文三郎尾根を登って振り返ると行者小屋のソーラーパネルが見える (8月1日 横田俊英撮影)
赤岳直下のガレた石ころのあちこちでコマクサが花を咲かせていた (8月1日 横田俊英撮影)
赤岳山頂直下では紫色の千島桔梗や黄色や白の花束が岩場にあった (8月1日 横田俊英撮影)
(タイトル)
「八ヶ岳登山のすすめ」 いつも麓から見ている赤岳に登る (8月1日 執筆 横田俊英)
(本文)
八ヶ岳は行者小屋の前の広場から仰ぎ見ると主峰の赤岳(2,899メートル)が天空にそびえその右手には阿弥陀岳(2,805メートル)がおだやかな稜線を形成し、左手には2,800メートル級の鋸歯状の横岳の小さな峰の向こうに丸い頭の硫黄岳(2,760メートル)が鎮座する。赤岳から南に延びる尾根伝いに権現高(2,715メートル)と編笠山(2,524メートル)の山々を南八ヶ岳と称する。硫黄岳から北に連なる山々は南八ヶ岳だ。最北端にはコニーデ型の蓼科山(2,530メートル)がこの山域をしめっくくるようにそびえる。ここから先は霧ヶ峰高原と美ヶ原が北に延びる。
中央道と中央線の長野県茅野市を玄関口にして八ヶ岳中央農業実践大学校を先に進んで美濃戸口に至り、そこから徒歩1時間の道のりの美濃戸には道はタクシーや車で入ることができる。ここから2時間で行者小屋に着く。赤岳山頂にはさらに2時間の登りだ。登山口から4時間歩き登ると赤岳に至る標高差1,200メートルの登山である。赤岳には同じ登山口から赤岳鉱泉を経て行者小屋にたどる道のりもあり、直接に行者小屋に行くよりもこちらの方が起伏が少ないので体力の消耗が少ない。赤岳に登るにも直登よりも阿弥陀岳のわきの中岳の鞍部にでると疲労を押さえることができる。直登の道は大きな踏み台の階段になっているので鍛えていない足に大きな負担とかける。
登山口から2時間の歩行によって2,900メートル級の山岳地帯のうちふところに踏み込むことができるところが赤岳鉱泉と行者小屋を基地にした赤岳登山の醍醐味なのだ。普通の行程は赤岳山頂付近の小屋か下手の小屋に1泊する。早朝から行動すれば日帰り登山もできる。8月1日ころには赤岳やその脇の中岳そして硫黄岳のざれた石ころにしがみついた駒草(コマクサ)が桃色の花を咲かせる。千島桔梗(チシマギキョウ)の紫の花は岩から直接咲き出したようで面白い。
赤岳山頂までの登山の行程の4時間を休憩時間を含めて6時間あるいは7時間にすると花や樹木や風景を楽しむことができる。赤岳に登ると東の眼下には高原野菜の畑が大きく広がっており、野辺山や川上村の道路からの景色を山頂から眺めると何とはなしに懐かし意気持ちになるはずだ。ときには霧ヶ峰の強清水から飛び立ったグライダーがピューと風を切って赤岳山頂を旋回する。風が野辺山から赤岳に吹き上がって上昇気流を形成するのでこの風を手に入れてグライダーは高く舞うのだろう。
行者小屋の前のシラビソの木立は40年ほど前は白骨樹であった。シラビソの縞枯れ現象は奥秩父や八ヶ岳の山岳の特徴である。行者小屋に足を運ぶたびに白骨樹は減ってシラビソが青々と再生しているのである。今では昔の面影をわずかに残す白骨樹であるが、そのような現象のことを知らない高校生の登山部員は「地球温暖化」の影響でしょうと事も無げなげに話す。珍現象を何でもかんでも地球温暖化のためと決めてしまう態度にさまざまな思いが交錯する。人は自然破壊とか地球温暖化などという必ずしも判然としないことに心悩ますよりも、自然そのもののなかに身を置いて自然を肌で感じ自然から何かを得られていると感じることが大事であるように思われる。
人は自然のなかでまる1日身をひたして歩いていると何故だか分からないが数日すると凄く元気になるのである。赤岳とその周辺の山は山岳信仰の対象であり、行をするための基地が行者小屋などであったのだ。縄文人が生活を営んでいた八ヶ岳山麓から2時間か3時間踏み込んだ行者小屋の周辺はそこに佇んでいるだけで人に生きる力を与える何かがあったというべきだろう。諏訪大社の御柱(おんばしら)はこの山麓の美濃戸口あたりからも切り出される。そしてその柱を三内丸山のように櫓(やぐら)に組んだ址が山麓の西から発見されている。縄文人が追いかけた鹿が赤岳からの下り道の夕暮れのシラビソの林に現れてこちらをじっと見ている状態は人も動物も縄文時代そのものであった。そうだ縄文の山としての八ヶ岳と赤岳の峰々と休憩時間のまどろみで小さな夢を見た。
(写真と文章は横田俊英)
(書き殴って読み返しておりません。誤字、表現の不適切さなどについてはご容赦を)