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計量計測データバンク ニュースの窓-132-
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計量計測データバンク ニュースの窓-132-
米国国立公文書館機密解除資料 CIA 日本人ファイル 解説 加藤哲郎


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米国国立公文書館機密解除資料 CIA 日本人ファイル 解説 加藤哲郎

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計量計測データバンク ニュースの窓-132-米国国立公文書館機密解除資料 CIA 日本人ファイル 解説 加藤哲郎

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加藤哲郎 (政治学者) - Wikipedia

米国国立公文書館機密解除資料 CIA 日本人ファイル 解説 加藤哲郎

 本資料集は、米国クリントン政権末期、2000年日本帝国政府情報公開法にもとづき機密解除された戦時・占領期の日本関係資料約10万ページの中から、特に注目度の高い、米国中央情報局(CIA)が収集した日本人31人の個人ファイルを収録したものである。
 このなかに、PODAM のコードネームを持つ読売新聞社主・正力松太郎が日本のテレビ放送開始や原子力発電の出発に暗躍した役割が見出され、元朝日新聞論説主幹・情報局総裁・緒方竹虎を吉田茂の後継首相にする POCAPON 工作があったことなどは、すでに報道され、研究が始まっている。本資料集の解読で、「日本の黒い霧」といわれた戦後日本における米国のインテリジェンス活動の実際が、明らかになるであろう。

一 米国国立公文書館ナチス・日本帝国戦争犯罪記録の機密解除
 2007年 月12日、米国国立公文書館(NARA)は、「日本の戦争犯罪記録研究のために10万ページを機密解除」として、以下の記者発表を行った。
 ナチス戦争犯罪記録及び日本帝国政府記録省庁間作業部会(IWG)は、日本の戦争犯罪に関連するファイルを精査した結果として、10万ページの最近機密解除された記録を利用可能にすると発表した。それに加えて、IWG は、Researching Japanese War Crimes Records: Introductory Essays という参考文献、electronic records finding aid という研究者が太平洋戦争に関して国立公文書館の数千の新たな拡張されたファイルを探し利用するためのガイドを発表した(1)。
 これは、帝国日本についての記録の記者発表であるが、もともと米国民主党クリントン政権末期に、ナチスの戦争犯罪記録公開に準じて行われたものである。この経緯を、日本のドイツ現代史研究者清水正義は、自身のウェブサイトで詳しく説明している。


 アメリカ議会は1998年10月 日にナチ戦争犯罪情報公開法(Nazi War Crimes Disclosure Act)
(以下、ナチ情報公開法と略す)を、次いで2000年12月27日に日本帝国政府情報公開法(Japanese Imperial Government Disclosure Act)を制定した。前者はナチ戦争犯罪に関して合衆国政府機関が保管する機密扱い記録の機密解除と公開を、同様に後者は戦前日本政府・軍の戦争犯罪に関する機密扱い記録の機密解除と公開を主旨としたものである。両者はほぼ同一内容であり、後者は前者の執行過程で前者を補完するものとして制定された。……ナチ情報公開法は、アメリカ政府機関が所有するナチ関係記録で現在なお機密扱いされているものについて、なるべく広範に機密解除をするべく、しかるべき機関が 年間の期間限定で記録調査、目録作成、機密解除指定等を行うことを定めている。すなわち、同法によれば、
一、法発効後90日以内に関連機関を横断する機関「ナチ戦争犯罪人記録省庁間作業部会(Nazi War Criminal Records Interagency Working Group)」(以下「省庁間部会[IWG]」と略)を設立し、
二、省庁間部会は 年以内に次の任務を行う
(1)合衆国のすべての機密扱いされたナチ戦争犯罪人記録を探索し、確認し、目録を作成し、機密解除を勧告し、そして国立公文書館記録管理局で公衆が利用できるようにし、
(2)各省庁と協力し、これらの記録の公開を促進するのに必要な行動をとり、そして
(3)これら記録のすべて、これら記録の処理、及び本セクションに基づく省庁間部会と各省庁の活動を記した報告書を、上院司法委員会及び下院政府改革監視委員会を含む議会に提出する。

三、ナチ戦争犯罪人記録は原則として公開され、公開しない場合の例外事由について詳細に規定される。例外事由を要約的に列挙すれば、
(A)個人のプライバシーを不当に侵すもの
(B)国家安全保障上の利害を損なうような情報源、情報手段を暴露するもの
(C)大量破壊兵器の情報を暴露するもの
(D)暗号システムを損なう情報を暴露するもの
(E)兵器テクノロジーの情報を暴露するもの
(F)現行の軍事戦争計画を暴露するもの
(G)外交活動を弱体化させるような情報を暴露するもの
(H)大統領その他の保護に当たる政府官吏の能力を損なうような情報を暴露するもの
(I)現行の国家安全保障非常事態準備計画を損なう情報を暴露するもの
(J)条約または国際協定に違反するもの
である。機密解除の例外となるこれらの事由はきわめて個別的具体的であり、記録を公開しないという判断は、それが上記(A)から(J)までの事由のいずれかにおいて「有害であると省庁の長が決定した場合にのみ許され」、しかも「かかる決定を行った省庁の長官は、上院司法委員会と下院政府改革監視委員会を含む適切な管轄権を備えた議会の委員会に、直ちにそれを報告するもの」とされている(2)。

 清水は、ナチス戦犯記録機密解除・公開について、「戦後アメリカはナチ戦犯の相当数の入国を意図的か否かを問わず事実上許容してきた」「今回の記録公開によりアメリカの知られざるナチ戦犯容認政策の実態が暴露される可能性がある」という観点から注目した。その意義として、「アメリカは戦後の対ソ政策上、旧ナチ軍事・諜報・科学技術専門家を必要とした」ことを、資料により検証できる重要性を挙げている。
 実際、今回の資料公開には、元ナチ科学者で戦後アメリカでは「ロケット開発の父」と呼ばれるヴェルナー・フォン・ブラウンの軍事利用、陸軍G2(諜報部)によるソ連軍の組織、装備、戦略、戦闘能力などを探るためのラインハルト・ゲーレン将軍(Reinhard Gehlen、元ドイツ参謀本部東部外国軍課長)の「ゲーレン機関」創設、その下でのナチス親衛隊「リヨンの虐殺者」クラウス・バルビーの登用などの資料が含まれている(3)。
 実は、今回の日本帝国戦犯記録の機密解除で、アメリカ側からスポットを当てられているのも、旧日本軍部と戦後アメリカ占領軍との秘密の関係である。ナチスの科学者ブラウン博士にあたるのが、日本陸軍731部隊で細菌戦人体実験を行った石井四郎、ゲーレン機関に相当するのが、戦犯訴追を免れ GHQ・G2ウィロビー将軍の反共工作に用いられた有末精三、河辺虎四郎、服部卓四郎、辻政信ら日本の旧参謀本部の情報将校、ゲーレン機関で有能なエージェントになるクラウス・バルビーに相当するのが児玉誉志夫、笹川良一ら反共右翼、という役回りである。
 そのため、IWG資料では、ナチス関係と日本帝国関係とは区別されておらず、索引も一つで、一緒に整理されている。ナチス関係が圧倒的な120万ページの記録・資料の中に、日本関係の約10万ページが点在している。このことは同時に、アメリカのヨーロッパ政策とアジア政策が一対で了解できる、冷戦史研究上のメリットでもある。これらについてはすでに、英語版wikipedia で立項され、概略が説明されている(4)。


二 日本におけるこれまでのマスコミ報道
(1)石井四郎と731部隊の細菌戦
 日本のマスコミがいち早く注目したのは、占領権力と非訴追旧軍幹部の結びつきであった。NARA の報道発表直後に報じられたのは、石井四郎の731部隊についての新情報で、それはWilliam H. Cunliffe 編纂のSelect Documents on Japanese Warcrimes and Japanese Biological Warfare, 1934―2006として特別公開されており、資料そのものが、ウェブ上の画像としてダウンロードできる(5)。


 旧日本軍の「細菌戦研究」究明 米、機密文書10万ページ公開(サンケイ新聞2007年 月19日)
 米国立公文書館(メリーランド州)は、旧日本軍が当時の満州(現中国東北部)で行った細菌戦研究などに関する米情報機関の対日機密文書10万ページ分を公開した。文書目録によれば、石井四郎軍医中将を含む731部隊(関東軍防疫給水部)関係者の個別尋問記録が、今回の公開分に含まれている。また、細菌戦研究の成果を米軍に引き渡したとされる石井中将が、米側に提出する文書を1947年(和22年)6月ごろ執筆していたことを裏付ける最高機密文書も今回明らかになった。
 今月12日に公開された機密文書は、ナチス・ドイツと日本の「戦争犯罪」を調査するため、クリントン政権当時の1999年に米政府の関係機関で構成された記録作業部会(IWG)が、米中央情報局(CIA)や前身の戦略情報局(OSS)、日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)などの情報文書を分析し、機密解除分をまとめて公開した。
 IWG の座長を務めるアレン・ウェインステイン氏は、「新たな資料は学者らが日本の戦時行動を理解する上で光を当てる」と意義を強調するが、作業は「日本の戦争犯罪」を立証する視点で行われた。


 日本語資料の翻訳と分析には中国系の専門家も加わっている。細菌戦などに関する米側の情報文書は、これまでも研究者が個別に開示請求してきたものの、一度にこれだけ大量に公開された例は少ない。
 情報の一部は1934年(昭和9 年)にまでさかのぼるが、終戦の1945年(同20年)前後4年分が大半を占めている。文書内容の大半は731部隊など細菌戦研究に関する内容だ。公開文書の概要によれば、1937年12月の南京事件に関する文書が一部含まれる。IWG では「慰安婦問題」を裏付ける文書も探したが、「目的を達せず、引き続き新たな文書の解析を図る」と述べるなど、調査では証拠が見つからなかったことは認めている(6)。


 ただし、上記サンケイ記事中、「文書内容の大半は731部隊など細菌戦研究に関する内容」というのは、現物をよく見ないで書いた、新聞報道によくある不正確な記述である。米国側の資料整理を担当した学者・Archivist による資料紹介である Researching Japanese War Crimes Records: Introductory Essays では、確かに細菌戦問題も重要な論点とされているが、巻頭Daqing Yang 論文では南京事件についての軍医 Hosaka Akira の日記証言が使われているのをはじめ、細菌戦以外の多くの主題が含まれている。新聞報道の多くは、IWG の230ページに及ぶ Introductory Essays の巻末 Michael Peterson 論文で要領よく整理されている事実の焼き直しであり、機密解除記録そのものにじっくり取り組んだ形跡はみられない。事実、「『日本の戦争犯罪』を立証する視点」が謳われているにもかかわらず、その解説文では重視されていないがゆえに、従軍慰安婦問題や昭和天皇についての第一次資料にあたっての探索・報道は行われていない(7)。


(2)G2 ウィロビーに使われた旧軍情報将校の「新日本軍」「地下政府」計画
 いまひとつ、マスコミに注目されたのは、同じく Introductory Essays で扱われた、GHQ・G2ウィロビー将軍の庇護のもとで戦犯訴追を免れ、マッカーサー戦史作成の名目(8 )で反報活動に使われた有末精三、服部卓四郎、河辺虎四郎らによる、「新日本軍」「地下日本政府」の陰謀計画である。この点は、NARA の報道発表以前に、共同通信がスクープし、のちに時事通信も追いかけた(9)。情報戦の観点からみると、こうした機密解除資料発表の仕方、そに対するメディアや学界の反応・対応も、重要な論点になりうる。


吉田茂側近「辰巳中将」が CIA に情報提供?(共同通信2009年10月3日

 吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895―1988年)が、米中央情局(CIA)に「POLESTE―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれ、自衛隊や内閣調査室の創設にかかわる内部情報を提供していたことを示す資料を3日までに、有馬哲夫早大教授(メディア研究が米国立公文書館で発見した。日本の再軍備をめぐり、吉田元首相の側近までも巻き込んだ米国側の対日情報工作の一端を示しており、戦後の裏面史に光を当てる貴重な発見だ。有馬教授は同館で発見したCIAのコードネーム表、辰巳氏ら旧軍人に関する文書などを総合的に分析。「より強力な軍隊と情報機関の創設を願っていた旧軍人の辰巳氏は、外交交渉で日本に再軍備を迫っていた米国に CIAを通じて情報を流すことで、米国が吉田首相に軽武装路線からの転換を迫ることを期待していた」と指摘している。


 CIA の辰巳氏に関するファイル(1953―57年)では、辰巳氏は実名のほか「首相に近い情報提供者」「首相の助言者」「POLESTER―5 」とさまざまな名称で呼ばれ、「保安隊の人選」「自衛隊」「内閣調査室」などの「情報を CIA に与えた」と記されていた。辰巳氏は占領期、旧軍人による反共工作組織「河辺機関」の一員で、連合国軍総司令部(GHQ)の了解の下、新たな軍隊と情報機関の立案に参画していた。吉田は首相就任後、「河辺機関」のほとんどの旧軍人を遠ざける一方、辰巳氏を信頼し、1950年の警察予備隊の幹部人選などを任せた。
 CIA は1956年11月26日付文書で「CIA が使う上でおそらく最高で、最も安全で、最も信頼できる人物の一人」と辰巳氏を評価していた。有馬教授は「表舞台の外交で米国特使、国務長官を務めたジョン・フォスター・ダレスが日本に再軍備を迫り、舞台裏で弟のアレン・ダレスが CIA 副長官、長官としてその下工作をするというダレス兄弟の連携の実態が、今回の発見で明らかになった」と話している(15)。


(4)緒方竹虎を吉田後継首班とする CIA 工作とその挫折

 トータルで120万ページ、日本関係だけで10万ページが新たに機密解除されたから、さまざまな資料が入っている。筆者自身は、2009年夏、早稲田大学で行われた20世紀メディア研究所公開研究会で、山本武利・吉田則昭との共同研究にもとづき、「吉田茂のあとに緒方竹虎を首相にすれば米国の利害で日本を動かすことができる」として米中央情報局(CIA)が対日政治工作を行っていた事実を、CIA「緒方竹虎ファイル」から解読し、緒方のコードネームPOCAPON と「ポカポン工作」の全容を含めて報告した。

 それは、毎日新聞2009年7月26日朝刊で「CIA、緒方竹虎を通じ政治工作 50年代の米公文書分析」という一面トップ記事に取り上げられ、英文でも紹介された。筆者のホームページ「ネチズンカレッジ」にも、関連資料を含めて公開したため、世界中からさまざまな問い合わせと関連情報提供があり(16)、それらをも参照して共同研究者吉田則昭が『緒方竹虎とCIA』という書物にした(平凡社新書、2012年)。


CIA、緒方竹虎を通じ政治工作 50年代の米公文書分析(毎日新聞2009年7月26日)

 1955年の自民党結党にあたり、米国が保守合同を先導した緒方竹虎・自由党総裁を通じて対日政治工作を行っていた実態が25日、CIA(米中央情報局)文書(緒方ファイル)から分かった。CIAは緒方を「我々は彼を首相にすることができるかもしれない。実現すれば、日本政府を米政府の利害に沿って動かせるようになろう」と最大級の評価で位置付け、緒方と米要人の人脈作りや情報交換などを進めていた。米国が占領終了後も日本を影響下に置こうとしたことを裏付ける戦後政治史の一級資料と言える。

 山本武利早稲田大教授(メディア史)と加藤哲郎一橋大大学院教授(政治学)、吉田則昭立教大兼任講師(メディア史)が、2005年に機密解除された米公文書館の緒方ファイル全5冊約1000ページを約1年かけて分析した。内容は緒方が第四次吉田内閣に入閣した52年から、自由党と民主党との保守合同後に急死した56年までを中心に、緒方個人に関する情報や CIA、米国務省の接触記録など。それによると、日本が独立するにあたり、GHQ(連合国軍総司令部)は CIA に情報活動を引き継いだ。米側は1952年12月27日、吉田茂首相や緒方副総理と面談し、日本側の担当機関を置くよう要請。

政府情報機関「内閣調査室」を創設した緒方は日本版 CIA 構想を提案した。日本版 CIA は外務省の抵抗や世論の反対で頓挫するが、CIAは緒方を高く評価するようになっていった。吉田首相の後継者と目されていた緒方は、自由党総裁に就任。二大政党論者で、他に先駆け「緒方構想」として保守合同を提唱し、「自由民主党結成の暁は初代総裁に」との呼び声も高かった。

 当時、日本民主党の鳩山一郎首相は、ソ連との国交回復に意欲的だった。ソ連が左右両派社会党の統一を後押ししていると見た CIAは、保守勢力の統合を急務と考え、鳩山の後継候補に緒方を期待。
55 年には「POCAPON(ポカポン)」の暗号名を付け緒方の地方遊説に CIA 工作員が同行するな政治工作を本格化させた。同年10―12月にはほぼ毎週接触する「オペレーション・ポカポン」(緒方作戦)を実行。「反ソ・反鳩山」の旗頭として、首相の座に押し上げようとした。緒方は情報源としても信頼され、提供された日本政府・政界の情報は、アレン・ダレス CIA 長官(当時)に直接報告された。緒方も55 2 月の衆院選直前、ダレスに選挙情勢について「心配しないでほしい」と伝えるよう要請。翌日、CIA 担当者に「総理大臣になったら、1年後に保守絶対多数の土台を作る。必要なら選挙法改正も行う」と語っていた。

 だが、自民党は4人の総裁代行委員制で発足し、緒方は総裁になれず2カ月後急死。CIAは「日本及び米国政府の双方にとって実に不運だ」と報告した。ダレスが遺族に弔電を打った記録もある。結局、さらに2カ月後、鳩山が初代総裁に就任。CIAは緒方の後の政治工作対象を、賀屋興宣(やおきのり)氏(後の法相)や岸信介幹事長(当時)に切り替えていく。加藤教授は「冷戦下の日米外交を裏付ける貴重な資料だ。当時の CIAは秘密組織ではなく、緒方も自覚的なスパイではない」と話している(17)。


 学術的には、今回の新規機密解除以前に、米国国立公文書館で情報公開法などをも用いながら系統的に第一次史料を収集し解読した春名幹男『秘密のファイル』(共同通信社、2000年)、山本武利『ブラック・プロパガンダ』(岩波書店、2002年)や、機密解除資料を用いた日本国際政治学会『国際政治』第151号特集「吉田路線の再検証」(2008年)、柴山太『日本再軍備への道(ミネルヴァ書房、2010年)などの研究が現れてきている。
 米国での先駆的研究であるニューヨーク・タイムズ記者ティム・ワイナーの『CIA 秘録』(文藝春秋、2008年)でも、本資料集収録資料の一部が用いられ、第12章「別のやり方でやった自民党への秘密献金」及び第46章「経済的な安全保障のためのスパイ 日米自動車交渉」はそれぞれ日本での CIA 活動に焦点を当てている。


三 IWG 資料から見える戦後米国の情報戦

(1)個人ファイル、問題別ファイル、ビジネス・ファイル
 今回機密解除・公開された IWG 資料で目玉とされているのは、CIA(中央情報局)、FBI(連邦捜査局)、MIS(陸軍情報部)などの Name File(個人ファイル)である。そのほかに、各政府機関ごとのSubject File(主題別ファイル)があり、2008年8月には、CIAの前身である OSS(戦略情報局)勤務員についての Business File(Official Personal File)も公開された。これらについて、ひとまず公開状況を概観しておこう。これらはインターネット上の米国国立公文書館オフィシャル・サイトで、ファイル名・個人名・資料番号まで公開されている。だから、日本関係10万ページの機密解除資料にどういうものがあるかは、NARA ホームページの資料リスト・索引で、日本にいても知ることができる(18)。ただし、ファイル現物の閲覧は、ワシントンDC近郊の NARA 別館でのみ可能である。
 その第一は、個人ファイルである。ネーム・ファイル Name File と言って、CIA、MIS、
FBI 関係の人名ごとにファイルに分類され、その人物に関する情報・資料がまとまった形で保存されている。人物によっては膨大で、筆者らの研究チームは、CIA「緒方竹虎ファイル」全5冊1000ページの分析と裏付け調査に、約一年をかけた。本資料集で扱うのは、主としてこのジャンルの CIA ファイルである。
 第二は、サブジェクト・ファイル Subject File、すなわち問題別ファイルである。日本の中国大陸における諜報活動とか、欧米での情報戦とか、テーマに即してまとまったファイルが、CIAだけでも200冊以上ある。ただし、マスコミからの照会の多い、占領期日本の三大事件(下山事件、三鷹事件、松川事件)と G2キャノン機関や CIA の関連を示唆する謀略の資料は個人ファイル類を含め、今のところ見つかっていない。

 第三に、ビジネス・ファイルと呼ぶべきファイル群がある。まとまった形では、ナチス・日
本帝国戦犯記録とは別に、2008年8月に公開された、CIAの前身 OSS(米戦略情報局)の OSS Official Personal ファイル(RG226)3万5000人分75万ページで、OSS に勤務した人々の雇用約、契約時の履歴書、勤務地と職務内容、給与・昇給・昇進、転勤・退職などの記録が、収録されている。このほか、CIA や MIS のファイルでも、履歴書や居住・家族情報などが綴じ込まれている場合が通例である。

 このビジネス・ファイル群では、OSS の調査分析部(Research & Analysis, R&A)の情報分析で活躍したW・W・ロストウやアーサー・シュレジンジャーら戦時米国における学者・研究者の戦争動員の記録が入っている。当時のハーバード大学歴史学部長ウィリアム・ランガーが人材集めの中心で、歴史学、人類学、社会学、経済学、政治学、法学、心理学、言語学、地理学等々の全米最高の頭脳が集められ、「敵国」ドイツ・日本の分析にあたっていた。しかもそこには、ポール・スウィージー、ポール・バランのようなマルクス主義者まで入っていて、ファシズムに勝利し世界中に「民主主義国家」を再建するための、米国の戦略的な調査と研究が行われた。いわば、自然科学における原子爆弾開発「マンハッタン計画」に相当する、人文・社会科学版「マンハッタン計画」が戦時中に組織されていた。OSS Official Personal ファイルは、その調査分析部 R&A の全容を解明するための、基礎資料となる。戦後日本の民主化・非軍事化政策との関わりでは、ジョー小出(鵜飼宣道)、藤井周而、石垣綾子、坂井米夫ら当時の在米日本人左翼で OSSに協力した人々のファイルが入っている(19)。
 全体のファイルは、米国国立公文書館の機密解除の通例にならって、史資料を所管していた政府機関別に分類されている。

 IWG「ナチス・日本帝国戦争犯罪記録」については、

国務省 Department of State(記録群 Record Group 59)
外国郵便局 Foreign Service Posts(RG84)
連邦捜査局 FBI(RG65)
海外資産局 Office of Alien Property(RG131)
戦略情報局 OSS(RG226)
ロバート委員会(The Roberts Commission、Records of the American Commission for the Protection and Salvage of Artistic and Historic Monuments in War Areas, RG239)
中央情報局 CIA(RG263)
陸軍 Army(RG319、Army Intelligence and Security Command(INSCOM)プラス Records of the Investigative Records Repository(IRR)
Records of the Office of the Secretary of Defense(RG 330)
Records of the United States Army Commands(RG 338)
U.S. Army Forces in the China-Burma-India Theaters of Operation(RG493)
National Archives Collection of Foreign Records Seized(RG242)


などに分類されて整理されている。
 海軍情報部(ONI)や国家安全保障局(NSA)はここにはないが、個々のファイルには別の政府機関がもともと作成・収集した資料が入っている場合もある。それぞれの内部分類もウェブ上でカタログ化されているから、おおまかな概要は、ウェブ上で知ることができる。ただし現物を NARA 別館で見てみると、個人ファイルでも貴重な情報が満載されている場合もあれば、履歴書 1 枚だけという場合もある。

 以下にまず、個人ファイルの公開状況を、日本関係を中心に概観する。

(2)連邦捜査局 FBI 個人ファイル(RG65)

 FBI は、連邦レベルでの警察組織であるが、ドイツ人・日本人に限らず、戦前・戦時・戦後のアメリカ合衆国の出入国を、移民局とともに管理していた。また、中南米での情報収集活動
も FBI のテリトリーであった。
 日本人関係では、戦争中に日本から米国兵士に反戦・厭戦を呼びかけたラジオの英語プロパガンダ放送「ゼロ・アワー」の女性アナウンサー「東京ローズ」として米国で国家反逆罪に問われたアイバ・戸栗・ダキノ、1930年代カリフォルニアの日系左派の新聞『同胞』編集長藤井周而の記録や、米国に渡ったキリスト教社会運動家賀川豊彦の関係資料が豊富に入っている。
ドイツ人・日本人出入国記録などは、この記録群から探索できる。

(3)中央情報局 CIA 個人ファイル(RG263)

 今回の機密解除で世界から最も注目されているもので、第一次と第二次の二回に分けてリリースされた。ナチス・ドイツ関係と日本帝国関係は区別されておらず、索引はアルファベット順、ボックスは独日一括で作られている。だから、アドルフ・ヒトラー Hitler の直前に、昭和天皇裕仁 Hirohito や東久邇稔彦 Higashikuni の個人ファイルが入っている。ただし、昭和天皇裕仁や岸信介のファイルを見ると、「戦争犯罪記録」といいながら、戦争責任や東京裁判に関する資料はほとんどなく、未だに重要部分は非公開のままであると推定できる(20)。
 CIA Name File の第一次公開は788人分とされるが、アルファベット順で検索できる圧倒的多数は、ドイツ人名である。わずかに日本人名と特定できるのは、土肥原賢二、今村均、石井四郎、大川周明の4人各1冊計4冊である
 第二次公開は約1100人分であるが、そこから日本人らしい名前を抽出すると、秋山博、有末精三、麻生達男、土肥原賢二、福見秀雄、五島慶太、服部卓四郎2 冊、東久邇稔彦、昭和天皇裕仁、今村均、石井四郎、遠藤三郎、賀屋興宣、岸信介、児玉誉士夫2冊、小宮義孝、久原房之助、前田稔、野村吉三郎、緒方竹虎5冊、大川周明、小野寺信2冊、笹川良一、重光葵、村定、正力松太郎3冊、辰巳栄一、辻政信3冊、河辺虎四郎、和知鷹二、和智恒蔵という31名の個人ファイルが見出される。
 筆者の概観では、一・二次合計で31人45冊分となる。ただし第一次公開分の4人の記録第二次公開で増補・追加されても重複する場合がほとんどなので、本資料集では、増補・追加分を注記しつつ、原則として第二次公開のファイルを収録する(21)。
 多くは戦犯ないしその容疑者だが、東京(極東軍事)裁判の戦犯容疑者約100人中では、12人(上記網掛け分)しか重ならない。つまり、CIAの個人資料収集基準は、占領改革期の戦争犯罪追及=民主化・非軍事化の原理とは、全く異なっている。むしろ、731部隊長石井四郎に典型的なように、戦犯訴追を免れた旧軍人が多い。有末精三、河辺虎四郎、服部卓四郎ら GHQ・G2歴史課などに協力して訴追を逃れた人々が入っている。

 上海自然科学研究所の小宮義孝は、731部隊の石井四郎・福見秀雄と同様に細菌戦関与を疑われたのであろうが、もともと小宮は治安維持法で検挙され東大医学部助手から上海へ左遷された左翼である。この小宮義孝を唯一の例外として、今回機密解除された CIA 個人ファイルには、左翼関係者は入っていない。
 しかしこれは、CIA が日本の左翼を無視し、監視・工作をしていなかったことを意味しない。
 左翼系ファイルは、今回公開分には入っていないが、なお「極秘」「秘密」の扱いを受けている可能性も残されている。
 このことは、ナチス戦犯記録の CIAドイツ人ファイルと比較すると、理解できる。膨大なドイツ人関係 CIA個人ファイルの中で、第一次・第二次を合わせ最も冊数が多いのは、クラウス・バルビー11冊(第一次7冊、第二次4冊)で、ラインハルト・ゲーレン10冊(第一次3第二次7冊)、アドルフ・ヒトラー7冊(第一次3冊、第二次4冊)の順である。ゲーレンビーは、ナチス・ドイツの高官で、明らかな戦争犯罪人であったが、ドイツの敗戦後、アメリカ占領軍・NATO 軍に協力し、CIAともつながった、戦後米国への協力者・情報提供者である。
 第二次公開の日本人ファイルの中で冊数が多いのは、緒方竹虎5冊を筆頭に、正力松太郎、辻政信が3冊、今村均、大川周明、服部卓四郎、児玉誉志夫、小野寺信がそれぞれ2冊であるから、さしあたり、彼らの戦後 CIA との関係が、ある程度推定できる。
 ドイツ、日本とも、ニュルンベルク裁判・東京裁判の戦犯容疑者名簿とは異なる原理で
CIA から注目され、個人資料がファイルされていたことがわかる。端的に言えば、戦後冷戦開始時に、アメリカ合衆国の反共諜報活動に関わった人々が、多く含まれている。
 本資料集「CIA 日本人ファイル」に収録された以上の31人の略歴とファイルの意義については、概要を第 4 章に掲げる。
(4)米国陸軍情報部 MIS(Army Staff)の IRR 個人ファイル(RG319)
 マスコミの関心は、戦後日本政治における CIA の役割に集中したが、日本現代史の情報戦資料としてより重要なのは、陸軍情報部(MIS)の個人ファイルである。米国国立公文書館の分類と請求名でいえば、IRR(Investigative Records Repository) Personal Name files 資料である。
 主に各国駐留の米軍 CIC(Counter Intelligence Corps、対敵防諜部隊)が現地で収集したものを、ワシントンの国防省(ペンタゴン)でファイルしたものであるため、CIC/IRR ファイルとも呼ばれるが、時には FBI、ONI(海軍情報部)、OSS、CIA、それに公式の外交機関である国務省の収集資料なども混じっている場合がある。
 陸軍情報部資料は、索引で数万人に及ぶ、膨大なものである。CIAの場合と同様な手法で、アルファベット順の索引から日本人らしい名前を抽出すると、約2000人分になる。昭和天皇裕仁、近衛文麿・東久邇稔彦ら皇室関係者、吉田茂・岸信介・中曽根康弘・大平正芳ら首相経験者が入っている。しかしなぜか、鳩山一郎・石橋湛山・池田勇人・佐藤栄作のファイルはリストにない。児玉誉士夫・笹川良一・里見甫ら右翼、有末精三・今村均・辻政信ら旧軍人、浅沼稲次郎・野坂参三・徳田球一・中野重治・佐多稲子ら左派有力者が監視され記録されている。

 これまで筆者がある程度系統的に解読したのは、尾崎秀実、川合貞吉、宮西義雄、木元伝一、堀江邑一、E. Otto らゾルゲ事件関係者のファイルである。
 ただし、筆者が名前を推定できたのは、2000人中1割の200人余にすぎない。圧倒的多数は無名の人々で、サンプルチェックの限りでは、シベリア抑留帰還者、中国引揚者などが多い。
 実は、こちらの陸軍情報部 IRR 資料の方が、①狭義の戦犯にとどまらず、日本の政治・経済・社会・文化の有力者を網羅するほか、無名の人々の履歴書・監視記録多数を含み、②1930年代から70年代をカバーし、(現在も米軍基地には防諜部隊 CIC があるため)時には1990年代のものまで入っていて、公開情報量も CIAに比して圧倒的に多く、③米国が世界戦略・軍事的目標達成上必要と認め収集した、日本人個人情報・監視記録のワシントンに送られた分であるから、現代史研究にきわめて有益である。④ただし、人名の誤読やたんなる噂・風評情報も多く、誤った個人情報も含んでいるため、総じて批判的解読が必要である。したがって、日本の研究者は、米国側解説にこだわらずにボックスを開き、実際に読んでみなければ、内容・価値がわからない。こうした意味で、大きな学術的可能性を秘めた記録である。また CIA と重複する名前もあるため、児玉誉士夫・有末精三・辻政信らについては、CIA 情報と IRR ファイルのクロス・チェックが求められる。

 ただし、ここでもすべての陸軍情報部収集記録が機密解除されたとは考えられず、米国情報公開法にもとづく個別請求などで、さらに積極的に探索する必要は失われていない。
 以下に、筆者が請求して瞥見できた範囲内での概略を述べておく。これは、IRR 個人ファイル数万人分の中から、英字索引でアジア人名ではないかと思われる人物名約2000人分を研究用にリストアップし、その中で漢字表記も推定できる200人ほどの人名をあらかじめ準備したうえで、ワシントン DCの米国国立公文書館で請求・閲覧・複写したものである。その推定名が誤りで徒労に終わったり(例えば KOBAYASHI Takeji は作家・小林多喜二ではないかと現物にあたると、小林武二という別人であった)、たまたま著名人のファイルと同じボックスに無名だが価値のあるファイルがあったりする連続で、試行錯誤の繰り返しの中で目を通すことができた、ごく一部の範囲内のものであることを断っておく。また英文資料の暫定的解読段階のものであるから、誤読や誤訳がありうる。読者による追試解読を歓迎する。
①「昭和天皇・裕仁ファイル」は、全部で100ページ強の、戦後すぐの時期の昭和天皇についての記録である。その一部は、すでに時事通信ワシントン支局長(当時)名越健郎(現拓殖大学教授)が情報公開法により請求し、1999年10月31日時事配電で紹介している。戦後天皇制の行方については、1945年10月27日付ジョージ・アチソン政治顧問の国務省に宛てたマッサー・天皇会見覚書が入っている(秦郁彦によって紹介済み(22))。45 年10月に東久邇稔彦がたという昭和天皇退位の間接情報もある。1946―47年の地方行幸についての報告とその反応貴重な同時代資料である。日本国憲法が制定され、国会で承認されて、施行されることが決まった時点での、京都で永末英一の世論研究所が行った象徴天皇制についての世論調査記録(『サーヴェイ』誌1947年1月)は、全文が英訳されている。「現状維持」52.2%、「天皇に権力を」32%、「弱める」3.5%、「廃止」4%に注目しているが、特に米国側コメントはな(川島高峰によって紹介済み(23))。GHQ 主導の象徴天皇制創設が日本国民から受容されていることを、確認したものであろう。
② 有末精三、辻政信、大川周明、下村定、今村均、小野寺信、児玉誉士夫、笹川良一らについては、CIA個人ファイルとは別に、米国陸軍諜報機関による監視記録がある。両者をクロスすることによって、占領下の旧軍人・右翼の活動は、いっそう明確になる。CIA には入っていなかった中国大陸「阿片王」里見甫らについても、IRR 個人ファイルから新たな情報が得られる。特に敗戦直後に米国陸軍が行った尋問記録は貴重である。


③政治家のファイルは、保守・革新を問わず、多数含まれている。「吉田茂ファイル」は、一部はすでに共同通信ワシントン支局長だった春名幹男(現早稲田大学)が情報公開法にもとづき資料請求し、著書『秘密のファイル』(共同通信社、2000年)中で紹介したように、吉田が再軍備に消極的だったといわれる裏で、米軍に積極的に情報提供していた事実が明らかになる。
 CIA個人ファイルでは期待はずれだった「岸信介ファイル」も、良く知られた東京裁判での国際検察局 IPS 尋問書(国会図書館憲政資料室所蔵)とは異なる、1946年3月巣鴨入獄時のCIS(民間情報局)尋問調書が入っている。その一部は春名幹男『秘密のファイル』に紹介されている。MISの岸ファイルは、賀屋興宣ファイル、重光葵ファイルとともに、CIAとMISの個人情報収集の仕方の違いを知るうえでも、貴重なものである。

 なお、比較的新しい中曽根康弘のファイルでは、敗戦直後の国家主義的民族活動や日本における原子力発電開始期の記録が入っており、筆者はそれを解読して「日本における『原子力の平和利用』の出発―原発導入期における中曽根康弘の政略と役割」(加藤哲郎・井川充雄編『原子力と冷戦―日本とアジアの原発導入』花伝社、2013年)を発表している。大平正芳ファイルでは、日韓条約・日中国交回復時が注目されている。ただし鳩山一郎、石橋湛山、河野一郎、池田勇人、佐藤栄作など、吉田や岸、賀屋、重光に準じて当然監視されていたであろう日本人政治家の名前が、今回公開された2000人中にはない。MIS=IRR ファイルについても、全面公開とは言えないと考えるべきだろう。




④左翼政治家では、日本共産党指導者「野坂参三ファイル」が重要である。戦後占領期の野坂参三と GHQとの交流はこれまでもささやかれてきたが、IRR野坂ファイルには、Safell大佐宛で野坂参三が執筆した自筆書簡数通の現物が入っているほか、占領期の米国と日本共産党の関係を示唆する豊富な内容となっている。無論、GHQ・G2は、野坂の一挙一動を疑って監視しており、転居のたびに住居周辺の地図が作られ、写真も多く撮られている。重要な演説はすぐに英訳されてワシントンに送られた。

 重要なのは、1944年延安での米国ディキシー・ミッション(米国として初めての中国共産党延安根拠地訪問団)のジョン・エマーソン、有吉幸治による野坂インタビュー以来、野坂の柔軟な天皇論評価が占領初期米国の野坂への注目・評価のもととなっていたことである。同時にそれは、戦前1934―38年の野坂のモスクワからの米国密入国歴(ジョー小出・木元伝一らを助手した『国際通信』『太平洋労働者』発行など)が見破られていなかったことを意味することが、IRRファイルに何通も入っている野坂の履歴調査からわかる。この点は、最近翻訳された米国国家安全保障局(NSA)の旧ソ連暗号解読『ヴェノナ』文書(24)においても同様で、戦前・戦後の連共産党と米国共産党との間の膨大な暗号通信の中には、野坂の名は出てこない(日本人では宮城与徳とジョー小出のみ)。ただし、いち早く公開された旧ソ連コミンテルン文書中のアメリカ共産党記録文書中には、岡野進=野坂参三のアメリカ滞在中の暗躍を示す文書が出てくる(25)。野坂参三は、戦後占領期に、この隠された米国体験を最大限に利用したコミュニストであった。

 日本共産党については、このほかに、徳田球一、志賀義雄、神山茂夫、中西功、志田重男、椎野悦郎ら共産党幹部の監視ファイルがあり、朝鮮戦争時のものが多い。沖縄人民党を動かしていた非合法沖縄共産党の瀬長亀次郎、国場幸太郎らの膨大なファイルもワシントンに送られた(26)。ただし、ここでも宮本顕治・袴田里見・伊藤律ら、当然監視されていたはずの指導者名のファイルはない。

 なお、延安の野坂参三とともに、戦時米国情報機関から中国抗日運動への支援者として評価された重慶の鹿地亘については、IRR 鹿地ファイル中に1945年7月17日付米国政府宛でたAgent契約書が入っている(月200ドルの金銭授受)。鹿地はこの契約を日本の敗戦までのものと解釈して日本帰国後は左翼作家としてソ連大使館等にも出入りしたが、米国側はなお鹿地をエージェントとして扱おうとした。いわゆる鹿地亘拉致事件の背景にあった米国情報機関と鹿地の結びつきは、この資料によって裏付けられる。

⑤死者も監視されていた。1944年にゾルゲ事件で死刑に処された尾崎秀実の個人ファイルが入っている。尾崎秀実は、索引では OZAKI Hidemi と誤読されているが、死後もアメリカ軍の監視対象で、戦後のゾルゲ・尾崎事件についての新聞報道などがファイルされている。当時のカストリ雑誌『うら・おもて』1949年5月号別冊「ゾルゲ事件の真相、尾崎秀実は国を売た」が、なぜか G2ウィロビーの注意をひき、現物全文が収録されており、敗戦直後のベストセラー『愛情はふる星の如く』に関する新聞記事などが英訳されている。尾崎の経歴も数通入っており、その友人関係では、太平洋調査会(IPR)関係者や昭和塾の関係者、とりわけ平貞蔵について詳しく調べた形跡がある。GHQ・G2のウィロビーは、ゾルゲ事件へのアメリカ人左翼の関わり、とりわけアグネス・スメドレーを非米活動共産主義者として告発することに熱心であったが、その収集記録の一部は、こうしたファイルに残されている。

 ゾルゲ事件関連では、川合貞吉ファイルが、とりわけ重要である。1947年9 月12日から1951年7月30日までの GHQ/CIS(民間情報局)ポール・ラッシュ、本郷ハウス・キャノン機関への情報提供の記録が入っており、戦後はゾルゲの上海時代を知る「生き証人」として登場し、尾崎秀実の異母弟尾崎秀樹を助けてゾルゲ事件真相究明会をたちあげ、当時の日本共産党農民部長であった伊藤律をゾルゲ事件関係者検挙の発端を作った「生きているユダ」として告発し伊藤を失脚させるのに成功したが、実はそれはウィロビー、キャノン機関の協力者としての活動の一部であったことがわかる。

 川合貞吉ファイルには、G2/CISのゾルゲ事件担当だったポール・ラッシュとのツーショト写真のほか、川合がウィロビーに提供したゾルゲ事件情報もいくつか含まれている。例えば史実かどうかは検証が必要だが、アグネス・スメドレーが1937年秘かに来日し、ゾルゲ・グループのマックス・クラウゼンと新潟で会ったとか、日本共産党関係では、伊藤律とともに松本三益の情報がゾルゲ事件発覚に役立ったといった情報で、尾崎・ゾルゲ・グループの上海時代を知っていると称する川合貞吉は、マッカーシズムで在中米国人の多くをコミュニストに仕立て上げ告発しようとしていたウィロビーにとって、きわめて重宝な日本人情報提供者であったことがわかる。「生き証人」川合へのアメリカ側の関心は、「上海でのスメドレーについての彼の個人的知識」で、川合と彼の家族の身柄を安全に確保するため、米軍の護衛兵や日本の田中栄一警視総監までが動員されたが、1950年代に入ると、彼の情報の信憑性についての疑念が担当情報将校から出され、彼の情報には月万円の価値はない、日本共産党は彼を信用していないため共産党内部情報が得られないから援助額を月1万円に減額して契約関係を解消したいといった意見も出されるようになった(1950年2月20日)。こうした米軍の情報提供者への金品授与までわかるファイルはきわめて珍しく(管見の限りでは前述鹿地亘ファイルと川合貞吉のみ)、川合がウィロビー・キャノン機関の典型的なエージェントであったことがわかる。

 そのほかゾルゲ事件関係では、宮西義雄ファイルや木元伝一ファイルなども貴重な資料であるが、この点はすでに加藤『ゾルゲ事件』(平凡社新書、2014年)で詳しく論じているので、れらを参照されたい。
⑥占領期には、国会議員選挙に立候補した社会党・共産党など左派政党の候補者は、米軍諜報機関の監視対象だったらしい。中野重治ファイルは、文学者への監視がどうであったかを知る資料と期待し請求・閲覧したのだが、中野の文学活動についての記録はほとんどなく、日本共産党参議院議員としての中野の監視記録だった。同様な記録として、日本社会党の高津正道ファイルがあった。
 ただし、文学者・芸術家や学者・知識人が、監視対象から外されていたわけではない。佐多稲子ファイルはこの意味で重要で、新日本文学会のほか、左派女性解放運動家としての活動が記録されている。学者・文化人も同様で、湯川秀樹、滝川幸辰、都留重人、田中耕太郎、大内兵衛らの監視記録があり、特に民主主義科学者協会(民科)や、日本共産党とのつながりなど「進歩的知識人」としての活動がチェックされていた。
⑦こうしたある程度著名な個人とは別に、無数の無名の人々のファイルがある。そのいくつかをランダムに見てみると、シベリア抑留帰りの日本人、中国引揚者らの記録が多数含まれていることがわかる。特に舞鶴での抑留帰還者の尋問記録は、冷戦初期の米軍諜報機関にとっては貴重な、ソ連・新中国についての最新生情報であり、朝鮮戦争での作戦遂行に使われたことがうかがえる(27)。
 このことを逆照射するのが、朝鮮戦争当時の読売新聞記者である三田和夫の個人ファイルである。三田は、自身がシベリア抑留体験者で、米軍による舞鶴港での帰還者尋問を取材していた。また、帰還者をアメリカへの協力者に仕立て上げる米軍の工作を、「幻兵団事件」としてスクープし、さらには日本における CIAの活動を追って、「ラストボロフ事件」についても詳しい記事を書き、著書も出していた。その著作、「東京秘密情報シリーズ」と銘打った『赤い広場』及び『迎えにきたジープ』(共に二〇世紀社、1955年)は、日本語200ページ以上の全文が英訳され、三田の個人ファイルに綴じ込まれていた。そのため三田和夫ファイルは、他の日本人個人ファイルに比しても異様に膨大で、米軍 CIC が読売の三田報道をいかに重視し、マークしていたかを示唆している。三田は、当時のジャーナリストの中で、アメリカ情報機関の活動に肉迫した報道によって、米軍に注目されていた。ただしこの「トップ屋」と呼ばれた敏腕記者も、自社の当主正力松太郎が CIA エージェントであることまでは摑んでいなかったことになる。
⑧そのほか、MIS=IRR個人ファイルには、金九など朝鮮人、毛沢東など中国人のファイルも散見される。ベトナムのホー・チミンまで入っているが、これらは現地での調査記録ではなく、日本での報道記事の英訳など「ナチス・日本帝国戦犯記録」と関わる限りでの公開になっている。むしろ、ナチス関係で機密解除された、日米開戦時の駐日ドイツ大使オイゲン・オット、ゲシュタポ在日代表ヨゼフ・マイジンガーらの記録の方が、日本現代史研究には意味がある。
 オットは、ゾルゲを信用し騙された国防軍出身のドイツ外交官として知られているが、1946年2月から半年間、当時住んでいた中国北京から東京に召還され、半ば軟禁状態で日独同盟ナチスの内情などを詳しく米軍に供述していた。渡辺延志『虚妄の三国同盟―発掘・日米開戦前夜外交秘史』(岩波書店、2013年)は、このファイルを丹念に解読した労作である。


四 「CIA 日本人ファイル」のコードネームと収録者

(1)CIA 個人ファイルの概要――GHQ/G2への批判的態度

 本資料集に収録した CIA の個々の個人ファイルの内容に立ち入ると、その分量、扱う時期、信頼性、資料的価値は、ばらばらである。また筆者は、これら個人ファイルをようやく収集・複写しえた段階で、本格的解読・分析はこれからである。以下に、筆者が瞥見した限りでのファイルの意義について、大まかなコメントを、順不同で付す。
①石井四郎、福見秀雄ファイルなど石井部隊関係者の個人ファイルは、先行研究や別に公開された731部隊関係の特別ファイルと合わせ、米国側所蔵資料のほぼ全容がわかる。ただし、福見秀雄ファイルは短文で、ほとんど情報がない。
 また、これまで筆者が731部隊に関わった「秋山浩」(『特殊部隊731』三一書房、1956年、の著者)と見なしてきたファイルは、今回本資料集収録にあたって解読すると、特高警察関係で終戦時警視庁刑事部長「秋山博」である可能性が強くなったので、本資料集では「秋山博」と推定し、資料そのものを掲げて、研究者の判断に委ねる。

②CIA個人ファイル中で、おそらく政治史的に最も充実し、分量的にも豊富なのは、有末精三、河辺虎四郎、服部卓四郎、辻政信らの、朝鮮戦争勃発・警察予備隊発足・サンフランシスコ講和時の「地下日本政府」による吉田茂暗殺クーデタ計画、第三次世界大戦誘発による再軍備、新日本軍創設、宇垣内閣構想など、旧軍人関係ファイルである。「服部卓四郎ファイル」中に綴じ込まれた約70頁の「The J.I.S. [Japanese Intelligence Service] and Japanese National Revival : Present and Future」という戦後日本諜報史が、そのまとまった概観になっている。
③旧軍人のうち、吉田茂の軍事顧問であった辰巳栄一のファイルには、有馬哲夫が指摘したように、POLESTER/5のコードネームが出てくる。ただし彼らのファイルに出てくるもので、最初のPO(CIAの日本に対する暗号コード名)を付したCIA初期の最重要エージェントと思われる POPOV が誰であるかは、筆者にはなお不明である。
 CIA(暗号名 KUBARK)の報告中では、主として GHQ/G2のウィロビーによって戦犯容疑を免責され、マッカーサー期の日本政治の裏舞台で活動し、第三次世界大戦を誘発しようとしたり、再軍備を旧陸軍主導で進めようとした旧情報将校グループに対して、総じて批判的コメントが付されている。マッカーサーの嫌った CIAは、マッカーサー、ウィロビー傘下のGHQ/G2の諜報活動のあり方を、いかがわしい旧軍人国家主義者を使った謀略型情報戦と見抜き、ワシントンのアレン・ダレス(暗号名 ASCHAM)らは、より米国の世界戦略に沿った「近代的」情報組織に組み替えようとしたようにみえる。
③旧軍人と密接につながって CIA個人ファイルに出てくるのは、児玉誉士夫、笹川良一ら右翼の流れで、CIAの分析は、実務的であるが批判的である。一部新聞が報じたように、1953年9月10日の児玉ファイルには、彼の情報は信頼できず「金に汚いウソつき、ギャング」だという CIAの内部報告がある(28)。ただし、児玉の記録はその後も続き、1960年前後には重要情報提供者として再び登場する。この再浮上の経緯の解明には、他のファイルとのクロス、他機関特にIRRファイルとの照合が不可欠である。
 筆者のさしあたりの仮説では、いったんウィロビー支配下の旧軍人・右翼を切り離し、緒方竹虎・正力松太郎らの政治情報に頼ろうとした CIAが、緒方の死と日本版 CIA 計画(内閣調査室の拡充・改組)の挫折で計画変更を余儀なくされ、賀屋興宣・岸信介らにシフトすることによって、再び児玉誉士夫ら右翼と旧軍特務機関出身の職業的諜報プロに依拠せざるをえなくなったのではないかと思われる。
 なお、「児玉誉士夫ファイル」と「笹川良一ファイル」を用いて、ドイツの国営テレビは、2008年に「児玉機関と笹川良一」についての特集番組を作成した。その内容の一部は、you tube に掲載・収録されて、日本からでも一時画像で見ることができた(29)。
④政治家の CIA 個人ファイル中、緒方竹虎ファイル5冊と正力松太郎ファイル3冊は、別の意味を持つ。「緒方竹虎ファイル」全5冊には、緒方= POCAPON を吉田茂の後継首相にするための CIAによる1955年保守合同期の工作が詳細に出てくる。ただしこのポカポン工作は、56年1月緒方の急死で挫折する。先に紹介した「CIA、緒方竹虎を通じ政治工作 50年代の米公文書分析」という『毎日新聞』2009年7月26日朝刊一面トップ記事は、筆者を含む読チームの研究会報告をまとめたものである。また「正力松太郎ファイル」は、コードネームPODAMの正力が、日本テレビ開局、読売新聞紙上での原子力平和利用の効用を説くAtoms for Peaceキャンペーンなどマスコミ工作が豊富に読みとれるが、これらについては、先述有馬哲夫による一連の分析・解読が進行中である(30)。
 注目度の高い CIAの「岸信介ファイル」は、期待はずれで、首相就任後の新聞記事など既知の資料のみである。むしろ陸軍情報部の岸信介IRRファイルの方が、資料的価値は高い。A級戦犯で岸信介の盟友であった「賀屋興宣ファイル」には、緒方竹虎の死後 CIA が後継情報源としようとした形跡がみられ、賀屋自筆のアレン・ダレス宛手紙の現物も入っている。
 CIA内部用の賀屋履歴書には、POSONNET―1というコードネームが付されていて、賀屋がエージェントであったことが確認できる。
⑤「裕仁ファイル」から、昭和天皇も戦後 CIAの監視対象になりファイリングされていたことが確認できる。ただし、分量は20ページ足らずで、語学力や食事の嗜好、生物学研究など私生活の一般的記述に留まり、資料的意義は乏しい。わずかに資料の日付が1975年訪米時など日米「皇室外交」に関わる時期に集中していることから、アメリカ側の象徴天皇制への関心の有様がうかがわれる(31)。戦中・戦後占領期の資料はなく、「戦犯記録」としての価値はない。これは、上述「岸信介ファイル」とともに、二次の機密解除によってもなお、CIA の持つ「国家安全保障上の利害を損なうような情報」は非公開であることを示唆している。
 このことは、「裕仁 Hirohito ファイル」と同時に公開され、ボックスも近い CIA の「ヒトラー Hitlerファイル」と併せ読むとよくわかる。ナチスの総統であったヒトラーについてのCIAファイルは非常に充実しており、演説・宣伝手法から食事や性的嗜好まで、膨大な伝記的・心理学的分析が収録されて、アメリカが「なぜドイツ人はヒトラーに従ったか」に関心を持ち、それを人文・社会科学の最新知見で分析し、対独戦戦略と戦後ドイツ占領政策に活かしていったかが、よくわかる内容となっている。
⑥旧軍人や戦犯容疑者の多い CIA日本人ファイルの中で、「小宮義孝ファイル」のみは異色である。小宮義孝は、筆者が長く探求してきた元東京大学医学部助教授国崎定洞(ドイツ共産党日本人部創設者で、旧ソ連に亡命後スターリン粛清の犠牲になったコミュニスト)の親友であり、東大医学部助手時代に治安維持法違反で検挙され、上海に渡った経歴を持つ。上海自然科学研究所時代には寄生虫を研究し、戦後国立予防衛生研究所長を務めた。CIAは、石井四郎の関東軍防疫給水部に準じて、上海自然科学研究所の化学戦・細菌戦関与を調査した形跡があるが(福見秀雄もこのラインか?)、その種の資料は見つからなかったため、工作を断念したものと推定できる。
 むしろ、今回機密解除された CIA の日本人監視記録中には、小宮義孝以外の共産党・社会党関係者の個人ファイルが入っていないのが注目される。これが実際に朝鮮戦争期の CIA は日本の左翼を無視していたのか、それともなお機密扱いで公開されなかっただけなのかは、今後の探求課題となる。

(2)暗号表記=コードネームの問題

 本資料集に収録したのは、前述したように第二次公開分1100人分から日本人と特定できた31人分である。それを、基本的に NARA のリストの ABC 順にもとづきながらも、各ファイルの冊数・頁数を考慮して、全12巻にまとめた。
 彼らの略歴を紹介する前に、暗号=コードネームの問題を検討しておこう。先にも紹介したように、IWGの機密解除担当官たちも、その内容の重要度の検討・吟味のさいに、まずはコードネームの解読を必要とした。そのいわば解読用マニュアルが集大成されて、全64ページ(当初の59ページから逐次増補改訂されている)の The CIA Lexicon: Finding Aid for the Second Release が作られ、ウェブ上に公開されている(32)。
 それは、人名には限らない。冒頭の A―287は Cryptonym for Josef Stigler だが、次の ABNは Anti-Bolshevik Bloc of Nations(ABN)という反共組織で、Stanislaw Stankiewicz はその中央委員会メンバーだった、などとある。CIA自身がBKCROWN,BKTRUST, KUBARK, PNEXCEL等の機関コードで登場し、その長官アレン・ダレスは Aschamの匿名を持つ。

 冒頭2語が国名を指す場合があり、例えば CABAKER はドイツ社会民主党のことで、CADRUG が German Mission Office of Security なので、CA のつくコードネームがドイツと関連するものと解読される。米国は OD のようで、ODACID は米国国務省、ODENVY はFBIという具合に、通常の英語の略称や、すぐに連想できる名前は避けられている。

 日本の略称は PO とされていることが、以下の解読リストからわかる。

POAIM―12 Cryptonym for Tsunezo Wachi.(和智恒蔵)
POBULK Yomiuri newspaper, Japan.(読売新聞)
POCAPON Cryptonym for Taketora Ogata.(緒方竹虎)
PODALTON Free Japan Broadcast Productions.(自由日本放送)
PODAM Cryptonym for Matsutaro Shoriki.(正力松太郎)
PODAUB National Police Agency, Japan.(警察庁)
PODIVA CIA Station.(CIA 日本支局)
POJACKPOT― Cryptonym for Matsutaro Shoriki.(正力松太郎)
POLESTAR― 5 Cryptonym for Eiichi Tatsumi.(辰巳栄一)
POLUNATE Cabinet Research Chamber (CRC) of the Japanese Government. (内閣調査室)
POSHARK Cryptonym for Fusanosuke Kuhara.久原房之助)
POSONNET― Cryptonym for Okinori Kaya.(賀屋興宣)

 ただし、POとついていても、日本とは関係なさそうな場合もある。現物に当たり、その文脈から推定し、解読していくしかない。
POMONA Cryptonym for Kurt Reichert.
POPOV, Anton Alias for Destan Berisha.
Popov, Lt. Col. Petr S. CIA penetration of the GRU in East Germany.
Poppe, Nikolai Professor Karl BERGSTROM (pseudonym).

 また、実名の方からコードネームを推定したものも、時に重複して出ている。
Aso. Tatsuo STBRANT― 1 , TLBRANT, LFSALAD(cryptonyms).
Shoriki, Matsutaro POJACKPOT― and PODAM (cryptonyms). Associated with KMCASHIER Project
Tatsumi, Eiichi POLESTAR― 5(cryptonym).
Wachi, Tsunezo POAIM―12(cryptonym).

PO とは関係なく、作戦名自体が出ている場合もある。
TAKEMATSU Plan TAKEMATSU(1940s/50s)was the operational plan of US Army G-2
Far East Command in clandestine operations within Japan/peripheral areas
using former Japanese intelligence personnel. Seizo Arisue, Torashiro Kawabe
associated with this plan.(タケマツ作戦)

 筆者が、山本武利早稲田大学名誉教授、吉田則昭立教大学講師とともに、日本人ファイルで一番分量の多い緒方竹虎ファイルを精査し解読した経験では、この IWG 側作成レキシコンでは出てこないコードネームも多い。

 以下は、一部は米国側解読と重複するが、筆者らが解明ないし推定できたものと、日本人ファイルに出てくる未解明のものを、アトランダムに並べた「日本人ファイルに登場する CIA 暗号名(cryptonym)一覧」である。このうち特に「ポポフPOPOV」は、占領後期に早くから登場する CIA の日本工作のキーパースンと思われるが、なお未解明の重要人物または機関である(33)。
KUBARK=CIA headquarters
ASCHAM=Allen DULLES(James Srodes, ALLEN DULLES, Master of Spies, Regnery, Washington DC, 1999, pp.431―432
ODACID=United States Department of States/U.S. Embassy(米国大使館)
ODOPAL=United States Army Counterintelligence Corps(CIC)
ODYOKE=Federal Government of the United States(米国政府)
POGO=PO Japanese Government(日本政府)
POCAPON =緒方竹虎 1955年5月29日初出
PODAM =正力松太郎
PODALTON =「(正力)マイクロ波通信網建設支援工作(1953年11月7日)」
POHALT=柴田秀利
POJACPOT/ =正力松太郎→「履歴ファイル」冒頭にあり
POSONNET/ =賀屋興宣→「履歴ファイル」冒頭にあり。1959年8月6日に初出
SR REP=senior representative、具体的には当時の CIA 北アジア地域上級代表
【未解明】
BABOCM
Conweck,POROW(未解読、緒方竹虎ファイルの1955年「福岡同行記」に登場
DYCLAIM(CIA?)
DYMACAO(FBI?)
IDEN
JAMI8
JCU(CIA 東京支局?)
KAPOK
KUJUMP
KUTWIN
KMCASHIR
ODIBEX(国務省?)
POYAMA
PODIUM
PORTICO
POPOV(辰巳栄一・服部卓四郎・河辺虎四郎・有末精三・辻政信ファイルに頻出、児玉誉士夫? 三浦義一? 機関名?)
POUCH POAIM/12(和智恒蔵?和知鷹二?)
PO?ERPLANT(一字不鮮明)
POLESTER/ 5(鹿島宗二郎の可能性も?)
POLUNATE(内閣調査室?)
POPALATE(日本版 CIA?)
STBRANT/ (麻生達男?)

(3)日本人ファイル31人の略歴
 以下に、本資料集に個人ファイルを所収した31人の個人について、読者のファイル解読の参考になりうる略歴・情報を挙げておく。おおむね ABC 順で入っていた日本人のファイルを、本資料集では、分量を顧慮して巻構成を若干変更してあるので、ここでは本資料集収録順に紹介する。
 ここでは、各種人名辞事典やインターネット上の wikipedia 日本語・英語版情報などをもとに略記するが、辞事典や wikipedia に立項されている著名人は簡略にとどめる。むしろ①秋山博や③麻生達男など、ほとんど情報のない人物に注目する。本資料集の解読で、米国 CIA からも注目された重要人物として浮上する可能性があるからである。
 なお、インターネット上には、筆者の作ったリストをもとに、この31人を「CIAのエージェント」と短絡的に断定するサイトが散見されるが、正しくない。彼らは「CIAにファイリングされた人物」ではあっても、それがエージェントにするための工作か、たんなる情報収集対象だったのかは、それぞれのファイルの内容に即して、解読されなければならない。
 コードネームを与えられた場合も同様で、PODAMの正力松太郎は、実際に CIAに協力したエージェントと解されるが、POCAPON の緒方竹虎の場合は、エージェント対象としての工作は受けたが、エージェントにされる前に急死し、情報収集対象者に留まったと思われる。
 したがって、読者自身が、関心を持った対象人物について、本資料集をもとに独自に調べ判定してもらいたい。
①秋山博(本資料集第 1 巻、あきやま ひろし、1922年―?)AKIYAMA Hiroshi について、筆者はこれまで『特殊部隊731』(三一書房、1956年)の著者「秋山浩」と推定し、石井四郎や福見秀雄とともに、「旧731部隊情報提供者」と推定し紹介してきた。
 ところが古書店から『特殊部隊731』を取り寄せて読んでみると、版元である三一書房の社長(当時)竹村一が、「この作品の信憑性について」と題する「解説」を寄せていて、「著者は、勇をふるえば本名発表をやる心境まで達したが、かつての同僚に何らかの形で迷惑が及ぶと言い、また彼らは、絶対に本名を出してくれるなと強く言うという。出版社としても、これ以上本名発表を迫ることができなかった。著者は、昭和3年12月秋田県に生る。中学年4生中退、昭和20年3月31日博多港より乗船、4 月6日平房に着く。敗戦の 8月23日船にて山口県萩市に、731部隊の生存者とともに帰還、同日萩市にて731部隊解散、その後職業を転々とし、現在東京に居住す。著者が内地へ帰還した翌月、731部隊の秘密厳守の訓令があったという。また、昭和23年の4月初めに、勤務先に、村の駐在巡査が来たという」とあり、1928年秋田県生まれの731部隊「秋山浩」は、筆名であることがわかった。無論、CIAが筆名のままで旧731部隊(細菌戦石井部隊)関係者を追いかけ工作対象とすることはありうるから、「秋山浩」である可能性は、ゼロではない。

  しかし、本資料集第 1 巻所収「秋山ファイル」を仔細に読んでみると、断片的だが、「1922年北海道生まれ」「1941年愛知県特高課チーフ、1944 年警視庁刑事部チーフ」で、占領下河辺虎四郎らの「地下日本政府」計画に関わり、1950年代は北海道のRadio Regulatory Bureau(RRB、無線通信規制委員会?)に勤務していた。そこで軍ないし細菌戦関係者ではなく内務省・警察関係者と見当をつけて、秦郁彦編『日本官僚制総合事典 1868―2000』(東京大学出版会、2001年)の戦前内務省関係者にあたると、111頁の警視庁刑事部長「秋山博 昭和19.8.2―昭和20.10.27」が AKIYAMA Hiroshi でありうることがわかった。731部隊の「秋山浩」よりは蓋然性が高いので、本資料集では、終戦時警視庁刑事部長「秋山博」と推定しておく。

②有末精三(第 1 巻、ありすえ せいぞう、1895年―1992年)は、北海道出身の陸軍軍人で最終階級は陸軍中将。1917年陸軍士官学校(29期)を優等で卒業し恩賜の銀時計を受けた。また、1924年陸軍大学校(36期)も優等で卒業し恩賜の軍刀を受けた。二・二六事件以後の軍内部での下克上の風潮が強まるなか、陸軍省軍務課長時代に、阿部内閣の実質的成立者であったといわれる。
 終戦後は渉外委員会委員長に就任し、GHQと陸軍との連絡役として働いた。有末は参謀本部第二部長であった敗戦前から諜報関係資料を秘密裏に収集しており、戦後にこれらをマッカーサーのもとで諜報を担当していた GHQ/G2チャールズ・ウィロビー少将に提出た。有末は、G 2 歴史課で参謀次長の河辺虎四郎中将や渡辺渡少将と協力し、東アジアおよび日本国内の共産主義者に対する諜報網を作ることをウィロビーに提案した(「タケマツ」作戦)が、この計画は嘘やでっち上げによる資金集めにすぎないと CIA に報告されている。
『有末精三回顧録』(芙蓉書房、1974年)、『政治と軍事と人事―参謀本部第二部長の手記』(芙蓉書房、1982年)、『ザ・進駐軍―有末機関長の手記』(芙蓉書房、1984年)、『終戦秘史 有末機関長の手記』(芙蓉書房出版、1987年)など参照。
③麻生達男(第 1 巻、あそう たつお、1910年―?)については、ウェブ情報などから、戦時モンゴル(蒙古)にあった陸軍西北学塾(蒙古司政官要員養成所)のモンゴル語講師らしいことしかわからなかった。多年蒙古工作を担当し蒙古事情に精通した興安(前王爺廟)特務機関長金川耕作大佐は、関東軍司令官梅津美治郎大将の諒解を得て、蒙古工作要員養成所の開設を決定し、西北学塾と名づけた。その「西北学塾歌」は、「作詞・森憲二 作曲・麻生達男」とされている。また戦後については、アジア経済研究所『アジア動向年報』などに麻生達男名の論文が散見されるほか、「モンゴル語の日本の第一人者」で創価大学中国研究会の初代顧問であったという断片的情報がある。
 本資料集の CIA麻生達男ファイルは充実しており、麻生達男の経歴と戦前・戦後の諜報活動との関わりを明らかにする。「1910 年大分県生まれ」「1932―34年蒙古軍通訳、1941-44年関東軍諜報部」などの経歴も得られた。コードネーム STBRANT 1が登場するインテリジェンス活動について、詳しくは、ファイルそのものを解読されたい。
④土肥原賢二(第1巻、どいはら けんじ、1883年―1948年)は、岡山県出身の陸軍軍人。最終階級は大将。謀略部門のトップとして満州国建国及び華北分離工作に中心的役割を果たした。
 1904年陸軍士官学校(16期)卒業、12年陸軍大学校(24期)卒業と同時に、参謀本部中国課付大尉として北京の板西機関で対中国工作を開始。板西機関長補佐官、天津特務機関長を経て1931年奉天特務機関長に就任。満州事変のさい、奉天臨時市長となる。同年11月、甘粕正彦を使って清朝最期の皇帝溥儀を隠棲先の天津から脱出させる。その後、華北分離工作を推進し、土肥原・秦徳純協定を締結。この結果、河北省に冀東防共自治政府を成立させた。土肥原は強硬な対中政策の推進者として昇進を重ね、「満州のローレンス」 と畏怖された。特務機関畑を中心に要職を歴任し、陸軍士官学校長も務めた。1945年4 月には陸軍教育総監務めた。
 敗戦後、極東国際軍事裁判(東京裁判)で A級戦犯となり、死刑判決を受け処刑される。
『秘録 土肥原賢二―日中友好の捨石』(土肥原賢二刊行会、芙蓉書房、1972年)。
⑤遠藤三郎(第 1巻、えんどう さぶろう、1893年―1984年)は、山形県出身の陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。1914年陸軍士官学校(26期)卒業、陸軍砲工学校高等科を優等で卒業し、軍重砲兵射撃学校教官などを経て、22年11月、陸軍大学校(34期)を優等で卒業した。フランス陸軍大学校に留学、1929年卒業。帰国後、参謀本部作戦参謀、関東軍作戦主任参謀、陸大教官、野戦重砲兵第5連隊長、参謀本部課長兼陸大教官などを歴任し、1937年航空兵大佐となった。大本営研究班長、浜松陸軍飛行学校付などを経て、1939年陸軍少将、第3飛行長、陸軍航空士官学校幹事などを歴任。1942年陸軍中将となり航空士官学校長、陸軍航空部総務部長、軍需省航空兵器総局長官などを歴任し、兵器産業の国営化と航空機の規格統一に尽力した。
 1947年から約 1年間、戦犯容疑により巣鴨拘置所に入所したが、その後、埼玉県の航空士官学校跡地に入植、農業に従事しながら、護憲運動と反戦運動に参加。1953年には片山哲首相とともに憲法擁護国民連合結成に参加した。1959年参議院議員通常選挙に全国区から所属で立候補したが落選した。親中派として知られ、日中友好に貢献。『日中十五年戦争と私―国賊・赤の将軍と人はいう』(日中書林、1974年)、宮武剛『将軍の遺言―遠藤三郎日記(毎日新聞社、1986年)。

⑥福見秀雄(第1巻、ふくみ ひでお、1914年―1998年)は、愛媛県出身、東京帝大医学部卒の微生物学者で、731部隊関連施設「陸軍軍医学校防疫研究室」に1944年から終戦直後まで所属したといわれる。1947年創設の国立予防衛生研究所細菌部長を経て、53年所長。1955年長崎大学長。腸炎ビブリオを発見、インフルエンザ・ワクチンの開発、集団接種などに力をそそいだ。著書に『免疫―ワクチンというもの』(中公新書、1966年)、『ウイルス学入門』(岩波全書、1977年)、『社会のなかの感染症』(日本評論社、1982年)など多数。ただし、CIA 福見ファイルは、わずか 頁の断片で、CIAが彼に注目していた以上のことはわからない

⑦五島慶太(第1 巻、ごとう けいた、1882年―1959年)は、長野県出身の実業家。1911年東京帝国大学卒業後、農商務省・鉄道員官僚を勤めたのち、現在の東急東横線の前身である武蔵野電気鉄道常務に就任。実質的な経営権を獲得し、池上電気鉄道や玉川電気鉄道をはじめとする数々の競合企業を乗っ取る形で次々と買収。その強引な手口から「強盗慶太」の異名をとった。
 鉄道事業では阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)の小林一三と並び、「西の小林、東の五島」と称された。『私の履歴書 経済人』(日本経済新聞社、1980年)、早川隆『日本の上流社会と閥』(角川書店、1983年)、五島慶太『事業をいかす人』(有紀書房、1958年)、猪瀬直樹『土地神話』(小学館、1988年)、坂西哲『東急・五島慶太の経営戦略』(文芸社、2001年)、中村建治『メトロ誕生―地下鉄を拓いた早川徳次と五島慶太の攻防』(交通新聞社、2007年)、北原遼三郎『わが鐵路、長大なり 東急・五島慶太の生涯』(現代書館、2008年)、など。

⑧服部卓四郎(第2巻、はっとり たくしろう、1901年―1960年)は、山形県出身の陸軍軍人、最終階級は陸軍大佐。陸軍士官学校(34期)、陸軍大学校(42期)を卒業。参謀本部に勤務、フランス留学、帰国後1939年ノモンハン事件では、関東軍作戦主任参謀として作戦の積極拡大を作戦参謀の辻政信とともに主張したが、ソ連軍の大規模攻勢によって日本軍は大打撃を被った。1940年参謀本部作戦課、41年作戦課長に就任した。1942年からは陸相秘書官英機のもとで務めたが、翌年作戦課長に復帰し、大陸打通作戦の立案を主導した。
  終戦後は、参謀本部時代の経験と知識を買われ、第一復員庁史実調査部長(のちに資料整理部長)となった。GHQ 参謀第2部(G2 )部長チャールズ・ウィロビーの下でマッカーサーによる太平洋戦争の戦史編纂に協力した。1948年末、ウィロビーは G 2 歴史課を中心に裏の業務として日本再軍備の研究を託し、「服部機関」が発足した。のちに創設される警察予備隊の幕僚長には服部か旧内務省官僚のどちらを任命するのかで意見が分かれ、ウィロビーらG2が服部を推したのに対して、民政局長のホイットニー准将や首相吉田茂、吉田に進言た辰巳栄一元中将などが反対し、服部の幕僚長就任は実現しなかった。服部ら陸軍将校が執筆した全4巻からなる「大東亜戦争全史」は1953年に出版された。1952年10月31日付のCIA文書によると、児玉誉士夫の支援を受けた服部ら旧陸軍将校は、自由党の吉田首相が公職から追放された者や国粋主義者らに敵対的な姿勢をとっているとして、同首相を暗殺して民主党の鳩山一郎を首相に据える計画を立てていた。『大東亜戦争全史』(全8巻、鱒書房1953年~1956年)、有馬哲夫『大本営参謀は戦後何と戦ったのか』(新潮新書、2011年)、阿一『秘録・日本国防軍クーデター計画』(講談社、2013年)。

⑨東久邇稔彦(第2 巻、ひがしくに なるひこ、1887年―1990年)は、日本の旧皇族、陸軍軍人・陸軍大将。貴族院議員、陸軍航空本部長(第10代)、防衛総司令官(第43代)、内閣総理大臣(第43代)、陸軍大臣(第34代)などを歴任、戦後は世界連邦建設同盟(現世界連邦運動協会誉会長、第2代会長。
 第二次世界大戦後、敗戦の責任を取り辞職した鈴木貫太郎の後を継いで首相に就任し、憲政史上最初で最後の皇族内閣を組閣、連合国に対する降伏文書の調印、陸海軍の解体、復員の処理を実施した。「一億総懺悔」を唱え、国内の混乱を収めようとしたが、歴代内閣在任最短期間の54日で総辞職した。首相辞任後、1946年に東久邇宮は「宮内庁の某高官」として昭和天皇退位論をAP通信記者に述べた。すでに戦犯裁判における昭和天皇免責を決定していた GHQ では、東久邇の退位論が天皇の責任問題につながりかねないとして警戒し、日本政府および宮中と連絡してこれに対応した。1947年皇籍を離脱し、以後は「世界連邦建設盟」(現世界連邦運動協会)を創設したり、禅宗系の新宗教団体「ひがしくに教」を開教したりした。
 1960(昭和35)年、60年安保闘争時には、石橋湛山、片山哲とともに3元首相の連名せ時の首相・岸信介に退陣を勧告した。東久邇稔彦『一皇族の戦争日記』(日本週報社、1957年)
東久邇稔彦『やんちゃ孤独』(読売新聞社、1955年)、東久邇宮稔彦王『私の記録』(東方書房1947年)、長谷川峻 『東久邇政権・五十日 終戦内閣』(行研出版局、1987年)など。
⑩昭和天皇・裕仁(第2巻、しょうわてんのう・ひろひと、1901年―1989年)は、歴代天皇の中で在位期間が最も長く(約62年)、最も長寿であった。大日本帝国憲法の下では「國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬」する立憲君主制における天皇として、終戦の国策決定などに深く関与した。
1947年に施行された日本国憲法の下では「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」である天皇として「国政に関する権能を有しない」ものとされた。しかし占領期には GHQ 総司令官ダグラス・マッカーサーとの会見などで、独自の政治的影響力を保持した。主権回復後には、象徴天皇として皇室外交を行った。また、天皇としての公務の傍ら生物学を研究した。
 参考文献はあまりに多すぎるので、本資料集との関係では、加藤哲郎『象徴天皇制の起源―アメリカの心理戦「日本計画」』(平凡社新書、2005年)参照。

⑪今村均(第 2 巻、いまむら ひとし、1886年―1968年)は、宮城県出身の陸軍軍人。陸軍大学校(19期)を首席で出て、1935年歩兵第40旅団長、36年関東軍参謀副長兼満州駐在武官、38年兵務局長・第5師団長、40年教育総監部本部長、41年第23軍司令官、42第8方面軍司令官、最終階級は陸軍大将。
 1945年、8方面軍司令官の責任を問われたオーストラリア軍による裁判で一度は死刑にされかけたが、現地住民などの証言などもあり禁錮10年で判決が確定した。1949年巣鴨拘置所に、54 年戦犯釈放。『今村均回顧録』(芙蓉書房出版、1993年)、土門周平『陸軍大将・今村均』(PHP 研究所、2003年)、角田房子『責任 ラバウルの将軍 今村均』(新版ちくま文庫、2006年)、秋永芳郎『陸軍大将今村均―人間愛をもって統率した将軍の生涯』(光人社文庫、2003年)、日下公人『組織に負けぬ人生 不敗の名将・今村均大将に学ぶ』(PHP 研究所、2003年)、葉治英哉『今村均 信義を貫いた不敗の名将』(PHP 研究所、1999年)。
⑫石井四郎(第2巻、いしい しろう、1892年―1959年)は、千葉県出身の陸軍軍人・軍医、細菌兵器作成731部隊長。最終階級は陸軍軍医中将。関東軍防疫給水部長、第1軍軍医部長を歴任する。731部隊の創設者として防疫活動に従事した。1920年京大医学部卒・医学博士、陸軍軍医、30年陸軍軍医学校教官、32年東郷部隊長(背陰河)・石井部隊(731部隊)長・軍医中将、39年ノモンハンで細菌戦指揮、40年寧波細菌戦(ペスト菌散布)指揮、42年チェーガン細菌戦(ペストノミ散布)指揮、45年731部隊長(再任)・対ソ細菌戦準備。
 1945 年敗戦時、平房から逃走、46年初頭に尋問(A.T. トンプソン獣医中佐)、47年5月以降に再尋問(フェル、ヒル)されるが戦犯訴追なし。戦後、石井は GHQ と交渉して731部隊関係者の戦犯免責を実現させた。新宿区内で医院を開業し、晩年にはキリスト教に入信したという。森村誠一『悪魔の飽食 新版』(角川文庫、1983年)、常石敬一『七三一部隊 生物兵器犯罪の真実』(講談社現代新書、1995年)、ハル・ゴールド『証言・731部隊の真相―生体実験の全貌と戦後謀略の軌跡』(廣済堂出版、1997年)、青木冨貴子『731 石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』(新潮社、2005年)。




(以下は脱字他未補正)

⑬河辺虎四郎(第 2 巻、かわべ とらしろう、1890年―1960年)は、富山県出身の陸軍軍人で最終階級は陸軍中将。陸軍士官学校24期生、陸軍大学校33期を恩賜で卒業。1938年ドイツ駐在官、39年参謀本部付、40年第7 飛行団長、41年防衛総参謀長・航空本部総務部長、4
飛行師団長・第 2 航空軍司令官、45年 4 月参謀次長で敗戦を迎え、連合国と会談するた
権としてマニラに赴く。1948年連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)参謀2 部のチャ
ズ・ウィロビーに接近し G 2 歴史課で特務機関「河辺機関」を結成。辰巳栄一らも関わる。
河辺機関への GHQ からの援助は1952年で終了したため、要員たちは保安隊に潜り込まさ
た。『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ 最後の参謀次長の回想録』(時事通信社、1962年、のちに『河辺虎四郎回想録 市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』毎日新聞社、1979年、と改題して再刊)、河邊虎四郎文書研究会編『承詔必謹 陸軍ハ飽マデ御聖断ニ従テ行動ス』(国書刊行会、2005年)
⑭賀屋興宣(第 3 巻、かや おきのり、1889年―1977年)は、広島県出身の大蔵官僚、政治家。第一高等学校、東京帝国大学法科大学政治学科卒。大蔵省に入省し、主に主計畑を進んだ。いわゆる革新官僚の一人と目され、1937年第一次近衛内閣で大蔵大臣、41年太平洋戦争開戦の東条内閣で再び大蔵大臣を務めて、戦時経済を担当した。
 戦後A級戦犯として極東国際軍事裁判で終身刑となり、約10年間巣鴨拘置所に服役、
1955 年仮釈放。同年総選挙に旧東 3 区から立候補し当選(以後 5 回連続当選)。岸信
の経済顧問や外交調査会長として安保改定に取り組んだほか、池田内閣の法務大臣、自民党政調会長などを歴任、自由民主党右派・タカ派の政治家として著名。1972年政界引退。アメリカ共和党や CIA、中華民国蔣介石政権に広い人脈を持ち、日本遺族会初代会長など国際反共主義勢力、自民党、右翼を結ぶフィクサーとして、国内外の右翼人脈を築いた。『銃後の財政経済』(河出書房、1937年)、『戦時下の経済生活』(今日の問題社、1938年)、『長期戦と経済報国』(朝日新聞社、1938年)、『転換期日本の財政と経済』(朝日新聞社、1940年)、『精神・
体・家計』(大政翼賛会宣伝部、1943年)、『戦前・戦後八十年』(経済往来社、1976年)、賀屋
雄・賀屋和子編『渦の中 賀屋興宣遺稿抄』(私家版、1979年)、宮村三郎『評伝賀屋興宣』(おりじん書房、1977年)など。
⑮岸信介(第3巻、きし のぶすけ、1896年―1987年)は、山口県出身の政治家、官僚。東京帝国大学法学部卒業後、農商務省に入省、同省廃止後は商工省で要職を歴任した。満州国総務庁次長として「満州開発五ヵ年計画」などを手がけた。東条内閣では商工大臣として入閣、のち無任所国務大臣となった。
 戦後A級戦犯被疑者として逮捕されるが、不起訴となり公職追放。公職追放解除後に政界に復帰、衆議院議員( 期)。保守合同で自由民主党が結党されると幹事長、石橋内閣外務大臣(第86・87代)、石橋湛山の病気で内閣総辞職すると後任の内閣総理大臣(第56・
代)に指名され、日米安全保障条約改定を行った。戦前は「革新官僚」の筆頭格として軍部から嘱望され、戦後もA級戦犯被疑者から60年安保改定時の首相となり、首相退任後も影響力を行使し、自主憲法制定運動を進めて「昭和の妖怪」と呼ばれた。第61―63代内閣総理大臣佐藤栄作は実弟、第90・第96代内閣総理大臣安倍晋三は外孫。『日本戦時経済の進む
途』(研進社、1942年)、『岸信介の回想』(文藝春秋、1981年)、『岸信介回顧録―保守合同と
保改定』(廣済堂出版、1983年)、『岸信介証言録』(原彬久によるインタビュー、毎日新聞社、2003年)、岸信介伝記編纂委員会編『人間岸信介波瀾の九十年』(岸信介遺徳顕彰会、1989年)。岩川隆『巨魁 岸信介研究』(ダイヤモンド社、1977年)、岩見隆夫『昭和の妖怪 岸信介』(朝日ソノラマ、1994年)、大日向一郎『岸政権・一二四一日』(行研、1985年)、工藤美代子『絢爛悪運 岸信介伝』(幻冬舎、2012年)、原彬久『岸信介―権勢の政治家』(岩波新書、1995年)
春名幹男『秘密のファイル―CIA の対日工作(上下)』(共同通信社、2000年)、ティム・ワイナー『CIA 秘録(上下)』(文藝春秋、2008年)など参照。
⑯小宮義孝(第3巻、こみや よしたか、1900年―1976年)は、埼玉県出身の寄生虫学者、戦後、国立予防衛生研究所長。1925年東京帝国大学医学部卒、同衛生学教室助手時代に国崎定洞
影響を受けて社会医学を志す。1931年上海自然科学研究所に入所、寄生虫を研究。1932年、医学博士(東京帝国大学)。
 戦後は1949年群馬大学医学部教授、66年国立予防衛生研究所長。1964年 8 回野口
念医学賞を受賞。戦前はマルクス主義者で、戦後も早くから中華人民共和国をたびたび訪れた。『日本プロレタリア編年史』(同人社書店、1931年)、『城壁 中国風物誌』(岩波新書、194
年)、『新中国風土記 上海自然科学研究所のことども』(メヂカルフレンド社、1958年)、曽
長宗・国井長次郎編『小宮義孝《自然》遺稿・追憶』(土筆社、1982年)。
⑰久原房之助(第 3 巻、くはら ふさのすけ、1869年―1965年)は、山口県出身の実業家、政治家
衆議院議員当選5回、逓信大臣、内閣参議、大政翼賛会総務、立憲政友会(久原派)総裁などを歴任。日立製作所、日産自動車、日立造船、日本鉱業創立の基盤となった久原鉱業所(日立銅山)など久原財閥の総帥として「鉱山王」の異名を取った。権謀術数を用いて、義兄の鮎川義介とともに「政界の黒幕・フィクサー」と呼ばれ、右翼に資金を提供して二・二六事件に深く関与した。
 戦後はA級戦犯容疑者となり公職追放、日中・日ソ国交回復議長などを務めた。戦犯容疑が不起訴となり、公職追放解除後、1952年総選挙で衆議院議員に当選し1 期つとめ、
義塾評議員会最高顧問を務めた。古川薫『惑星が行く 久原房之助伝』(日経 BP 社、2004年)。
⑱前田稔(第3巻、まえだ みのる、1895年―?)は、鹿児島県出身の海軍軍人。海軍兵学校4
恩賜組、1940年軍令部第3 部長兼大本営報道部長、42年第24航空戦隊司令官、4
官・中将、44年南京政府軍事顧問、5年 3 月第10航空艦隊司令長官・八雲艦長。
時にバタビア在勤武官でインドネシア独立宣言に関わった前田精・海軍少将。
 各種人名事典から得られる前田稔情報は、以上の軍歴ぐらいであるが、CIA の前田稔ファイルからは、彼が1895年生まれであることのほか、旧陸軍関係者の多い戦後日本の諜報史
なかで、前田稔ら旧海軍関係者が「タケマツ作戦」など反共活動、中国内戦・台湾国民党や朝鮮戦争にいかに関わったかが語られ、CIA によって記録されている。
⑲野村吉三郎(第3巻、のむら きちさぶろう、1877年―1964年)は、昭和初期に活躍した和歌県出身の海軍軍人、外交官、政治家。国際法の権威として知られ、阿部内閣で外務大臣を務めたのち、第二次近衛内閣のとき駐米大使に任じられ、真珠湾攻撃の日まで日米交渉にあたった。1926年軍令部次長、呉・横須賀鎮守府司令長官などを歴任、39年阿部信行内閣では外相就任、41年に駐米大使。ルーズベルトとは旧知ということで期待され、真珠湾攻撃の前にハル国務長官と最後の会談を持った。抑留者交換船でニューヨークから日本に戻り、帰国後は枢密顧問官となり、そのまま終戦を迎える。
  終戦後の1946年公職追放となるが、アメリカ対日協議会は積極的に野村に近づき、定期
に食料や煙草を送り、経済的に苦しい野村の便宜を図ったという。追放解除後、吉田茂の要請で再軍備問題の調査にあたり、海上自衛隊の前身、海上警備隊創設に関わる。1954年補欠選挙に出馬・当選し参議院議員となり、自由民主党で防衛政策を担当した。党外交調査会会長、参議院議員会長も歴任した。1953年日本ビクター社長。『米國に使して 日米交の回顧』(岩波書店、1946年)、『アメリカと明日の日本』(読売新聞社、1947年)、中山定義海軍士官の回想 開戦前夜から終戦まで』(毎日新聞社、1981年)、豊田穣『悲運の大使野村吉三郎』(講談社、1992年)、尾塩尚『駐米大使野村吉三郎の無念 日米開戦を回避できなかった男たち』(日本経済新聞出版社、1994年)、など参照
⑳児玉誉士夫(第 巻、こだま よしお、1911年―1984年)は、福島県出身の右翼運動家。京
業専門学校を卒業した後、さまざまな右翼団体を転々、玄洋社の頭山満に私淑した。満州に渡り、外務省情報部長河相達夫の知遇を得て、1938年海軍嘱託、41年から上海で児玉機関
運営し黒幕に。上海児玉機関は、タングステンやラジウム、コバルト、ニッケルなどの戦略物資を買い上げ、海軍航空本部に納入し巨額の富を得た。
 終戦後、児玉は児玉機関が管理してきた旧海軍の在留資産をもって上海から引き揚げ、この秘密資金の一部は鳩山自由党の結党資金となった。1946年A級戦犯の疑いで占領軍に捕され、巣鴨拘置所に送られた。アメリカは協力的な戦犯は反共のために利用する「逆コース」を採り、1948年末に釈放された児玉は、当初は GHQ/G2 に、やがて中央情報局 CIA協力するようになったといわれる。1955年の自由民主党結成以来、首相決定の裏方などくフィクサーとして君臨した。1965年の日韓国交回復にも積極的な役割を果たし、しばし訪韓して朴政権要人と会い利益を得た。1958年から米国ロッキード社の秘密代理人として本政府に同社戦闘機を選定させる工作をしていた。1976年、ロッキード事件の中心人物の一人となったが、病気を理由に詳しい供述を残さずそのまま没した。『われ敗れたり』(協友社、1949年)、『悪政・銃声・乱世』(広済堂出版、1974年)、『獄中獄外』(広済堂出版、1974年)
れかく戦えり』(広済堂出版、1975年)のほか、有馬哲夫『児玉誉士夫 巨魁の昭和史』(文
新書、2013年)など参照。
㉑緒方竹虎(第 ・ 6巻、おがた たけとら、1888年―1956年)は、山形県出身のジャーナリス
政治家。朝日新聞社副社長・主筆、国務大臣、情報局総裁、内閣書記官長、内閣官房長官、
副総理などを歴任。東京高等商業学校(現在の一橋大学)に進学したが早稲田大学専門部に編入し1911年卒業、頭山満の玄洋社に出入りした。中野正剛に誘われ大阪朝日新聞社に入社、1923年東京朝日新聞社整理部長・政治部長、24年支那部長兼務、25年、37歳で東京朝日社編集局長兼政治部長兼支那部長、28年取締役、34年東京朝日新聞社主筆・常務取締役。

日新聞社退社後、小磯内閣に国務大臣兼情報局総裁として入閣、蔣介石の重慶国民政府を相手とする繆斌和平工作に関わったとされる。
 1945年鈴木貫太郎内閣顧問時に終戦、東久邇内閣で国務大臣兼内閣書記官長兼情報局

に就任、しかし内閣総辞職後A級戦犯容疑者に指名され1946年公職追放。1947年戦犯解除、51年追放解除で、52年衆議院議員選挙で福 1 区から出馬、中野正剛の地盤を
ぎ当選。第4次吉田内閣で当選 回ながら国務大臣兼内閣官房長官さらに副総理に任命され1953年の第 5 次吉田内閣でも副総理に就任し、自由党総裁の後継者と見なされた。緒方は
界復帰前の1952年、吉田茂・村井順とともにアメリカ CIA、イギリス MI 5 、MI6 など
考に内閣官房に調査室を設立、これが内閣調査室になり、いわゆる日本版 CIA 新設構想は
国会や外務省、世論の激しい批判を浴びた。
  日本版 CIA 構想で緒方を高く評価したアメリカ CIA は、1955 年日本の保守合同を急
考え、鳩山の後継総理大臣候補に緒方を期待し「POCAPON(ポカポン)」工作を行ったが、
緒方は自由民主党総裁公選を前に急死、CIA は政治工作対象を賀屋興宣や岸信介に切り替
えていく。『人間 中野正剛』(鱒書房、1951年)、桜井清編『回想の緒方竹虎』(東京と福岡社、1956年)、高宮太平『人間緒方竹虎』(四季社、1958年)、嘉治隆一『緒方竹虎』(時事通信、1962年)、緒方竹虎伝記刊行会編『緒方竹虎』(朝日新聞社、1963年)、三好徹『評伝緒方竹虎 
激動の昭和を生きた保守政治家』(岩波書店、1988年)、栗田直樹『緒方竹虎 情報組織の主宰
者』(吉川弘文館、1996年)、緒方四十郎『遙かなる昭和 父・緒方竹虎と私』(朝日新聞社、2005年)、今西光男『新聞資本と経営の昭和史 朝日新聞筆政・緒方竹虎の苦悩』(朝日新聞社、2007年)、同『占領期の朝日新聞と戦争責任 村山長挙と緒方竹虎』(朝日新聞社、2008年)。
 なお、筆者らの緒方ファイルの研究は、吉田則昭『緒方竹虎と CIA アメリカ公文書が語る保守政治家の実像』(平凡社、2012年)、参照。
㉒大川周明(第7巻、おおかわ しゅうめい、1886年―1957年)は、山形県出身の思想家。1918
東亜経済調査局・満鉄調査部に勤務し、20年拓殖大学教授を兼任、38年法政大学教授大陸部
(専門部)部長となる。近代日本の西洋化に対決し、精神面では日本主義、内政では統制経済、
外交ではアジア主義を唱道した。
 東京裁判で民間人として唯一 A 級戦犯の容疑で起訴されたが、精神障害と診断され裁かれなかった。晩年はコーラン全文を翻訳するなどイスラム研究で知られる。戦前日本史を概観した『日本二千六百年史』(1939年)はベストセラーとなった。『復興亜細亜の諸問題』(大
鐙閣、1922年)、『日本及日本人の道』(行地社出版部、1926年)、『特許植民会社制度研究』(東京
寶文館、1927年)、『日本精神研究』(文録社、1930年)、『日本二千六百年史』(第一書房、1939年)、
『米英東亜侵略史』(第一書房、1941年)、『亜細亜建設者』(第一書房、1941年)、『回教概論』
應書房、1942年)、『大東亜秩序建設』(第一書房、1943年)、『大川周明全集』(岩崎学術出版
全 巻、1961年―74年)。臼杵陽『大川周明 イスラームと天皇のはざまで』(青土社、2010年
玉居子精宏『大川周明 アジア独立の夢』(平凡社新書、2012年)など参照。
㉓笹川良一(第7巻、ささがわ りょういち、1899年―1995年)は、大阪府出身の国家主義政治活動家、右翼活動家。国粋大衆党総裁、衆議院議員、財団法人日本船舶振興会(現公益財団法人日本財団)会長、勲一等旭日大綬章受章者。第二次世界大戦前の笹川はムッソリーニを崇拝し、右翼運動の大衆化をめざした。1931年国粋大衆党を結成、強硬外交を主張した。戦後はファシスト、右翼、政財界の黒幕として扱われた。
 第二次世界大戦後、A級戦犯容疑者の指定を受け巣鴨拘置所に 年間収監されるが、
ちに不起訴により釈放される。巣鴨時代に書かれた日記や戦犯者及びその家族との書簡は、
笹川の没後に公表された。出所後は社団法人全国モーターボート競走会連合会(全モ連)の設立に関与、モーターボート競走の収益金で造船の振興をすすめ、財団法人日本船舶振興会(現公益財団法人日本財団)を創設した。『対米戦争怖るゝに足らず 』(国防社、1941年)、桜
一郎編『笹川良一の見た巣鴨の表情―戦犯獄中秘話』(文化人書房、1949年)、伊藤隆・渡邊
校訂『巣鴨日記』(中央公論社、1997年)、佐藤誠三郎『笹川良一研究 異次元からの使者』(中央公論社、1998年)、佐藤誠三郎『正翼(ザ・ライト・ウイング)の男―戦前の笹川良一語録』(中央公論新社、1999年)、伊藤隆編『続・巣鴨日記 笹川良一と東京裁判』 ―3 ・別巻(公論新社、2007―10年)、伊藤隆『評伝 笹川良一』(中央公論新社、2011年)、山岡荘八『破天荒人間笹川良一』(有朋社、1978年)、工藤美代子『悪名の棺 笹川良一伝』(幻冬舎、2010年)、鎌田慧『ルポ 権力者』(講談社文庫、1993年)など。
㉔重光葵(第7巻、しげみつ まもる、1887年―1957年)は、大分県出身の外交官・政治家。東帝国大学法学部を卒業して外務省に入省、在ドイツ・在英公使館書記官、在シアトル領事を経て、1930年駐華公使、満州事変後の上海停戦協定に署名、その後、駐ソ公使、駐英大使を歴任、東条英機内閣・小磯国昭内閣で外相。
 1945年敗戦直後に組閣された東久邇稔彦内閣で外相に再任、大日本帝国政府全権とし
伏文書に署名、46年 A 級戦犯として起訴され有罪・禁固7 年の判決を受けた。1950
放され、講和条約発効、公職追放解除後は衆議院議員に 回選出された。改進党総裁・日
民主党副総裁を務め、1955年保守合同による自由民主党の結党に参加、鳩山一郎内閣で 4
目の外務大臣を務めた。『重光葵著作集( )』(原書房、1978年)、『重光葵 外交回想録』(
公文庫、2011年)、『巣鴨日記(正・続)』(文藝春秋新社、1953年)、『重光葵手記』(伊藤隆・渡
行男編、中央公論社、1986年)、『続 重光葵手記』(伊藤隆・渡辺行男編、中央公論社、1988年)、
『重光葵 最高戦争指導会議記録・手記』(伊藤隆・武田知己編、中央公論新社、2004年)、『重葵・外交意見書集(全 巻)』(武田知己監修、重光葵記念館編、現代史料出版、2007、08、10年)、豊田穣『孤高の外相 重光葵』(講談社、1990年)、渡辺行男『重光葵 上海事変から国連加盟まで』(中公新書、1996年)、岡崎久彦 『重光・東郷とその時代』(PHP、2001年 月)、福冨
一『重光葵 連合軍に最も恐れられた男』(講談社、2011年)、武田知己『重光葵と戦後政治』
(吉川弘文館、2002年)、浅野豊美『帝国日本の植民地法制―法域統合と帝国秩序』(名古屋大学出版会、2008年)など参照。
㉕下村定(第7巻、しもむら さだむ、1887年―1968年)は、高知県出身の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍大将。陸軍大臣(第56・57代)、教育総監(第27代)、参議院議員1期)
歴任した。陸軍士官学校第20期卒業、陸軍大学校第28期を首席で卒業、第二次世界大戦終戦時は満州におり、東久邇内閣で陸軍大臣、続く幣原喜重郎内閣でも留任して日本最後の陸軍大臣となった。1959年参院選に全国区から自由民主党公認で出馬、当選して参議院議員を
期務めた。1968年、東京都でバスに轢かれ交通事故死。
㉖小野寺信(第8巻、おのでら まこと、1897年―1987年)は、岩手県出身の陸軍軍人、翻訳家。
最終階級は陸軍少将。1919年陸軍士官学校(31期)を卒業、陸軍歩兵少尉に任官し、歩兵第29連隊付、28年陸軍大学校(40期)卒業、歩兵第29連隊中隊長。1930年陸軍歩兵学校教官
陸大教官、参謀本部付(北満駐在)、参謀本部々員などを経て、34年陸軍歩兵少佐、35年
ビア公使館付武官、37年エストニア・リトアニア公使館付武官・陸軍歩兵中佐、38年参謀本部々員となり、中支那派遣軍司令部付で上海小野寺機関長として活動、39年陸大教官・陸軍歩兵大佐。1940年スウェーデン公使館付武官として欧州で諜報活動、43年陸軍少将。小
の送った機密情報は「ブ情報」と呼ばれ、戦時海外からの貴重な情報源となった。大戦最末期にはヤルタ会談後にソ連がドイツ敗戦 か月後に対日宣戦するとの米ソ密約情報を日本
送ったとされる。
 1946年日本に帰国復員、戦争犯罪人として一時巣鴨拘置所に拘留された。戦後は主に妻百合子とともにスウェーデン語の翻訳業に従事する傍ら、スウェーデンの文化普及活動に努めた。最晩年の『NHK 特集 日米開戦不可ナリ ストックホルム・小野寺大佐発至急電』で小野寺の大戦中の諜報活動に照明が当てられ、佐々木譲の小説『ストックホルムの密使』(新潮社、1994年)でも小野寺の終戦工作が扱われた。エレン・ケイ『恋愛と結婚』(岩波文庫上下、1977年、百合子夫人と共訳)、小野寺百合子『バルト海のほとりにて―武官の妻の大東亜戦争』(共同通信社、1985年)、岡部伸『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤
な戦い』(新潮社、2012年)、吉見直人『終戦史 なぜ決断できなかったのか』(NHK 出版、
2013年)など参照。
㉗正力松太郎(第9巻、しょうりき まつたろう、1885年―1969年)は、富山県出身の警察官僚
実業家、政治家。元読売新聞社社主。日本におけるプロ野球の父、テレビ放送の父、原子力発電の父とも呼ばれる。東京帝国大学法科大学卒で内務省に入り、警視庁警務部長として関東大震災時の治安維持にあたったが、虎の門事件で引責辞職、経営難の読売新聞を買い受けて社長に就任、新聞界に転じた。以後、政財界に影響力を拡大。1940年の開戦時は大政翼会総務。
 A級戦犯指名で逮捕されたが起訴はされず、巣鴨拘置所に収容され公職追放処分を受けた。
 戦後は日米野球興行など野球界でも活躍したが、一方で長期にわたり CIAへの協力を行っていたことが、IWG文書公開の早くから注目された。『正力松太郎 悪戦苦闘』(日本図書センター、1999年)、佐野眞一『巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀』(文藝春秋、1994年)
柴田秀利『戦後マスコミ回遊記』(中央公論社、1985年)、春名幹男『秘密のファイル CIA
対日工作』(上下、共同通信社、2000年)、神松一三『「日本テレビ放送網構想」と正力松太郎』
(三重大学出版会、2005年)、有馬哲夫『日本テレビと CIA 発掘された「正力ファイル」』(新
社、2006年)、有馬哲夫『原発・正力・CIA 機密文書で読む昭和裏面史』(新潮新書、2008年)、
有馬哲夫『昭和史を動かしたアメリカ情報機関』(平凡社新書、2008年)、有馬哲夫『CIA と戦後日本』(平凡社新書、2010年)など参照。
㉘辰巳栄一(第10巻、たつみ えいいち、1895年―1988年)は、佐賀県出身の陸軍軍人。最終階
は陸軍中将。1915年陸軍士官学校(27期)、25年陸軍大学校(37期)を優等で卒業し、歩
21連隊中隊長に就任。1926年教育総監部課員を経て28年臨時第 師団参謀を務め山東出兵
出動、30年イギリス駐在歩兵少佐に昇進、イギリス大使館付武官補佐官、関東軍参謀兼満州国大使館付武官補佐官、参謀本部員を歴任し34年歩兵中佐、35年第 5 師団参謀に就任し
リス大使館付武官、37年歩兵大佐、38年参謀本部課長を経て39年イギリス大使館付陸軍武官(当時の大使が吉田茂)。1940年陸軍少将、太平洋戦争開戦に伴い42年交換船でイギリスか
国、42年東部軍参謀長、43年陸軍中将、45年第12方面軍参謀・第 3 師団長で中国
鎮江で終戦を迎えた。1946年 5 月復員
 戦後占領期は G 2 歴史課の旧軍「河辺機関」に加わった。吉田茂の軍事顧問として警察予備隊の結成・幹部人選に関わり、今日の自衛隊の基礎を作った。CIAの協力者「POLESTAR―5」として内閣調査室(現在の内閣情報調査室)や自衛隊設置に関わる資料をアメリカ政府に流していたといわれる。1975年から78年まで偕行社会長。有馬哲夫『大本営参謀は
後何と戦ったのか』(新潮新書、2010年)、湯浅博『歴史に消えた参謀 吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一』(産経新聞社、2011年)。
㉙和知鷹二(第10巻、わち たかじ、1893年―1978年)は、広島県出身の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。1914年陸軍士官学校(26期)卒業・歩兵少尉、22年陸軍大学校(34期)卒業、第 連隊中隊長となり、参謀本部付勤務、参謀本部員(支那課)、参謀本部付(支那研究員
南支駐在)、第 師団司令部付(済南特務機関)、済南駐在武官などを歴任し、29年歩兵少佐
第63連隊大隊長。参謀本部員、関東軍参謀、広東駐在武官などを経て、1933年歩兵中佐。
1934年参謀本部員・支那駐屯軍司令部付(太原機関長)を経て、36年支那駐屯軍参謀とし日中戦争出征、37年歩兵大佐に昇進し歩兵第44 連隊長。1938年台湾軍司令部付(特務工作参謀本部付(特務工作)、大本営付(蘭機関長)、第21軍司令部付兼中支那派遣軍司令部付、支那派遣軍総司令部付を経て、40年陸軍少将・参謀本部付となり、台湾軍参謀長兼台湾軍研
部長として太平洋戦争を迎えた。1942年第14軍参謀長に就任し、フィリピン・バターン
に参加し、兼比島軍政監、43年陸軍中将、44年南方軍総参謀副長、第35軍参謀長へ
イテ島の戦いで敗退。南方軍総司令部付となり、南方軍総参謀副長兼南方軍交通隊司令官を経て、中国憲兵隊司令官として終戦を迎えた。
 1946年戦犯容疑(橘丸事件)で逮捕され巣鴨拘置所に拘留。1948年、重労 6 年の
受け50年に仮釈放された。依光裕『一所懸命 土佐に生きて』(高知新聞社、2007年)参照
㉚和智恒蔵(第10巻、わち つねぞう、1900年―1990年)は、海軍軍人で僧侶。最終階級は海軍大佐で、硫黄島海軍警備隊司令。1922年海軍兵学校(50期)卒業、海軍大学校選科学生のと
に東京外国語学校にてスペイン語を学んだ。1931―32年海軍通信学校高等科学生、「大泊」
航海長、「那珂」通信長などを歴任、34年第三艦隊付で上海に駐在し特務機関に勤務。そ
後、東京無線電信所付兼軍令部出仕(大和田傍受所長)、東京通信隊分隊長兼軍令部出仕、練習艦隊参謀など。1940年メキシコ公使館付海軍武官補佐官になり、L 機関長として諜報活
を行った。太平洋戦争開戦後の42年にニューヨークに呼び集められ交換船で野村吉三郎ともに帰国した。帰国後は軍令部第 4 部第 課員として各地の司令部を回りアメリカ情勢を
説、1944年硫黄島警備隊司令になり大佐に昇進した後、横須賀鎮守府付として内地に転
いったん帰国・休養後、南西方面艦隊司令部付となり、フィリピン大使館付武官を経て、
年海軍水雷学校教官として長崎県に赴任、 月より第 5 特攻戦隊第32突撃隊司令に転任し鹿児島で本土決戦に備えた。
 終戦を迎えると残務整理にあたる。1946年巣鴨拘置所に拘禁された。戦争から生還したとに責任を感じて出家し、天台宗の僧侶になる。硫黄島協会を設立して慰霊と遺骨収集に生涯を捧げた。上坂冬子『硫黄島いまだ玉砕せず』(文春文庫、1995年)参照
㉛辻政信(第11巻・12巻、つじ まさのぶ、1902年―1961年行方不明)は、石川県出身の陸軍軍人、政治家。軍人としての最終階級は陸軍大佐。陸軍士官学校(36期)を首席で卒業し恩賜の銀時計、1927年中尉に昇進し陸軍大学校(43期)入学、第一次上海事変で第9 師団 7
二中隊長として上海に出征・負傷後、参謀本部第一課(当時課長は東条英機大佐)に移り大尉昇進。1934年士官学校本科生徒隊中隊長、二・二六事件後関東軍参謀部へ、汪兆銘政権へ秘密工作、ノモンハン事件に関与した。マレー作戦、シンガポール華僑虐殺事件、バターン死の行進の戦いなどの重要作戦にも、辻は深く関わった。
 敗戦後数年間を国内外で潜伏したのち、『潜行三千里』を発表しベストセラーとなった。
政治家に転身し衆議院議員(4期)、参議院議員( 期)を歴任、参議院議員在任中の1961
に視察先のラオスで行方不明となり、68年に死亡宣告がなされた。『潜行三千里』(毎日新聞社、1950年)、『十五対一』(酣灯社、1950年)、『1960年』(東都書房、1956年)、『ズバリ直言
都書房、1959年)、『亜細亜の共感』(亜東書房、1950年)、『自衛中立』(亜東書房、1952年)
ダルカナル』(養徳社、1950年)、『この日本を』(協同出版、1953年)、『これでよいのか』(書房、1959年)、『シンガポール』(東西南北社、1952年)。三木公平『参謀辻政信 ラオスに消ゆ』(波書房、1985年)、生出寿『悪魔的作戦参謀辻政信 稀代の風雲児の罪と罰』(光社文庫、1993年)、高山信武『二人の参謀―服部卓四郎と辻政信』(芙蓉書房出版、1999年)、田々宮英太郎『権謀に憑かれた参謀辻政信―太平洋戦争の舞台裏』(芙蓉書房出版、1999年)、有馬哲夫『大本営参謀は戦後何と戦ったのか』(新潮新書、2010年)。


五 1960年安保に連なる CIA の自民党工作と情報戦

 これまで日本に対する CIA の政治工作として特に注目されてきたのは、1960年安保闘争と米軍諜報機関との関わり、日米安保条約改訂時の自由民主党、岸信介内閣と CIA の関係であった。この点を、最後に検証してみよう。
( )CIA の自民党への資金援
 この問題は、1994年10月10日の朝日新聞に、ニューヨーク・タイムズ特約として掲載された
以下の記事によって世に出た。
CIA、自民に数百万ドル援助 50―60年代 左翼の弱体化狙う(朝日新聞1994年10月10日
【ワシントン 日=ニューヨーク・タイムズ特約】米ソ対立の冷戦時代にあった1950年代から6
代にかけ、米中央情報局(CIA)は、主要秘密工作のひとつとして日本の自民党に数百万ドル(当時は ドル=360円)の資金を援助していた。米国の元情報担当高官や元外交官の証言から明らかなったもので、援助の目的は日本に関する情報収集のほか、日本を「アジアでの対共産主義の砦(とりで)」とし、左翼勢力の弱体化を図ることだった、という。その後、こうした援助は中止され、CIAの活動は日本の政治や、貿易・通商交渉での日本の立場などに関する情報収集が中心になった、としている。
 1955 年から58年まで CIAの極東政策を担当したアルフレッド・C・ウルマー・ジュニア
「我々は自民党に資金援助した。(その見返りに)自民党に情報提供を頼っていた」と語った。資金援助にかかわった CIAの元高官一人は、「それこそ秘密の中心で、話したくない。機能していたからだ」と述べたが、他の高官は資金援助を確認している。また、66年から69年まで駐日米大使を務めたアレクシス・ジョンソン氏は、「米国を支持する政党に資金援助したものだ」と述べ、69年まで資金援助が続いていたと語った。58年当時、駐日米大使だったダグラス・マッカーサー二世は同年7月日、米国務省に送った書簡の中で、「佐藤栄作蔵相(当時)は共産主義と戦うために我々(米国)から資金援助を得ようとしている」と記している。マッカーサー二世は、インタビューに対し、「日本社会党は否定するが、当時、同党はソ連から秘密の資金援助を得ており、ソ連の衛星のようなもの
だった。もし日本が共産主義化したら、他のアジア諸国もどうなるかわからない。日本以外に米国の力を行使していく国がないから、特に重要な役割を担ったのだ」と語った。
 自民党の村口勝哉事務局長は、そのような CIAの資金援助については聞いていない、としている。
 朝鮮戦争(50―53年)当時、CIA の前身である米戦略サービス局(OSS)の旧幹部グループは、の児玉誉士夫氏らと組んで、日本の貯蔵庫から数トンのタングステンを米国に密輸、ミサイル強化のためタングステンを必要としていた米国防総省に1000万ドルで売却。これを調べている米メーン大学教授の資料によると、CIAは280万ドルをその見返りに提供したという(34)。
 ただし、このニューヨーク・タイムズのスクープ記事は、米国政府機関要人へのインタビューによるもので、公文書による裏付けを得たものではなかった。また、当時の岸信介首相の役割を明示するものでもなかった。その一か月後に、朝日新聞社は独自の検証を行い発表したが、なお資料的裏付けは得られなかった(35)。
 この問題は、21世紀に入って民主党政権下で日本の外務省が認めるようになった核兵器持ち込みや沖縄返還に関する「密約」と同様に、日米関係の根幹に関わる疑惑を孕んでいた。関連情報は、その後も逐次報道された(36)。


( )民社党結成における CIA の役割

 アメリカ側ではメーン大学のハワード・B・ションバーガー、アリゾナ大学のマイケル・シャラーらが、日本でも春名幹男や山本武利らによって、戦後日本政治の出発時から60年安保、
さらには沖縄返還にいたる日本政府要人、自由民主党と CIA の関係が学術的に研究されてきたが、2006年には、米国国務省外交資料集 FRUS の解説 The Intelligence Community,1950
でも、明確に認められるようになった。そこで公式に認められたのは、60年安保闘争期の社会党の分裂、右派の民社党結成に際して、CIA が資金援助したことであった。
 CIA-日本の左派勢力の弱体化狙い秘密資金工作(共同通信、毎日新聞2006年 月19日)。

 米中央情報局(CIA)が1950年代から60年代半ばにかけ、日本の左派勢力を弱体化させ保守政権
安定化を図るために、当時の岸信介、池田勇人両政権下の自民党有力者に対し秘密資金工作を実施、
旧社会党の分裂を狙って59年以降、同党右派を財政支援し、旧民社党結党を促していたことが18日
分かった。国務省が編さん、同日刊行した外交史料集 FRUS に記された。編さんに携わった国務省
担当者は共同通信に対し「日本政界への秘密資金工作を米政府として公式に認めるのは初めてだ」と語った。米ソ冷戦の本格化や共産中国の台頭で国際情勢の緊張が高まる中、米国が日本を「反共のとりで」にしようと自民党への財政支援に加え、旧社会党の分断につながる工作まで行っていた実態が裏付けられた。日本の戦後政治史や日米関係史の再検証にもつながる内容だ。ニューヨーク・タイムズ紙は94年、マッカーサー二世元駐日大使の証言などを基に、CIA が自民党に数百万ドルの資金援助をしていたと報じたが、当時の自民党当局者は「聞いたことがない」としていた(37)。


( )なお資料の必要な、岸信介、賀屋興宣の役割

 そして、口火を切った1994年ニューヨーク・タイムズ記事の執筆者ティム・ワイナーが2008年に著書を発表してすぐに『CIA 秘録』として邦訳され、その第12章で「自民党への秘密献金」が総括的に論じられた。「CIAは1948年以降、外国の政治家を金で買収し続けていた。しかし世界の有力国で、将来の指導者を CIAが選んだ最初の国は日本だった」として、岸とCIA の「二人三脚」の関係を詳しく論じた。
 ただし、ワイナー自身が認めているように、「アメリカと CIAは、岸および自民党との隠密の関係を公式に認めたことはない」。詳しい典拠を示したこの著書でも、日本語版編集部が付
したマッカーサー駐日大使から国務省宛で佐藤栄作大蔵大臣(当時)からの資金援助要請を示す1958年7 月29日付公電以外は、FRUS の解説とかつてのインタビュー記事で、岸信介の出てくる第一次資料は、未だに公開されていない。
 そして、筆者らが今回機密解除された CIA、IRR ファイルの一端を分析した限りでは、CIAが選んだ「将来の指導者」とは、岸信介ばかりではなく、緒方竹虎や正力松太郎も、候補に挙がって、実際に工作を受けていた。賀屋興宣ファイルや「より親米的な『責任ある』野党」=民社党結成の秘密工作まで言及したのはワイナーの卓見であるが、ジャーナリストであるワイナーの著書では、米国側の対日情報戦工作が、やや単線的に描かれている。もっともワイナーの著書刊行後も、先に紹介した筆者らの緒方竹虎ファイル分析、有馬哲夫の辰巳栄一ファイル解読のほか、新たな資料「発見」が続いている(38)。


おわりに――CIA 日本人ファイル解読から期待される冷戦史研究

 以上に述べたことから明らかになるのは、今回のナチス・日本帝国戦争犯罪記録の機密解除をはじめ、歴史的文書の公開・非公開そのものが、情報戦の大きな舞台であることである。また、今回公開された CIA 個人資料中で最も分量が多く内容的に豊富であったのが、戦前朝日新聞論説主幹で情報局総裁、戦後日本版 CIA構想・内閣調査室創設の中心であった緒方竹虎と、戦前警察官僚で読売新聞社主、戦後日本の「テレビの父」「プロ野球の父」「原子力の父」であった正力松太郎の二人であったように、米国の冷戦初期情報戦の主要な目的は、日本のマスメディアと世論、大衆文化を「西側」「親米」に導くことであった。
 占領期日本の国民は、出版物・新聞雑誌の検閲や労働運動弾圧、レッドパージなどの直接的規制やサンフランシスコ講和条約締結と同時の日米安保条約、米軍基地の全土存続、沖縄軍政継続によってのみならず、冷戦期米国の世界支配戦略への積極的協力や、それを受け入れるアイデンティティの構築においても、操作と工作の対象とされた。
 第二に、確かに米国の情報公開法制にもとづく今回の機密解除は、日本敗戦時の戦時文書焼却や隠蔽、その後の官公庁の杜撰な文書管理や情報公開の遅れに比すれば積極的であり、後世の研究に資するものであるが、それでも米国所蔵日本戦犯資料のすべてが機密解除されたわけではない。とりわけ戦後日本の国家体制の根幹や、今日の日米同盟の起源に関わる重要資料は、なお機密指定のまま残されていると考えざるをえない。
 それは、一つにはアメリカ側作業部会で資料を分類・整理した関係者の関心が、第二次世界大戦以前に確立された国際法上の規範、毒ガス戦・細菌戦・化学兵器や捕虜虐待、それに植民地支配と女性差別に関わる問題などにあり、日本側の研究では重要な、昭和天皇の戦争責任や広島・長崎の原爆投下などの問題については、意識的に資料を探しチェックした形跡はみられない。この点を、日本の研究者の便宜に供するため、本資料集は編まれた。
 今日、日米政府間「密約」に関わる外務省文書の公開について語られる「当然あるべき資料は見つからず、見つかった文書にも不自然な欠落が見られる」状態は、日本の公文書の場合だけではない。米国の公文書館文書についても、昭和天皇裕仁や岸信介の CIA 個人ファイルの欠落に典型的なように、すべてが公開されているわけではない。無名の人々や個人ファイル以外の資料にもあたって本格的に歴史を見直す作業は、日米に限らず、世界の冷戦史研究者の共同作業として残されている。
 第三に、冷戦期日本の情報戦研究は、米国側資料だけでは不十分であることはいうまでもない。冷戦崩壊・旧ソ連解体によって、いわゆる旧ソ連秘密文書が閲覧可能となり、ゴルバチョフ、エリツィン政権期には、ソ連のアジア・対日政策、日ソ関係についても、新しい資料が大量に公開された。その後、プーチン、メドヴェージェフ政権下でロシア政府の情報公開は再び閉鎖的になっているが、グラースノスチ(情報公開)時代に公開・収集された資料によってだけでも、戦後情報戦のもうひとつの主役の世界戦略・アジア戦略・対日政策の研究に不可欠な基礎的新資料発掘が可能になっている(39)。

 日本側の公文書も、すでにインターネット上に公開され広く用いられている「アジア歴史資

( ) http://www.archives.gov/press/press-releases/2007/nr07-47.html(2014年 3 月30日アク
以下、url については同じ)
( ) 清水正義「ナチ戦争犯罪情報公開法の成立について
   http://www.geocities.jp/dasheiligewasser/others/OnNaziWarCriminalAct.htm
   http://www.fas.org/sgp/library/iwgreport02.html をも参照。
( ) 同前。この点については、Christopher Simpson, Blowback: America’s Recruitment of Nazis and
its Effects on the Cold War, Weidenfeld & Nicolson, 1988[日本語訳『冷戦に憑かれた亡者たち
――ナチとアメリカ情報機関』時事通信社、1994年]、参照
( 4 ) U.S. intelligence involvement with German and Japanese war criminals after World War
  http://en.wikipedia.org/wiki/U.S._intelligence_involvement_with_German_and_Japanese_war_
criminals_after_World_War_II なお、日本語での米国 CIA 等の諜報活動の報道については、ウェ
ブ上の「インテリジェンス・アーカイブス:江原元のページ」に系統的に収録されている。
  http://eharagen.sun.macserver.jp/index.html
( 5 ) http://www.archives.gov/iwg/japanese-war-crimes/select-documents.pdf
( 6 ) http://www.archives.gov/iwg/japanese-war-crimes/introductory-essays.pdf
( 7 ) 同上。
( ) マッカーサー戦史室については、GHQ/FEC, Military Historical Section, The Reports of General
MacArthur(国立国会図書館憲政資料室所蔵)。
( ) http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20060828/p
(10) http://www.asyura2.com/0601/senkyo25/msg/557.
(11) 「『河辺機関』に関する米公文書の要旨」(共同通信2006年 月12日)
(12) 「GHQ 資金で反共工作 --- 旧日本軍幹部の『河辺機関』」(共同通信2006年 月14日
(13) 「旧日本軍幹部利用の工作失敗=情報不正確、中共浸透も――CIA 文書」(時事通信2007年
26日)。
  http://kihachin.dtiblog.com/blog-entry-563.htm
(14) Research Aid: Cryptonyms and Terms in Declassified CIA Files:Nazi War Crimes and Japanese
Imperial Government Records Disclosure Acts
  http://www.archives.gov/iwg/declassified-records/rg-263-cia-records/second-release-lexicon.pdf
(15) 共同通信2009年10月 3 日
(16) http://members.jcom.home.ne.jp/katote/0907OGATA.pdf. なお、山本武利『GHQ の検閲・諜
報・宣伝工作』(岩波現代選書、2013年)は、CIA「緒方ファイル」を用いた最新の研究成果である。
(17) 同上。なお、アレン・ダレスと吉田茂の会見は、筆者のウェブサイトで訂正してあるように、1952年12月26日である
(18) http://www.archives.gov/iwg/declassified-records/
(19) 加藤哲郎『象徴天皇制の起源――アメリカの心理戦「日本計画」』(平凡社新書、2005年)特に
料センター」の国立公文書館・外務省外交史料館・防衛省防衛研究所戦史研究センター資料ば
かりでなく、情報公開法に続いて制定された公文書管理法を最大限に活用することによって、
これまで以上に実証的な情報戦研究が可能になる条件が生まれている(40)
 こうした意味で、わが国における冷戦史研究は、したがってまた、情報戦としての戦後政治
史の解明は、緒についたばかりなのである(41)
3 章、加藤「日本近代化過程におけるマルクス主義と社会主義運動の遺産」『FORUM OPINION
第 号、2009年12月、参照
(20) http://www.archives.gov/iwg/declassifiedrecords/rg263-
cia-records/rg263-
report.html?template=print,
(21) これまでいくつかの公開講演会配布資料中で、Sima Horia(RC 230/86/24/03)が日本人であ
可能性を指摘してきたが、英文ウェブ資料でルーマニアのファシストである Horia Sima(July 3 ,
1907―May 25, 1993)と特定できたので、本資料集では除いている。http://en.wikipedia.org/wiki
Horia_Sima。また、後述するように、AKIYAMA Hiroshi については、731部隊関連の「秋山浩」
としてきたが、今回の資料集公刊にあたって、旧内務省官僚「秋山博」と改めることにした。
(22) 秦郁彦『裕仁天皇 五つの決断』講談社、1984年、184
(23) 川島高峰「新憲法公布前後の国民の意識状況」歴史教育者協議会編『日本国憲法を国民はどう迎
えたか』高文研、1997年、143-14
(24) J.E.Haynes and H.Klehr eds., VENONA: Decoding Soviet Espionage in America, Yale UP., 199
[中西輝政監訳『ヴェノナ』PHP研究所、2010年]; J.E.Haynes, Red Scare or Red Menace, IVAN
R.See, 1996; J.E.Haynes and H.Klehr, Early Cold Warm Spies, Cambridge UP., 2006; A.Weinstein and
A.Vassiliev, The Haunted Wood, The Modern Library, 1999; J.E.Haynes, H.Klehr and A.Vassiliev,
Spies: The Rise and Fall of the KGB, Yale UP., 2009; D.McKnight, Espionage and the Roots of the
Cold War, Frank Cass, 2005;など参照。なお、冷戦初期のソ連側の情報戦については、イギリ
で刊行された「ミトローキン文書」も不可欠で、そこでは戦後日本社会党・総評と旧ソ連諜報機関
の資金を含む関係のほか、自由民主党の石田博英と旧ソ連の関係も記されている。C. Andrew and
V.Mitrokhin, The Sword and the Shield: The Mitrokhin Archive and the Secret History of the KGB,
Basic Books, 1999; C.Andrew and V.Mitrokhin, The Mitrokhin Archives II: The KGB and the World,
Penguin Books, 2005
(25) H.Klehr, J.E.Haynes and F.I.Firsov, The Secret World of American Communism, Yale UP., 19
[渡辺雅男・岡本和彦訳『アメリカ共産党とコミンテルン』五月書房、2000年]; H.Klehr, J.E.Haynes
and F.I.Firsov, The Soviet World of American Communism, Yale UP., 1998. これらによって、旧
ソ連秘密資料の一部のみを用いた和田春樹『歴史としての野坂参三』(平凡社、1995年)の野坂
は、大きく書き換えられなければならない。加藤哲郎『ワイマール期ベルリンの日本人』(岩波書
店、2008年)第 5 章、をも参照。
(26) NARA の沖縄関係資料は、独自に収集されて、沖縄県公文書館に収録・公開されている。http://
www.archives.pref.okinawa.jp/
(27) この点を、筆者は占領期米国陸軍 Project Stitch(縫い物作戦)・空軍 Project Wringer(絞り作
戦)から解読中であるが、さしあたり富田武『シベリア抑留者たちの戦後』(人文書院、2014年
参照。
(28) 「CIA、故児玉氏を酷評・情報工作『役立たず』」(共同通信配信、日本経済新聞2007年 月26日)
(29) http://ameblo.jp/aobadai0301/entry-10281193928.html(2014年現在削除
(30) 以下を参照。
   http://members.jcom.home.ne.jp/katote/0907OGATA.pdf
   http://www.kit.hi-ho.ne.jp/msatou/06-02/060208amaki.htm
   http://www.f.waseda.jp/tarima/pressrelease.htm
(31) 本資料集所収「裕仁ファイル」をもとに筆者のコメントを付した時事通信配信「80年代まで昭和
天皇の情報収集=大統領会見前に対米感情分析? CIA 文書」『北海道新聞』2010年 4 月30日。
(32) Research Aid: Cryptonyms and Terms in Declassified CIA Files:Nazi War Crimes and Japanese
Imperial Government Records Disclosure Acts
  http://www.archives.gov/iwg/declassifiedrecords/rg-263-cia-records/second-release-lexicon.pdf
(33) 加藤哲郎「CIA 緒方竹虎ファイル分析」(http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/curi.html#info
   なお、CIA cryptonym 暗号表については、以下のサイトも参照。
   http://en.wikipedia.org/wiki/CIA_cryptonym
   http://www.maryferrell.org/wiki/index.php/CIA_Cryptonyms
(34) http://eharagen.sun.macserver.jp/cia_funded.htm
(35) 「『CIA が自民党へ資金援助』を検証 日米戦後史の裏面に光」(朝日新聞1994年11月11日)、「C
が大規模対日工作 最盛時は要員100人 自社議員らに報酬も 関係筋証言」(共同通信、中日新聞
1995年1 6 日)、「報酬受け提供『考えられぬ』自民事務局長」(沖縄タイムス1996年1月 7
(36) 関連報道記事に、以下のようなものがある。「米の機密文書公開に『待った』『対日外交に影響』
国務省、『核』寄港合意・CIA の資金援助疑惑 ケネディ政権下の資料」(朝日新聞1994年11月7 日
「対日諜報網計画――戦後、20人の工作員投入案 米戦略諜報隊」(毎日新聞2003年 月2 日)、
の『赤狩り』日本でも50年前の議事録発見」(中日新聞2004 3 月29日)、「日本版『CIA』の
防衛庁に要員920人」(韓国東亜日報2004年6 月20日)、「自衛隊創設時から極秘に日米作戦計画
相に報告せず」(朝日新聞2004年7 1 日)、「平和シンボルに昭和天皇を利用 開戦半年後
が計画、『象徴』記述 半年早まる 米機密文書から確認 一橋大教授」(中日新聞2004年11月7 日
「対外情報機関設置を提言 有識者懇、英 MI 6 『参考』に」(朝日新聞2005年9 月14日)、「
期の対日政策、機密文書判明」(ワシントン、東京新聞2005年12月16日
(37) 公開された FRUS『米国の外交』第20巻第 部「日本」では、秘密工作に関するライシャワー
ホワイトハウス宛書簡など関連公文書を掲載せず、「編集者による注釈」として、秘密工作の概要
だけを説明した。「資金提供で親米政権安定化――CIA の対日工作明らかに」(読売新聞2006年
月19日)、「CIA が左派弱体化へ秘密資金 50―60年代 保革両勢力に」(共同通信、中日新聞200
年 月19日)、「ライシャワー勧告で中止 自民党への秘密資金工作」(共同通信2006年11月23日)
(38) 「ニュース稿ひそかに収集 CIA、占領下日本で」(共同通信2010年 月11日)、「浮かび上がる
領期の CIA 秘密活動」(毎日新聞2010年 4 月 5 日夕刊)。なお、原爆・原発関係については、 3 ・
11後、さまざまな新資料発見が相次いでいる。前述江原元「インテリジェンス・アーカイブス」の
他、加藤哲郎・井川充雄編『原子力と冷戦――日本とアジアの原発導入』(花伝社、2013年)参照。
(39) 筆者や和田春樹による旧ソ連秘密文書の研究のほか、最近の下斗米伸夫や富田武の諸研究、参照。
(40) 牟田昌平「戦前の公文書にかかわる神話と現実」は、アジア歴史資料センター創設後5 年間
験にもとづいて「戦前の公文書は、当初の予想に反して系統的に整理され、国の諸機関に残ってい
ることが判明した。貴重な歴史公文書の散逸や廃棄は、戦前の政府機関が所蔵した公文書に関する
限り『神話』ではないか」と述べている(小川千代子・小出いずみ編『アーカイブへのアクセス 
日本の経験、アメリカの経験』日外アソシエーツ、2008年、24頁)
(41) 本解説は、『年報 日本現代史』第15号に寄稿した、加藤哲郎「戦後米国の情報戦と60年安保
ウィロビーから岸信介まで」(現代史料出版、2010年 月刊)をもとに、CIA 日本人個人ファイ
を中心に加筆改訂したものである。なお、より一般向けの解説として、加藤「機密解除文書が明か
す戦後日本の真の姿――GHQ 文書」『週刊 日本の歴史 現代 4  敗戦・占領の「断絶と連続」』
(朝日新聞出版、2014年 5 月18日)がある。




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