(あちこちに散っている持田に移動する田植機 5月25日撮影)
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八ヶ岳山麓の茅野市の1,000メートルの高地では5月25日頃に田植えをする(5月25日撮影 甲斐鐵太郎)
(本文)
八ヶ岳の南西側に位置する茅野市は八ヶ岳登山の基地である。八ヶ岳を背後にして南側には南アルプスが見える。西側には霧ヶ峰高原の車山、その右側には蓼科山が見える標高1,000メートルほどの高原に水田があって、5月25日には田植えをしていた。
田植機は6じょう植えで1日に1町歩植えて持田10町歩の田植えをするのに10日間を要するということであり、田植えをしている最中に話を聞いた。
耕耘機が幾らで、田植え用の装置が幾らであるという説明を聞いているうちに、現代の農家の時間あたりの収入が300円未満であるというある作家の農業ルポを思い出した。数日前のNHKラジオでは農家の稲作にかける平均日数が40日程度であると大学教員が話していた。稲作は農業機械がやってしまうという状況ができている日本である。機械化して手が省けただけ稲作が利益を生み出すという構造になっていないことは農家の大きな悩みであり、日本の農業が抱えている大問題である。工業が振興した都市が豊かになって、農業の分野は低賃金・低収入にあるという日本の現状がどのように変化していくのであろうか。
稲作の話を聞いた水田の上の方には別荘風の住宅地ができている。その奥の一体は八ヶ岳や蓼科の別荘地になっている。長野県川上村は「レタス王国」を築いて農家の年間所得が2,500万円ほどになっているので、レタス農家の立派な家の建設ラッシュである。同じように家が建っている茅野市の郊外は勤め人の住む家であるから中身はだいぶ違うことになる。
一人の人による都市と農村の生活の調和がトーマス・モアの『ユートピア』が描き出した理想の姿である。都市はすべてのものが人工によって造られている。子供たちが都市で生活していると人工の枠組みのなかでの行動を強いられ意識もそれに対応することになる。それがどのような結果を招くかよくはわからない。
農村は人と自然が向き合っているので、鍬(くわ)を持てば手のひらに豆ができて、腕が疲れるので湿布薬が欲しくなる。虫がいれば人を刺したり傷つける。川上村のお蕎麦屋さんの屋根の下にはスズメバチが丸い大きな巣を作っていて5月中旬過ぎには巣の周りをぶんぶんと飛び回っていた。茅野市側の八ヶ岳登山口では7月8月にはアブが大量発生するので車の窓を開けておくことができない。八ヶ岳登山の下見をして飼い犬を車のなかで待たせておくことを断念した経験がある。
このときの登山では日が落ちてから下山時に懐中電灯にやたらに飛び込んでくる蛾の多さに大いに閉口した。
田植えのころには虫は少ない。桜の花が咲くころに虫が少ないのと同じである。この前の週には乗鞍高原の鈴蘭地区の硫黄温泉の宿で過ごしていて、ヤマザクラの白いアンズ(杏)の花が咲いていた。小鳥のさえずりが窓から飛び込んでくる宿では暖房を強くしてあった。そして虫など見ることがなかった。
(写真と文章は旅行家 甲斐鐵太郎) (書き殴って読み返しておりません。誤字、表現の不適切さなどについてはご容赦を)