(副副題)
鳥は北に戻り南からやってきてスズメやキツネやタヌキはずっとそこにおります。魚はずっと水の中です。海はずっとそこにあります。
(本文)
ついつい私は高い山に登って凄い自然に会いたいと思うのです。高い山には何時でも凄い自然があるかというとそうでもありません。私は欲張りですから凄い自然だけを追い求めているのです。
しかし自然とはそのようなものではないような気がしてきました。写真家や小説家が劇的なものとして描き出す自然は人を嬉しがらせますが人を疲れさせもします。写真は物事を劇的にとらえようとします。絵画は少し違います。写真ほどには劇的な構図や色使いをせずに物事を描き出すことができます。イーディス・ホールデンの『ネイチャー・ノート』の絵をみるとそのように感じます。そしてある高原の宿に飾られている八ヶ岳の自然を描き出した油絵も同じです。
絵本作家の池田あきこさんの『蓼科日記』の単文と絵をみているると力まずに自然に接していることが私にはすがすがしさを感じさせます。野の花を描いて名前は知らないという態度がよいと思います。池田あきこさんは猫のキャラクター「ダヤン」の作家です。
駆け足で自然と接してはいけないのだとイーディス・ホールデンの『ネイチャー・ノート』を読んでいて感じました。気負わずに自然のなかに身をおくことが自然と接する基本的な態度ではないかと思います。
鳥は人が動かずにじっとしているとそこにやってきて歌いそして踊ります。木々も草花も人がムキになって探しに行かなくてもずっとそこにおります。カモシカもキツネもタヌキも人がじっとしていると向こうからやってきます。魚もそうです。
急がない、焦らない、慌てないことです。人は自然のなかに身をおいてじっとしていさえすればいいのです。山はずっと昔のままです。人を和ませる宿が昔のままずっとそこにあることは嬉しいことです。宿の支配人はときどき代わり調理人も給仕は新しい人々ですが、宿はずっとそこにあって気まぐれで訪れる旅人を温かく迎えてくます。
自然は気まぐれな人間が何時やってきて拒絶することはありません。春には草の芽がでてやがて木々も枝を伸ばし花を咲かせます。鳥は北に戻り南からやってきてスズメやキツネやタヌキはずっとそこにおります。魚はずっと水の中です。海はずっとそこにあります。人がそのことを意識しないだけです。
気が向いたときに人は自然のなかに出かけてそこでじっとしていればいいのです。暑い日は木陰で涼み、寒い日は日向で暖まるのです。春と秋の気温は人を自ずと動かします。人のこない尾根の小道の草原に腰を下ろしてじっとしていると鳥や動物はじっとこちらを見ております。そうして人には緑の草木の襞(ひだ)が見えるようになるのです。
泡の浮いた川の流れを見ていると悲しくなり、枝払いされない杉の木立はやるせなさを覚えさせますが。6月に八ヶ岳に登りますとすそ野には白いビニールシートの畑が転々と広がります。不毛の高原で野菜が育つようになったのです。広く大きなすそ野の景色はは都市生活に疲れた人には清涼剤以上のものです。
自然のなかえは水は蛇口をひねって飲むものではありません。スイッチを入れると冷房と暖房がされる仕組みもありません。人は自然が与える条件を受け入れて我慢することを覚えます。種を植えても時間が経過しないと実はならないからです。冬に花をつける木はありますが実がなるのは初夏になってしまいます。また体を動かさないと食事はとれません。
トーマス・モアは『ユートピア』で都市と農村の二つの生活を提唱しました。職業も固定して考えていなかったようです。アルビン・トフラーは情報社会が人々を工場や事務所から解き放す可能性をみてとりました。
人が生きていくためには工業生産だけでは難しいのです。工業生産も地球の資源があってのことですし、食料生産は大地があってのことです。よい水とよい空気と人々が仕事に誇りをもってそれに打ち込む精神ができあがっていることもまた必要です。
一部の人々が尊くて多くの人々がそうでないという精神が社会を支配してるのはよいことではありません。「良い学校」「良い会社」とそれに付属する人々が上手くいったと思っているようでは、そうでない人々は上手くいかなかったのでしょうか。皆が良い形で努力して、その努力が真っ当に形になることが良いのです。努力をしてもそれがほとんど実現しないのでは博打と同じになります。
とくにテレビがつくりだす報道の世界は社会の実態を歪めて描き出します。歪められた虚像に近い情報によって人は社会観をつくってしまいがちです。だから人は努力して広く情報をあつめて全体をみるように努めると賢い自分をつくりあげることができるようになれるように思われます。
(書き殴って読み返しておりません。誤字、表現の不適切さなどについてはご容赦を)