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計量計測データバンク ニュースの窓-144-
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計量計測データバンク ニュースの窓-144-
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├計量計測データバンク ニュースの窓-144-将校の子弟が同じ道を進んだ検証とその記録
冬のカケスが見せる鋭い眼(2024年12月28日撮影)
士族の子が陸士、海兵の士官学校を経て軍人を職業とし、その職業に子弟が就く状態が明治中期以降に定着して社会構造を形成する。
軍人になるための中学校ともいうべき陸軍幼年学校は13歳で入校できた。旧制中学校の1年あるいは2年で試験を受けた。高等小学校から受験する者もいた。陸軍幼年学校入校者のうち30%から50%程度が武官の子息であった。武官の子息を主な対象とする月謝の減免措置があった。「戦死した、または公務による負傷・疾病で死亡した、陸海軍の軍人、または文官の遺児」は、一定の成績であれば順位に関わらずに合格とされる優遇措置があった。
陸士、海兵の士官学校を経て将校となった軍人の子弟が同じ道を進む状態を満州国と一体であった関東軍の高級将校の経歴が物語る。
関東軍(かんとうぐん)は、大日本帝国陸軍の総軍の一つ(1942年(昭和17年)10月1日以前は軍の一つ)。関東都督府(関東州と南満洲鉄道附属地の行政府)の守備隊が前身。司令部は当初旅順に置かれた。満洲事変を引き起こして満洲国を建国し、日満議定書(1932年9月15日)後は満洲国の首都である新京(現中華人民共和国吉林省長春市)に移転した。1937年の日中戦争勃発後は、続々と中国本土に兵力を投入し、1941年には14個師団にまで増強された。加えて日本陸軍は同年6月に勃発した独ソ戦にあわせて関東軍特種演習(関特演)と称した準戦時動員を行った結果、同年から一時的に関東軍は最大の総員74万人に達し、「精強百万関東軍」、「無敵関東軍」などと謳われた。なお、同年4月には日本とソ連との間で日ソ中立条約が締結されている。
将校の子弟が同じ道を進んだ記録が物語るのは将校としての軍人が家業となり、国家における軍組織は家業の継続にとって不可欠であった。負けたら終わりの家業の継続であるから国家を巻き込んでの一億層玉砕の発想が生まれた。
国家総力戦としての近代戦争において日米の経済格差、その戦力の格差が明瞭であったのに本土を焦土とされるまで降伏できなかった日本国と日本軍である。
戦争機運を煽り、戦争に勝てそうな気分にさせるために学校教育の場面にも軍国主義が横溢し、ニュース映画が虚構を描き、この世相に子どもは完全に飲み込まれた。狂気に覆われた常識が働かない世界に日本は覆われていた。
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├東條英機 - Wikipedia
東條英機(とうじょう ひでき、1884年〈明治17年〉12月30日-1948年〈昭和23年〉12月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。戦後A級戦犯として死刑となった。陸軍次官、陸軍航空総監(初代)、陸軍大臣(第29代)、参謀総長(第16代)、大政翼賛会総裁(第2代)、内閣総理大臣(第40代)、内務大臣(第57代)、外務大臣(第59代)、文部大臣(第53代)、商工大臣(第24代)、軍需大臣(初代)を歴任した。
岩手県(盛岡市)出身。父は東條英教(陸軍中将)、妻は東條かつ子。次男は東條輝雄(三菱自動車工業社長・会長)、三男は東條敏夫(空将補)。
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├東條英教 - Wikipedia
東條英教(とうじょう ひでのり、安政2年11月8日(1855年12月16日)-大正2年(1913年)12月26日)は、日本の陸軍軍人。陸大1期首席。最終階級は陸軍中将。第40代内閣総理大臣・東條英機は息子。
1855年12月16日(安政2年11月8日)に陸奥国盛岡藩士・東條英俊の嫡男として武蔵国豊多摩郡大久保村に誕生する。1873年(明治6年)4月、陸軍教導団歩兵科。1877年(明治10年)、西南戦争に出征し、同年4月に陸軍歩兵少尉試補[1]。1878年(明治11年)9月、陸軍歩兵少尉に任官。1885年(明治18年)12月、陸軍大学校(陸大)を首席で卒業し(1期、卒業生は10人)、恩賜の望遠鏡を拝受。
1891年(明治24年)9月16日、 任 陸軍歩兵少佐、補 陸軍大学校兵学教官。1894年(明治27年)から1897年(明治30年)3月まで、現役の陸軍歩兵少佐のまま、日本体育会体操練習所(現・日本体育大学)長を務めた。佐官時代には、参謀本部第1局局員、陸大教官、参謀本部第4部長(戦史編纂)などを歴任。
東條家は、能楽師として盛岡藩(南部氏)に仕えた家系で、禄高は160石であった[1]。
英教は陸大1期を首席卒業したが、中将止まりであった。その理由として盛岡藩が戊辰戦争で明治政府と戦ったためや、当時は薩長派閥が幅を利かせていたためなどが言われている。
陸大1期の同期生で旅団長として出征したのは、英教の他に秋山好古と山口圭蔵がいたが、山口は免職となり英教は左遷となった。1904年6月に蓋平攻撃と連動して起きた分嶺水の戦闘で消極策を取り独断専行気味に兵を引いたという際、師団司令部と対立したといわれている。ついで7月の柝木城の戦闘において歩兵第三旅団長の英教は攻撃の要であったにもかかわらず、師団長川村景明に夜襲を命じられたとき、状況を判断して夜襲を行わなかったが、その原因は偵察不足であった。そのためにロシア軍が無傷で撤収し、別の師団が敵軍を包囲する事態となり川村の面子が潰された。この失敗により英教は兵学書に通じてはいたが実戦向きではなく作戦失敗を招き「実兵指揮能力不足」という評価が下され、歩兵第8旅団長を解任されて留守近衛歩兵第2旅団長に左遷された(名目上は病気)。
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├山田乙三 - Wikipedia
山田乙三(やまだ おとぞう、1881年(明治14年)11月6日-1965年(昭和40年)7月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。最後の関東軍総司令官として玉音放送による「聖断」を受諾し、ソ連軍に降伏した。息子は登山家の山田二郎。
経歴
1939年陸軍経理官・市川確の三男として生まれ、山田貫之の養子となった。成城学校(新宿区原町)から陸軍中央幼年学校を経て、1902年(明治35年)に陸軍士官学校(14期)を卒業。同期に古荘幹郎、西尾寿造、宇佐美興屋らがいる。1912年(大正元年)に陸軍大学校を(24期)卒業、同期に土肥原賢二、飯田貞固、牛島貞雄、香月清司、酒井鎬次、谷寿夫、柳川平助、山岡重厚がいた。
参謀本部総務部長、陸軍士官学校校長、第12師団長を歴任。軍令、教育畑が長く政治色は薄かった。1939年(昭和14年)10月、中支那派遣軍司令官から教育総監に就く。1940年(昭和15年)8月、陸軍大将に進級。1944年(昭和19年)2月に東條英機首相兼陸相が国務と統帥の一元化を図り、参謀総長兼任を企図した際には、杉山元参謀総長が強く抵抗、山田も統帥権独立への抵触を危惧するが、最終的にはこれを容認した。しかし7月のサイパン失陥を契機に東條は退陣、参謀総長となった梅津美治郎の後任として関東軍総司令官に就任する。満洲国の日本大使(正式には、満洲国駐箚特命全権大使。)は関東軍総司令官が兼任することになっているため、駐満洲の日本大使ともなる。
1945年(昭和20年)8月9日、ソ連軍が対日参戦、当日は大使として、満州の国防団体の結成大会出席のため大連に出張中であり急遽新京に帰還する。この大連出張の際に保養地のホテルに泊まっていたため、帰還が遅れたとも言われている。総司令部を通化に撤退させ持久戦を図るが、15日には日本のポツダム宣言受諾により終戦詔書が発布される。19日にはジャリコウヴォのワシレフスキー元帥(極東ソ連軍総司令官)との停戦交渉を開始。
その後は関東軍総参謀長秦彦三郎や総参謀副長松村知勝、作戦主任参謀草地貞吾らとともにソ連に抑留(シベリア抑留)。ハバロフスクの第45特別地区(将校収容所)に収容された。
10年以上経って日本へ帰国した。
年譜
1901年(明治34年)5月 陸軍中央幼年学校卒業。
1902年(明治35年)11月 陸軍士官学校卒業。
1903年(明治36年)6月 陸軍少尉。騎兵第3聯隊附。
1905年(明治38年)2月 陸軍中尉。陸軍士官学校教官。
1912年(大正元年)
9月 陸軍大尉。
11月 陸軍大学校卒業。騎兵第3聯隊中隊長。
1913年(大正2年)8月 参謀本部員。
1918年(大正7年)6月 陸軍少佐。陸軍騎兵学校教官。
1922年(大正11年)8月 陸軍中佐。騎兵監部員。
1924年(大正13年)2月 騎兵第26聯隊隊長。
1925年(大正14年)8月 陸軍大佐。
1926年(大正15年)3月 朝鮮軍参謀。
1927年(昭和2年)7月 参謀本部通信課長。
1930年(昭和5年)8月 陸軍少将。陸軍騎兵学校教育部長。
1931年(昭和6年)8月 騎兵第4旅団長。
1932年(昭和7年)8月 陸軍通信学校校長。
1933年(昭和8年)8月 参謀本部第3部長。
1934年(昭和9年)8月 陸軍中将。参謀本部総務部長。
1935年(昭和10年)
8月 兼参謀本部第3部長。
12月 陸軍士官学校校長。
1937年(昭和12年)3月 第12師団長。
1938年(昭和13年)
1月 第3軍司令官。
12月中支那派遣軍司令官。
1939年(昭和14年)10月 教育総監兼軍事参議官。
1940年(昭和15年)8月 陸軍大将。
10月 免兼。
1941年(昭和16年)7月 兼防衛総司令官。
1 2月 免兼。
1944年(昭和19年)7月 関東軍総司令官、在満州国特命全権大使。
1945年(昭和20年)8月15日 終戦。
1948年(昭和23年)1月31日 公職追放仮指定を受けた。
1956年(昭和31年)6月26日 シベリア抑留より復員。
1965年(昭和40年)7月18日 死去。
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├秦彦三郎 - Wikipedia
秦彦三郎(はた ひこさぶろう、1890年(明治23年)10月1日-1959年(昭和34年)3月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。ロシア通として知られ第二次世界大戦終戦時の関東軍総参謀長。戦後はシベリアに抑留された。
略歴
三重県に生まれ、1912年、陸軍士官学校を卒業(24期)して歩兵少尉となる。1915年、歩兵中尉となる。1919年、陸軍大学校を卒業(31期)。1922年、歩兵大尉となり参謀本部員(ロシア班)となり、翌年、関東軍の満州里機関長となる。1926年、ソ連大使館附武官補佐官となり、翌年、歩兵少佐となる。
1930年、ポーランド公使館附武官、ラトビア公使館附武官となる。1931年、歩兵中佐となる。1932年、ルーマニア公使館附武官となる。1933年、参本ロシア班長、翌年、ソ連大使館附武官となる。1936年、歩兵大佐(新聞班長)となる。
1938年、関東軍司附(ハルピン特務機関長)となり、翌年、陸軍少将となる。1940年、 関東軍参謀副長となり、1941年、関東軍参謀副長(兼秦機関長)となり陸軍中将となる。1942年10月に第34師団長、1943年4月に参謀次長・大本営兵站総監となり、戦局不利な状況の中で作戦指導にあたる。1944年3月から8月までは陸軍大学校校長も兼職した。1945年4月7日、敗戦濃厚の中、関東軍総参謀長となる。同年8月9日、ヤルタ協定に基づきソ連軍が満州と朝鮮に侵攻し、同月18日、満州帝国滅亡。同年8月19日、山田乙三関東軍総司令官と秦は瀬島龍三中佐らを伴い、ジャリコウヴォのアレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥(極東ソ連軍総司令官)との停戦交渉を行った。
1945年12月2日、A級戦犯として連合国軍最高司令官より出された第3次逮捕命令のリストに後宮淳大将と共に名前があった[1]が、既にソ連軍により捕らえられシベリア抑留の身であった。1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた。1956年12月26日に復員。
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├草場辰巳 - Wikipedia
草場辰巳(くさば たつみ、1888年(明治21年)1月2日-1946年(昭和21年)9月20日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
滋賀県出身。草場彦輔陸軍少将の二男として生まれる。大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1908年(明治41年)5月、陸軍士官学校(20期)を首席で卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第9連隊付となった。1915年(大正4年)12月、陸軍大学校(27期)を卒業した。
参謀本部付勤務、第1鉄道線区司令部員、参謀本部員、朝鮮軍司令部付、歩兵第4連隊大隊長などを歴任。1924年(大正13年)11月から陸大専攻学生となる。翌年12月、陸大教官に就任し、参謀本部員兼軍令部参謀、第6師団参謀、陸軍省人事局課員、陸軍兵器本廠付、関東軍司令部付(南満洲鉄道)などを歴任し、1931年(昭和6年)3月から8月まで欧州に出張した。
1931年8月、歩兵大佐に昇進し参謀本部課長に就任。歩兵第11連隊長、関東軍司令部付(満洲国交通部顧問)を経て、1936年(昭和11年)8月、陸軍少将に進級。日中戦争に歩兵第19旅団長として出征し、保定会戦、南京攻略戦に参加[2]。第2野戦鉄道司令官を経て、1939年(昭和14年)3月、陸軍中将に昇進し関東軍野戦鉄道司令官に就任。翌年10月、第52師団長に親補され満洲に駐屯。太平洋戦争を関東防衛軍司令官として迎えた。
1942年(昭和17年)12月、第4軍司令官となり、参謀本部付を経て、1944年(昭和19年)12月、予備役に編入された。同月、召集を受け大陸鉄道司令官となり終戦を迎えた。
1945年(昭和20年)9月からシベリア抑留となった。連合国側から極東国際軍事裁判に証人として出廷することを命じられ、1946年(昭和21年)9月17日に松村知勝、瀬島龍三とともにウラジオストクから空路東京へ護送され、ソ連側証人として出廷することになっていた。9月20日未明、草場は隠し持った青酸カリを飲んで自殺した。3通の書き置きのうち公式当局と親族宛の2通は捜査資料に添付された。アメリカ検事団が英訳させた日記には、シベリアの収容所でソ連側から証言を要求されたこと、ソ連側から恫喝、甘言など受けたこと、「将校でありながら捕虜となり、どの面下げて祖国に帰れるのか」とか「私には自殺しか道がなかったと諦めてください」という表現などが書かれていたという。墓所は多磨霊園。
その他
山崎豊子の小説『不毛地帯』に登場する「秋津中将」は、草場がモデルといわれる。[要出典]『不毛地帯』では、壱岐正、秋津中将、竹村少将が東京裁判へ出廷し、実際には、瀬島龍三中佐、松村知勝少将が出廷した。
親族
弟 草場季喜(陸軍少将)。
父 草場彦輔(陸軍少将)。
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├草場季喜 - Wikipedia
草場季喜(くさば すえき、1899年(明治32年)12月16日-1963年(昭和38年)5月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
経歴
滋賀県出身。草場彦輔陸軍少将の息子として生まれる。陸軍中央幼年学校予科、中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官し工兵第15大隊付となった。1923年(大正12年)12月、陸軍砲工学校高等科(29期、員外学生)を優等で卒業した。1924年(大正13年)4月、陸軍派遣学生として東京帝国大学理学部物理学科に入学し、1927年(昭和2年)3月に卒業した。
1928年(昭和3年)4月、陸軍科学研究所員に発令。以後、ドイツ駐在、科学研究所員、陸軍省兵器局課員などを務め、1940年(昭和15年)8月、工兵大佐に昇進し独立工兵第27連隊長(関東軍)に就任し日中戦争に出征した。1942年(昭和17年)10月、第9陸軍技術研究所員(登戸研究所)第1科長となり、1944年(昭和19年)8月、陸軍少将に昇進。
1945年(昭和20年)9月、陸軍兵器行政本部付となり、同年12月、予備役に編入された。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
親族
親族
兄 草場辰巳(陸軍中将)。
父 草場彦輔(陸軍少将)。
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├松村知勝 - Wikipedia
松村知勝(まつむら ともかつ、1899年〈明治32年〉10月13日-1979年〈昭和54年〉5月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
経歴
本籍福井県。松村法吉陸軍中将の長男として生まれる。東京府立四中、陸軍中央幼年学校予科、同校本科を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第34連隊付となる。陸地測量部員などを経て、1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業した。
参謀本部付勤務、参謀本部員、陸軍歩兵学校教官などを経て、1933年(昭和8年)2月、ポーランド・ソビエト連邦勤務となり、さらにポーランド兼ルーマニア公使館付武官補佐官を務めた。帰国後、1936年(昭和11年)3月、陸大教官となり、参謀本部員、参謀本部戦史課長・大本営研究班長などを歴任。1941年(昭和16年)3月、歩兵大佐に進級し、同年10月、参謀本部ロシア課長に就任した。
太平洋戦争中の1943年(昭和18年)8月、関東軍参謀に発令された。1945年(昭和20年)3月には陸軍少将に昇進。関東軍総参謀副長となり終戦を迎えた。
戦後はシベリア抑留となった。1946年(昭和21年)9月17日には草場辰巳、瀬島龍三とともにウラジオストクから空路東京へ護送され、ソ連側証人として出廷した。1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた。1949年(昭和24年)8月に重労働25年の判決を受け、1956年(昭和31年)12月に復員。
親族
妻 松村英子 石坂善次郎(陸軍中将)の娘。
弟 松村辰雄(陸軍中佐)
義兄 額田坦(陸軍中将)
義弟 樋口敬七郎(陸軍中将)
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├種村佐孝 - Wikipedia
種村佐孝(たねむら さこう/すけたか、1904年12月9日-1966年3月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。三重県出身。参謀本部戦争指導班長を務め、対ソ終戦工作にあたった。主著に『大本営機密日誌』。
太平洋戦争中、陸軍参謀本部戦争指導班長をつとめ、大本営の戦争指導にあたった。戦争末期、対米降伏・和平交渉はアメリカの偽装であり、対米戦争の継続のためソ連同盟論を主張、対ソ終戦工作に従事する。戦後にシベリア抑留に遭い、モンゴルのウランバートルにあった「第7006俘虜収容所」にて、共産主義革命のための特殊工作員として朝枝繁春、志位正二、瀬島龍三らとともに訓練を受ける。
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├朝枝繁春 - Wikipedia
朝枝 繁春(あさえだ しげはる、1912年(明治45年)1月1日-2000年(平成12年)10月14日)は、日本の陸軍軍人。陸士45期、陸大52期恩賜。最終階級は陸軍中佐。第25軍(マレー・シンガポール作戦の部隊)の作戦参謀として知られる。
1933年(昭和8年)7月、陸軍士官学校本科を卒業。成績は、皇族(孚彦王)・公族(李鍝公)を除いて25番/335名という好成績であった。陸士予科生徒隊附を経て、陸大在学中の1938年(昭和13年)3月に歩兵大尉に進級。1939年(昭和14年)11月、陸軍大学校を3番/52名で卒業し、恩賜の軍刀を拝受した。
1939年(昭和14年)12月、第1軍参謀部付となり日中戦争に出征。1940年(昭和15年)6月、第1軍参謀に移り、1941年(昭和16年)5月、台湾軍研究部員に転じ、同年8月から10月まで南方に出張。同年10月、陸軍少佐に進級、第25軍参謀として太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦を迎えた。マレー作戦、シンガポールの戦いに参戦し、辻政信参謀とともにシンガポール華僑粛清事件に関与した。このとき朝枝は軍刀を抜いて、軍の方針に随わねば憲兵でもぶった切ってやると言って、強引に粛清を強要して回ったといわれる。戦後、半藤一利がこの粛清についてインタビューしたとき、朝枝が辻政信にばかり責任を押し付けるようなことを言うため、しまいには両者で怒鳴り合いになった。
1942年(昭和17年)7月、関東軍参謀に異動。1943年(昭和18年)12月から1944年(昭和19年)2月までソ連に出張。1944年3月、大本営参謀(作戦課)。その後、第14方面軍参謀を経て再び大本営参謀(作戦課で満州方面を担当)。1945年(昭和20年)6月、同期一選抜のひとりとして中佐に進級。同年8月、大本営参謀として満州へ出張中に敗戦を迎えた。この時、朝枝参謀は関東軍防疫給水部(通称・731部隊)の部隊長石井四郎軍医中将に研究資料の廃棄を指示している。共同通信社社会部編『沈黙のファイル』(P137,138)には、その時の朝枝・石井のやりとりが載っている。
朝枝「朝枝中佐は参謀総長に代わって指示いたします。貴部隊の今後の措置について申し上げます。地球上から永遠に、貴部隊の一切の証拠を根こそぎ隠滅してください。」
朝枝「細菌学の博士は何人ですか」」
石井「五十三人」
朝枝「五十三人は貴部隊の飛行機で日本に逃がし、一般部隊員は列車で引き揚げさせてください」
石井「分かった。すぐ取りかかるから安心してくれたまえ」
石井は自分の飛行機へ数歩、歩いて立ち止まり、思い直したように引き返してきた。
石井「ところで朝枝君、貴重な研究成果の学術資料もすべて隠滅するのかね」
朝枝「何をおっしゃいますか、閣下。根こそぎ焼き捨ててください」
また、この満州出張中、ソ連軍から樺太で現地の第88師団が日本軍師団が交戦を続けていることを知らされ、その上級にあたる札幌の第5方面軍に停戦するよう、電報を打ち、これによって樺太での停戦が成立している。
旧満州や朝鮮半島の民間日本人やソ連の捕虜となった軍人計180万人について、ソ連の指令下に移し、日本国籍離脱まで想定、病人などを除き現地に「土着」させ事実上"棄民"化する「関東軍方面停戦状況ニ関スル実視報告」を1945年8月26日付で大本営参謀名にて報告した(その3部のうち1部が1993年8月にロシアの軍関係にて発見されたと共同通信が報じている)。
その後、朝枝はソ連軍に捕まり、1949年(昭和24年)8月に復員している。
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├瀬島龍三 - Wikipedia
瀬島 龍三(せじま りゅうぞう、1911年〈明治44年〉12月9日 - 2007年〈平成19年〉9月4日)は、陸士44期次席・陸大51期首席。太平洋戦争のほとんどの期間を参謀本部部員(作戦課)として務めた。最終階級は中佐。、1939年(昭和14年)1月15日に関東軍隷下の第4師団参謀として満州へ赴任し、同年5月15日には第5軍(司令官・土肥原賢二陸軍中将)参謀となった。同年11月には参謀本部幕僚附(作戦課)に補され、間もなく参謀に昇格して開戦前は対ソ作戦を担当。翌1940年(昭和15年)には関東軍特種演習(関特演)の作戦立案にあたった。1945年9月5日、関東軍総司令官山田乙三大将(陸士14期)や総参謀長秦彦三郎中将らとともに捕虜となった。ソ連のハバロフスクの第45特別地区(将校収容所)に送られた。この後、11年間抑留される。連合国側から極東国際軍事裁判に証人として出廷することを命じられ、1946年9月17日に草場辰巳中将(20期首席、関東軍鉄道司令官)・松村知勝少将(33期、総参謀副長)とともにウラジオストクから空路東京へ護送され、訴追側証人として出廷した。ソ連側より日本への帰還の取引条件として極東国際軍事裁判で昭和天皇の戦争責任を証言するように求められる。出廷に当たって瀬島は草場辰巳、松村知勝と供述内容について事前に打ち合わせを行っている。その内容の例としては、ソ連側は1943年(昭和18年)以前の関東軍の攻勢作戦計画に日本の侵略意図があると解釈したが、作戦計画は有事の際の用兵作戦計画に過ぎず、天皇が関わる政策決定とは全く異なるという説明があり、その旨実際に証言を行っている。1947年(昭和22年)末から1950年(昭和25年)4月までの間どこの収容所にいたかを語っておらず、モンゴルのウランバートルにあった、第7006俘虜収容所に、種村佐孝(37期、大佐)、朝枝繁春(45期、中佐)、志位正二(52期、少佐)らとともに収容されていたとみられる。
日下公人が瀬島龍三に開戦前夜の大本営について質問した。1941年11月26日にハル・ノートが出た頃、ドイツ軍の進撃がモスクワの前面50kmで停止し、大本営は「冬が明けて来年春になれば、また攻撃再開でモスクワは落ちる。」と考えていた。「本当に大本営はそう思っていたんですか?」と瀬島龍三に尋ねると「思っていた。」と。続けて「もしもドイツがこれでストップだと判断したら、それでも日本は12月8日の開戦をやりましたか?」と尋ねると、「日下さん、絶対そんなことはありません。私はあのとき、大本営の参謀本部の作戦課にいたけれど、ドイツの勝利が前提でみんな浮き足立ったのであって、ドイツ・ストップと聞いたなら全員『やめ』です。それでも日本だけやるという人なんかいません。その空気は、私はよく知っています。」と答えた。
1996年の回顧録にて大東亜戦争を振り返り、政治的、経済的な情報を含む国力の総合的な判断を無視した。こういった情報が不足しており、民族の性格上、合理的かつ客観的な判断をせず、心情的、希望的な判断へと流れていった。と書いている。
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├志位正二 - Wikipedia
志位正二(しい まさじ、1920年1月1日-1973年3月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。
志位正人陸軍中将の息子として生まれる。東京府立六中、東京陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、1939年9月、陸軍士官学校(52期)を卒業。同年11月、歩兵少尉に任官し歩兵第61連隊付となる。1944年12月、陸軍大学校(59期)を卒業し陸軍少佐に昇進。1945年4月、関東軍隷下の第3方面軍情報参謀に発令され、終戦を迎えた。
終戦後シベリア抑留に遭い、1948年4月にソ連諜報員となる誓約を行い、モンゴルのウランバートルにあった「第7006俘虜収容所」において朝枝繁春、瀬島龍三、種村佐孝らとともに諜報員、共産主義革命のための特殊工作員としての訓練を受けたとされる。抑留中は陸軍将校のため、日本国内では公職追放となった。
1948年11月、シベリアより復員。志位によれば、早期帰国のためにソ連に協力する誓約書に署名したものの、それは戦犯収容所に送られた上官や部下を救うため帰国し残留者の引揚促進活動に取組むためであったという。ところが、舞鶴港で米軍の民間情報部の者が武装兵を連れて船に乗り込み、主だった者を集めて暴行し尋問するのを目撃しショックを受けることになった。志位は1949年2月からGHQ参謀第2部(G2)の地理課に勤め、抑留帰還者の尋問調書からソ連や中華人民共和国の地誌を作成していた。1950年6月、GHQの取調べを受ける。このとき、1週間にわたって軟禁されウソ発見器にもかけられ誓約書について自白を強要されたことで、米国特務機関のやり方に憎悪を抱くようになったという。この後、ソ連のためにスパイ活動をすることになる。1951年10月以降、G2在職のままソ連国家保安委員会(KGB)にエージェントとして雇われる。1953年11月、外務省アジア局調査員となるが、「二重スパイ」の活動は継続した。
ユーリー・ラストヴォロフがアメリカに亡命した後の1954年2月5日、警視庁公安部に自首し、自身がソ連の工作員(スパイ)であったことを認めた。しかし罪には問われず、その後、海外石油開発株式会社常務となり、対ソ連交渉において、社長今里広記の右腕ともいわれる活躍をしている。1973年3月31日、シベリア上空を飛行中の日本航空のダグラス
DC-8型機の機内、ファーストクラス席上で死去した。過労からの心臓関係の疾患とみられる。
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├志位正人 - Wikipedia
志位正人(しい まさと、1889年10月22日-1945年5月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。二男が志位正二(陸軍少佐)兵科は砲兵。1909年(明治42年)、陸軍士官学校に入校。1911年(明治44年)5月、同校(23期)を卒業。同年12月、砲兵少尉任官。1938年(昭和13年)3月、砲兵大佐に昇進。同年12月、名古屋兵器支廠長に就任。1940年(昭和15年)3月、大阪兵器補給廠長に異動。1941年(昭和16年)11月、第15軍兵器部長に就任し太平洋戦争を迎え、ビルマの戦いに参戦。1943年(昭和18年)3月、緬甸方面軍兵器部長に就任。同年6月1日、陸軍兵器行政本部監督官に転じ、同年8月、陸軍少将に進む。1945年(昭和20年)5月に殉職し陸軍中将に進級。
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├現代日本の自衛隊とその階級と出世事情
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├幹部候補生 (日本軍) - Wikipedia
日本陸軍における幹部候補生(かんぶこうほせい)とは、中等教育以上の学歴がある志願者の中から選抜され、比較的短期間で兵科または各部の予備役将校、あるいは兵科または各部の予備役下士官になるよう教育を受ける者。場合により幹候と略されることもある。日本陸軍では下士官以上が部隊の幹部という位置づけであった。1927年(昭和2年)12月に一年志願兵制度を改めて幹部候補生制度が定められ、1945年(昭和20年)8月の太平洋戦争(大東亜戦争)終結まで存在した。制定当初は主として予備役将校の養成を目的としたが、1933年(昭和8年)5月の制度改正以後は予備役将校となる教育を受ける甲種幹部候補生と、予備役下士官となる教育を受ける乙種幹部候補生に修業期間の途中で区分された。
幹部候補生に対する評価
幹部候補生出身の予備役将校は軍歴の長い下士官や兵から見て、士官候補生出身の現役将校と比べ教育期間が短く、また入営時には一般兵と同じ立場であったこともあり、概して軽侮されがちな傾向であったという著述が散見される。士官候補生出身の現役将校を「実弾」「実包」あるいは「本ちゃん」と呼び、一方の幹部候補生出身の将校を「空砲」「擬製弾」と呼ぶ例などがある。
連隊にはたくさんの将校がいたが、ほとんどが予備士官学校出の将校であった。予備士官学校出というと、いわば半プロで(後略)。さて“実包”の方はこれとは違う。小学校から幼年学校へと学び、それから士官学校と歩み続けて、軍人としてのプロの道を勉強してきた者である。正真正銘、まじりっ気なし、純金の将校である。バリバリの職業軍人なのである。
—春風亭柳昇『陸軍落語兵』69頁
兵隊達は、本当の士官学校を出て来たいわゆる職業軍人の将校達には頭が上らなかった。彼らを「本ちゃん」と称しておそれていたのだ。しかし、それまで連隊で特別教育を受けて候補生から昇進して予備役の少尉になった我々の先輩の予備役将校達には、「疑製弾」と称して小馬鹿にしていたのだ。
—中村八朗『ある陸軍予備士官の手記』上巻16頁
また軍服の襟に着用する特別徽章は制度開始以来、士官候補生とその出身の見習士官が星(五芒星)のみであるのに対し、幹部候補生とその出身の見習士官は差別化され円形の台座に星を配置したデザインから、徽章そのもの、あるいは着用した幹部候補生や見習士官を「座金」と揶揄する場合もあった。しかし、この星には、まるい座金がついていて、厳密に区別された。つまり、一般の大学出身の幹部は「ザガネ」と呼ばれ、また「空砲」と呼ばれた。
—村上兵衛『桜と剣』224頁
1943年(昭和18年)10月、陸軍服制の改正(勅令第774号)により特別徽章が変更され[96][97]、星(五芒星)を桜の枝葉が囲む共通のデザインになったが、徽章の色は士官候補生と出身の見習士官が金色、甲種幹部候補生と出身の見習士官が銀色に差別化された。
幹部候補生やその出身将校に対する評価の原因となったものは、主として本人の資質とは別の制度上の問題である。1944年(昭和19年)、新たに特別甲種幹部候補生の制度が作られた際には「従来ノ幹部候補生ニ在リテハ統率力特ニ指揮権承行ノ厳粛ニ付テ十分ナラザルモノアリ而シテ其ノ原因ノ最大ナルモノハ(中略)一般兵ヨリ選抜スル点ニ在ル」[90]と、従来の幹部候補生に対する「少し前まではただの兵隊」という認識を改革する点も考慮されていたことがうかがえる。
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├陸軍士官学校 (日本) - Wikipedia
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├陸軍幼年学校 (日本) - Wikipedia
将来の陸軍将校となることが事実上約束されており、若くして軍服に身を包み、規律正しい集団教育を受けるエリート集団たる陸幼生徒は当時の小学生・中学1
- 2年生男子の羨望の的であり志望者が多かった。陸幼入校者を選抜する召募試験の倍率は、時代によって変動したが概ね20倍程度を保ち、中学校のトップクラスでも合格は容易でなかった。
太平洋戦争(大東亜戦争)中に旧制鶴岡中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)に在学していた渡部昇一は、下記のように回想している。鶴岡中学では、陸幼を志望する1年生・2年生に対して、毎日の始業前に1時間の「特別授業」を実施していた。陸幼は難関であり、渡部が鶴岡中学に在学している間に、鶴岡中学から陸幼に入校した者は1名のみであった。
陸軍幼年学校生徒採用試験は合格・入校すると同時に軍籍に入るため「召募試験」と呼ばれ(士官学校の採用試験も同じ)、身体検査と学科試験が実施された。まず身体検査が行われ、身体検査に合格した者のみが、学科試験(国語・作文・地理・歴史・数学・理科)を受験できた。陸幼受験資格は、満13歳以上・満15歳未満(願書を提出する翌年=入校する年の、3月31日における年齢)という年齢制限のみであり、2回まで受験できた。召募試験において求められる学力は中学校1年第2学期修了程度であったが、受験に際して学歴は不問であった。陸幼の召募試験は高倍率であったため陸幼生徒の多くは中学校出身者であったが、少数ながら高等小学校出身者も存在する。特待生となる資格を持つ「戦死した、または公務による負傷・疾病で死亡した、陸海軍の軍人、または文官の遺児」は、一定の成績であれば順位に関わらずに合格とされた。陸幼生徒選抜にあたっては理数系の素養が重視されており、数学が満点で、他が一定基準を満たしていれば優先的に合格とされた。さらに、召募試験合格者は入校予定の各陸幼において精密な身体検査を受け、これに改めて合格した者が晴れて陸幼生徒となった。武官の子息を主な対象とする月謝の減免措置も影響し、陸幼入校者のうち30%
- 50%程度が武官の子息であった。
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├陸軍大学校 - Wikipedia
陸大の受験資格者は、陸軍現役兵科将校(憲兵将校を除く)のうち、所属長(連隊長など)の推薦を受けた、陸軍士官学校(陸士)を経て少尉任官後に隊附(部隊勤務)2年以上の中尉・少尉。大尉に進級すると受験資格を失った。
4月に初審を受験する段階で、人数が入校予定者の10倍程度に絞られている。初審科目は、戦術甲(戦闘原則)、戦術乙(陣中用務)、戦術丙(図上戦術)、築城、兵器、交通、歴史、数学、語学の9科目。入校予定者の2倍の人数に初審合格が通知されるのが8月である。年末に再審が行われるが、これは人物考査を兼ねている。再審初日に図上戦術の筆記試験が行われ、以降、受験者は一日おきに陸大に出頭し、20日ほどをかけて各科目の口頭試験を受ける。受験者の多くがノイローゼ気味になり、不合格を確信するほどの厳しい試験であったが、50名ほどの陸大専任教官が全力で行う再審は、当時、最も公正な試験であると認められていた。
再審は12月2日から10日間に渡って実施され、受験者は120名であった。1日目から9日目までは、学識を問う通常の口頭試験であり、戦術は5名の陸大教官が、他の課目は2から3名の陸大教官が試験官を務めた。10日目は「人物考査」という課目であり、陸大幹事(校長に次ぐNo2)の少将、先任兵学教官(中佐)の2名が試験官であった。今村に対する試問は、学識を問うものではなく、いわゆる「圧迫面接」のように、答えに窮する問いを意図的にぶつけて反応を試すものであった。12月12日、入校式の直前に、受験者全員120名が陸大の大講堂に集められて、うち60名が合格と告げられ、今村は合格した。
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├海軍兵学校 (日本) - Wikipedia
受験年齢は16歳から19歳の年齢制限があり、身体条件を満たす者、中学校第四学年修了程度の学力、独身者。身体検査、運動機能検査で学術試験受験者が決定され、学術試験は5日間連続で行われた。学術試験は数学に始まり、英語(和訳)と歴史、物理、化学と国語(漢文も含む)、英語(英作文、文法)と地理の順に行われ、それぞれの学術試験の採点結果は当日に発表され、所定の合格点数に達した者のみが次の学術試験を受験。面接試験を経て最終合格者が決定された。志願者の増加と共に内申書による事前選考が行われるようになった。日本海軍の人事政策では兵学校出身者は特別の事情がない限り、大佐まで昇進させた。
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├海軍大学校 - Wikipedia
海軍の兵科高級幹部を養成する「甲種学生」の課程は海軍兵学校の卒業生が海軍士官(兵科将校)に任官後、10年程度の実務経験を経た中から選抜された。受験資格は兵学校での教育を受けた中堅将校である大尉・少佐であることが基本であった。入校者は海軍兵学校の卒業席次が高いものが多かったが、席次が低くても本人の努力次第で入校することができた。
募集人員は10〜20名前後で、満州事変が始まると30名にまで増やされた。その後、支那事変が始まると学生を採用しない年度も出てくるようになる。海軍の人事においては海軍兵学校の卒業席次(ハンモックナンバー)が重視されており、大学校を卒業せず、艦隊勤務など実施部隊を多く経験した叩き上げの士官で高位昇官を果たした例も少なくない。
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├能登大地震-その6-小さな記録 能登半島 港湾部の隆起現象(1)(計量計測データバンク)
陸軍士官学校(りくぐんしかんがっこう、旧字体:陸軍士官學校)は、大日本帝国陸軍において現役兵科将校を養成する教育機関(軍学校)のこと。通称・略称として陸士と呼ばれる事例もある。
陸軍幼年学校(陸幼)は幾度の変容があるが、陸士が予科・本科制度となった1920年代以降は将校候補者すなわち将来は陸士の予科に入校し生徒となる者を、若年時から「純粋培養」する旧制中学校相当の養成機関である。陸幼生徒は陸士の予科生徒と合わせて「将校生徒」と呼称された。陸士の予科の生徒は大別してこの陸幼出身者と一般の中学出身者からなる。
陸軍大学校(陸大)は主に参謀を養成する高等教育機関であり、選抜された陸士卒(己種・丁種学生を含む)の中尉・少尉が入校する。
1938年(昭和13年)以降、甲種幹部候補生出身者を生徒とし、予備役兵科将校を養成する教育機関として陸軍予備士官学校(予備士)が複数校設置されている。「予備役」兵科将校を養成する陸軍予備士官学校は、「現役」兵科将校を養成する陸軍士官学校(および士官候補生を養成する陸軍予科士官学校)とは全く異なる別種の士官学校である。
学校住所は、長らくは本科・予科共に東京の「市ヶ谷台」に所在していたが、1937年に本科(陸士)は神奈川県座間へ(航士は埼玉県入間に設置)、予科(予士)は1941年(昭和16年)に埼玉県朝霞へそれぞれ移転している。陸士自体の通称でもあった「市ヶ谷台」の名に倣い、座間移転後の陸士には「相武台」、入間に新設の航士には「修武台」 朝霞移転後の予士には「振武台」の名が、それぞれ当時の大元帥たる昭和天皇から与えられている。陸士の生徒・学生を指して「台上の人」という呼称はこれに由来する。この慣習は陸士以外の将校および将校候補者の養成学校にも取り入れられ、陸軍経理学校の「若松台」、東京陸軍幼年学校の「健武台」、仙台陸軍幼年学校「三神峯台」、名古屋陸軍幼年学校の「観武台」、大阪陸軍幼年学校の「千代田台」、広島陸軍幼年学校の「鯉城台」、熊本陸軍幼年学校の「清水台」、および満洲帝国陸軍軍官学校の「同徳台」がある。
予科
「陸軍士官学校」は文字通り現役兵科将校を養成する軍学校であるが、専門の軍事教育(「軍事学」)は主に本科(陸士)にて行われる。そのため、予科(予士)では旧制高等学校に準ずる「普通学」をメインに受ける。1932年当時の予科の教育課程表は以下となっている。修身、国語および漢文、外国語(英語・ドイツ語・フランス語・ロシア語・中国語から一つを選択)、歴史、数学(三角法・幾何および微積分・代数)、物理、化学、地理、心理および論理、法制および経済、図画。教育時間数では、外国語が計402コマ、数学が計318コマ、国語および漢文が計269コマ、物理が167コマ、化学が100コマなどとなっている。これらは予科の「教授部」の主に文官教官(陸軍教授)によって教育される。軍人としての教育は「訓育部」の主に武官教官によって教練、陣中勤務、射撃、剣術・体操・柔道・馬術、訓話、学科、内務指導および検査の課程があった。これらのほか、各見学や野営演習、遊泳演習も実施された。予科は自衛隊における防衛大学校に相当・類似する。
本科
対して、軍事学をメインとする本科の教育課程は以下となっている。戦術学、戦史、軍制学、兵器学、射撃学、航空学、築城学、交通学、測図学、馬学、衛生学、教育学(軍隊教育・一般教育)、外国語、校内教練、校外教練、陣中勤務、射撃、剣術・体操・馬術、典令範・服務提要となっている。重点が置かれている外国語は予科教育(普通文書を読解および日常会話・作文可能な程度)に連繋し、本科では主として軍事に関する読書力増進に力むものとされている。これらのほか、現地戦術、測図演習、野営演習、各見学も実施された。本科は自衛隊における陸上自衛隊幹部候補生学校に相当・類似する。
受験
陸士が予科・本科制度となった1920年の『陸軍士官学校令』では、「四 予科生徒ハ、陸軍幼年学校ヲ卒業シタル者、又ハ陸軍将校タルコトヲ志願シ、召募試験ニ合格シタル者ヲ以テ之ニ充ツ」と定められている。「召募試験ニ合格シタル者」とは概ね旧制中学4年修業「程度」の「学力」を「持つ」者を想定しており、修業・卒業といった学歴は必須ではない。陸幼卒業者は無試験で陸士予科へ入校できる。概ね陸士予科(予士)入校時の年齢は最若年者で16歳からとなる。さらに、徴集によって帝国陸軍に在営中の現役下士官および兵であっても、陸軍将校たることを志願し陸士予科(予士)の召募試験に挑み生徒となることは可能である(このいわゆる「部内受験」は少尉候補者(己種学生)とは全く異なる)。著名者としては二等兵として入営ののち、仙台陸軍教導学校を経た軍曹時代に陸士を受験・合格、24歳で予科へ入校(将校生徒)、かつ本科(士官候補生)の歩兵科を首席で卒業した第52期生若林東一大尉が居る。
陸士の位置付けは旧制高等学校、大学予科、旧制専門学校などに相当する。
他の教育機関と異なり、卒業後わずか20歳あまりで高等官(予科入校後は本科に進み卒業後は極短期間の見習士官を経て陸軍少尉に任官すると高等官八等)になれる陸士は魅力的で、全国の旧制中学校の秀才を集めた。第一高等学校・第三高等学校・陸軍士官学校・海軍兵学校の難関4校は「一高三高陸士海兵」と並び称された。また、資金難など生活面から旧制高校や大学予科などの上級学校に進学できない、ないし旧制中学を途中退学せねばならない家庭の子にとって、授業料なく無償で高等教育(第二次世界大戦後は旧陸士卒業生の進学等では、短期大学相当の教育程度と認定されている)を受けられる陸士は憧れの的であった。なお、国民生活が比較的豊かになった1930年代末頃においても、旧制中学進学率は全体の8%程度であり(旧制中学校進学率)、大半の国民は高等小学校・青年学校で終了し旧制中学を含む旧制中等学校へは進学出来なかった。大日本帝国においては旧制中学時点で既に一握りの恵まれた存在であり、旧制高校は純然たるエリート、旧制大学に至っては雲上の存在である。陸士(および海兵)は将校たる軍人を養成する教育機関であることから、実質学力のみが重視される旧制高校と異なり、相応の身体能力や精神力が求められ、学力試験と共に厳格な身体検査や身辺調査をもパスする必要があるため相応ないしそれ以上の難度があった。一方で、支那事変(日中戦争)以降は陸士・海兵共に採用人数を増員しているため、相対的に入校難度は低下している。
なお、陸士および海兵を指してその入校難度が短絡的に「現在の東京大学並」とされることがあるが、これは当時と戦後とでは学制が大きく異なるため不適当である。あくまで陸士・海兵は当時の学制では旧制高校相当であり、旧制大学たる東京帝国大学とは明確に位置付けは異なる。陸士・海兵と並び称されていた第一高等学校(一高)が、第二次大戦後の学制改革によって「東京大学の教養学部前期課程(2年間)」の母体となっているだけである。他の旧制高等学校も多くは新制大学の教養部の母体となっている。
次の資料によると、明治時代はそれほど難易度は高くなかったようである。
「陸軍士官学校へは、如何なる成蹟の卒業生が行くか」と中学校長に聞くと、皆口を揃へて曰ふに、「成蹟の優等のものは大概高等学校へ行くので、四方の入学試験に落第した者か、さなくば、第二流以下のものが、士官学校へ行く、最も中には、殊に軍人を好むものもあれど、それは大概海軍兵学校の方を喜ぶ、陸軍を非常に好む生徒と、海軍兵学校へは入学し得ない者で、学資の少くない者とが、陸軍士官学校に行くと答へる、これが事実とすれば、聊か心細そい次第だ。— 「二二、動物主義と形式主義」、青木龍陵『兵営生活』金港堂、1903年(明治36年)。
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├第37話:USA第51州の実態【日本という怪しいシステムに関する一見解】(初稿1999.10.29)平成15年5月16日改定 鳥越恵治郎(H26年4月17日一部改定)
昭和43年私が井原高校を卒業する時、既に幻想でしかなかったかもしれないが、日本には形を成した家庭があり学校があった。ヒューマニズムもフェミニズムも適度だった。いじめはあったがかわいいものだった。みんなに機会平等を保障してくれた寛容で優しい社会があり国家があった。世界に誇る工業技術があった。貧しくて不自由ではあったが実在し躍動する生命感も夢も希望もふんだんにあった。 行政官はnoblesse
oblige(高い身分に伴う道徳上の義務)を気高くもっており清廉だった。検察は汚職に薄汚れた政治家の圧力に屈することなく容赦なく巨悪に迫った。2003年(平成15年)に井原高校は創立100周年を迎えるという。私はこの拙稿で、ある一面的な見方でしかないだろうが、限られた文字数の中に現在の日本の有様について、できるだけ多くのことを簡潔に詰め込んで記述してみたかった。そのことは同時に私にとっての35年のへだたりを「現実・夢・希望」をキーワードに書くことにもなった。書き終えて私の心は憂うつになってしまった。私はこの心のくもりが晴れ上がる日を身をこがすような想いで心待ちにしている。井原高校の卒業生の皆様に、そしてこれから卒業しようとする若ものたちに、新しい日本の礎となって欲しいと切実に願っている。
鳥越医院院長鳥越恵治郎(とりごえけいじろう)先生
昭和51年岡山大学医学部卒業、岡山大学附属病院麻酔科研修医、愛媛大学医学部付属病院麻酔科助手、クワヤ病院(高松市)、藤原病院(南国市)、共立病院(西条市)勤務を経て、昭和59年鳥越医院開業、元井原市医師会長。昭和57年よりAI診断、病名思い出しツールを開発
現在に至る。鳥越恵治郎、他:内科領域におけるコンピュータ診断の試み.日本医事新報 No.3131:29-31.1984.
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├何故海軍兵学校・陸軍士官学校は東大を凌ぐ程難関だったのですか?... - Yahoo!知恵袋
東大に並ぶ頭の良さが必要と言うよりも、結果としてそういう人が集まった。終戦後、卒業前の生徒たちの半数が東大や京大に試験を受けて入り直したことからも秀才ぶりが伺われる。
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├【第1章】陸軍将校を育てる陸軍の中学校 陸軍幼年学校 伊室 一義 KAZUYOSHI IMURO | MYWAY
昭和17(1942)年4月1日、私は東京陸軍幼年学校に入校した。第46期生として、である。陸軍幼年学校は、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、熊本の6校があった。入学試験のとき、そのうちの2校を志望先として書けと指示されたので、私は家から近い順に、第一志望を名古屋、第二志望を大阪にした。ところが、わが家に届いた合格通知には、「東京に入校せよ」とあるではないか。これには驚かされた。理由は皆目わからないが、正式な書類にそう書いてあるのだから、これに従うしかない。伊賀上野という山国に育ち、なにせ小学校3年生まで海を見たことのなかった田舎少年である。
東京陸軍幼年学校はいまの新宿区の戸山にあった。昭和19年3月、八王子郊外への幼年学校移転の話を知らされる。いつ空襲に遭うかもしれない戸山台では勉強にも専念できないという理由での、いわば疎開である。生徒たちの精神的な動揺を鎮静させる目的もあったと推測される。全校を挙げて急ピッチで物品搬出作業を進め、大分の積み荷と生徒を乗せた自動車26台を連ねて、八王子新校舎への移転が完了したのが3月20日。同じ日、新校長とし長谷川務少将が着任された。東京幼年学校、最後の校長である。翌年(昭和20年)の8月1日、八王子(正確にはその郊外の横山村)の東京幼年学校(通称は建武台)は、終戦間際に大規模な空襲に見舞われている(私たち46期生は既に卒業し、大半が陸軍予科士官学校に在学していた)。
なぜ八王子の幼年学校が狙い撃ちされたのか。「幼年学校には軍人の子弟が多かったから」というのがその答えのようだ。私の同期にも、陸軍大将、東部軍管区司令官、陸軍省報道局長などといった陸軍のエリートや高級将校の子どもが実際にいて、それ以外にも大半が軍人の子弟と言ってもいいほどだった。つまりアメリカ軍は、軍国主義日本の士気を崩壊させるための一つの戦術として、「子どもが死んだからもう戦争は止めようや」と思わせるように軍人の子弟の多い軍学校の攻撃を考えていたわけだ。
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├【第1章】昭和20年8月29日、私たち61期生を最後に陸軍予科士官学校は解散となり生徒全員は復員 伊室 一義 KAZUYOSHI IMURO | MYWAY
陸軍幼年学校は、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、熊本の6校があった。入学試験のとき、そのうちの2校を志望先として書けと指示されたので、私は家から近い順に、第一志望を名古屋、第二志望を大阪にした。ところが、わが家に届いた合格通知には、「東京に入校せよ」とあるではないか。これには驚かされた。理由は皆目わからないが、正式な書類にそう書いてあるのだから、これに従うしかない。伊賀上野という山国に育ち、なにせ小学校3年生まで海を見たことのなかった田舎少年である。
昭和17(1942)年4月1日、私は東京陸軍幼年学校に入校した。第46期生として、である。
東京陸軍幼年学校はいまの新宿区の戸山にあった。昭和19年3月、八王子郊外への幼年学校移転の話を知らされる。いつ空襲に遭うかもしれない戸山台では勉強にも専念できないという理由での、いわば疎開である。生徒たちの精神的な動揺を鎮静させる目的もあったと推測される。全校を挙げて急ピッチで物品搬出作業を進め、大分の積み荷と生徒を乗せた自動車26台を連ねて、八王子新校舎への移転が完了したのが3月20日。同じ日、新校長とし長谷川務少将が着任された。東京幼年学校、最後の校長である。翌年(昭和20年)の8月1日、八王子(正確にはその郊外の横山村)の東京幼年学校(通称は建武台)は、終戦間際に大規模な空襲に見舞われている(私たち46期生は既に卒業し、大半が陸軍予科士官学校に在学していた)。
「親子焼夷弾」が陸幼めがけて3万発落とされ、低空飛行による攻撃といい、まさに幼年学校は狙い撃ちされた。この空襲によって、校舎は全焼し、残念なことに10名の生徒と下士官が死亡した。だが、当時の全校生徒が880名だった。焼けた陸幼を見舞いに行ったときに聞いた話では、この空襲の際に、I少佐という週番士官が中心となって、咄嗟の判断で生徒全員を避難誘導したという。通常なら「火を消せ」と生徒を動員するところを、「消すな、逃げろ!」と生徒たちを逃したのだ。
なぜ八王子の幼年学校が狙い撃ちされたのか。「幼年学校には軍人の子弟が多かったから」というのがその答えのようだ。私の同期にも、陸軍大将、東部軍管区司令官、陸軍省報道局長などといった陸軍のエリートや高級将校の子どもが実際にいて、それ以外にも大半が軍人の子弟と言ってもいいほどだった。つまりアメリカ軍は、軍国主義日本の士気を崩壊させるための一つの戦術として、「子どもが死んだからもう戦争は止めようや」と思わせるように軍人の子弟の多い軍学校の攻撃を考えていたわけだ。
昭和12(1937)年以降の幼年学校卒業生は、陸軍予科士官学校に無試験で進学できた。当初は中国戦線が拡大傾向にあり、さらに太平洋戦争が始まって2年ほど経つと戦局はますます厳しくなって、兵隊はもちろん将校の総数も不足してきたからだ(いわゆる学徒出陣は昭和18年10月に始まっている)。通常、陸軍士官学校本科を陸軍士官学校(市ヶ谷から神奈川県座間町に移転。通称は相武台)とだけ呼び、予科を陸軍予科士官学校と呼ぶようになったのは、このときからである。私は61期生としてここに入学することになる。
朝霞の予科士官学校には何故かB29は焼夷弾を落とさなかった。一度だけ割りに低空を飛んできたB29がトントントンと爆弾を落としたことがあり、防空壕で生き埋めになった犠牲者が出たが、大方は朝霞の上空でUターンして帰って行った。これは後で知ったことだが、彼らは朝霞の予科士官学校を残し、それを占領後の駐留地として利用するという計画を立てていたようだ。その後、実際に朝霞はアメリカ軍のベースキャンプとして活用され、さらに自衛隊の朝霞駐屯地として生まれ変わっている。
幼年学校は陸軍の幹部将校を早期から純粋培養する学校である。中学のように一般教科も教えるが、さまざまな軍事敎育・教練に重点が置かれる(見方を変えれば、ある種の“洗脳教育”とも言える)。中学卒業者に比べて、3年も早く軍隊の教練や知識を積んできているのだから、予科士官学校の敎育現場で優位に立つことも少なからずある幼年学校卒業組の中には、3年の違いを嵩に来て中学卒業組を見下したりする者が出てくる。教科においては優秀な生徒も多い中学組は、当然のことながら、幼年学校組に対して反発する。実は、士官学校では、予科でも本科でも、そんなことが原因で幼年学校組と中学組が対立することがあった。そういう事態を見越してのことだろうか、東京幼年学校の湯野川校長は東幼在学中に私たちに向けて厳しく言明されていたことがあった。それは次のような教えだ。「お前たちは、予科に上がっても、幼年学校出身であることを決して鼻にかけてはならない。中学出身者に対して絶対に威張ったりせず、何ごとも親切に教えてやれ。いいな!」。
予科士官学校では、入学後の早い段階で自分の志望兵科を決める。その兵科における将来の陸軍将校としての自己イメージをしっかりとつくり、目的意識を持って勉学に励むためである。
陸軍でエリートコースを行く者は、東京幼年学校から士官学校へ行き、兵科は砲兵か騎兵(何と言ってもかっこ良かった)を選択することが多かった。そして少尉に任官後陸大に進み、陸大を卒業して参謀となる。しかし緊迫した戦況の下では、こんなエリートコースのことなど考えることすらできなかった。もちろん私は航空兵科を選んだ。その志は、幼年学校を志望した時からのものだ。それどころか、航空志望の思いはいよいよ強くなっていた。戦局の厳しさへの認識が、私の背中を押していたと言っていい。入校後3か月ぐらい経ったところで(7月)、航空適性検査があり、私は「甲種」合格となった。そして希望通り航空兵科(戦闘機乗りだ!)に選ばれた。この時はさすがに誇らしげな気分になったものだ。もちろんそれは、特攻隊への道をひた走りに走るということを意味していた。
相次ぐ編成替えや空襲警報に翻弄され、実際の予科士官学校での生活も5か月ほどしかなかったこともあって、士官学校時代で勉強や訓練に進んで勤しんだという具体的な記憶はあまり残っていない。
昭和20年8月14日。その夜、消灯後に東幼出身のY君が私のところに忍び込んできて、興奮気味に話し始めた。「明日、日本は降伏する。われわれ士官学校生徒は、捕まれば銃殺刑になる。どうせ死ぬなら一人でも多くのアメリカ人を殺して死のうじゃないか?」私は直ちに同意。兵器庫に忍び込み、拳銃と弾丸200発を盗み出し、貯金通帳と両親の写真を胸に、深夜学校を脱柵したのだった。夜道を延々と歩き、未明に飯能あたりの農家を訪ねて朝食をご馳走になった。農家は総じて早起きであり、士官学校の生徒となると歓迎された時代だ。敗戦を知らない農家の方々からは、親切なもてなしてと「ご苦労さまです。武運長久を!」という激励の言葉をいただいた。ところが、農家を出発しようとしたそのとき、自分が飯盒を忘れてきたのに気がつき、私一人が学校へ引き返すことにした。「飯盒を忘れたぐらいで」と思うだろうが、本土決戦が持久戦になることも考えのうちだったので、飯盒は武器に次いで大事な装備の一つなのだ。士官学校に到着し、塀をよじ登って校内に飛び降りたときのことだ。背後からの突き刺すような声で、「誰か!」という誰何すいかを受けた。何と、士官学校生徒が50メートル間隔で歩哨に立ち、不法侵入者を見張っていたのである。「われわれは実弾を込めているぞ!」という叫び声を聞き、私は経験したことのない切迫感を覚え、反抗の術もなく逮捕されてしまった。そして、何としたことだろう、重営倉1日の刑を受けてしまったのだ。
クーデター計画は未遂に終わったが、当時、陸軍内は血気盛んな本土決戦派が多かった。このことを知っていた阿南惟幾これちか(かつての東京幼年学校校長である)陸軍大臣は、本心では一日も早い和平を望みながらも、混乱を避けるため最後までボツダム宣言受諾に踏み切れなかった(最終的に閣議でポスダム宣言受諾に賛成の後、宮城事件の最中に陸相官邸で自刃)。反乱将校の一部は宮城にも侵入したが、首都の鎮圧に当たった田中静壱東部方面軍管区司令官(大将)に説得され、原隊に復帰した者もいるが、中心的役割を演じた将校たちは宮城前で自決した。
昭和20年8月29日、陸軍予科士官学校は解散となり、私たち生徒全員は復員することになった。4月の入学以来ほんの5か月の間だったが、帝国日本が沈んでいくその様を、まがりなりにも陸軍内部の空気から感じることができた。しかしこの敗戦直後、自分たちがめざした陸軍が解体され、士官学校が解散になった瞬間、学友たちの多くは、生きる目標を失って茫然自失した者が多かった。私も、そのうちの一人にすぎなかった。
私たち幼年学校46期生は予科士官学校では最後の61期である。もちろん実弾の下を潜ったことはない。しかし、森本秀郎さん(幼年学校の4年先輩の42期生)のレイテ沖海戦での戦死(特攻隊第1号であることは前に述べた)のように、実際に私たちが身近に接した先輩には、戦争末期の過酷な戦闘の中で命を落としていった人が実に多い。ちなみに、航空士官学校に行った森本さんの同期では、ほぼ半数が戦死している。
昭和20年3月26日に始まった沖縄戦において、Yさんは特別攻撃隊の戦闘機編隊を先導する新司偵に乗っていた。沖縄の近海、敵艦隊に接近したところで特攻編隊から離れ、上空から戦闘状況を見きわめるということが、このときの偵察機の任務だった。特攻機が敵艦に何機当たったか、当たった特攻機が撃沈した敵艦は何隻か、撃沈しないまでも与えた損害はどれくらいか等々、その実際の戦況をつぶさに記録し、帰還後に報告するのが仕事だ。つまりYさんは、よく見知った部下や仲間が敵の戦艦や空母に体当たりする苛烈な光景の一部始終を、上空を旋回しながらずっと見ていなければならなかった。そこには、敵艦に“見事”体当たりを果たせる特攻機もあれば、敵艦をめがけるその途上であえなく艦上射撃に撃ち抜かれ、爆発して空中大破する機もある。キリモミしながら海面に激突する者、敵艦まであと一歩のところまで接近しながら海中に消えていってしまう者…。「あの機はあいつだ!」、「あいつが体当りしたぞ!」「だめだ、やられる!」…。自分は戦闘に加わるのではなく、多くの、そしてさまざまな死の形をただただ見ていなくてはならなかったのだ。Yさんは、サイパン空襲のときも(サイパンからの空襲を知っている人は多いが、サイパンを空襲したことを知っている人は少ない)沖縄戦とほぼ同様の任務に就いている。本土から飛び立った新司偵は、そのときは爆撃機の編隊を先導していた。給油のために一旦硫黄島に立ち寄り、そこからサイパンに向けて飛行を続ける。爆撃機編隊の任務は、サイパン島に上陸したアメリカ軍への空襲である。そしてYさんは、各爆撃機が敵にどのような損害を与え、その損傷はどの程度かを見きわめるために、上空からすべての戦闘を冷静に観察していなければならないのだ。冷静と言っても限度がある。冷静さをずっと維持したままで、つい昨日まで苦楽をともにしてきた部下や仲間の機が撃ち落とされる様を、ずっと記録し続けることなどできるものではない。任務遂行中も心は大いに揺さぶられ、帰還の最中にも、減ってしまった編隊機の誘導を陰鬱な気持ちで続けなければならなかった。
幼年学校の大先輩では、もう一人、東幼6期生(陸士21期生)の飯村穰ゆずる中将のことを思い出す。彼は昭和16年1月に参謀本部総力戦研究所の所長に就任し、その8月、日米が戦った場合の綿密なシミュレーション(いわゆる「総力戦机上演習」)の作成を指揮した人物である。このシミュレーションの最終結論は次のようなものだった。「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に青国(日本)の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能」要するに、「日本必敗」の結論が導き出されたのだ。ところが、当時の東条英機陸軍大臣(第3次近衛内閣)は、これを「机上の空論」として一蹴したのである。
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├【第1章】旧制三高編入試験をロシア語の単語を間違えて失敗 伊室 一義 KAZUYOSHI IMURO | MYWAY
高等学校の編入試験を受けてみろと第三高等学校の編入試験を受けた。昭和20年の11月。試験と言っても、学科試験は口頭試問だけだった。
17歳の私は、茫然自失として朝霞の陸軍予科士官学校を後にするしかなかった。
故郷に舞い戻ると母は言った「番茶も出花だよ、これから、これから!」父が笑いながら言った。「弾丸は確かに外れたな。良かった、良かった」
幼年学校入学以前に鑑定してもらった名古屋の易者先生の言葉通り、弾丸の“たの字”にかすりもしなかったわが生還に歓喜してくれているのだ。
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├【第1章】めでたく東京大学文科Ⅰ類に合格 伊室 一義 KAZUYOSHI IMURO | MYWAY
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├【第1章】そうだ、もう一度、学校へ行き直そう 伊室 一義 KAZUYOSHI IMURO | MYWAY
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├【第1章】専門学校受験検定を無事通過 晴れて旧制静岡高校に入学 伊室 一義 KAZUYOSHI IMURO | MYWAY
専門学校受験検定を無事通過 晴れて旧制静岡高校に入学
昭和 22(1947)年の秋、12科目の検定試験を一つも落とすことなく、専門学校受験検定(専検)の試験にめでたく合格した。どこの高校を受けようかという段階になって、はたと考えてしまった。三高と八高は以前すでに落とされているし、二度目の受験となると記録が残されているわけだから、例の「軍学徒の一割制限」のチェックに引っかかる可能性もある。専検の合格資格を全面に出しての受験とは言え、このカモフラージュが見破られないとは限らないのだ。と言って、一高は受験レベルが高くて当時の私にはむずかしい。あまり遠い地方に行くのもいやだし、などと考えた挙句、実家と東京とのちょうど中ほどに静岡高校があることに気づいた。下見に行ってみると、静岡の街は空襲でほとんどで焼け野原だったが、賤機山の麓にある静高の校舎は戦災を逃れて厳然と建っていて、私はすぐに惚れ込んでしまった。受験の難易度や勉学環境の問題からだけでなく、当時の東京帝大への進学率が、官立の旧制高等学校の中では一高と浦和高校に次いで3番目であることも、将来のことを展望すると一つの判断材料となっていたかもしれない。入学試験を受けてみると、これが専検に比べてむずかしいとは感じなかった。試験が終了した瞬間に、「これは受かったな」と確信したほどだ。もちろん結果は合格だった。
昭和23年の4月、旧制静岡高等学校(以下、静高)に入学。自分の前途は洋々たるものという気分で、門を潜った。ところが、である。待望の高校生活を満喫しようとした矢先、愕然とするような事実が私を待ち受けていた。教員の中に幼年学校で数学を教わったK先生がいたのだ。例の「軍学徒一割制限」というマッカーサー指令は、当時、絶対的なものだったから、もし軍学徒だった自分の素性がバレたら退学になる。そうなれば、戦後に味わった全ての苦労は水泡に帰してしまうではないか。わたしは強く危惧した。授業中は絶対にK先生の顔を見ないように視線を外し、極度に緊張しながら授業を受けていたが、そのせいで、得意であるはずの数学にはあまり身が入らなかった。そこで2学期の試験のとき、とうとう堪えきれなくなって、答案用紙の末尾に「お懐かしゅうございます」と書いてみた。私としては、本心からの表敬のつもりだった。するとどうだろう。なんと先生は100点をつけて下さったのだ。K先生はとっくに私の存在をわかっていてくれたに違いない。武士の情けと言うべきだろうか、それとも理不尽なマッカーサー指令を快く思っていなかったのだろうか。遂にその真意を聞く機会を逸したが、まさに感謝あるのみだった。以来、数学の授業にはことのほか身が入った。
静高時代、私は「不二寮」という自治寮に入り、これまでに経験したことのない自由を味わった。旧制高校の寮は、軍の学校とは格段に違って自主性を重んじ、優秀な友人から実に新鮮な刺激を受けつつお互いに成長していく、きわめて理想的な教育環境だった。そこで生涯にわたる友人を何人も得ることになるのだ。原田君はその最初の一人だった。とりわけ寮生活で親交を温めたのは、佐治俊彦君(のち毎日新聞社常務取締役)、芝康平君(のち東京機械製作所社長)、若林孝雄君(医師)、渡辺文雄君(のち俳優)といった面々だ。これに、若杉和夫君(のち通産省審議官)、田口英爾君(のち青東社社長)が加わって、私の高等学校以後の厚い交友の物語が成り立つ。
旧制高等学校の自治寮で寝食をともにする意義はすこぶる大きかった。昭和23年当時、まだ敗戦直後の高等学校の寮の建屋などはおそろしくオンボロ。戸や窓はガタガタで、すきま風が吹き込む実にお粗末なものだった。しかし、そこは何の気取りもない、文字通りの“裸の付き合い”から真の友人関係が培われる世界だ。しかも日本中が食糧難の時代である。家を離れて生活する高校生にとって、寮で与えられる食事は見事なくらいお粗末で、量もきわめて少なかった。まともな白飯は夢のまた夢。丼に直経2センチほどのジャガイモが20個ほどしかないという夕食もあった。しかし、本来は食べ盛りの男子ばかりである。これでは持たないと思い、私は田舎へ帰って米や野菜などを担げるだけ担いで運んだ。それは、誰もが認知する、食料生産地出身者の重要な役割だった。実家から持ち帰る大量の食糧とともに静岡駅に到着すると、飢えた学友たちは歓喜して迎えに来てくれた。もちろん真に歓迎されているのは、私の存在以上に、米であり、野菜であることは明らかだった。空きっ腹が人間関係を大いに近づけたのである。
カレーの臭いが漂い始めると必ずどこからともなく渡辺文雄が私たちの部屋に入ってきて、ものも言わずに文字通り黙々と食べ続ける。彼は常に胸のポケットにフォークを忍ばせているので、とにかく素早かった。遠い実家から苦労して運んできた食材である。私が「もう少しゆっくり味わってくれよ」と言うと、「ボリューム、ボリューム」と言い返しては早食いするので、それ以来、彼の渾名は“ボリューム”となった。味は二の次で、腹をいっぱいに満たすだけのボリュームを確保することが、何より先決の時代だったのだ(この渡辺文雄は、その後、「くいしん坊!万才」というTV番組に登場するのだから、人生は面白いものだ)。
佐治や原田のような中学4年修了で高等学校に入学してきた優秀な生徒は、中学時代に積み重ねてきた圧倒的な読書量によって、議論を投げかけてくる先輩を見事に論破してしまうこともある。軍学校時代にそんなに本を読んでこなかった私などは、気持ちの上では佐治たちを応援しつつ、その論戦を固唾を飲んで見守るしかなかった。それ以来、「なるほど、要は読書か」と思った私は、理論武装のために哲学研究部というサークルの門を叩き(単純な発想だったが)、カント、ヘーゲル、マルクス、マックス・ウェーバー、三木清等々と読み進めた。とは言え、三木清のような日本の哲学は比較的スムーズに頭に染み込んでくるが、難解な翻訳文の西洋哲学には歯がたたないものも多かった。しかし面白いもので、理解に難渋する数行を何度も何度も読み返したり、先輩や友人と「ああだこうだ」と会話したりしているうちに、ある瞬間にピカッと閃き、その文章の意味がストンと腑に落ちてくることがある。一度この快感を味わうとその先をもっと読みたくなり、理解が進むとほかの誰かと議論がしたくなって、夜の寮生の集いが待ち遠しくなるのだった。
夜の寮生の議論大会に、同級生だけでなく、先輩たちがなだれ込んでくることもあった。その大半が共産党のオルグで、パルタイ(党)への勧誘がその主流を占めていた。彼らの説得論理はこうだ。「同じ年頃の青年たちは、みんな工場で油まみれで働いているのに、こんなところでのうのうと勉強なんかしていていいいのか?」「共産党に入れば、そういう貧しい人たちを救えるんだよ。入党しないか?」のうのうと勉強しているのはその先輩たちも同じではないかと思ったが、彼らの言い分にはうなづけるところもあった。戦後の混乱期の中で、貧しさのために働き詰めに働かざるをえない同世代の若者のことを、気にしていないと言えばウソになる。それを考えれば、自分たちはもっとしっかり勉強して、彼らを貧困から救い出す方法を考え出すべきではないか。いま思えば傲慢な考え方ではあるが、まだ稚拙な社会通念しか持ち合わせていないせいもあって、次第に先輩たちの言うことが正しいかもしれないと洗脳されかけた瞬間もあった。しかし先輩たちがあまりにしつこく「入党しろ、入党しろ」とオルグするので、最後には辟易して口を利く気にもならなくなってしまった。彼らの説得工作がもう少しうまかったら、その後の私もどうなっていたかわからない。実際、彼らの考え方に共鳴して入党し、その後、党幹部から政治家になった寮生もいたからだ。
親友たちの後押しで無事及第点 新制東大第1期生となる
昭和22(1947)年3月に制定された学校教育法によって、新制のいわゆる「6・3・3・4制」の導入は始まっていたが(学制改革)、新たな学制に完全に切り替わる昭和28(1953)年3月までは学年によって旧制と新制が入り混じることになる。その混乱を防ぐため、学年の段階に応じてさまざまな経過措置が取られた。この経過措置の中で、24年3月時点での1学年修了者に限って新制大学の入学試験の受験資格が与えられることになったのだ。ということは、もし私がこの年に単位不足で1学年を落第してしまうと、その時点で大学受験資格も失ってしまうことになる。しかも、次年度には旧制高校が廃止になるので、ここで落第すると新制高校生として1学年からやり直さなければならないのだ。私の単位不足の可能性を聞きつけた親友たちは、実に親身になって心配してくれた。そして、こぞって担任に願い出てくれたのだ。彼らはビッテン(bitten)と称し、噛みつくような勢いで先生に掛け合ってくれた(bitten
とはドイツ語で“頼む”、“求める”、“問う”などを表す動詞)。「伊室の2学期の成績の6割を3学期の成績として与えてやって下さい。彼の実力が落第するほど下がっているとは思えません! お願いします!」私は涙がでるほどうれしかった。この親友たちのお蔭で、私はクラスのお尻から2番目の成績をもらうことができた。ぎりぎりの点数で何とか1学年の修了が叶ったのである。人によって多少の差はあるだろうが、旧制高等学校が持っていた特有の「自由・自治」の空気を謳歌してきた者は、在学中の体験を
“良き思い出”として持っていることが多いと思う。もちろん、私もその一人だ。少なくとも敗戦後から新制に変わるまでの間、旧制高等学校における独立自治の気風はその後に類を見ない稀有のものだった。GHQもこの旧制高校の長所を学制改革によって新制高校に引き継がせようとしたようだが、一度壊したものは学制改革によっても再生することはなかった。
私は、この旧制高校の奔放な空気の中でこそ、敗戦直後の重苦しかった精神状態から一気に解放され、生涯にわたる多くの親しい友人たちを得ることができた。そして、戦前の陸軍幼年学校や予科士官学校で培われた精神力や体力とは別の意味で、自分の中の人間性を豊かにしていくための感覚を体得したように思える。ほんの1年間にすぎないが、私のその後の生涯にとってかけがえのない珠玉の1年間だと言っていい。その大切な1年間を親友たちの後押しで修了することができた私が、次に踏むべきステップは大学入試である。大学もこの年から旧制と新制が同居することになるのだが、私たちの学年が入ろうとするのは、もちろん文字通りの新制の方だ。ただ、多くの友人が新制東京大学の第1期生の入学試験を受ける流れができていたので、私もそれに乗って受験した。結果は合格だったが(ちなみに文科Ⅰ類、法学部コースだ)、きっと高校時代の内申書はあまり問題にはされなかったのだろうと、私は密かに思っていた。ところが私の友人の一人に珍事が起きた。ここでの主人公は、私が寮で作ったカレーを「ボリューム、ボリューム」と言っては早食いを決め込んでいた渡辺文雄である。合格発表の日、私は渡辺と一緒に連れ立って大学まで見に行った。すると掲示板には、私の名前も渡辺の名前もちゃんと書かれている。「やったな!」と二人は笑みを浮かべて握手をし、合格の書類をもらって校門を出た。そしてそのまま、道玄坂まで足を伸ばし、祝杯を上げたのである。ところが翌日、その渡辺が浮かぬ声で電話をしてきた。「おい、俺、実は落っこってたんだ。間違いだったんだよ」と言うのである。聞けば、同姓同名、漢字表記も同じ、もう一人の渡辺文雄が合格で、ボリュームこと渡辺文雄は残念ながら不合格だったというのだ。誰もが落ちるはずはないと思っていたのだから、渡辺の意気消沈ぶりは尋常ではなかった。このとき、「そうか、せっかく道玄坂でお祝いしたのに…、残念だったな」とは言ってみたが、それ以上の慰めの言葉が出なかった。
もう一人の渡辺文雄”(合格した方の渡辺)と入学後の大学構内でばったり遭遇したのだ。同年入学で同級生になったのだから、いつかは出食わすだろうとは思っていたが、対面した瞬間にはその男が“件の渡辺”であることなど知るはずもない。すると向こうから「伊室さん、お久しぶりです」と声をかけてきたのだ。見覚えはあるが、名前が思い出せない。「渡辺ですよ、東京幼年学校で1年後輩だった、渡辺です」「おー、そいつは奇遇だ」と声を発したところで、「まさか」と思い聞いてみた。「で、渡辺君…、君…、下の名前は何て言ったかな?」「いやだなー、お忘れですか、渡辺文雄ですよー」私は驚いて声を上げた。
彼によれば、合格発表で自分の名前を見つけて意気揚々と大学の事務所まで足を運んだはいいが、既に渡辺文雄という人物が合格通知と書類を持って行ったと告げられたという。「あなたが合格した渡辺文雄さんということなら、何か証明するものがなければねぇ」と、合格した本人なのに冷たくあしらわれたのだ。「そのときは身分証明になるのは持っていかなかったし、その後の手続にえらい苦労させられましたよ」
この合格した方の渡辺文雄は、卒業後は農林省に入り、水産庁長官などを歴任してから、農林水産次官を経て、栃木県知事(確か4期務めた)になった男だ。彼にしてみれば、確かに気の毒といえば、気の毒な話だったと言える。
東大第1回生の入試には失敗した方の渡辺文雄は、翌昭和25年、今度は文科Ⅱ類(経済学部コース)を受けで見事合格している。そして、彼とはその後も親しい付き合いが続いた。
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├【第1章】安田火災での面接試験 伊室 一義 KAZUYOSHI IMURO | MYWAY
私という人間を率直に伝えるということが一番大事だと思い、とっさに語気強く答えた。「私は、暴力で会社をこわすようなことはしません。人の意思に反して無理矢理に大衆動員をかけるような今日の左翼のやり方にも反対です」実はこのとき思い出していたのは、旧制静高で共産党シンパの先輩からかなりしつこく入党を勧められた光景だった。あの夜の学生寮での先輩のしつこさは、私の身体に反発心を覚えさせるほどのものだったので、そのトラウマによる左翼イメージ対する強い反応のようなものが、この社長面接で期せずして吐出されてしまったのだ。私のあまりにはっきりした物言いに、社長は目を丸くしていたが、隣に控えていた人事課長は、何やら不思議な笑みを浮かべていた。結論から言ってしまうと、この安田火災の入社試験は合格となった。決して思想的に問題のないことが証明できたわけでもないのに、である。何が合格の決め手になったのか、入社後も確かめることはしなかった。
├伊室一義さん死去(2024年5月30日 5時00分)朝日新聞デジタル
伊室一義さん(いむろ・かずよし=元安田火災海上保険〈現損害保険ジャパン〉専務)1日、肺炎で死去、96歳。葬儀は近親者で営んだ。喪主は長男貴さん。
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├日本ニュース 第2号|戦争|NHKアーカイブス
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├日本ニュース 第63号|戦争|NHKアーカイブス
├新生日本ニュース第1号|ニュース|NHKアーカイブス
├ニュース映像タイムライン|戦争|NHKアーカイブス
├NHK特集 激動の記録 第1部 戦時日本 ~日本ニュース昭和15―20年~ - 動画配信
├保阪正康解説 日本ニュースが伝えた戦中・戦後 ~昭和・激動期の首相たち~ PR動画
├野坂参三氏歓迎国民大会|ニュース|NHKアーカイブス
├更に進む民主戦線 -民主人民連盟発足-|ニュース|NHKアーカイブス
├日本国憲法の公布 記念式典|ニュース|NHKアーカイブス
├公職追放令<民主革命の旋風>|ニュース|NHKアーカイブス
公職追放令<民主革命の旋風>
放送年:1946年
連合軍最高司令部は、昭和21年1月4日、軍国主義主導者の官公職よりの追放、および右翼団体結社禁止の画期的指令を発し、新春の政界朝野を一大旋風の中に巻き込みました。閣僚中に該当者を含む政府では、総辞職か改造かの岐路に立ち、4日に引き続き5日も協議を続行しました。慌ただしい5日の首相官邸。この指令は、戦時中の翼賛議員270余名の寄り合い所帯である進歩党にとって、まさに壊滅的鉄槌でありました。5日、同党本部では総選挙直前のこの時期に極度に狼狽、鶴見[祐輔]幹事長をはじめ、首脳部はその対策を協議いたしました。この無血民主革命をもたらす重大指令に対し、共産党の宮本氏および劇団の山本さんは次のごとく語りました。《共産党 宮本顕治氏》「今回、日本が侵略戦争をやるうえに積極的な役割を務めた反動分子の、公職からの追放と、反動団体の解散が指令された。わが日本共産党は、この指令が日本の民主化に非常に役立つものとして全面的に支持する。今日、中央と言わず、地方と言わず、反動分子は盛んに日本の民主化を妨害している。大元帥としての天皇も、この戦争の最高の責任者として、その責任をこの際、公にすべきである。またこの指令を厳格に実行するためには、現在の反動的な幣原内閣は打倒されなくてはならない。そして、従来一貫して侵略戦争に反対してきた真の民主主義的な勢力を中心として、新政府が樹立されなくてはならない。この方向こそ日本の民衆を解放する、真に正しい方法である。」
├人民注視の人野坂参三帰る|ニュース|NHKアーカイブス
├官庁にも民主化の叫び|ニュース|NHKアーカイブス
├人民戦線要望の声 -社会党中央委員会-|ニュース|NHKアーカイブス
├戦争犯罪人古島の判決|ニュース|NHKアーカイブス
├遂に居据った幣原内閣|ニュース|NHKアーカイブス
├“生産を再開せよ”<インフレはどうなる?>|ニュース|NHKアーカイブス
“生産を再開せよ”<インフレはどうなる?>
放送年:1946年
それでは、この生産再開の見通しはどうでしょうか。《金融経済学者 木村禧八郎氏》「インフレの根本的解決には、産業の再開が絶対に必要だと思うんですが、果たして現状では、産業の再開なり、量産というものが望めるのでございましょうか。」「インフレが抑えられる。そして経済活動のほうが、値段が固定されますれば、業界の利潤が少なくなりますから、前にインフレでサボっていたものが、また今度は生産をサボる可能性が非常に大きいでしょう。」「では、どうして産業は再開されるのでありますか。」「その道は、2つしかないと思います。その1つは、額に汗して働く人たちが、早く組合のような組織を作って、自分たちの手で工場を動かしていくということ。もう一つは、そういったことができるような強力な政府を人民の手で作ること。結局、民主戦線内閣を作らなければ、インフレの根本的な解決はできないと思いますね。」
├婦人参政権を生かすために 東京|ニュース|NHKアーカイブス
├河上肇博士逝く|ニュース|NHKアーカイブス
├発疹チフス退治にDDT散布<時の話題>|ニュース|NHKアーカイブス
├DDTと虱<時の話題>|ニュース|NHKアーカイブス
├経済再建果して成るか -金融緊急措置令-|ニュース|NHKアーカイブス
経済再建果して成るか -金融緊急措置令-
放送年:1946年
(字幕)日銀総裁 新木栄吉氏 放送の一節 -二月二十一日夜-「大蔵大臣も言われているように、この措置なくしては、悪性インフレーションの防遏は、不可能であります。この措置こそは、国民全体の自衛手段である点を国民各位におかれても深く認識され、国民経済再建のため、今こそ耐えがたきを耐えて、よくこの試練に耐え、国家再建のため、全幅のご協力を切望いたす次第であります。」今回のこの緊急措置が発表されるや、期せずして各方面から批判の声が巻き起こりました。《毎日新聞論説委員 美濃部亮吉氏》「われわれが政府の総合復興対策に反対するのは、ただ反対するために反対するのではない。それは、インフレの根本的原因である財政上の赤字克服については何らの手段を講じていないのみか、軍事補償と国債償却によって金融資本を救済しようとしている。このような手段によっては、インフレを克服していないのみか、通貨に対する信用を失墜させ、インフレをかえって激化させる。経済の復興を阻害することにもなる。しかも賃金俸給の値上げ運動を阻止して国民生活を窮乏化することによって、その犠牲は国民大衆に転嫁されようとしている。政府の復興対策は、患者の信用を失い、下手な医者が、適当でもないときに行った大手術にも比較し得るものである。」
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強制供米と農村
放送年:1946年
全国民関心の的である米の供出。最近の政府発表によれば、政府の供米予定量に対して実際の供出量は常に下回り、その開きがますます大きくなる傾向にあります。2月までの供出累計1382万石、割当総量のわずか5割2分にすぎません。このようなとき、政府の強制供米、預金封鎖等の処置は、農村にどんな反響を呼んでいるでしょう。《千葉県多古町農業会長 小川豊明氏》「・・・現に自主的に、かくのごとくどんどん毎日運び込んでいるのじゃありません。強制的な供米は、正直な農家への侮辱であり、農村民主化への妨害です。かかる内閣こそは即時打倒するべきだと思います」(千葉県多古町農民組合)事実、この村では、強制供米絶対反対を唱えながら自主的供出は順調に進み、千葉県供出平均4割2分に対し、7割の成績をおさめ、さらに続々と供出されつつあります。「今度は、ひとつ預金封鎖について、どなたか。」「私どもは、うーん、そうですね。闇で買っていたから、そういうようなお話もありましたけども、絶対にそういう闇でなければ、農具でも畳でも、絶対に手に入りにくいんですから。」「あー、いつごろからそういうふうな配給はありませんか。」「そうですな、一昨年からほとんどないんであります。それでいて、政府は力で米をとるというんですから、甚だどうも、むちゃな考えですよ。」米だけは強制的に供出させられて、しかもその代わりの肥料や農機具はほとんど回ってこない。事実、寒風にさらされながら麦踏みをするその麦は、今、追肥を待っているというのに、配給量は到底必要量に満たず、肥料倉庫は空っぽ。農機具類の不足はことに甚だしく、修理も思うに任せません。都会の労働階級はこれをいかに見ているでしょう。《関東労働組合協議会 伊藤憲一氏》「農村に与えるものを与えないで、強権で米だけ取り立てるということに対しては絶対反対です。われわれ労働者は、政府や資本家のサボタージュと戦って、生産を増大し、これを農村に送らなきゃならないと思っておりますが。」しかし事実は、政府の無策のためか、農機具は材料不足のために生産は停頓を示し、さらに肥料は2月上旬の硫安生産予定1万1850トンに対し、実績は7割3分の7570トンしか生産されておりません。生産増大によるインフレ克服、食糧難突破が緊急の課題となりつつあります。《伊藤氏》「結局、インフレにしても食糧問題にしても、労働者と農民ががっちりと手を握って対決するよりほかに方法がないと思っております。」
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