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計量計測データバンク ニュースの窓-235-
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├計量計測データバンク ニュースの窓-235-東京陸軍地方幼年学校同期の大島浩と東条英機の歩んだ道 関東軍シベリア抑留の高級将校のその後
├「日本計量新報」今週の話題と重要ニュース(速報版)2025年2月13日号「日本計量新報週報デジタル版」
├大島浩 - Wikipedia
大島浩の生い立ち
大島健一 - Wikipedia
のちに陸軍大臣になる大島健一の長男として愛知県名古屋市に生まれる。その後は東京で育ち1898年(明治31年)、東京府立四中入学、陸軍幼年学校入学資格である1年次修了後、1899年(明治32年)9月、東京陸軍地方幼年学校入学。1904年(明治37年)11月、陸軍中央幼年学校卒業。東京陸軍地方幼年学校の同期には東条英機がいる。
大のドイツびいきであった父健一は、息子の大島浩に対しては、ドイツ語教育とドイツ流の躾をし、ドイツ語の単語を一日ごとに10語暗、陸軍幼年学校時代は週末にドイツ人の家に行きドイツ語会話をさせた。長期休暇はドイツ人の家庭で過ごした。軍人となってのちドイツに駐在すると、ドイツ人青年にドイツ語を習い、そのときの教科書は『ロシア革命』(ローザ・ルクセンブルク著)や、『手紙』(カール・リープクネヒト著)であった。
陸軍武官である大島浩はドイツ語に秀でた才能を示していたことからドイツ駐在武官としての経歴が長く、つづいてドイツ大使になった。第一回目が 1938年(昭和13年)10月8日で、同時に予備役編入、駐ドイツ大使に任命。第二回目が1939年(昭和14年)12月27日、大使依願免職。1940年12月にドイツ大使に再任。第一次世界大戦による疲弊からの復興と連動する国家社会主義のナチス党の台頭の熱気、狂乱のなかにいてヒットラーに心酔してしまった。
ヒットラーに心酔させたしまったドイツ駐在武官としての大島浩の履歴
大使第一期回目 1938年(昭和13年)10月8日から1939年(昭和14年)12月27日
1921年(大正10年)、ベルリンに赴任し、ドイツ大使館付陸軍武官補佐官に着任する。1923年には、オーストリア大使館付陸軍武官としてウィーンに赴任。オーストラリアはこののちにドイツと一つの国になる。オーストリア駐在武官時代に、アメリカ大使館職員からアメリカの暗号表を入手している。1934年に再度ベルリンに駐在。政権の座についていた国民社会主義ドイツ労働者党いわゆるナチス党の上層部と接触する。大島浩の独自の行動である。こうしたことを通じて日独同盟の下地をつくった。その後日本と英米との関係が悪化する中、大島は親独派が多い日本陸軍中央と通じて、1936年に日独防共協定の締結の裏役になっている。1938年(昭和13年)にドイツ大使に就任したのは、当時のドイツ大使であった東郷茂徳を退けてのことであった。
このころの駐英特命全権大使であったのが吉田茂。親英米派の吉田茂に対して親独派の大島浩とされている。
大使就任した大島浩は、政治家ならびに外交官にしてナチス党幹部のヨアヒム・フォン・リッベントロップと親しくなり、アドルフ・ヒトラー総統と面識を持つようになる。
しかし1939年8月25日にドイツの独ソ不可侵条約締結を、日独防共協定違反として日独同盟交渉中断を日本政府は閣議決定する。平沼 騏一郎内閣は日独防共協定違反の政治責任により総辞職。独ソ不可侵条約締結は日本の政界も揺がした。大島浩に責任が及び帰国命令がでる。帰国後に大使を依願免官の措置。
大使第二期回目 1940年12月から1939年(昭和14年)12月27日
大島浩の後任に任命されていた来栖三郎は、1939年9月に始まった第二次世界大戦での日独伊三国同盟が締結の状況において、枢軸国外交に親米とされる来栖は不適任と判断された。大島浩は1940年12月に駐独大使に再任。1941年3月27日には松岡洋右外務大臣のベルリン訪問時には松岡・ヒトラー会談に同席。1941年4月には、独ソ不可侵条約を破ってドイツがソ連に攻め込むことを察知していた大島浩は、ベルリンに来ていた松岡洋右に対して日ソ不可侵条約締結を行なわないよう進言。しかし日ソ中立条約は締結される。また、1941年6月5日にヒトラーと会った大島は、ドイツがソ連に戦争を仕掛けることを察知し打電する。松岡は取り合わなかった。
大島のこのときの情報は後に大本営においては大島情報は正しいという思い込みをさせることになる。大本営は大島浩情報を第一とし、ソビエト大使あるいはスエーデン駐在武官の小野寺信の戦況情報を従とし、実際には信頼の薄い情報として取り合わなかった。ドイツのソ連のモスクワとスターリングラードへの侵攻が失敗したことが判明していた状況下において、1941年12月8日の日本の対英米戦争の宣戦布告となる。開戦の数カ月前にロシア戦でのドイツの敗北を知っていた小野寺信は「日米開戦絶対に不可なり」の電報を何度も大本営向けに打っている。
日本大使館や日本の駐在武官が本国との通信の電文はドイツにもイギリスにも解読されていた。 暗号解読におけるアラン・チューリングの功績の詳細は国防の意味もあって、事実上1970年代まで秘密にされていた。
アラン・チューリング - Wikipedia
アラン・チューリングとドイツの暗号解読
イギリスはアラン・チューリングらによって1939年にドイツのローター式暗号機エニグマの解読に成功した。解読成功を隠したためドイツ軍は終戦までエニグマを使用してうた。日本からの電報も暗号によるものであったが戦後になって解読されていたことが判明する。
チューリングは、第二次世界大戦の間、ブレッチリー・パークにあるイギリスの暗号解読センターの政府暗号学校にてドイツの暗号を解読する手法を考案。英国の海上補給線を脅かすドイツ海軍のUボートの暗号通信を解読する部門
(Hut 8) の責任者となり、エニグマ暗号機を利用したその通信における暗号機の設定を見つける機械「bombe」(ボンブ)を開発した。
エニグマ (暗号機) - Wikipedia
第二次世界大戦に先立つ1938年9月からイギリスにおける暗号解読組織である政府暗号学校 (GCCS) でパートタイムで働き始めたチューリングは、ディリー・ノックスと共にエニグマの解読を担当した。第二次世界大戦勃発の5週間前の1939年7月25日、ポーランド軍参謀本部第2部暗号局
(en)とイギリスおよびフランスの関係者によるワルシャワでの会合で、ポーランドが解明したエニグマのローター回路の情報を得ていた。チューリングとノックスは、その情報を土台にして解読に取り組むが、ポーランドの解読法はドイツ側の暗号のキーを変える解読できない状態だった。実際1940年5月に変更されている。チューリングの方法はもっと汎用的でクリブ式暗号解読全般に使えるもので、最初の
bombe(ボンブ)の機能仕様に盛り込まれた。
ポーランド軍参謀本部第2部暗号局 (en)における暗号解読者はレイェフスキ。1932年
12月、シュミット情報を元にレイェフスキは3個のローター配線を解析することに成功。これでドイツ陸軍のエニグマが読めるようになった。ローター解析には群論が用いられた。ドイツは暗号発信者に安易な開始位置設定をしないように求めても、今度はキーボード配列を借用したQAY,
PYX等の鍵が多発する。このころの鍵探索法はgrill-methodとであり、プラグボードが6組しか置換していなかった。このためにエニマグによって発信される暗号の解読された。
戦後のチューリングは、イギリス国立物理学研究所 「NPL」 に勤務。プログラム内蔵式コンピュータの初期設計のひとつであるACE (Automatic
Computing Engine) に携わったその完成を見ずに異動。1947年、マンチェスター大学に移ると、初期のコンピュータである Manchester
Mark I のソフトウェア開発に従事、数理生物学に興味を持つようになる。形態形成の化学的基礎についての論文を書き、1960年代に初めて観察されたベロウソフ・ジャボチンスキー反応のような発振する化学反応の存在を予言した。
ドイツの文化に染まり切っていた大島浩
大島浩はドイツ国のナチスの政策に傾倒し心酔していた。父親による教育を通じて大島は「姿勢から立ち居振る舞いに至るまでドイツ人以上にドイツ人的」と言われていた。「ナチス以上の国家社会主義者」と評したのは、アメリカ人ジャーナリストのウィリアム・L・シャイラーである。
ヒットラーとは駐ドイツ大使として交流があった大島は、ヒットラーは「私が酒好きだということを知っているものですから、私にだけキルシュといういちばん強い酒を出す」と話している。「ヒットラーの頭のいいこと、天才であることは疑いのないこと」とも。
すべて戦後の述懐だが「私は2回ドイツ軍を視察しているんですよ。実に立派な航空機を作ったもんだと、爆撃の装置もよし、射撃もよし。これは(日本)軍のパートナーとして不足はないと」と話す。
アドルフ・ヒトラー - Wikipedia
ヒットラーへのドイツ国民の熱狂以上に大島浩はヒットラーに熱狂し「ドイツが勝つだろうという前提に立ってやった」のである。
重複するが第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)になっても日本政府は大島浩だけを信じていた。駐スイス公使阪本瑞男によるドイツ第三帝国瓦解を知らせる電報をを無視した。ヒットラーの本部が発するドイツ有利の戦況報告を大島はそのままに受け取って、日本政府に報告し続けた。
同じころにスエーデンのストックホルムに陣取る駐在武官の小野寺信は、ポーランドの武官で少佐の〇〇××がヤルタ会談の密約を手に入れて小野寺に伝え、それを小野寺が日本政府に打電していたのであった。ポーランドの武官で少佐の〇〇××のドイツにおける諜報活動は1980年代以降に米マスコミで取り上げられ、〇〇××が取得した情報のほとんどが正しいものであることが確認されている。
ドイツを一方的に信じ続けた大島による日本への戦況報告の暗号電報は、すべて連合国側に解読されていた。大島ならびに日本国政府の戦況理解の不正確さを英米連合国は察知していて、その後の作戦の遂行に反映した。ソ連軍の1945年8月9日の満州侵攻、日本の都市爆撃などもそれである。小野寺信はドイツ降伏後三カ月を準備期間としてソ連が日本に攻め入るという〇〇××を通じてもたらされたヤルタ会談の密約を日本に打電していた。和平の仲介にソ連を頼ってはならない、と。小野寺信はスエーデン国王の親族の多数が英国の高級将校になっていること、国王の甥が日本と連合国の和解のための仲介の中継ぎを国王にするなどの手筈をしていた。日本政府が小野寺信のスエーデン国王の仲介を依頼してきたのは1945年8月15日であり、その知らせが届いたのは翌日の8月16日であった。ソ連が満州に進行してきたのが8月9日であり、それを知ったのちのことである。
1945年4月にはソ連軍がベルリンに迫った。日本大使館の大島大使にドイツ政府は高官らと共にオーストリアの温泉地であるバート・ガスタインに避難させた。この時の大島浩の行動がエピソードとして残されている。
当時外交官補でのちに外務省アメリカ局長を務めた吉野文六は、大島から決死隊としてベルリンに残留するよう命じられたこと、避難地のバート・ガスタインまで酒とつまみを持ってくるよう命ぜられ、アメリカ軍航空機の機銃掃射を受けながらドイツ人運転手と必死で届けた。こうしたことを吉野文六が回想している。
ドイツ敗戦後の1945年5月に大島はアメリカ軍に拘留、アメリカ・バージニア州のベッドフォード・スプリングスに移送され、8月の終戦を迎える。11月にワシントン州・シアトルから他の外交官などとともに日本に送還され、12月6日に日本に到着。このときに大島は「私は政府の指示に従っただけだ」「日本到着後は政治家にでもなるかな」と同行者に話していたという。戦犯としては無罪であることを主張していたのであった。
ヨアヒム・フォン・リッベントロップ - Wikipedia
極東国際軍事裁判の法廷において大島は、「ヒトラーやリッベントロップとは、ほとんど会わなかった」と証言。また三国同盟を主導したことなど自身に不利になることには一切話さなかった。判事による投票において、大島は1票差で絞首刑を免れた。
士族の子が陸士、海兵の士官学校を経て軍人を職業とし、その職業に子弟が就く状態が明治中期以降に定着して社会構造を形成する。
軍人になるための中学校ともいうべき陸軍幼年学校は13歳で入校できた。旧制中学校の1年あるいは2年で試験を受けた。高等小学校から受験する者もいた。陸軍幼年学校入校者のうち30%から50%程度が武官の子息であった。武官の子息を主な対象とする月謝の減免措置があった。「戦死した、または公務による負傷・疾病で死亡した、陸海軍の軍人、または文官の遺児」は、一定の成績であれば順位に関わらずに合格とされる優遇措置があった。
陸士、海兵の士官学校を経て将校となった軍人の子弟が同じ道を進む状態を満州国と一体であった関東軍の高級将校の経歴が物語る。
関東軍(かんとうぐん)は、大日本帝国陸軍の総軍の一つ(1942年(昭和17年)10月1日以前は軍の一つ)。関東都督府(関東州と南満洲鉄道附属地の行政府)の守備隊が前身。司令部は当初旅順に置かれた。満洲事変を引き起こして満洲国を建国し、日満議定書(1932年9月15日)後は満洲国の首都である新京(現中華人民共和国吉林省長春市)に移転した。1937年の日中戦争勃発後は、続々と中国本土に兵力を投入し、1941年には14個師団にまで増強された。加えて日本陸軍は同年6月に勃発した独ソ戦にあわせて関東軍特種演習(関特演)と称した準戦時動員を行った結果、同年から一時的に関東軍は最大の総員74万人に達し、「精強百万関東軍」、「無敵関東軍」などと謳われた。なお、同年4月には日本とソ連との間で日ソ中立条約が締結されている。
将校の子弟が同じ道を進んだ記録が物語るのは将校としての軍人が家業となり、国家における軍組織は家業の継続にとって不可欠であった。負けたら終わりの家業の継続であるから国家を巻き込んでの一億層玉砕の発想が生まれた。
国家総力戦としての近代戦争において日米の経済格差、その戦力の格差が明瞭であったのに本土を焦土とされるまで降伏できなかった日本国と日本軍である。
戦争機運を煽り、戦争に勝てそうな気分にさせるために学校教育の場面にも軍国主義が横溢し、ニュース映画が虚構を描き、この世相に子どもは完全に飲み込まれた。狂気に覆われた常識が働かない世界に日本は覆われていた。
大島浩
大島健一 - Wikipedia
大島 健一[2](おおしま けんいち、1858年6月19日(安政5年5月9日)[3] - 1947年(昭和22年)3月24日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。陸軍大臣、貴族院勅選議員、大東文化学院総長(第3代)などを歴任した。
年譜
大島 浩(おおしま ひろし、1886年(明治19年)4月19日 - 1975年(昭和50年)6月6日)は、日本の陸軍軍人、外交官。最終階級は陸軍中将。
1898年(明治31年)、東京府立四中入学、陸軍幼年学校入学資格である1年次修了後、1899年(明治32年)9月、東京陸軍地方幼年学校入学[3]。1904年(明治37年)11月、陸軍中央幼年学校卒業。東京陸軍地方幼年学校の同期には東条英機がいる[3]。
1905年(明治38年)11月 - 陸軍士官学校(18期恩賜)卒業。
1906年(明治39年)6月 - 陸軍砲兵少尉に任官。
1908年(明治41年)6月 - 中尉に昇進。
1915年(大正4年)12月 - 陸軍大学校(27期)卒業。
1916年(大正5年)5月 - 大尉に昇進。
1916年(大正5年)7月 - 重砲2連隊中隊長。
1917年(大正6年)2月 - 参謀本部配属。
1918年(大正7年)8月 - シベリア出張(~1919年(大正8年)2月)。
1921年(大正10年)5月 - 駐ドイツ大使館付武官補佐官就任。
1922年(大正11年)1月 - 少佐に昇進。
1923年(大正12年)2月 - 駐オーストリア公使館兼ハンガリー公使館付武官就任。
1926年(大正15年)8月 - 中佐に昇進。
1928年(昭和3年)8月10日 - 砲兵監部部員[33]。
1930年(昭和5年)8月1日 - 野砲兵第10連隊長に就任し[33]、大佐に昇進。
1931年(昭和6年)8月1日 - 参謀本部防衛課長[33]。
1934年(昭和9年)3月5日 - 駐ドイツ大使館付武官昇進。
1935年(昭和10年)3月15日 - 少将に昇進。
1935年(昭和10年)10月 - ナチス党外交部長リッベントロップと初会談(二元外交始まる)
1936年(昭和11年)11月25日 - 日独防共協定調印
1937年(昭和12年)11月 - イタリア、日独防共協定に加わる。
1938年(昭和13年)3月1日 - 中将に昇進。
ハインリヒ・ゲオルク・スターマー - Wikipedia
1、「あなたには全部しゃべるけれども外にはださないでくれ」と。
1、「自分は失敗した人間だから弁明したくない」と。
1、「大島は公開するなと言ったけれどあの録音はどうぞ自由にお使いください」と。(大島豊子弁)
1、あれは私が言い出したんですからね 三国同盟。
1、おそらく日本政府は(同盟を)やることには応じるだろうと。
1、至急松岡洋右外相に会ってくれと おれが電話するからと。
1、いちばん初めにスターマー(特使)が訪ねてきたのは私の家なんですよ。
1、成案を持ってきたわけじゃないんですよね。
1、そのとき(松岡外相が)私に一案書いてくれと言いましたよ。骨子をね。参考に骨子を一つ書いてくれと それで出しました。
1、私は2回ドイツ軍を視察しているんですよ。実に立派な航空機を作ったもんだと 爆撃の装置もよし 射撃もよし。これは(日本)軍のパートナーとして不足はないと。
1、ヒットラーの頭のいいこと 天才であることは疑いのないこと。
1、私が酒好きだということを知っているものですから 私にだけキルシュといういちばん強い酒を出す。私だけ特別だって。
1、私は自分の責任を痛感する。非常にそういうことを感じますね。
1、いま考えるとドイツが勝つだろうという前提に立ってやったわけです。
1、私が陸軍部間のときは軍が強いか弱いかをみてればいいけど、大使になれば総力ですね経済力とか産業とか、そういうことに関する判断もしなければならん。経済力生産力の判断はまったくやってない、私はね。軍力だけでこれは勝だろうと。
キルシュヴァッサー(ドイツ語: Kirschwasser)は、蒸留酒の一種。種子ごと潰したサクランボ(ドイツ語: Kirsche)を醗酵させ、6週間前後寝かせた後に蒸留した無色透明のスピリッツである。主にドイツ南部からオーストリア、スイスにかけた地域で生産され、とくにドイツ・シュヴァルツヴァルト地方の名産品として知られている。片仮名表記の場合、キルシュワッサー、キルシワッサーなどと書かれることもある。キルシュと呼ばれることも多い。
1、私が酒好きだということを知っているものですから 私にだけキルシュといういちばん強い酒を出す。私だけ特別だって。
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├ 小野寺信 - Wikipedia
小野寺 信(おのでら まこと、1897年〈明治30年〉9月19日 - 1987年〈昭和62年〉8月17日)は、日本の陸軍軍人、翻訳家。最終階級は陸軍少将。
小野寺 信
1940年(昭和15年)11月、スウェーデン公使館附武官に発令され、翌41年1月、ストックホルムに着任、12月に太平洋戦争(大東亜戦争)を迎えた。小野寺の送った機密情報は「ブ情報」と呼ばれ、海外からの貴重な情報源となった。「ブ情報」の「ブ」は、「ペーター・イワーノフ」ことポーランド人諜報部員ミハウ・リビコフスキ
(Michał Rybikowski) の上官ブジェスクフィンスキの頭文字である。大戦最末期にはヤルタ会談での密約につき、ドイツ降伏から約3ヶ月後にソ連が日ソ中立条約を破棄、対日参戦するとの最高機密情報を日本に打電している。陸軍中枢はその情報を信じず、アメリカとの和平の仲介をソ連に期待し続けた。戦後は妻百合子とともに、主にスウェーデン語の翻訳業に従事する傍ら、スウェーデンの文化普及活動に努めた。最晩年に『NHK特集 日米開戦不可ナリ
〜ストックホルム・小野寺大佐発至急電〜』で取材インタビューが行われ、1985年(昭和60年)12月に放映された。この番組は第12回放送文化基金賞を受賞し、小野寺の大戦中の活動に照明が当てられた。妻
百合子(翻訳家、一戸寛陸軍少佐の娘、一戸兵衛陸軍大将の孫、黒羽藩主大関増徳の孫)。長女 瑞子。長男 駿一(運輸省港湾局長、日本港湾協会副会長)。次男
龍二(駐オーストリア大使)1992年在任中アルプスで遭難死。次女 節子(日本チェコ協会名誉会長、夫は元・駐オランダ大使の大鷹正。夫の兄大鷹弘も外交官で、その夫人山口淑子は参議院議員も務めた女優の李香蘭)。著書『平和国家への研究 小野寺信遺稿集』出版者
小野寺百合子、1988年。 NCID BN05866176。全国書誌番号:89033331。
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├東條英機 - Wikipedia
東條英機
東條敏夫 - Wikipedia
三男は東條敏夫(空将補)。
東條英教 - Wikipedia
東條 英教(とうじょう ひでのり、安政2年11月8日(1855年12月16日) - 大正2年(1913年)12月26日)は、日本の陸軍軍人。陸大1期首席。最終階級は陸軍中将。
年譜
東條 英機(とうじょう ひでき、1884年〈明治17年〉12月30日[注釈 1] - 1948年〈昭和23年〉12月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。
番町小学校、四谷小学校、学習院初等科(1回落第)、青山小学校、城北尋常中學校(現:戸山高等学校)[3]、東京陸軍地方幼年学校(3期生)、陸軍中央幼年学校を経て陸軍士官学校に入校。
1905年(明治38年)3月に陸軍士官学校を卒業(17期生)し、同年4月21日に任陸軍歩兵少尉、補近衛歩兵第3連隊附。1907年(明治40年)12月21日には陸軍歩兵中尉に昇進する。
東條 英機(とうじょう ひでき、1884年〈明治17年〉12月30日[注釈 1] - 1948年〈昭和23年〉12月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。
1905年(明治38年)
3月30日 - 陸軍士官学校を卒業(17期生)。
4月21日 - 陸軍歩兵少尉に任官。近衛歩兵第3連隊附。
1907年(明治40年)12月21日 - 陸軍歩兵中尉に昇進。
1912年(大正元年) - 陸軍大学校に入学。
1915年(大正4年)12月11日 - 陸軍大学を卒業。陸軍歩兵大尉に昇進。近衛歩兵第3連隊中隊長。
1916年(大正5年) - 陸軍兵器本廠附兼陸軍省副官。
1919年(大正8年)8月 - 駐在武官としてスイスに赴任。
1920年(大正9年)8月10日 - 陸軍歩兵少佐に昇任。
1921年(大正10年)7月 - 駐在武官としてドイツに赴任。
1922年(大正11年)11月28日 - 陸軍大学校兵学教官に就任。
1923年(大正12年)
10月5日 - 参謀本部員(陸大教官との兼任)。
10月23日 - 陸軍歩兵学校研究部員(陸大教官との兼任)。
1924年(大正13年) - 陸軍歩兵中佐に昇進。
1926年(大正15年)3月23日 - 陸軍省軍務局軍事課高級課員兼陸軍大学校兵学教官に就任。
1928年(昭和3年)
3月8日 - 陸軍省整備局動員課長に就任。
8月10日 - 陸軍歩兵大佐に昇進。
1929年(昭和4年)8月1日 - 歩兵第1連隊長に就任。
1931年(昭和6年)8月1日 - 参謀本部総務部第1課長(参謀本部総務部編成動員課長[3])に就任[17]。
1933年(昭和8年)
3月18日 - 陸軍少将に昇進。参謀本部付。
8月1日 - 陸軍省軍事調査委員長に就任。
11月22日 - 陸軍省軍事調査部長に就任。
1934年(昭和9年)
3月5日 - 陸軍士官学校幹事に就任。
8月1日 - 歩兵第24旅団長に就任。
1935年(昭和10年)
8月1日 - 第12師団司令部付。
9月21日 - 関東憲兵隊司令官兼関東局警務部長に就任。
1936年(昭和11年)12月1日 - 陸軍中将に昇進。
1937年(昭和12年)3月1日 - 関東軍参謀長に就任。
1938年(昭和13年)
5月30日 - 第1次近衛内閣の陸軍次官に就任(1938年(昭和13年)12月10日まで)。
6月18日 - 陸軍航空本部長に就任(1940年(昭和15年)7月22日まで)。
12月10日 - 陸軍航空総監に就任(1940年(昭和15年)7月22日まで)。
1940年(昭和15年)
2月24日 - 臨時軍事参議官に就任(1940年(昭和15年)2月26日まで)。
7月22日 - 第2次近衛内閣の陸軍大臣兼対満事務局総裁に就任。
1941年(昭和16年)
7月18日 - 第3次近衛内閣の陸軍大臣兼対満事務局総裁に留任。
10月18日 - 東條内閣の内閣総理大臣に就任。
同日 - 陸軍大臣兼対満事務局総裁に留任(対満事務局総裁は1942年(昭和17年)11月1日まで)。
同日 - 内務大臣に就任(1942年(昭和17年)2月17日まで)。
同日 - 陸軍大将に昇進。
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├草場辰巳 - Wikipedia
山崎豊子の小説『不毛地帯』に登場する「秋津中将」は、草場がモデルといわれる。[要出典]『不毛地帯』では、壱岐正、秋津中将、竹村少将が東京裁判へ出廷し、実際には、瀬島龍三中佐、松村知勝少将が出廷した。
草場彦輔
草場 辰巳 草場彦輔陸軍少将の二男
草場 辰巳(くさば たつみ、1888年(明治21年)1月2日[1][2] - 1946年(昭和21年)9月20日[注 1])は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
滋賀県出身[1][2][3]。草場彦輔陸軍少将の二男として生まれる[1]。大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1908年(明治41年)5月、陸軍士官学校(20期)を首席で卒業[2][4][5]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第9連隊付となった[1][4]。1915年(大正4年)12月、陸軍大学校(27期)を卒業した[1][2][3]。
経歴
滋賀県出身[1][2][3]。草場彦輔陸軍少将の二男として生まれる[1]。大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1908年(明治41年)5月、陸軍士官学校(20期)を首席で卒業[2][4][5]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第9連隊付となった[1][4]。1915年(大正4年)12月、陸軍大学校(27期)を卒業した[1][2][3]。
参謀本部付勤務、第1鉄道線区司令部員、参謀本部員、朝鮮軍司令部付、歩兵第4連隊大隊長などを歴任[1]。1924年(大正13年)11月から陸大専攻学生となる[1]。翌年12月、陸大教官に就任し、参謀本部員兼軍令部参謀、第6師団参謀、陸軍省人事局課員、陸軍兵器本廠付、関東軍司令部付(南満洲鉄道)などを歴任し、1931年(昭和6年)3月から8月まで欧州に出張した[1]。
1931年8月、歩兵大佐に昇進し参謀本部課長に就任[1][3]。歩兵第11連隊長、関東軍司令部付(満洲国交通部顧問)を経て、1936年(昭和11年)8月、陸軍少将に進級[1][3]。日中戦争に歩兵第19旅団長として出征し、保定会戦、南京攻略戦に参加[2]。第2野戦鉄道司令官を経て、1939年(昭和14年)3月、陸軍中将に昇進し関東軍野戦鉄道司令官に就任[1][2][3]。翌年10月、第52師団長に親補され満洲に駐屯[1][2][3]。太平洋戦争を関東防衛軍司令官として迎えた[1][2][3]。
1942年(昭和17年)12月、第4軍司令官となり、参謀本部付を経て、1944年(昭和19年)12月、予備役に編入された[1][2][3]。同月、召集を受け大陸鉄道司令官となり終戦を迎えた[1][2][3]。
1945年(昭和20年)9月からシベリア抑留となった[1]。連合国側から極東国際軍事裁判に証人として出廷することを命じられ、1946年(昭和21年)9月17日に松村知勝、瀬島龍三とともにウラジオストクから空路東京へ護送され、ソ連側証人として出廷することになっていた。9月20日未明、草場は隠し持った青酸カリを飲んで自殺した[6]。3通の書き置きのうち公式当局と親族宛の2通は捜査資料に添付された[7]。アメリカ検事団が英訳させた日記には、シベリアの収容所でソ連側から証言を要求されたこと、ソ連側から恫喝、甘言など受けたこと、「将校でありながら捕虜となり、どの面下げて祖国に帰れるのか」とか「私には自殺しか道がなかったと諦めてください」という表現などが書かれていたという[8]。
草場季喜 - Wikipedia
草場季喜 草場彦輔陸軍少将の息子 兄 草場辰巳(陸軍中将)
草場 季喜(くさば すえき、1899年(明治32年)12月16日[1][2] - 1963年(昭和38年)5月3日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
経歴
滋賀県出身[1][2][注 1]。草場彦輔陸軍少将の息子として生まれる[1]。陸軍中央幼年学校予科、中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業[1][2][3]。同年12月、工兵少尉に任官し工兵第15大隊付となった[1][3]。1923年(大正12年)12月、陸軍砲工学校高等科(29期、員外学生)を優等で卒業した[4]。1924年(大正13年)4月、陸軍派遣学生として東京帝国大学理学部物理学科に入学し、1927年(昭和2年)3月に卒業した[5][6]。
1928年(昭和3年)4月、陸軍科学研究所員に発令[1]。以後、ドイツ駐在、科学研究所員、陸軍省兵器局課員などを務め、1940年(昭和15年)8月、工兵大佐に昇進し独立工兵第27連隊長(関東軍)に就任し日中戦争に出征した[1][5]。1942年(昭和17年)10月、第9陸軍技術研究所員(登戸研究所)第1科長となり、1944年(昭和19年)8月、陸軍少将に昇進[1][5]。
1945年(昭和20年)9月、陸軍兵器行政本部付となり、同年12月、予備役に編入された[1]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[7]。
親族
兄 草場辰巳(陸軍中将)
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├松村知勝 - Wikipedia
松村法吉 - Wikipedia
松村法吉
松村 知勝 松村法吉陸軍中将の長男として生まれる。弟 松村辰雄(陸軍中佐)妻 松村英子 石坂善次郎(陸軍中将)の娘。石坂 善次郎最終階級は陸軍中将。
松村 知勝(まつむら ともかつ、1899年〈明治32年〉10月13日 - 1979年〈昭和54年〉5月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
本籍福井県。松村法吉陸軍中将の長男として生まれる。東京府立四中、陸軍中央幼年学校予科、同校本科を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第34連隊付となる。陸地測量部員などを経て、1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業した。
1936年(昭和11年)3月、陸大教官となり、参謀本部員、参謀本部戦史課長・大本営研究班長などを歴任。1941年(昭和16年)3月、歩兵大佐に進級し、同年10月、参謀本部ロシア課長に就任した。
太平洋戦争中の1943年(昭和18年)8月、関東軍参謀に発令された。1945年(昭和20年)3月には陸軍少将に昇進。関東軍総参謀副長となり終戦を迎えた。
戦後はシベリア抑留となった。1946年(昭和21年)9月17日には草場辰巳、瀬島龍三とともにウラジオストクから空路東京へ護送され、ソ連側証人として出廷した。1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[1]。1949年(昭和24年)8月に重労働25年の判決を受け、1956年(昭和31年)12月に復員。
親族
妻 松村英子 石坂善次郎(陸軍中将)の娘。
弟 松村辰雄(陸軍中佐)
義兄 額田坦(陸軍中将)
義弟 樋口敬七郎(陸軍中将)
著書
『関東軍参謀副長の手記』芙蓉書房、1977年。
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├瀬島龍三 - Wikipedia
瀬島 龍三
瀬島 龍三(せじま りゅうぞう、1911年〈明治44年〉12月9日 - 2007年〈平成19年〉9月4日)は、日本の陸軍軍人、実業家[1]。陸士44期次席・陸大51期首席。最終階級は中佐。1911年(明治44年)12月9日、富山県西砺波郡松沢村鷲島(現在の小矢部市鷲島)の農家で村長の瀬島龍太郎後備役歩兵少尉の三男として生まれた[3]。
出廷に当たって瀬島は草場辰巳、松村知勝と供述内容について事前に打ち合わせを行っている。その内容の例としては、ソ連側は1943年(昭和18年)以前の関東軍の攻勢作戦計画に日本の侵略意図があると解釈したが、作戦計画は有事の際の用兵作戦計画に過ぎず、天皇が関わる政策決定とは全く異なるという説明があり、その旨実際に証言を行っている[17]。裁判後シベリアに戻され1950年代後半に入るまで抑留生活を余儀なくされた。
保阪正康は、関東軍がソ連によるシベリア抑留を了承していたかどうかなど、瀬島でないと答えられない疑問について何度聞いてもほとんど答えず史実に対して不誠実であったことを指摘している[18]。
1947年(昭和22年)末から1950年(昭和25年)4月までの間どこの収容所にいたかを語っておらず、モンゴルのウランバートルにあった、第7006俘虜収容所に、種村佐孝(37期、大佐)、朝枝繁春(45期、中佐)、志位正二(52期、少佐)らとともに収容されていたとみられる[19]。
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├志位正二 - Wikipedia
志位正人 - Wikipedia
志位正人
志位 正二 志位正人陸軍中将の息子として生まれる。千葉県船橋市議会議員(日本共産党)の志位明義(1929年 - 2005年)
志位 正二(しい まさじ、1920年1月1日 - 1973年3月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。
軍歴
志位正人陸軍中将の息子として生まれる。東京府立六中、東京陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、1939年9月、陸軍士官学校(52期)を卒業。同年11月、歩兵少尉に任官し歩兵第61連隊付となる。1944年12月、陸軍大学校(59期)を卒業し陸軍少佐に昇進。1945年4月、関東軍隷下の第3方面軍情報参謀に発令され、終戦を迎えた。
終戦後シベリア抑留に遭い、1948年4月にソ連諜報員となる誓約を行い[1]、モンゴルのウランバートルにあった「第7006俘虜収容所」において朝枝繁春、瀬島龍三、種村佐孝らとともに諜報員、共産主義革命のための特殊工作員としての訓練を受けたとされる[2]。
志位正二(しい まさじ、1920年1月1日-1973年3月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。
志位正人陸軍中将の息子として生まれる。東京府立六中、東京陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、1939年9月、陸軍士官学校(52期)を卒業。同年11月、歩兵少尉に任官し歩兵第61連隊付となる。1944年12月、陸軍大学校(59期)を卒業し陸軍少佐に昇進。1945年4月、関東軍隷下の第3方面軍情報参謀に発令され、終戦を迎えた。
終戦後シベリア抑留に遭い、1948年4月にソ連諜報員となる誓約を行い、モンゴルのウランバートルにあった「第7006俘虜収容所」において朝枝繁春、瀬島龍三、種村佐孝らとともに諜報員、共産主義革命のための特殊工作員としての訓練を受けたとされる。抑留中は陸軍将校のため、日本国内では公職追放となった。
1948年11月、シベリアより復員。志位によれば、早期帰国のためにソ連に協力する誓約書に署名したものの、それは戦犯収容所に送られた上官や部下を救うため帰国し残留者の引揚促進活動に取組むためであったという。ところが、舞鶴港で米軍の民間情報部の者が武装兵を連れて船に乗り込み、主だった者を集めて暴行し尋問するのを目撃しショックを受けることになった。志位は1949年2月からGHQ参謀第2部(G2)の地理課に勤め、抑留帰還者の尋問調書からソ連や中華人民共和国の地誌を作成していた。1950年6月、GHQの取調べを受ける。このとき、1週間にわたって軟禁されウソ発見器にもかけられ誓約書について自白を強要されたことで、米国特務機関のやり方に憎悪を抱くようになったという。この後、ソ連のためにスパイ活動をすることになる。1951年10月以降、G2在職のままソ連国家保安委員会(KGB)にエージェントとして雇われる。1953年11月、外務省アジア局調査員となるが、「二重スパイ」の活動は継続した。
ユーリー・ラストヴォロフがアメリカに亡命した後の1954年2月5日、警視庁公安部に自首し、自身がソ連の工作員(スパイ)であったことを認めた。しかし罪には問われず、その後、海外石油開発株式会社常務となり、対ソ連交渉において、社長今里広記の右腕ともいわれる活躍をしている。1973年3月31日、シベリア上空を飛行中の日本航空のダグラス
DC-8型機の機内、ファーストクラス席上で死去した。過労からの心臓関係の疾患とみられる。
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├志位正人 - Wikipedia
志位正人(しい まさと、1889年10月22日-1945年5月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。二男が志位正二(陸軍少佐)兵科は砲兵。1909年(明治42年)、陸軍士官学校に入校。1911年(明治44年)5月、同校(23期)を卒業。同年12月、砲兵少尉任官。1938年(昭和13年)3月、砲兵大佐に昇進。同年12月、名古屋兵器支廠長に就任。1940年(昭和15年)3月、大阪兵器補給廠長に異動。1941年(昭和16年)11月、第15軍兵器部長に就任し太平洋戦争を迎え、ビルマの戦いに参戦。1943年(昭和18年)3月、緬甸方面軍兵器部長に就任。同年6月1日、陸軍兵器行政本部監督官に転じ、同年8月、陸軍少将に進む。1945年(昭和20年)5月に殉職し陸軍中将に進級。
学徒動員神宮外苑
厳父
朝枝 繁春 岳父 宝蔵寺久雄(陸士23期、陸大33期、陸軍中将[1][2])海軍下士官であり、日露戦役後に船員をしていた朝枝進の長男として生まれる[1]。
朝枝 繁春(あさえだ しげはる、1912年(明治45年)1月1日 - 2000年(平成12年)10月14日)は、日本の陸軍軍人。陸士45期、陸大52期恩賜。最終階級は陸軍中佐。第25軍(マレー・シンガポール作戦の部隊)の作戦参謀として知られる[1]。体格が良く、見るからに豪傑風の人物だったという。
親族 岳父 宝蔵寺久雄(陸士23期、陸大33期、陸軍中将[1][2])
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├種村佐孝 - Wikipedia
種村 佐孝
種村 佐孝(たねむら さこう[要出典] / すけたか、1904年12月9日 - 1966年3月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。三重県出身。参謀本部戦争指導班長を務め、対ソ終戦工作にあたった。主著に『大本営機密日誌』。
戦後にシベリア抑留に遭い、モンゴルのウランバートルにあった「第7006俘虜収容所」にて、共産主義革命のための特殊工作員として朝枝繁春、志位正二、瀬島龍三らとともに訓練を受ける。
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├朝枝繁春 - Wikipedia
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├悪質な煽り運転 - ニコニコ動画
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├【無料公開中】戦場という名の地獄から決死のサバイバルを図る兵士たちの壮絶な戦いの物語! 映画『ビハインド・エネミー・ライン』
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├菅野完 著書「日本会議の研究」記者会見 The Foreign Correspondents' Club of Japan 【切り抜き+】2016/7/20
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├シンボル操作(symbol manipulation)
社会学用語。それ自体は客観的であったり、また多義的に理解されているような物や言語や行動様式をシンボル (象徴) として使い、特定の意味内容をこめて多くの人々のそれへの同調ないし反動形成を促し、一定の方向に行動させること。シンボル操作の典型的な技術の一つが、人々の態度・行為・価値観をあらかじめ意図された方向へ誘導するための組織的コミュニケーション活動といわれる政治宣伝である。マス・メディアの驚異的な発達と宣伝技術の高度化により、現代社会ではシンボル操作の余地は拡大した。
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旅のエッセー集 essay and journey(essay of journey) 旅行家 甲斐鐵太郎
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