホルム駐在武官であった小野寺は、同盟国ドイツが日本政府や大本営が期待するイギリス本国侵攻ではなく、日本とは中立条約を結んでいたソヴィエト連邦へ侵攻する意図を持っていること、さらに独ソ戦がドイツにとって戦局不利な状況であるという正しい情報を入手し、ドイツの敗北は必至であり、「日米開戦不可」を30回以上も本国に打電しました。その内容の一つに、「ドイツ軍は東部に向かい戦死者のための棺を多く輸送している」(『正論』昭和天皇と激動の時代より)というものがあります。
小野寺は、ポーランド出身の愛国主義者ミハール=リビコフスキー(※ロシア人ぺーター=イワノフとして活動)から情報を得ていました。イワノフ(リビコフスキー)は主にソヴィエト情報を得るスパイでした。それゆえ小野寺は当時のヨーロッパ戦局を正確につかみ、本国へ「ドイツからの情報だけに頼るのは危険である。」「ドイツ軍の敗北は必至」と、何度も警告したのです。しかし、当時の大本営及び陸軍参謀本部は親ドイツ派で固められておりました。「反ドイツ的、親米的な意見は口にするな」という気質が小野寺の情報を排除し、ヒトラー(ナチス=ドイツ総統)を信奉する駐ドイツ大使大島浩(おおしまひろし)が発するベルリンからの情報だけを採用したのです。皮肉にも‟絶対に負けるはずがない“ドイツがモスクワで敗北した12月8日、日本は対米蘭開戦(太平洋戦争※当時は大東亜戦争と呼称)に舵を切ることになりました。
イワノフ(リビコフスキー)は、ドイツとソヴィエト連邦によって消滅させられた祖国ポーランドの復興のため尽力しますが、ドイツの軍事機密を収集しているとしてドイツ国防軍から命を狙われました。しかし小野寺は終始イワノフ(リビコフスキー)を匿い通します。戦後、イワノフ(リビコフスキー)は祖国ポーランドが共産化したため帰国できず、アメリカに渡り、その後カナダに移住しました。彼は「私が今日生きているのは全て小野寺のおかげ」(平成元年2月NHKスペシャルより)と語っています。また百合子夫人に対しても「小野寺が私をかばい続けてくれた恩は、一生わすれるものではない。」(小野寺百合子著『バルト海のほとりにて』より)と伝えたそうです。
NHK終戦スペシャルドラマ「百合子さんの絵本―陸軍武官・小野寺夫婦の戦争―」でも描かれていましたが、『バルト海のほとりにて』には駐在武官とその妻の仕事が詳細に書かれています。武官の仕事は各国の駐在武官や王侯貴族と接触して大日本帝国のためになる情報を入手し、素早く本国に通達すること、及び暗号書や重要文書の保管でした。その妻の役割は、武官が記した情報メモを暗号文書に変換したり解読したりすること、第三者に任せられない重要機密の扱い、金庫の管理などです。
小野寺が本国に発信し、無視された情報の中で最も重要なものは、1945(昭和20)年2月4日~11日まで、アメリカ大統領ローズヴェルト、イギリス首相チャーチル、ソヴィエト連邦共産党書記長スターリンが、クリミア半島のヤルタでヤルタ会談(ヤルタ密約)を行い、千島列島のソ連領有と引き換えに、ソヴィエト連邦はドイツ降伏後3カ月以内に日ソ中立条約を破棄して対日参戦する密約を交わしたことを伝えたことです。彼は「戦争ヲ終結スベシ」と何度も打電しました。さらに大本営の主戦派がこの情報を握り潰したことを悟った小野寺は、単独でスウェーデン国王を介した和平工作を試みています。
結局、大本営から鈴木貫太郎首相あるいは昭和天皇にこの情報が伝えられることはなく、近衛文麿(このえふみまろ)元首相を特使としてソヴィエト連邦に和平工作の仲介を依頼しようと画策するお粗末ぶりでした…。ドイツ降伏からちょうと3カ月経った8月8日にソヴィエト連邦は日本に宣戦布告。満州と南樺太に侵攻しました。その結果、60万人以上のシベリア抑留者を出し、中国大陸にいた100万人以上の日本人が帰国時に地獄の苦しみを経験し、多くの犠牲者や中国残留孤児をうみました。北方領土問題など今日まで未解決な問題も、ソ連の対日参戦に起因するものです。
1945(昭和20)年2月の段階で、小野寺の情報を大本営と政府が真剣に吟味し、スウェーデン国王を仲介に和平工作を進めていたら…。2月に「国体護持」を条件に終戦していたら、3月10日の東京大空襲、4月1日~6月23日の沖縄戦、5月29日の横浜大空襲など各都市への無差別爆撃、8月6日の広島への原爆投下、8月8日のソ連の対日参戦、8月9日の長崎への原爆投下…、これらの犠牲はなかったのかもしれません。さらにはポツダム宣言もなかったわけです。小野寺の情報を握り潰した大本営軍人に限定しますが、その者が戦争継続と敗北の責任をとらず。
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├「諜報の神様と呼ばれた男 連合国が恐れた情報士官・小野寺信の流儀」 - 好きなもの、心惹かれるもの
英国ロンドン郊外ミルトンキーンズにあるブレッチリーパークに英国に盗まれた日本陸軍の暗号書が展示されているのを見て衝撃を受けた。館内の一角でM16が密かに入手した日本陸軍の日本語とアルファベットで書かれた暗号書(乱数表)を展示していた。少なくとも1944年初め頃から太平洋諸島や欧州などで日本陸軍武官の電報を傍受して解読していた。
日本の暗号のうち最も早く解読されたのは外交暗号だった。1940年と真珠湾攻撃の1年以上前から終戦まで外交暗号電報が解読された。ベルリンの大島浩大使の暗号電報を解読して連合国側がナチス・ドイツの独裁者ヒトラーの本音を読み取っていたことはあまりにも有名である。
外務省電信課長などを務めた亀山一二はソ連大使館に参事官として勤務していた1945年12月、戦時中に外務省と在外公館などの間で情報伝達に用いた暗号は理論、技術がすこぶる幼稚だったと指摘。
海軍の暗号も日米開戦時から解読されていた。連合国は陸軍の暗号は十文字以内の短文でモールス信号を発信していて手こずった。ブレイクスルーを生んだのは、ニューギニアの村落で玉砕した日本軍が残していた暗号表を、連合軍が入手したことだった。
1943年、東大数学科名誉教授高木貞治という世界的権威の数学者の協力を仰ぎ、天文学者らを集め、小野寺がスウェーデンで入手したクリプト社の暗号機「クリプトテクニク」を改良して44年にアメリカの暗号の一部を解き始めた。
「暗号を盗んだ男たち」檜山良昭によると、45年4月からは解読が進み、5月21日は初めて米軍のZ暗号が完全解読できた記念すべき日となり、7月半ば、米国国務省が重慶の在中国大使館に打電した電文が解読された、という。
中央特殊情報部の本部は三宅坂の参謀本部にあったが、太平洋戦争開始と同時に市ヶ谷台に移り、赤坂に移転後、44年春に英国、米国の暗号を解読する研究部が杉並区高井戸の浴風園という日本最古の養老院に移った。数学、英語を専攻する学徒動員兵や勤労動員学生、女子挺身隊、旧姓中学生を加えると総人数512人が米国軍の各種暗号の解読作業を行なった。
M16がロンドン郊外ミルトンキーンズにあった庭園とマナーハウスで女性や若いオックスフォードやケンブリッジの学生を動員して各国の傍受電報を解読したステーションX(通称ブレッチリーパーク)と同じである。
後二年早く、開戦の1941年から数学者を使い始めていたら、あんなに簡単には負けなかっただろう。暗号少佐だった釜賀一夫は、戦後後悔の念が消えなかった。
支那課を中心として国民党No.2だった汪精衛を担いで傀儡親日政権を作り、戦争を終わらせる秘策、主導したのは参謀本部支那課長から謀略課長を務めた影佐禎昭である。ところがこの動きに疑念を抱いたロシア課は汪精衛工作が山場に来ていることを察知し、その前に重慶国民党政府との直接和平工作を図ろうと小野寺を急遽、上海に派遣した。小野寺はこの工作について、ロシア課の他に謀略課からも命令を受けていた。となると謀略課は、汪工作と直接和平工作の二つを同時に模索していたことになる。
リガからロシア課に復帰した直後の1938年7月、小野寺はロシア課課員として、板垣征四郎陸相の知遇を得た。中央にパイプを持った小野寺が行なった蒋介石への和平打診工作は、決してスタンドプレーでなかった。
小野寺に協力した人物に、蒋介石を対手とせず、と発言した近衛文麿首相の長男、近衛文隆の名を挙げていることに注目。プリンス近衛は、東亜同文書院理事の肩書きで近衛文麿が秘密裏に上海に送り込んだ密偵の早見親重と友人の武田信近と、小野寺と共に日中和平に傾注していた。
「木戸幸一日記」に、近衛文隆の行動記録として、小野寺さんの手先となり、重慶工作に深入りしつつ、との記載もある。早見と中支那派遣軍の同僚である三木亮孝がいた。早見、三木、近衛文隆を介して、鄭蘋如(テンピンルー)も出入りしていた。日中混血の美貌のスパイ鄭蘋如は、重慶政府の特務機関、国民党中央執行委員会調査統計局に属しながら、直接和平を進める構想に賛同して、小野寺機関に協力していた。翻訳係として働いていたと言われる。
影佐が傀儡政権を作って和平の道を見出そうとしたのに対し、小野寺はあくまで多くの中国国民の支持を集める蒋介石を相手に戦争を早く切り上げようと考えた。「中国のナショナリズムを考えると、傀儡の汪政権では、中国の民衆の信頼を得られない。根本的に解決するには、蒋介石政権に直接和平交渉を開くしかない。そして天皇の決断を得ずして、泥沼化した日中戦争の終結は無理だろう。」
バルト三國のラトビアの首都リガに駐在してヨーロッパで民族の興亡を見た小野寺は、傀儡政権では立ち行かないことを知っていた。最初のフィンランドのソ連との冬戦争のとき、ソ連が作った傀儡政権では国民が動かなかった。ドイツがノルウェーに作った傀儡政権も国民が動かなかった。
小野寺がラトビアで学んだことは、ソ連が世界を共産化する野心を持っていることだった。国民党の背後に、敵対関係にありながら抗日で合体を模索する中国共産党がいて、背後でコミンテルンが繰っていることを見抜いていたのだ。国民党政府との戦争が長期化すれば、利するのは中国共産党であり、ソ連である。小野寺は、早急に蒋介石国民党と和平し、ソ連、コミンテルン対策を優先すべきと考えた。
帰国した小野寺は、東海道線で京都から帰京する近衛文麿に、浜松-小田原間の車中で面会する。だが文麿は、軍が同意さえすれば、と言うだけで、諸手を挙げて賛成ではなかった。失意にくれた小野寺を同期の親友参謀本部謀略課の臼井茂樹が救う。蒋介石と直接交渉する委任状を発行した。
臼井の取り計らいで板垣征四郎陸相と中島鉄蔵参謀次長と面会。小野寺と同郷の板垣陸相は、こう語っている。「香港はもちろん、重慶まで行って蒋介石に会う」作戦課の中で、重慶直接交渉派だった秩父宮や堀場一雄からも激励された。
ドイツは潜水艦で、V1ロケットの情報ほか、日本に協力した一方、独ソ戦に踏み切ることを日本に内緒にしたのは、日本の暗号を信用していなかったから。小野寺信は、蒋介石、秩父宮、グスタフ五世、グスタフ五世の甥であるプリンス・カール・ベルナドッテという王族と実際に会っている。ほかのネゴシエーターとレベルが違う。
影佐には、陸軍上層部を説き伏せる政治力があった。自民党谷垣禎一の母方の祖父が影佐である。
大本営内にも、現地軍の中にも、汪工作に疑問を持つ軍人は多かったのだが、欧米勤務出身者が多く、インテリで政治力がない。汪派の人々は長年の中国勤務で、世界的見地に立つ視野を欠いていたが、政治力は強かった。結局中央は、汪派に振り回された。
小野寺が陸軍内の権力闘争に敗れた背景には盧溝橋事件の前年1936年2月に発生した二・二六事件があったとの見方もある。当時の陸軍内では、蒋介石と和解し、ソ連に対抗するため国力の充実を図ろうというグループと、対ソ連は棚上げにして、まず支那大陸を支配しようという派に大別された。前者は荒木貞夫、真崎甚三郎、小畑敏四郎らが率いて皇道派と呼ばれ、永田鉄山、東條英機が主導する後者の統制派と激しく対立した。
皇道派の若手将校が起こした二・二六事件後、皇道派の人々は陸軍中枢から外れ、統制派が主導権を握るようになった。
小野寺は小畑の一番弟子と見なされる皇統派の一端にあった。皇道派と統制派の対立は、その後の大戦に置いて小野寺が参謀本部に送る情報の取り扱いでも公平さを欠き、日本の国益を大きく損ねることになるのである。
東京で国民政府と直接交渉するため重慶に行く了承を得ようと工作を進めていた近衛文隆と早見は、閣議で汪工作が決まると、軟禁となる。鄭蘋如ら中国人工作員も逮捕され、日本の憲兵隊に処刑された。
汪政権が成立したが、日中和平は実現しなかった。日本政府が当初親日中国人に約束した、大陸からの日本軍の撤退を履行しなかったからだ。主流派だった影佐はラバウルの第三十八師団長に更迭された。
蒋介石は「蒋介石日記」の中で、自分に対する日本の和平案は1938年から1940年の間に12回提議され、和平要求を12回拒否したことを明らかにしている。小野寺は、12人のうち最も初期の段階の一人だった。
小野寺が上海から帰国する寸前、蒋介石は部下の姜豪を通じて金製のカフスボタンを贈った。カフスボタンには蒋介石が自筆で書いた「和平信義」の彫が入っていて、国と国の間は和平、人と人との間は信義、との言葉を小野寺に伝えたという。
ヒトラーは独ソ戦に踏み切る決断について、ベルリンを訪問した松岡外相に隠していた。
ロンドン駐在だった辰巳栄一少将も、1940年10月、独軍の英本土攻略は不可能と断言できぬまでも、その実現は困難と判断する、と報告している。しかしこれらは、英米に偏りすぎた情報として処理され、大島大使をはじめとするベルリンからの親独情報が優遇された。視野の狭い統師部が、独ソ戦に関する情報の価値判断を見誤り、国家の指導者に決断を促す材料として提供していなかった事実がある。
1943年小野寺はノルウェーを占領したドイツ軍に招待され、ノルウェーを訪問した際、ドイツ参謀本部のウォロギツキー大佐から、独ソ戦前のドイツ大本営は、作戦準備をカモフラージュするため、日本外交団に対して、ドイツ軍が英本土上陸作戦に向かうような印象を持たせるため、あれこれ技巧を凝らす逆宣伝をした、と聞かされた。
ヒトラーは自分たちが伝える情報を鵜呑みにする大島大使を最大限に利用して、偽情報に夜撹乱作戦をした。
ストックホルム武官室には、ペーター・イワノフという人物が出入りしていた。ポーランド参謀本部きっての大物インテリジェンス・オフィサー、ミハール・リビコフスキーである。独ソ開戦を掴む最後の決め手になったのは、彼の情報だった。
ドイツ軍が開戦に備え、ソ連国境に近いポーランド領内で次々と配置しており、同時に棺桶を準備したという内容だった。
エストニアとポーランドの情報武官が小野寺の味方について、非常に精度の高い情報を優先的に回したことで、どこよりも早くて正確な軍事情報を手に入れることができたのに、その重要さを理解できない日本政府中枢部によって握り潰された。(事実は、もっと知られて良いことだと思います。果たして小野寺の情報は、確実に昭和天皇の耳に入ったのでしょうか。)
ナチスはリビコフスキーを亡き者にしようとしていた。ゲシュタポで逮捕されたのは、リビコフスキーの直属部下のヤクビャニェツ大尉だった。ポーランド地下組織のリーダーとして、ドイツとソ連に対する諜報活動をしていた彼は、ベルリン満州公使館で匿われていた。彼は以前、リトアニアのカウナス日本領事館で、杉原千畝領事代理に協力している。密かな日本とポーランドの諜報協力は強固だった。
ドイツは、ベルリンの大島大使に自分たちに都合の良いニュースを日本に提供しているのに、ストックホルムで正反対の都合の悪い情報を集め、日本に提供されることに我慢がならなかった。
ドイツ諜報機関から、リビコフスキーの身柄引き渡し要請が、大島大使に行われた。しかし小野寺は、頑として受け付けなかった。
リビコフスキーの更なる身の安全のため、満州国のパスポートをストックホルム公使館の神田代理公使に依頼して、日本パスポートに変更した。リビコフスキーは、これで日本人になれた、と小野寺に深く感謝したという。(バチカンを通じた和平工作は、行われなかったようですね。むしろポーランド情報武官を通じて、早い時期にロシアの対日参戦という重要な情報がもたらされたことを生かせなかった。)
在ローマ日本大使館の河原峻一郎一等書記官とイエズス会総長のウラジミール・レドホウスキ神父が、ポーランドの地下組織が日本の外交クーリエを使って、ローマからベルリンなどへの情報が伝達できることに深く関与している、とイタリア国防省から警告を受けていた。
亡命ポーランド政府の情報士官達が、日本の外交特権の行嚢を使って、在欧公使館やバチカンの支援を受け、ワルシャワやヴィリニュスからスウェーデンを経由して、ロンドンのポーランド亡命政府へ情報を送る全欧規模の広範な諜報ネットワークを確立していたのである。(行嚢(こうのう)とは、郵便物や旅行用の袋を指す言葉です。郵便物を入れる袋。郵便物を入れて郵便局間で輸送する袋で、郵袋(ゆうたい)とも呼ばれる。郵袋は布製の袋で、郵便局から他の局へ送る際に使用される)
大戦末期、長年にわたる恩義に報いる大きなお礼が、ポーランドから小野寺を通じて日本に送られることになる。(戦局の全体像が見えていた少数派と、惑わされていた多数派の違いと混乱が、この本によく描かれています。負けるよう邪魔をするように、と指令されていた人々が混ざっていたの)
朝日新聞のストックホルム特派員として王室を取材していた衣奈多喜男は戦後、「証言 私の昭和史」で証言している。「あの時グスタフ五世陛下は、日本が戦争に突入してミリタリストが非常に強くなり、その厚い壁に囲まれて、日本の天皇陛下が大変お困りになっていられるのではないか、と言っておられたということも聞きました。もしそういうことなら、スウェーデン王室は、親戚でもあるイギリス王室を通して、アメリカとの交渉の道をつけて差し上げたい、というのがスウェーデン王室の偽らぬお気持であった、と私は推測しています。」
小野寺が意を決したのは、大本営と政府の連絡会議から特使として欧州に派遣された岡本清福中将とベルリンの日本大使館で会った1943年9月だった。ベルリン空襲で避難した防空壕の中で、和平工作に取り組むことで意気投合したのだ。渡欧した岡本中将の使命は、ドイツの本当の国力を探り、ヨーロッパで日本の終戦の機会を模索することだった。小野寺と、終戦工作は中立国でしかできない。互いにそれぞれの国で努力しよう、と固く約束し、岡本はチューリヒへ赴任した。
その後岡本中将はスイスで、欧州総局長アレン・ダレスを通じて和平工作を、加瀬俊一スイス公使、北村孝治郎国際決済銀行理事、吉村為替部長、ペル・ヤコブソン同行経済顧問と終戦間際まで行った。
真珠湾攻撃から半年後、1942年5月、珊瑚海海戦の直後、拝謁したスウェーデン国王グスタフ五世から、忠告を受けた。「日本は戦勝に酔っているようだが、戦いは勝つときばかりではないのだから、適当な時期に終戦を図るべきだろう」。
この国王の言葉が小野寺の心に深く響いた。親日的なスウェーデン国王が同じ君主国の日本に示した行為に感謝して、その機会が来れば、国王に仲介の労をとってもらい、国王が親戚関係にあるイギリス国王との間に和議の道が開けないだろうか。そんな期待を大戦初期から胸に秘めていたのである。
一方、重光外相が朝日新聞専務鈴木史朗を使って、駐日スウェーデン大使バッゲに英国を仲介とする和平工作を申し入れるという同時和平工作が発覚。
(どうして肝心なところで、足を引っ張る日本人が必ず現れ、ストップしてしまうんでしょう。)(東郷外相に告げ口した岡本スウェーデン公使。和平工作の助っ人扇大佐が駐スウェーデン海軍武官として任命されながら、ビザ発給の斡旋を頑として拒否し、国益を毀損した岡本公使のようなタイプの人物は、戦時中の本に必ず出てきますね。)
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├福島新吾―体験戦後史 1945~47―旧制一高、東大法学部、学徒出陣、東大社会科学研究所助手時
ポツダム宣言受諾へ
-人事課長に大学を卒業すれば高等官へ推薦の道もあるといわれ試験もなしに大学生のまま嘱託に採用される-
母方の祖父と伯父が共に外交官だったからかねてその道を目指していた。しかし大学授業短縮で昭和18年春の最後の高等文官試験(外交科)を受 けられず兵役に服したので、高等官になれない。それは承知でせめて外務省で働きたいと思った。成田人事課長に大学を卒業すれば高等官へ推薦の道もあるといわれ、試験もなしに大学生のまま嘱託に採用され、世田谷区下馬の分室勤務を命じられた。兄の1942年秋の初任給も5~60円だった。しかし戦時インフレで、会計課が斡旋したヤミ鯨肉2キロを買ったら最初の月給は無くなったと記憶する。
1945年5月の空襲で東京霞が関の外務省庁舎は罹災した。焼け跡を囲む古典的な飾りのついた鉄柵ばかりが残って哀れであった。その前に外務省調査局は、今の東急東横線学芸大学駅に近い、当時の東京第一
師範(学徒勤労動員で休校状態だったと思う。現在の東京学芸大付属高校)に分室として移転していた。本省はどこに移ったのか知らない。8月の11日か12日、その一室で、隣の課の課長がいつもより多い四、五人の課員を集めて「まだ秘密だが、ポツダム宣言の受諾がきまって連合国と接触中だ」と伝え、破顔一笑「助かった。これで私の家は焼けないですんだ」とつぶやいた。私はかねて課内で読んでいた外国公館からの秘密電報の内容などから、近くこんな結末になろうとはおよそ承知していたから、事柄には驚きはしなかった。しかし国家の重大事に対するこの課長のあまりにも私的な受け止め方に心から腹を立てた。
-無人の部屋で暇にあかして棚から勝手に機密電報を引っ張り出し、片っ端から拾い読み-中立国を介しての米英政府への必死の和平のための接触(外国電報ではpeace-feelersといわれていた)
私の勤務なるものは、通常はほとんど無人の部屋で、暇にあかして棚から勝手に機密電報を引っ張り出し、片っ端から拾い読みをすることにつきた。そこには大本営発表とは正反対に、珊瑚海、フィリピン沖海戦の大敗、「陸奥」「武蔵」「信濃」「大和」など大艦の無為の撃沈や事故、スイス、スウェーデンなど駐在の日本の外交官たちの報告(アイルランドのダブリン駐在の別府節弥領事のものが特にすぐれていた)。中立国を介しての米英政府への必死の和平のための接触(外国電報ではpeace-feelersといわれていた)、佐藤尚武駐ソ大使以下の、(和平斡旋依頼のための)近衛特使のソ連派遣受入れ交渉の顛末などが記され、眼から鱗の落ちる思いを日々くりかえしていた。
佐藤尚武駐ソ大使公電に報じられた1945年度ソ連国家予算の分析(私の結論はソ連は対独戦は終わるのに国防費を減額 していない。対日戦に要注意ということ)
戦争末期の外務省調査局には実は何の仕事もない。人事課の乙津領事は上海で幼い私を覚えていると言われたが、課長の吉田氏は欠勤。かわりの上司にあたる課付きの市川泰治郎元シドニー領事から二三の調査を命じられた。佐藤尚武駐ソ大使公電に報じられた1945年度ソ連国家予算の分析(私の結論はソ連は対独戦は終わるのに国防費を減額
していない。佐藤尚武 - Wikipedia.。対日戦に要注意ということ)。又当時まだクーリエ(傳書使、courrier)が駐 ソその他中立国大使館から運搬していた"DailyWorker"のレジュメが求められた。
米国の株式価格変動を太平洋の戦局(フィリピン、沖縄、硫黄島など)と対比してグラフに取ってみた。株価の上下には全く勝敗の影響が見られず、もはや戦争の大勢は決しているとの判断がついた
今思うに外務省としてそんな将来的ビジョンなどなかっただろうから、彼の個人的に興味のあるものを小手調べにやらせて見たのだろう。レジュメの意味が分からず、問い返したら、作ったことがないのかとやや軽蔑気味に説明されて屈辱を覚えた。マスプロ教育
の東大と昭和初期の東京商大の違いだった。古くから基礎的研究が重んじられた商大ではそんなゼミ教育が行われていたのだろう。東大ではそうした経験を持てなかった。それによって女性たちに、新聞を何時まで読んでいるのと馬鹿にされながら、世界労働組合会議創立総会の概要を作った。さらに世界労連の決議に戦争犯罪人の処罰要求があったので、第一次大戦の戦争犯罪人処罰の実態をアメリカの政治学雑誌で調べた。そしてカイザーはオランダに亡命したので、処罰できず、戦時国際法違反者の処分に終わったと報告した。今一つ自分で考えついて当時『中外商業新報』といったか、『日本産業経済新聞』だったかに掲載されていた米国の株式価格変動を太平洋の戦局(フィリピン、沖縄、硫黄島など)と対比してグラフに取ってみた。株価の上下には全く勝敗の影響が見られず、もはや戦争の大勢は決しているとの判断がついた。
市川氏はそれを見せても口を閉ざしたままで何も感想はもらさなかった。そんなことは多分識者にはすでに当然だったし、憲兵の耳を警戒する面もあったのだろう。
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├御前会議|太平洋戦争開戦はこうして決められた
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├(83) 「日米開戦不可ナリ」|ストックホルム 小野寺大佐発至急電 - YouTube
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├小野寺信 - Wikipedia
小野寺信(おのでら まこと、1897年〈明治30年〉9月19日 - 1987年〈昭和62年〉8月17日)は、日本の陸軍軍人、翻訳家。最終階級は陸軍少将。1897年、岩手県胆沢郡前沢町(現在の奥州市)において町役場助役・小野寺熊彦の長男として生まれる。12歳の時に熊彦が病死し、本家筋の農家・小野寺三治の養子となる。遠野中学校、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校を卒業(31期、歩兵科。歩兵科5位で恩賜の銀時計を拝受。
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├大島浩 - Wikipedia
大島浩(おおしま ひろし、1886年(明治19年)4月19日 - 1975年(昭和50年)6月6日)は、日本の陸軍軍人、外交官。最終階級は陸軍中将。第二次世界大戦前から戦中にかけて駐ドイツ特命全権大使を務め、日独伊三国同盟締結の立役者としても知られる。終戦後の極東国際軍事裁判ではA級戦犯として終身刑の判決を受けた。陸軍士官学校、及び陸軍大学校を卒業した陸軍軍人であった。1921年(大正10年)、駐在武官補として初めてドイツに赴任、ナチ党とのあいだに強い個人的関係を築くようになった。1938年(昭和13年)には駐ドイツ日本大使に就任、日独同盟の締結を推進し、1940年(昭和15年)に調印された日独伊三国同盟も強力に支持した。終戦後にはA級戦犯として終身刑に処せられ、1955年(昭和30年)まで服役した。
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├”太平洋戦争ラストミッション”戦後日本の命運を分けた緑十字機|ABEMAドキュメンタリー
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├日米ソ“スパイ戦争” 真珠湾攻撃の背後にあった思惑|ABEMAドキュメンタリー
├吉川猛夫 - Wikipedia
最後の打電は1941年12月6日の第254番電で、太平洋戦争開戦(真珠湾攻撃)の6時間前に東京に届いた。真珠湾攻撃の事は何も知らされておらず、攻撃開始時は自宅で普段と変わらぬ朝食を摂っていた。開戦後は他の総領事館員とともに軟禁状態となった後アリゾナの収容所へ入れられたが、証拠不十分で正体が発覚することなく、1942年8月15日に日米の交換船を使用し、喜多総領事をはじめとする他の総領事館員とともに無事日本へ帰国した。日米開戦後のFBIの尋問は領事館にいた頃から吉川に集中した為、領事館の職員の多くが彼の正体に勘付き、中には聞こえるように彼への怨嗟の声を放つ者もいたという。帰国後は海軍で日米の戦力を分析する仕事をしていたが、海軍内ですら根拠の無い情報が錯綜し日本有利としたがる風潮の中で疎んじられ、辞職願いを受理されぬまま実家に帰った。戦後、GHQが戦史を編纂する際に彼から聴取を行おうとした際には、「死ぬまで黙り通すべき」と言う上司を制してそれに応じた。
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├石井秋穂 - Wikipedia
国策をね、一番余計書いたのはわしでしょう。やっぱりわしが第一人者でしょう。罪は深いですよ。天皇陛下が、第一項に戦争が書いてある、第二項に外交が書いてあるって、ご機嫌が悪いわけね。ところがそれを、第一項に戦争を書いたのは、わしですよ。大東亜戦争ていえば、すぐさまあの「四方の海」ね、あれを思い出します。だからわしはあの政策に、ずいぶん責任がありますよ。資産凍結を受けてね、それから、約1週間ばかりに考え通したですよ。どうしようかと……。夜も昼もうちにおっても役所に出ても、そればっかりを考えた。そして、もう一滴の油も来なくなりました。それを確認した上でね、それで、わしは戦争を決意した。もうこれは戦争よりほかはないと戦争を初めて決意した。和解となればね、あの時には日本は支那から撤退せにゃいけなくなりますね。それでわしは考えたんですがね、支那から撤退するとなると満州も含む、それにもかかわらず賛成する人がおろうか、おったらそれは本当の平和主義者か、そういう人がずうっと上の人からね、下のほうの幹部にいたるまで誰かおるだろうかと考えたら、おらん誰も。
結局理論的に申せばどれもこれもみな問題があったことになりますけどね。それを正直に申せばね侵略思想があったんですね。それが限りなくね、あっちこっち、これが済んだら、今度はこれという風に侵略思想があったんですよね、もとは。そういうことになりましょうね。
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├高田利種 - Wikipedia
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├大島浩の生い立ち
のちに陸軍大臣になる大島健一の長男として愛知県名古屋市に生まれる。その後は東京で育ち1898年(明治31年)、東京府立四中入学、陸軍幼年学校入学資格である1年次修了後、1899年(明治32年)9月、東京陸軍地方幼年学校入学。1904年(明治37年)11月、陸軍中央幼年学校卒業。東京陸軍地方幼年学校の同期には東条英機がいる。
大のドイツびいきであった父健一は、息子の大島浩に対しては、ドイツ語教育とドイツ流の躾をし、ドイツ語の単語を一日ごとに10語暗、陸軍幼年学校時代は週末にドイツ人の家に行きドイツ語会話をさせた。長期休暇はドイツ人の家庭で過ごした。軍人となってのちドイツに駐在すると、ドイツ人青年にドイツ語を習い、そのときの教科書は『ロシア革命』(ローザ・ルクセンブルク著)や、『手紙』(カール・リープクネヒト著)であった。
陸軍武官である大島浩はドイツ語に秀でた才能を示していたことからドイツ駐在武官としての経歴が長く、つづいてドイツ大使になった。第一回目が 1938年(昭和13年)10月8日で、同時に予備役編入、駐ドイツ大使に任命。第二回目が1939年(昭和14年)12月27日、大使依願免職。1940年12月にドイツ大使に再任。第一次世界大戦による疲弊からの復興と連動する国家社会主義のナチス党の台頭の熱気、狂乱のなかにいてヒットラーに心酔してしまった。
ヒットラーに心酔させたしまったドイツ駐在武官としての大島浩の履歴
大使第一期回目 1938年(昭和13年)10月8日から1939年(昭和14年)12月27日
1921年(大正10年)、ベルリンに赴任し、ドイツ大使館付陸軍武官補佐官に着任する。1923年には、オーストリア大使館付陸軍武官としてウィーンに赴任。オーストラリアはこののちにドイツと一つの国になる。オーストリア駐在武官時代に、アメリカ大使館職員からアメリカの暗号表を入手している。1934年に再度ベルリンに駐在。政権の座についていた国民社会主義ドイツ労働者党いわゆるナチス党の上層部と接触する。大島浩の独自の行動である。こうしたことを通じて日独同盟の下地をつくった。その後日本と英米との関係が悪化する中、大島は親独派が多い日本陸軍中央と通じて、1936年に日独防共協定の締結の裏役になっている。1938年(昭和13年)にドイツ大使に就任したのは、当時のドイツ大使であった東郷茂徳を退けてのことであった。
このころの駐英特命全権大使であったのが吉田茂。親英米派の吉田茂に対して親独派の大島浩とされている。
大使就任した大島浩は、政治家ならびに外交官にしてナチス党幹部のヨアヒム・フォン・リッベントロップと親しくなり、アドルフ・ヒトラー総統と面識を持つようになる。
しかし1939年8月25日にドイツの独ソ不可侵条約締結を、日独防共協定違反として日独同盟交渉中断を日本政府は閣議決定する。平沼 騏一郎内閣は日独防共協定違反の政治責任により総辞職。独ソ不可侵条約締結は日本の政界も揺がした。大島浩に責任が及び帰国命令がでる。帰国後に大使を依願免官の措置。
大使第二期回目 1940年12月から1939年(昭和14年)12月27日
大島浩の後任に任命されていた来栖三郎は、1939年9月に始まった第二次世界大戦での日独伊三国同盟が締結の状況において、枢軸国外交に親米とされる来栖は不適任と判断された。大島浩は1940年12月に駐独大使に再任。1941年3月27日には松岡洋右外務大臣のベルリン訪問時には松岡・ヒトラー会談に同席。1941年4月には、独ソ不可侵条約を破ってドイツがソ連に攻め込むことを察知していた大島浩は、ベルリンに来ていた松岡洋右に対して日ソ不可侵条約締結を行なわないよう進言。しかし日ソ中立条約は締結される。また、1941年6月5日にヒトラーと会った大島は、ドイツがソ連に戦争を仕掛けることを察知し打電する。松岡は取り合わなかった。
大島のこのときの情報は後に大本営においては大島情報は正しいという思い込みをさせることになる。大本営は大島浩情報を第一とし、ソビエト大使あるいはスエーデン駐在武官の小野寺信の戦況情報を従とし、実際には信頼の薄い情報として取り合わなかった。ドイツのソ連のモスクワとスターリングラードへの侵攻が失敗したことが判明していた状況下において、1941年12月8日の日本の対英米戦争の宣戦布告となる。開戦の数カ月前にロシア戦でのドイツの敗北を知っていた小野寺信は「日米開戦絶対に不可なり」の電報を何度も大本営向けに打っている。
日本大使館や日本の駐在武官が本国との通信の電文はドイツにもイギリスにも解読されていた。 暗号解読におけるアラン・チューリングの功績の詳細は国防の意味もあって、事実上1970年代まで秘密にされていた。
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├アラン・チューリングとドイツの暗号解読
イギリスはアラン・チューリングらによって1939年にドイツのローター式暗号機エニグマの解読に成功した。解読成功を隠したためドイツ軍は終戦までエニグマを使用してうた。日本からの電報も暗号によるものであったが戦後になって解読されていたことが判明する。
チューリングは、第二次世界大戦の間、ブレッチリー・パークにあるイギリスの暗号解読センターの政府暗号学校にてドイツの暗号を解読する手法を考案。英国の海上補給線を脅かすドイツ海軍のUボートの暗号通信を解読する部門
(Hut 8) の責任者となり、エニグマ暗号機を利用したその通信における暗号機の設定を見つける機械「bombe」(ボンブ)を開発した。
第二次世界大戦に先立つ1938年9月からイギリスにおける暗号解読組織である政府暗号学校 (GCCS) でパートタイムで働き始めたチューリングは、ディリー・ノックスと共にエニグマの解読を担当した。第二次世界大戦勃発の5週間前の1939年7月25日、ポーランド軍参謀本部第2部暗号局
(en)とイギリスおよびフランスの関係者によるワルシャワでの会合で、ポーランドが解明したエニグマのローター回路の情報を得ていた。チューリングとノックスは、その情報を土台にして解読に取り組むが、ポーランドの解読法はドイツ側の暗号のキーを変える解読できない状態だった。実際1940年5月に変更されている。チューリングの方法はもっと汎用的でクリブ式暗号解読全般に使えるもので、最初の
bombe(ボンブ)の機能仕様に盛り込まれた。
ポーランド軍参謀本部第2部暗号局 (en)における暗号解読者はレイェフスキ。1932年
12月、シュミット情報を元にレイェフスキは3個のローター配線を解析することに成功。これでドイツ陸軍のエニグマが読めるようになった。ローター解析には群論が用いられた。ドイツは暗号発信者に安易な開始位置設定をしないように求めても、今度はキーボード配列を借用したQAY,
PYX等の鍵が多発する。このころの鍵探索法はgrill-methodとであり、プラグボードが6組しか置換していなかった。このためにエニマグによって発信される暗号の解読された。
戦後のチューリングは、イギリス国立物理学研究所 「NPL」 に勤務。プログラム内蔵式コンピュータの初期設計のひとつであるACE (Automatic
Computing Engine) に携わったその完成を見ずに異動。1947年、マンチェスター大学に移ると、初期のコンピュータである Manchester
Mark I のソフトウェア開発に従事、数理生物学に興味を持つようになる。形態形成の化学的基礎についての論文を書き、1960年代に初めて観察されたベロウソフ・ジャボチンスキー反応のような発振する化学反応の存在を予言した。
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├ドイツの文化に染まり切っていた大島浩
大島浩はドイツ国のナチスの政策に傾倒し心酔していた。父親による教育を通じて大島は「姿勢から立ち居振る舞いに至るまでドイツ人以上にドイツ人的」と言われていた。「ナチス以上の国家社会主義者」と評したのは、アメリカ人ジャーナリストのウィリアム・L・シャイラーである。
ヒットラーとは駐ドイツ大使として交流があった大島は、ヒットラーは「私が酒好きだということを知っているものですから、私にだけキルシュといういちばん強い酒を出す」と話している。「ヒットラーの頭のいいこと、天才であることは疑いのないこと」とも。
すべて戦後の述懐だが「私は2回ドイツ軍を視察しているんですよ。実に立派な航空機を作ったもんだと、爆撃の装置もよし、射撃もよし。これは(日本)軍のパートナーとして不足はないと」と話す。
ヒットラーへのドイツ国民の熱狂以上に大島浩はヒットラーに熱狂し「ドイツが勝つだろうという前提に立ってやった」のである。
重複するが第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)になっても日本政府は大島浩だけを信じていた。駐スイス公使阪本瑞男によるドイツ第三帝国瓦解を知らせる電報をを無視した。ヒットラーの本部が発するドイツ有利の戦況報告を大島はそのままに受け取って、日本政府に報告し続けた。
同じころにスエーデンのストックホルムに陣取る駐在武官の小野寺信は、ポーランドの武官で少佐の〇〇××がヤルタ会談の密約を手に入れて小野寺に伝え、それを小野寺が日本政府に打電していたのであった。ポーランドの武官で少佐の〇〇××のドイツにおける諜報活動は1980年代以降に米マスコミで取り上げられ、〇〇××が取得した情報のほとんどが正しいものであることが確認されている。
ドイツを一方的に信じ続けた大島による日本への戦況報告の暗号電報は、すべて連合国側に解読されていた。大島ならびに日本国政府の戦況理解の不正確さを英米連合国は察知していて、その後の作戦の遂行に反映した。ソ連軍の1945年8月9日の満州侵攻、日本の都市爆撃などもそれである。小野寺信はドイツ降伏後三カ月を準備期間としてソ連が日本に攻め入るという〇〇××を通じてもたらされたヤルタ会談の密約を日本に打電していた。和平の仲介にソ連を頼ってはならない、と。小野寺信はスエーデン国王の親族の多数が英国の高級将校になっていること、国王の甥が日本と連合国の和解のための仲介の中継ぎを国王にするなどの手筈をしていた。日本政府が小野寺信のスエーデン国王の仲介を依頼してきたのは1945年8月15日であり、その知らせが届いたのは翌日の8月16日であった。ソ連が満州に進行してきたのが8月9日であり、それを知ったのちのことである。
1945年4月にはソ連軍がベルリンに迫った。日本大使館の大島大使にドイツ政府は高官らと共にオーストリアの温泉地であるバート・ガスタインに避難させた。この時の大島浩の行動がエピソードとして残されている。
当時外交官補でのちに外務省アメリカ局長を務めた吉野文六は、大島から決死隊としてベルリンに残留するよう命じられたこと、避難地のバート・ガスタインまで酒とつまみを持ってくるよう命ぜられ、アメリカ軍航空機の機銃掃射を受けながらドイツ人運転手と必死で届けた。こうしたことを吉野文六が回想している。
ドイツ敗戦後の1945年5月に大島はアメリカ軍に拘留、アメリカ・バージニア州のベッドフォード・スプリングスに移送され、8月の終戦を迎える。11月にワシントン州・シアトルから他の外交官などとともに日本に送還され、12月6日に日本に到着。このときに大島は「私は政府の指示に従っただけだ」「日本到着後は政治家にでもなるかな」と同行者に話していたという。戦犯としては無罪であることを主張していたのであった。
極東国際軍事裁判の法廷において大島は、「ヒトラーやリッベントロップとは、ほとんど会わなかった」と証言。また三国同盟を主導したことなど自身に不利になることには一切話さなかった。判事による投票において、大島は1票差で絞首刑を免れた。
士族の子が陸士、海兵の士官学校を経て軍人を職業とし、その職業に子弟が就く状態が明治中期以降に定着して社会構造を形成する。
軍人になるための中学校ともいうべき陸軍幼年学校は13歳で入校できた。旧制中学校の1年あるいは2年で試験を受けた。高等小学校から受験する者もいた。陸軍幼年学校入校者のうち30%から50%程度が武官の子息であった。武官の子息を主な対象とする月謝の減免措置があった。「戦死した、または公務による負傷・疾病で死亡した、陸海軍の軍人、または文官の遺児」は、一定の成績であれば順位に関わらずに合格とされる優遇措置があった。
陸士、海兵の士官学校を経て将校となった軍人の子弟が同じ道を進む状態を満州国と一体であった関東軍の高級将校の経歴が物語る。
関東軍(かんとうぐん)は、大日本帝国陸軍の総軍の一つ(1942年(昭和17年)10月1日以前は軍の一つ)。関東都督府(関東州と南満洲鉄道附属地の行政府)の守備隊が前身。司令部は当初旅順に置かれた。満洲事変を引き起こして満洲国を建国し、日満議定書(1932年9月15日)後は満洲国の首都である新京(現中華人民共和国吉林省長春市)に移転した。1937年の日中戦争勃発後は、続々と中国本土に兵力を投入し、1941年には14個師団にまで増強された。加えて日本陸軍は同年6月に勃発した独ソ戦にあわせて関東軍特種演習(関特演)と称した準戦時動員を行った結果、同年から一時的に関東軍は最大の総員74万人に達し、「精強百万関東軍」、「無敵関東軍」などと謳われた。なお、同年4月には日本とソ連との間で日ソ中立条約が締結されている。
将校の子弟が同じ道を進んだ記録が物語るのは将校としての軍人が家業となり、国家における軍組織は家業の継続にとって不可欠であった。負けたら終わりの家業の継続であるから国家を巻き込んでの一億層玉砕の発想が生まれた。
国家総力戦としての近代戦争において日米の経済格差、その戦力の格差が明瞭であったのに本土を焦土とされるまで降伏できなかった日本国と日本軍である。
戦争機運を煽り、戦争に勝てそうな気分にさせるために学校教育の場面にも軍国主義が横溢し、ニュース映画が虚構を描き、この世相に子どもは完全に飲み込まれた。狂気に覆われた常識が働かない世界に日本は覆われていた。
小野寺 信(おのでら まこと、1897年〈明治30年〉9月19日 - 1987年〈昭和62年〉8月17日)は、日本の陸軍軍人、翻訳家。最終階級は陸軍少将。
大島浩
大島 健一[2](おおしま けんいち、1858年6月19日(安政5年5月9日)[3] - 1947年(昭和22年)3月24日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。陸軍大臣、貴族院勅選議員、大東文化学院総長(第3代)などを歴任した。
年譜
大島 浩(おおしま ひろし、1886年(明治19年)4月19日 - 1975年(昭和50年)6月6日)は、日本の陸軍軍人、外交官。最終階級は陸軍中将。
1898年(明治31年)、東京府立四中入学、陸軍幼年学校入学資格である1年次修了後、1899年(明治32年)9月、東京陸軍地方幼年学校入学[3]。1904年(明治37年)11月、陸軍中央幼年学校卒業。東京陸軍地方幼年学校の同期には東条英機がいる[3]。
1905年(明治38年)11月 - 陸軍士官学校(18期恩賜)卒業。
1906年(明治39年)6月 - 陸軍砲兵少尉に任官。
1908年(明治41年)6月 - 中尉に昇進。
1915年(大正4年)12月 - 陸軍大学校(27期)卒業。
1916年(大正5年)5月 - 大尉に昇進。
1916年(大正5年)7月 - 重砲2連隊中隊長。
1917年(大正6年)2月 - 参謀本部配属。
1918年(大正7年)8月 - シベリア出張(~1919年(大正8年)2月)。
1921年(大正10年)5月 - 駐ドイツ大使館付武官補佐官就任。
1922年(大正11年)1月 - 少佐に昇進。
1923年(大正12年)2月 - 駐オーストリア公使館兼ハンガリー公使館付武官就任。
1926年(大正15年)8月 - 中佐に昇進。
1928年(昭和3年)8月10日 - 砲兵監部部員[33]。
1930年(昭和5年)8月1日 - 野砲兵第10連隊長に就任し[33]、大佐に昇進。
1931年(昭和6年)8月1日 - 参謀本部防衛課長[33]。
1934年(昭和9年)3月5日 - 駐ドイツ大使館付武官昇進。
1935年(昭和10年)3月15日 - 少将に昇進。
1935年(昭和10年)10月 - ナチス党外交部長リッベントロップと初会談(二元外交始まる)
1936年(昭和11年)11月25日 - 日独防共協定調印
1937年(昭和12年)11月 - イタリア、日独防共協定に加わる。
1938年(昭和13年)3月1日 - 中将に昇進。
東條英機
東條 英教(とうじょう ひでのり、安政2年11月8日(1855年12月16日) - 大正2年(1913年)12月26日)は、日本の陸軍軍人。陸大1期首席。最終階級は陸軍中将。
年譜
東條 英機(とうじょう ひでき、1884年〈明治17年〉12月30日[注釈 1] - 1948年〈昭和23年〉12月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。
番町小学校、四谷小学校、学習院初等科(1回落第)、青山小学校、城北尋常中學校(現:戸山高等学校)[3]、東京陸軍地方幼年学校(3期生)、陸軍中央幼年学校を経て陸軍士官学校に入校。
1905年(明治38年)3月に陸軍士官学校を卒業(17期生)し、同年4月21日に任陸軍歩兵少尉、補近衛歩兵第3連隊附。1907年(明治40年)12月21日には陸軍歩兵中尉に昇進する。
東條 英機(とうじょう ひでき、1884年〈明治17年〉12月30日[注釈 1] - 1948年〈昭和23年〉12月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。
1905年(明治38年)
3月30日 - 陸軍士官学校を卒業(17期生)。
4月21日 - 陸軍歩兵少尉に任官。近衛歩兵第3連隊附。
1907年(明治40年)12月21日 - 陸軍歩兵中尉に昇進。
1912年(大正元年) - 陸軍大学校に入学。
1915年(大正4年)12月11日 - 陸軍大学を卒業。陸軍歩兵大尉に昇進。近衛歩兵第3連隊中隊長。
1916年(大正5年) - 陸軍兵器本廠附兼陸軍省副官。
1919年(大正8年)8月 - 駐在武官としてスイスに赴任。
1920年(大正9年)8月10日 - 陸軍歩兵少佐に昇任。
1921年(大正10年)7月 - 駐在武官としてドイツに赴任。
1922年(大正11年)11月28日 - 陸軍大学校兵学教官に就任。
1923年(大正12年)
10月5日 - 参謀本部員(陸大教官との兼任)。
10月23日 - 陸軍歩兵学校研究部員(陸大教官との兼任)。
1924年(大正13年) - 陸軍歩兵中佐に昇進。
1926年(大正15年)3月23日 - 陸軍省軍務局軍事課高級課員兼陸軍大学校兵学教官に就任。
1928年(昭和3年)
3月8日 - 陸軍省整備局動員課長に就任。
8月10日 - 陸軍歩兵大佐に昇進。
1929年(昭和4年)8月1日 - 歩兵第1連隊長に就任。
1931年(昭和6年)8月1日 - 参謀本部総務部第1課長(参謀本部総務部編成動員課長[3])に就任[17]。
1933年(昭和8年)
3月18日 - 陸軍少将に昇進。参謀本部付。
8月1日 - 陸軍省軍事調査委員長に就任。
11月22日 - 陸軍省軍事調査部長に就任。
1934年(昭和9年)
3月5日 - 陸軍士官学校幹事に就任。
8月1日 - 歩兵第24旅団長に就任。
1935年(昭和10年)
8月1日 - 第12師団司令部付。
9月21日 - 関東憲兵隊司令官兼関東局警務部長に就任。
1936年(昭和11年)12月1日 - 陸軍中将に昇進。
1937年(昭和12年)3月1日 - 関東軍参謀長に就任。
1938年(昭和13年)
5月30日 - 第1次近衛内閣の陸軍次官に就任(1938年(昭和13年)12月10日まで)。
6月18日 - 陸軍航空本部長に就任(1940年(昭和15年)7月22日まで)。
12月10日 - 陸軍航空総監に就任(1940年(昭和15年)7月22日まで)。
1940年(昭和15年)
2月24日 - 臨時軍事参議官に就任(1940年(昭和15年)2月26日まで)。
7月22日 - 第2次近衛内閣の陸軍大臣兼対満事務局総裁に就任。
1941年(昭和16年)
7月18日 - 第3次近衛内閣の陸軍大臣兼対満事務局総裁に留任。
10月18日 - 東條内閣の内閣総理大臣に就任。
同日 - 陸軍大臣兼対満事務局総裁に留任(対満事務局総裁は1942年(昭和17年)11月1日まで)。
同日 - 内務大臣に就任(1942年(昭和17年)2月17日まで)。
同日 - 陸軍大将に昇進。
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├日本の戦争計画におけるイギリス要因―「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」の消滅まで―赤木完爾 防衛研究所2023/11/18
https://www.nids.mod.go.jp/event/proceedings/forum/pdf/2002/forum_j2002_7.pdf
はじめに
第二次世界大戦は、その起源において相互関係のなかったアジアの戦争とヨーロッパの戦争が一つのものとなって戦われた戦争であった。それは 1940
年の日独伊三国同盟による国際関係における友敵関係の明確化、1941 年の独ソ戦の開始、英米の対ソ援助の開始、そしてグローバル・パワーとしてのイギリス植民地帝国のアジアにおける危機の切迫、さらに西半球の防波堤としてのイギリス本国の崩壊を座視することはできないとして開始されたアメリカの対英援助、ならびにアメリカの大西洋における実質的な参戦を経て、日本海軍の真珠湾攻撃によって、一挙に第二次世界大戦に発展した。日本の戦争計画が策定される過程においては、二つの仮説が存在した。それは「ドイツの不敗」と「イギリスの屈服」である。この仮説は日本軍部の政策決定者に
1940 年 5月のドイツの西方電撃戦以来一貫して共有されていた。1941 年 9 月から 12 月にかけて日本の戦争決意が形成された。ことに
11 月 5 日の御前会議で、対英米蘭戦争は不可避と判断された。開戦にあたっての基本戦略が、大本営政府連絡会議が 11 月 15 日に決定した「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」である。
この腹案の決定をめぐって、すでに陸軍と海軍の間で対立があった。開戦前の研究において、政府と統帥部は戦争が長期戦になる公算が大であり、この長期戦を戦い抜く戦略物資が日本には不十分であり、したがって日本にはアメリカを武力で屈服させる手段がないことを認識していた。たとえば
9 月 6 日の御前会議において、永野軍令部総長は、日本は進攻作戦を以て敵を屈服させ、その戦争意思を放棄させる手段はないと発言していた1。こうした認識は陸軍も共有していた。しかしながら想定されていた戦争の態様は、陸軍は「長期持久戦」であり、海軍は「短期決戦」であり、そこに認識の一致はなかった。「長期持久戦」と「短期決戦」の含意はそれぞれ「不敗」と「引き分け」である。敵を直接的に屈服させることのできない日本の戦争計画が構想したのは、先に触れた二つの仮説に基づいた間接的な戦争終結シナリオであった。その中で強調されていたのが、まずイギリスを屈服させ、その影響を利用して戦争を少なくとも引き分けに持ち込むという構想であった。本稿で言うイギリス要因とは、これを指す。そしてそのイギリス要因が戦争計画や作戦の立案や実施においてどのように意識されていたか、あるいは無視されていたかを検証することが、本稿の目的である。日本の第二次世界大戦史研究の中で、戦争の日英戦争の側面ならびに日本の戦争指導計画については少数ではあるものの重要な業績が積み重ねられている。本稿はそうした先行研究に依拠しながら、もっぱら戦争指導計画の変容をイギリス要因の消長を中心として概観を試みるものである2。あわせてこの検討作業を通じて、日本の軍事幕僚組織の計画作成におけるリーダーシップの問題を考える材料を提示することを試みている。
「腹案」の論理
1941 年 11 月 5 日の御前会議で、対英米蘭戦争は不可避と決定された。開戦にあたっての総合的な戦争計画は、同年 8 月頃から陸・海軍および外務省の事務レベルで「対英米蘭戦争指導要綱」として立案準備されていた。このうち最終部分にあった戦争終末促
進の方略が抜き出されて、「腹案」となった 3。11 月 15 日に大本営政府連絡会議で決定された「腹案」は日本の基本戦略であり、そのことは政府・統帥部において一般に諒解されていた。戦争前に成文として出来上がった唯一の戦争計画であったといえる
4。さて、前述のように日本がアメリカを自ら屈服させる手段を持ち得ないことは、自明であったとしても、そのことはそのまま日本が必ず敗北するという見通しが確認されたということではない。1941
年 9 月から 12 月にかけて何度も開催された連絡会議の審議や討議の記録、関係する政策文書をとりまとめて論ずれば、以下のようになろう。すなわち初期作戦の勝利は確実であり、一定の条件さえ満たされれば引き分けに持ち込める。しかし最終的な見通しは不明ということになる。だが長期戦の場合の見通しについては、陸海軍の首脳は概して悲観的であった5。「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」の基本構想は次のように規定されている
6。
1 参謀本部編『杉山メモ』上(原書房、1967 年)35 頁。及び防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營陸軍部<2>』(朝雲新聞社、1968
年)433 頁。
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├赤木完爾 - Wikipedia
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├赤木完爾研究会三田会会則 付則第1条 本会則は、2003年11月15日から発効する。第1章 総則
https://akagiseminar.org/download/kaisoku.pdf
第3条(目的)
本会は慶應義塾大学法学部の赤木完爾先生の研究会において、現代国際政治の研究を通じて薫陶を受けた会員が、相互に親睦を深め、相互に啓発して、本会ならびに会員の発展を図ることを目的とする。
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├研究者詳細 - 赤木 完爾
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├対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案 昭和16年11月15日 国立公文書館
https://www.jacar.archives.go.jp › das › image
標題:対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案 昭和16年11月15日 · 防衛省防衛研究所 · 陸軍一般史料 · 文庫 · 宮崎
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