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計量計測データバンク ニュースの窓-263-
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├計量計測データバンク ニュースの窓-263-ピウス12世の演説に驚きローズヴェルトはナチスとドイツ国民を区別する方針を打ち出した(清水亮太郎論文)
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├計量計測データバンク ニュースの窓 目次
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├日本降伏とアメリカ情報機関―ヤルタ密約をめぐる国際情報戦―清水亮太郎
https://www.nids.mod.go.jp/event/proceedings/forum/pdf/2022/JP_05_shimizu.pdf
エウジェニオ・パチェリ――のちのピウス12世は、44年6月、連合国軍のローマ解放の直前、教皇は「怒りと復讐の本能は、正義と平静の威厳に従わなければならない。あらゆる戦争において、交戦国の一方が剣のみによって明確かつ明白な勝利を収めることに成功したとしても、それは公正な平和ではないことが明らかになる」と演説した。ローズヴェルトはこの発言に驚き、テイラー特使を通じて教皇、国務長官らに無条件降伏がドイツの完全な破壊を意味せず、ナチスとドイツ国民を区別する方針を説明させた。
ローズヴェルトはドイツの完全な破壊を意味せず、ナチスとドイツ国民を区別する方針を説明させた
はじめに
1945年2月4日から11日まで、アメリカ、イギリス、ソヴィエト連邦の3国首脳は、クリミア半島の保養地ヤルタで会談し、終盤をむかえた第二次世界大戦の終結に向けた戦略、戦後構想について協議を行った。会談では極東における太平洋戦争について、ドイツの降伏およびヨーロッパにおける戦争の終結の後、2か月ないし3か月の準備期間を経て、ソ連が対日参戦することが合意された。1941年6月以来、ドイツと激しく戦っていたソ連は、独ソ戦の直前に日本との間に中立条約を結んでおり、日ソ間には外交関係が維持されていた。
ソ連の対日参戦に関する政治的条件は、南樺太およびそれに隣接する島嶼の「返還」、千島諸島の「引き渡し」、日本の実質的な支配下にあった遼東半島先端部の大連港の国際化、旅順港の租借権の回復などであった。軍事面では、ローズヴェルト大統領は、米統合参謀本部(JCS)の要求にもとづき、ソ連軍による満洲への全面的侵攻、沿海州への戦略空軍(陸上機)基地の設置を求めたのに対し、スターリンは、2月8日、ローズヴェルトとの2人の会談で、同意を与えたのであった。
開戦後、日本にとって日ソ関係は外交の主軸であり、独ソ和平を日本が仲介することで、戦争を終結させるという構想を開戦当初から持っていた。したがって、欧州においてドイツの戦局が不利に傾き、日本も決戦と位置づけていたフィリピン・レイテ島における戦いに敗れ、米軍の侵攻が本土に迫っている状況で、ソ連が中立条約を破棄して参戦するという密約は、死活的に重要なものであった。
他方、米国のフランクリン・ローズヴェルト大統領は、第二次世界大戦後の世界について、「4人の警察官」構想を唱え、アメリカ、イギリス、ソ連、中華民国を世界の平和と安定を担う「大国」と位置付けており、ソ連との協調関係は、戦争指導のみならず、戦後世界を見据えたうえで、国際政治上も重要なものであった。このため、極東における日本との戦争にソ連を関与させようという立場をとっていた。
また、ローズヴェルトは、外交、軍事における情報を重視し、太平洋戦争開始後、戦時広報を担う戦争情報局(OWI)、秘密情報の収集、謀略、準軍事作戦などを担う戦略情報局(OSS)を設置していた。OSS
の長官を務めたのは、アイルランド系カトリック教徒で超党派的な人脈をもつウィリアム・ドノヴァンであった。ドノヴァンは、スパイを使って運営する秘密諜報と同様に、調査分析部門に高い関心を持っており、人文社会系の有力大学教授や優秀な若手研究者を多数擁していた。
本稿では、ヤルタ会談の議事内容、日程がすでに固まっていた1945年初頭から5月のドイツ崩壊前後にかけて、OSS が欧州の中立国においてどのような活動をしていたのか、とくに日本との戦争終結との関係において、検討することにしたい。
1 OSS のソ連観
1943年8月、OSS 調査分析部(Research & Analysis)ソ連課長のジェロイド・ロビンソンが、「戦後極東における主導権」というメモをケベック会議に向かうローズヴェルト大統領のために作成している。そのなかで、ソ連について、現在は欧州の戦争に手いっぱいだが、極東への利益関心を失ってはいない。「少なくとも北方においては、われわれの敵日本を強力なままにするのか、その地域をソビエト支配へと放り出すのかの、選択をしなければならない」と記している。
1944年11月には、OSS 幹部のアレン・ダレスがイスタンブールでリクルートした諜報員で、当時、調査分析部ニューヨーク支部に所属していたベティ・カープが、複数の在米ソ連人からの聞き取りにもとづいて、当時スターリンの有力後継者と目されていたアンドレイ・ジダーノフの発言内容を含む、戦後の中ソ関係の見通しについて詳細な報告書を提出している。そこで、ソ連は満洲における対日参戦を通じて影響力を拡大したうえ、クレムリンは中国共産党の満洲支配を望むこともありうる。米英両国との協議においては、ソ連は中国、とりわけ満洲におけるソ連の特別の戦略的、経済的利益を承認することを前提条件とするだろうと述べている。
全ドイツ崩壊が目前となった5月5日、ドノヴァンは統合参謀本部の要請により作成した報告書「米国の政策にとっての課題と目的」をトルーマン大統領に提出している。そこで、ドイツ占領問題の解決が最重要課題であり、ソ連に対する平衡錘(counter
weight)として、西ヨーロッパの経済復興、民主主義の体制を通じた、西ヨーロッパ=アメリカ・ブロック(Western Europe-America
Bloc)の形成が必要である。さらに、日本の敗北により、ソ連がアジアで従来よりもはるかに大きな勢力を有することになるという事実から目を背けるべきではなく、大西洋地域の軍事基地と同様に、太平洋地域における軍事基地の維持、強化が欠かせない。対日戦争に関しては、ソ連が戦争終結直前に満洲に侵攻し、満洲の併合や朝鮮の(直接的または間接的な)支配を主張する可能性があると述べている。このように、ローズヴェルトの死後、そしてドイツ崩壊の直前、OSSは明確に「冷戦型」の考え方に立つようになっていたのである。
2 スイスにおけるアレン・ダレス
スイスにおける和平工作の窓口が、アメリカの情報機関 OSSであり、日本側と降伏条件をめぐって、さまざまなやりとりをしていたことはよく知られている。1945年4月頃、日本海軍の軍需品買い付けのコンサルタントを勤めてきたフリードリッヒ・ハックを介して、日本海軍の藤村義朗中佐がOSSスイス・ベルン支局長のアレン・ダレスに和平交渉の依頼を行い、降伏条件、とくに天皇の地位保障をめぐって、交渉が行われたが、日本の海軍省は信用せず、外務省でも積極的に取りあげられず、和平交渉のチャネルとしては機能しなかったというものである。
戦後 CIA 長官をつとめるアレン・ダレスが、主に取り組んでいたのは、ドイツの反ナチス勢力との和平交渉であった。1945年1月末、OSSベルン支局を拠点に活動していたダレスは、スイスで反ナチのレジスタンスやヒトラーに批判的なドイツ国防軍軍人との接触を重ねていた。ダレスは、1月27日付の報告書のなかで、44年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に身を投じた軍人たちについて説明しながら、
①無条件降伏は不変の方針であるが、ドイツの軍部の指導者たちは、ドイツの将来を真剣に憂慮している。
②全ドイツの都市が不必要な破壊を回避し、食糧や物資の適切な配給により、経済生活の回復を図ることができるかどうかの瀬戸際にある。
③ドイツ国防軍内の建設的な政策を持つ将校には、ナチス体制の解体に寄与させるべきである。
こうした穏健な政策(affirmative program)をとることが、ソ連が東ドイツでカオスを現
実に作り出す前に、ドイツ軍を米英側に帰順させることにつながると信じる、と報告を締め括っている。この報告は、OSS 次長から JCS に届けられている。
OSSでは、遅くとも1944年末には、ワシントンの本部においても、欧州の戦地においても、ソ連の勢力拡大を防ぐために、そして米軍兵士の犠牲をできる限り少なくするという観点から、無条件降伏(unconditional
surrender)に字義どおり拘泥することなく早期の戦争終結を企図すべきであるという考え方が明確になっていたのである。
日本に対しても、1944年夏頃から折衝に着手していた。横浜正金銀行ドイツ総支配人兼国際決済銀行(BIS)理事の北村孝治郎は、44年夏、滞在していたホテルで女性按摩師を装った工作員から、ジョセフ・グルー元駐日大使の著書『滞日10年』(Ten
Years in Japan)を手渡されたが、そこにはグルー自身がダレスに献呈したサインがあった。ダレスが国務省内の、天皇制存続を主張する、いわゆる「ソフト・ピース」派人脈につながっていることを日本側に印象付ける狙いがあったことは間違いない。
OSSベルン支局は、1945年3月21日に、ハックのもたらした情報として、在ベルンの加瀬俊一公使が、日ソ関係は改善しつつあり、ソ連は日ソ中立条約延長に前向きであると考えているとワシントンの本部に報告している。さらに米国の通信傍受解読記録
MAGICによれば、加瀬はドイツ崩壊後の5月14日、東京に以下のような長文の電文を送っている。「ソ連は欧州での戦争終結後、戦わずして目的を達成することを望むかもしれない。我々は彼らに提供できるものと引きかえに、ソ連に仲介の役割を取らせる機会を得ることも、かなりあり得るかもしれない。そのうえ、もしこの途に失敗したとしても、直接米英と交渉して失敗することに比すれば、まだましだと考えられる」。加瀬は5月中旬の時点においても、ソ連を通じた和平仲介が米英との交渉よりも有利であると本国に報告していたのである。
しかし、5月12日ドノヴァンは JCS に対して、OSS ベルン支局からの情報として、極東問題に精通する、「反ナチス・親日のドイツ人」からの報告を次のように伝えている。「加瀬公使は、5月11日の談話において、連合国との和平交渉を希望しており、極東全域における共産勢力の伸長を招くソ連の和平仲介よりも米英との直接交渉が望ましいと考えていると述べた。加瀬は日本の共産化に対する唯一のセーフガードとしての天皇制の存置を和平条件として考えていると思われる。加瀬はグルー国務次官もこの見解を共有していると考えている」。
ダレスは、ドノヴァンを通じて、スイスにおいて日本人グループを公式に代表する加瀬がソ連よりも米英との直接交渉を望んでいるという情報を統合参謀本部に報告していたのである。加瀬の立場を実際よりも米国との交渉に前向きである、つまりスイスを通じた和平交渉は有望であるとの印象を
JCS や大統領に与えようとしたと考えられる。
3 ヤルタ密約とヴァチカン和平工作
次に、同じ中立国であるヴァチカンについて検討したい。昭和天皇は皇太子時代にヴァチカンを訪問して以来親近感を抱き、日米開戦前から終戦時の和平仲介のチャネルとしてローマ教皇庁を重視していた。開戦後、世界の「情報蒐集」の上の便宜、全世界に及ぼす「精神的支配力」の強大さに加えて、カトリック教徒が住民の圧倒的多数を占めるフィリピン統治の必要などから、開戦後東條英機首相に命じて1942年4月、ヴァチカン市国に公使館を開設し、フランス・ヴィシー政権の大使館で参事官を務めていた原田健が初代の特命全権公使として教皇に信任状を捧呈した。
1945年1月26日、OSS のチャールズ・チェストン長官代理は、原田公使がローマ教皇に語った内容として、次のヴェッセル情報を伝えている。日本政府は、スターリンが日ソ中立条約の更新にソ連が無条件で同意するだろうと確信している。ソ連政府は、日本の駐ソ連大使に、ソ連、中国、英国、米国、フランスそして日本が参加する講和会議に同意することを条件に、米英両国に対して和平の仲介をする用意があることを明言した。
1月17日、金山参事官は、ヴァチカンのジョバンニ・モンティーニ国務長官代行、ドメニコ・タルディーニ ロシア担当教皇委員、教皇の個人秘書と会見した際、以下のような発言を行った。
モスクワの日本大使からの情報によれば、三巨頭会談で極東問題が協議される予定である。米国は、チャーチルの支持を得て、日本を打倒するためにソ連に支援を求めるだろう。米英両国は、ソ連が日ソ中立条約を破棄するよう求め、太平洋戦争に参加し、ソ連領の航空基地を使用させるよう求めることになる。日本政府は、このことを理解しており、スターリンが同意を与える前に、米英側から和平仲介の動きが出ることを真剣に期待している。また日本政府は、三首脳がヨーロッパ、とくにポーランド問題を先に討議し、
ソ連がそれに満足しなければ、スターリンは極東問題の協議に応じないだろうということも理解している。
金山は、ヤルタ会談で極東問題が協議される前に、ローマ教皇が和平仲介の手を差し伸べて欲しいという希望を伝えた。モンティーニ国務長官代行が、教皇庁が仲介に乗り出せるように、日本政府は米英側の主張に歩み寄った和平条件を提示できるのか、
と問うたのに対し、金山はモンティーニの意向を日本政府に伝えると述べたうえ、可能ならばただちに教皇庁が仲介を開始して欲しいと重ねて要請している。この金山の発言が事実だとすれば、金山は驚くほど正確にヤルタ会談の内容を把握している。金山は、もっとも早く――それも会談の開催前に――ヤルタ密約の内容を知った日本人といってよいだろう。これらの情報は、OSSから統合参謀本部に伝えられたほか、国務省、ホワイトハウスにも届けられた。
中立国ヴァチカンを舞台に、ヤルタ密約をめぐって国際的な――それも米国とソ連の間で――情報戦が行われていた可能性を指摘することができる。残念ながら、1945年1月から5月までの駐ヴァチカン公使館と東京の外務省の電報のやり取りの記録は、保存・公開されていないため、原田や金山がどのような情報を送っていたのか(あるいは送っていないのか)、知ることはできない。
ただしドイツ崩壊後の1945年5月末から6月にかけて、OSSは別のチャネルを使って和平工作を行っているが、この記録は米国の傍受解読記録 MAGIC、日本の外交文書ともに残っており、OSS
の工作担当者の回想記もある。6月3日、原田公使は東京への報告で、和平工作を持ちかけてきた米国側の意図について、「欧州戦争終結せるもその後のソ連の態度により政局益々悪化の徴あり。翻って極東に於いては蘇連は恐らく戦争の最後の段階に参戦し満洲を手中に入れ、中国共産政府を指嗾して其の地盤を確保せんとすべしと察せられ」るとその背景を推測している。ここでもヤルタ密約におけるソ連参戦情報が明示的に含まれている点に注目すべきであろう。
おわりに
エウジェニオ・パチェリ――のちのピウス12世は、豊富な外交経験を有し、直接ローズヴェルトと書簡のやりとりをするなど米国との緊密な関係を維持していた。しかし、ソ連を戦後ヨーロッパ秩序の担い手とするというローズヴェルトの方針に対しては、早くから懸念を表明していた。とりわけローズヴェルトが1943年1月のカサブランカ会談で打ち出した、日独両国の「無条件降伏」を要求する方針に対しては、厳しい批判を行った。
44年6月、連合国軍のローマ解放の直前、教皇は「怒りと復讐の本能は、正義と平静の威厳に従わなければならない。あらゆる戦争において、交戦国の一方が剣のみによって明確かつ明白な勝利を収めることに成功したとしても、それは公正な平和ではないことが明らかになる」と演説した。ローズヴェルトはこの発言に驚き、テイラー特使を通じて教皇、国務長官らに無条件降伏がドイツの完全な破壊を意味せず、ナチスとドイツ国民を区別する方針を説明させた。
さらに、教皇は1944年末から45年の初めにかけて、ソ連軍の東中欧への進出がもたらす危険について懸念を強め、とくにカトリック系住民の多いポーランド、バルト諸国のソ連による占領は、大西洋憲章に反するとの懸念をテイラーに伝達した。ヤルタ会談において、ローズヴェルト、チャーチル、スターリンの間で合意されたポーランドの共産党支配、ドイツの分割統治の方針は、教皇、モンティーニ、タルディーニらにとっては最悪の帰結であったに違いない。
ローズヴェルト大統領の死去、ドイツ崩壊の後、ヤルタ密約におけるソ連参戦に関する情報は、ストックホルム、ベルン、リスボンの陸海軍武官から日本に伝達されていたことが最近の研究で明らかにされている。前述のようにスイスではOSSを通じて米国側との連絡が緊密であったほか、ポルトガルの陸軍武官からの情報は「M情報」と呼ばれ、米英側のソースによるものであった。
フランクリン・ローズヴェルトのもっとも偉大な大統領の一人としての評価とは別に、第二次世界大戦中の融和的な対ソ連外交についての研究者たちの評価は、その要因について、「大同盟」(Grand
Alliance)を維持するための現実主義や軍事的必要性を挙げる立場、ローズヴェルト自身のナイーヴさ、大統領側近のソ連に親近感を抱く政策立案者たちの「裏切り」(treason)に帰する立場に分裂している状況が冷戦期に定着し、そのパラダイムは現在でも続いている。
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├清水亮太郎 - 防衛省防衛研究所
2004年 早稲田大学政治経済学部卒業
2009年 早稲田大学大学院政治学研究科博士課程単位取得、早稲田大学政治経済学部助手
2012年 防衛研究所教官
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├ピウス12世 (ローマ教皇) - Wikipedia
ピウス12世(Pius XII、1876年3月2日 - 1958年10月9日)は、第260代ローマ教皇(在位:1939年3月2日 - 1958年10月9日)。本名はエウジェニオ・マリア・ジュゼッペ・ジョヴァンニ・パチェッリ(Eugenio
Maria Giuseppe Giovanni Pacelli)。ピオ12世とも表記される。
ナショナルジオグラフィックが2016年に制作したテレビ番組『ヒトラーの教皇 闇の真実』(原題:Pope vs. Hitler)では、ピウス12世が第二次世界大戦の開戦前から、ドイツ国内にいる反ナチス派の政治家(ヨーゼフ・ミュラー(英語版)ら)やドイツ国防軍将官らへ密かに連絡を取り、ヒトラー暗殺計画などに支持を与えていた。ナチスを公然と非難しなかったのは、ヒトラーを怒らせて、より残虐な行為を招きかねない刺激を避けたため--とする取材・研究結果に基づく再現ドラマを放映した。
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├日本大使館や日本の駐在武官が本国との通信の電文はドイツにもイギリスにも解読されていた。 暗号解読におけるアラン・チューリングの功績の詳細は国防の意味もあって、事実上1970年代まで秘密にされていた。
アラン・チューリング - Wikipedia
アラン・チューリングとドイツの暗号解読
イギリスはアラン・チューリングらによって1939年にドイツのローター式暗号機エニグマの解読に成功した。解読成功を隠したためドイツ軍は終戦までエニグマを使用してうた。日本からの電報も暗号によるものであったが戦後になって解読されていたことが判明する。
チューリングは、第二次世界大戦の間、ブレッチリー・パークにあるイギリスの暗号解読センターの政府暗号学校にてドイツの暗号を解読する手法を考案。英国の海上補給線を脅かすドイツ海軍のUボートの暗号通信を解読する部門
(Hut 8) の責任者となり、エニグマ暗号機を利用したその通信における暗号機の設定を見つける機械「bombe」(ボンブ)を開発した。
エニグマ (暗号機) - Wikipedia
第二次世界大戦に先立つ1938年9月からイギリスにおける暗号解読組織である政府暗号学校 (GCCS) でパートタイムで働き始めたチューリングは、ディリー・ノックスと共にエニグマの解読を担当した。第二次世界大戦勃発の5週間前の1939年7月25日、ポーランド軍参謀本部第2部暗号局
(en)とイギリスおよびフランスの関係者によるワルシャワでの会合で、ポーランドが解明したエニグマのローター回路の情報を得ていた。チューリングとノックスは、その情報を土台にして解読に取り組むが、ポーランドの解読法はドイツ側の暗号のキーを変える解読できない状態だった。実際1940年5月に変更されている。チューリングの方法はもっと汎用的でクリブ式暗号解読全般に使えるもので、最初の
bombe(ボンブ)の機能仕様に盛り込まれた。
ポーランド軍参謀本部第2部暗号局 (en)における暗号解読者はレイェフスキ。1932年
12月、シュミット情報を元にレイェフスキは3個のローター配線を解析することに成功。これでドイツ陸軍のエニグマが読めるようになった。ローター解析には群論が用いられた。ドイツは暗号発信者に安易な開始位置設定をしないように求めても、今度はキーボード配列を借用したQAY,
PYX等の鍵が多発する。このころの鍵探索法はgrill-methodとであり、プラグボードが6組しか置換していなかった。このためにエニマグによって発信される暗号の解読された。
戦後のチューリングは、イギリス国立物理学研究所 「NPL」 に勤務。プログラム内蔵式コンピュータの初期設計のひとつであるACE (Automatic
Computing Engine) に携わったその完成を見ずに異動。1947年、マンチェスター大学に移ると、初期のコンピュータである Manchester
Mark I のソフトウェア開発に従事、数理生物学に興味を持つようになる。形態形成の化学的基礎についての論文を書き、1960年代に初めて観察されたベロウソフ・ジャボチンスキー反応のような発振する化学反応の存在を予言した。
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├重複するが第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)になっても日本政府は大島浩だけを信じていた。駐スイス公使阪本瑞男によるドイツ第三帝国瓦解を知らせる電報をを無視した。ヒットラーの本部が発するドイツ有利の戦況報告を大島はそのままに受け取って、日本政府に報告し続けた。
同じころにスエーデンのストックホルムに陣取る駐在武官の小野寺信は、ポーランドの武官で少佐の〇〇××がヤルタ会談の密約を手に入れて小野寺に伝え、それを小野寺が日本政府に打電していたのであった。ポーランドの武官で少佐の〇〇××のドイツにおける諜報活動は1980年代以降に米マスコミで取り上げられ、〇〇××が取得した情報のほとんどが正しいものであることが確認されている。
ドイツを一方的に信じ続けた大島による日本への戦況報告の暗号電報は、すべて連合国側に解読されていた。大島ならびに日本国政府の戦況理解の不正確さを英米連合国は察知していて、その後の作戦の遂行に反映した。ソ連軍の1945年8月9日の満州侵攻、日本の都市爆撃などもそれである。小野寺信はドイツ降伏後三カ月を準備期間としてソ連が日本に攻め入るという〇〇××を通じてもたらされたヤルタ会談の密約を日本に打電していた。和平の仲介にソ連を頼ってはならない、と。小野寺信はスエーデン国王の親族の多数が英国の高級将校になっていること、国王の甥が日本と連合国の和解のための仲介の中継ぎを国王にするなどの手筈をしていた。日本政府が小野寺信のスエーデン国王の仲介を依頼してきたのは1945年8月15日であり、その知らせが届いたのは翌日の8月16日であった。ソ連が満州に進行してきたのが8月9日であり、それを知ったのちのことである。
1945年4月にはソ連軍がベルリンに迫った。日本大使館の大島大使にドイツ政府は高官らと共にオーストリアの温泉地であるバート・ガスタインに避難させた。この時の大島浩の行動がエピソードとして残されている。
当時外交官補でのちに外務省アメリカ局長を務めた吉野文六は、大島から決死隊としてベルリンに残留するよう命じられたこと、避難地のバート・ガスタインまで酒とつまみを持ってくるよう命ぜられ、アメリカ軍航空機の機銃掃射を受けながらドイツ人運転手と必死で届けた。こうしたことを吉野文六が回想している。
ドイツ敗戦後の1945年5月に大島はアメリカ軍に拘留、アメリカ・バージニア州のベッドフォード・スプリングスに移送され、8月の終戦を迎える。11月にワシントン州・シアトルから他の外交官などとともに日本に送還され、12月6日に日本に到着。このときに大島は「私は政府の指示に従っただけだ」「日本到着後は政治家にでもなるかな」と同行者に話していたという。戦犯としては無罪であることを主張していたのであった。
ヨアヒム・フォン・リッベントロップ - Wikipedia
極東国際軍事裁判の法廷において大島は、「ヒトラーやリッベントロップとは、ほとんど会わなかった」と証言。また三国同盟を主導したことなど自身に不利になることには一切話さなかった。判事による投票において、大島は1票差で絞首刑を免れた。
士族の子が陸士、海兵の士官学校を経て軍人を職業とし、その職業に子弟が就く状態が明治中期以降に定着して社会構造を形成する。
軍人になるための中学校ともいうべき陸軍幼年学校は13歳で入校できた。旧制中学校の1年あるいは2年で試験を受けた。高等小学校から受験する者もいた。陸軍幼年学校入校者のうち30%から50%程度が武官の子息であった。武官の子息を主な対象とする月謝の減免措置があった。「戦死した、または公務による負傷・疾病で死亡した、陸海軍の軍人、または文官の遺児」は、一定の成績であれば順位に関わらずに合格とされる優遇措置があった。
陸士、海兵の士官学校を経て将校となった軍人の子弟が同じ道を進む状態を満州国と一体であった関東軍の高級将校の経歴が物語る。
関東軍(かんとうぐん)は、大日本帝国陸軍の総軍の一つ(1942年(昭和17年)10月1日以前は軍の一つ)。関東都督府(関東州と南満洲鉄道附属地の行政府)の守備隊が前身。司令部は当初旅順に置かれた。満洲事変を引き起こして満洲国を建国し、日満議定書(1932年9月15日)後は満洲国の首都である新京(現中華人民共和国吉林省長春市)に移転した。1937年の日中戦争勃発後は、続々と中国本土に兵力を投入し、1941年には14個師団にまで増強された。加えて日本陸軍は同年6月に勃発した独ソ戦にあわせて関東軍特種演習(関特演)と称した準戦時動員を行った結果、同年から一時的に関東軍は最大の総員74万人に達し、「精強百万関東軍」、「無敵関東軍」などと謳われた。なお、同年4月には日本とソ連との間で日ソ中立条約が締結されている。
将校の子弟が同じ道を進んだ記録が物語るのは将校としての軍人が家業となり、国家における軍組織は家業の継続にとって不可欠であった。負けたら終わりの家業の継続であるから国家を巻き込んでの一億層玉砕の発想が生まれた。
国家総力戦としての近代戦争において日米の経済格差、その戦力の格差が明瞭であったのに本土を焦土とされるまで降伏できなかった日本国と日本軍である。
戦争機運を煽り、戦争に勝てそうな気分にさせるために学校教育の場面にも軍国主義が横溢し、ニュース映画が虚構を描き、この世相に子どもは完全に飲み込まれた。狂気に覆われた常識が働かない世界に日本は覆われていた。
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├(134) 【実録映像】 太平洋戦争6 / ニューギニア - YouTube
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├カサブランカ会談 - Wikipedia
第二次世界大戦中に行われた連合国の首脳会談の一つ。1943年1月14日から23日にかけて、モロッコのカサブランカにおいて開催された。
内容
カサブランカ会談を行う米英首脳と側近ら
アメリカ大統領フランクリン・ローズヴェルトとイギリス首相ウィンストン・チャーチルによって行われた。内容としては、アフリカ作戦の成功後、シチリア島・南イタリアへの上陸作戦をとることを確認したことと、枢軸国に対して無条件降伏を要求する方針を確認したことが挙げられる。なおこの時期に北アフリカにヴィシー政権から独立して樹立されていたフランスの政権には、シャルル・ド・ゴールとアンリ・ジローの両指導者の間に対立があり、この会談の際に、ローズヴェルト、チャーチルはこれらフランス側指導者を加えて談合を行ったが、十分な解決をみなかった。
本文
カサブランカ宣言 1943年2月12日
決定を見たカサブランカで行われた現実的な計画は、あらゆる戦場、あらゆる大陸, 大洋, 海に限定されていない。今年が終わる前に、言葉ではなく行動で世界に知られるようになることは、カサブランカ会談が膨大な情報を生み出し、それは、ドイツ人、イタリア人、日本人にとって悪い知らせとなるだろう。
我々は最近南西太平洋において、長く困難な戦い[注釈 1]を終わらせ、目覚ましい成果を上げた。この戦いは去夏、ソロモンとニューギニアで始まった。この戦いは我々の優れた力を示し、それは、航空機で、また最も重要なことに、我々の個々の兵士と船員の戦闘能力で示された。
南西太平洋のアメリカ軍は、オーストラリアとニュージーランドから強力な援助を受け、またイギリス自身からも直接強力な援助を受けた。
我々は、日本の最終的な敗北だけを期待している。広大な太平洋を島から島へと前進するだけではない。
日本人に対する重大で決定的な行動は、中国領土から侵略者を追い出すことである。重要な行動は、中国の制空権、日本自体の制空権が連合国にとられるだろう。カサブランカでの議論は、重慶でアーノルド将軍と総司令官[注釈
2]で続けられ、明確な攻撃的作戦計画をもたらすだろう。
東京に通じる道はたくさんある。我々はそのどれも無視しない。
避けられない大惨事の用語を回避するため、軸となる扇動者は聯合国を分割するため古い計略すべてを試みている。我々がこの戦争に勝利した場合、ロシア、イギリス、中国および連合国が仲互いする戦いに入るだろうという考えを作っている。
これは、ある国を別の国に向ける最後の努力であり、むなしくも一度に1つか2つでも解決することを望んでいる。そのため、我々全てが騙されて、我々連合国の費用の「量」を混乱させるように、我々のどんな国々も騙され忘れられることになる。
彼らの罪の諸結果から逃れるためのこれらのびくびくしたな試みに対し、我々は言うー全ての国は言う。我々は政治の中軸や党派の中軸に対処する唯一の条件は、カサブランカで宣言されたものであり:「無条件降伏」である。我々の非妥協的な政策では、枢軸国の庶民に何ら害を及ぼさないことを意味している。しかし我々は、彼らの犯した罪で野蛮な指導者に対し、完璧な罰と報復を課すことを意味している...
アメリカ革命とフランス革命の年月に、我々の民主主義を導く基本的な原則が確立された。我々の全ての民主的根拠の基礎は、人民に由来し人民だけから政府の権威があふれ出るという原理であった。
我々戦争目的の一つは、大西洋憲章に示されているように、今日征服された人民が再び彼らの運命の主人となることである。疑いの余地もなく、連合国の不変の目的は征服された人民に彼らの神聖な諸権利を回復することである。
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├10人の採用枠に1934人応募 厚労省の中途採用募集で(20/01/15)
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├官公庁でも入省式 厚労省は過去最多の採用(2023年4月3日)
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├計量計測データバンク ニュースの窓-70-幸せの形 山荘暮らしと海外旅行
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├オーラルヒストリー 蓑輪善蔵氏インタビュー 「計量制度に係わっ て 69 年」
http://161.34.12.161/book-for-collecting-news-/new-holder-5-news-collection-/2024-02-17-news-materia-content-collection-/digidepo_10632249_po_ART0009947795.pdf
松本榮壽、黒須茂、高松宏之
○小泉袈裟勝さん
小泉袈裟勝さんのお話をお伺いしたいのですが。(黒須茂)
蓑輪善蔵
袈裟勝さんはね私より7つ年上でした。背が高い人ですが、干支は午ですよ。彼は1937(昭 和 12)年か 1938(昭和 13)年に中検に入って、それで渡辺襄さんの光の光波干渉の測定を手伝っていたんです。1942(昭和17)年に兵隊にとられてビルマに行ったのかな。出征するときのことも私は知っています。野砲でしたかね。馬の世話をしたりしながら。
それで帰ってきたときに 、計圧器係がいる3階から小泉さんが 2階の岡田さんの部屋に入ったのを見ました。小泉さんが帰ってきたというのは、上から見ればわかるわけ。役所の中は狭いから。
「小泉が帰ってきたけれど、手を出すな」と係員に言っていたのを覚えてい ます。小泉さんは、うるさ型で通っていたんですよ。それでけっこう切れるんだよね。彼は頭がいいんですよ。
長いこと所長をやっていた玉野光男さんにかわいがられて、メートル法の宣伝とか、計量課とのつき合いとか、計量法を基本的にどうするとかという話に携わったりしていました。だから法律も含めて計量全般に関してよく知っているんですよ。行政マンとしての適性もありました。
○進級が難しい物理学校
旧制中学を出て計量教習を出ているだけなんですよ。それで物理学校へ 1年間だけ行って、2年生になれなかったようです。物理学校って進級が非常に厳しくて簡単には2年になれないんです。
○計量教習
蓑輪善蔵
「計量教習」というものが中検にはあったんですよ。これは、本所、大阪支所、名古屋支所、福岡支所に申学卒で入ってきた人を対象に試験をやりまして 10人ばかり集めるわけです、それを東京へ呼びまして1年間みっちり仕込むんです。けれどそれが
1937(昭和12)年から始まっているんですよ。
なるほど。戦前ですね。(松本榮壽)
蓑輪善蔵
それを1年間やるんです。仕事をさせないんですよ。仕事をしないで朝の9時から夕方の4 時までみっちり講義をやるわけです。製図までやったんですから。数学、物理、電気、計量器学を含めまして、はかり、精密測定もやりました。
本当の学校ですね。それで、教育が終われば、彼らをもとの部署に返すんですか。(松本榮壽)
蓑輪善蔵
返します。それを義務づけるのではなく所長の権限でやるわけです。そういう金を所長は持っているんです。小泉袈裟勝さんなんかも出ているんですよ。その最初だっ
たと思うけれども、1937(昭和12)年ごろ、専門学校出以外の中学出の職員の内で 計量教習をやってから検定の責任者にし、任官させようということでした。
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├計量法解説 (keiryou-keisoku.co.jp)
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├:計量法の読み方 - livedoor Blog(ブログ)
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├「計量法の読み方」全章 |
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├微分も積分も忘れてしまう東大理三卒の大学教授(2023-05-09)【理3のリアル@50代】 東大医学部卒の弁
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├フィルムカメラとデジタルカメラの発展の速度の違い
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├「ハッピーエンド」を聴く。メンバーは大瀧詠一,細野雅臣、鈴木茂、松本隆。
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├シンボル操作(symbol manipulation)
社会学用語。それ自体は客観的であったり、また多義的に理解されているような物や言語や行動様式をシンボル (象徴) として使い、特定の意味内容をこめて多くの人々のそれへの同調ないし反動形成を促し、一定の方向に行動させること。シンボル操作の典型的な技術の一つが、人々の態度・行為・価値観をあらかじめ意図された方向へ誘導するための組織的コミュニケーション活動といわれる政治宣伝である。マス・メディアの驚異的な発達と宣伝技術の高度化により、現代社会ではシンボル操作の余地は拡大した。
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├社会の統計と計量計測の統計
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├計量計測のエッセー ( 2018年1月22日からの日本計量新報の社説と同じ内容です。)
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├日本の国家公務員の機構を旧日本軍の将校機構(士官学校、兵学校、陸軍大学、海軍大学)と対比する
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