-実験小説-風に吹かれて 神田学生街の青春
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AIのGeminiとClaudeの使用方法の訓練に取り組んだシルバーウイークの五日間 森夏之
AIのGeminiとClaudeの使用方法の訓練に取り組んだシルバーウイークの五日間 森夏之
芥川賞に選ばれた岩手県出身の女性作家が、2026年夏近くの受賞後インタビューでこんなふうに語っていた。AIにいつ取って代わられるか分からないけれど、それまでは書いていく」。それは、彼女自身がAIに文章を書かせた経験があることを示唆する言葉であった。受賞者が発した、本気か冗談か定かではない「AIへの恐怖」の真意を確かめるべく、私はGemini(ジェミニ)とClaude(クロード)を使って小説を作らせてみることにした。折しもシルバーウィークの五日間。Claudeの5時間限定の無料サービスが満杯になり、否応なく有料版に切り替えたタイミングだったため、その使い方に慣れるための訓練も兼ねていた。同時に、有料版の能力が遥かに高いGoogle社のAI・Geminiでも同様の試みを行った。私は手始めに幾つかのエッセイをClaudeに読み込ませ、「小説仕立てにせよ」と指示を出した。するとClaudeは「喜んで」とばかりに作業を始め、10分ほどで文章を出力してきた。しかし、出力された「小説」は拙劣であり、到底私の意図に沿うものではなかった。入力したデータが少なく、かつ系統立っていなかったことが原因だろう。このような完成度の低い内容を表に出せば、誤解を招くことは必至である。しかし、これは私にとっての記念碑的な試みであり、後々のための貴重な資料にもなる。そう考え、あえて公開することにした。
作詞は山上路夫である。詩の舞台となった喫茶店は東京・御茶ノ水の喫茶店「丘」が想定された。
野辺山高原の野菜畑の向こうに見える八ヶ岳が好きだ。捨てられた物置か牛小屋に逗留して夏場を過ごすことが夢であったのは若いころのことである。赤岳から硫黄岳に向かう横岳の稜線の眼下に広がる、白いビニールシートの野菜畑に注ぐ夏至の太陽は、南というよりむしろ真上から降り注ぐようなものであった。
野辺山高原から海の口の西武不動産が開発した別荘地のなかにある、八ヶ岳音楽堂に足を向けた。吉村順三が設計し、1988年に竣工している。
五月には白い花を一杯に付けたヤマナシの木は枝を大きく広げて、その緑の葉に陽光を集めていた。陽光は葉から枝にそして幹からさらに根へと吸い込まれ、土の下で暖かい大きな塊をつくっているようであった。
南の空には富士山が見えていた。富士山の風が絡まって少しの渦を巻いて赤岳を越えていった。加藤望美は両手を広げて緑の風と戯れた。時間も空間も太陽も風も二人のためにあった。緑の暖かい風が二人を包んだ。
風に吹かれて 神田学生街の青春-実験小説-2026年9月22日・@森夏之
序
東京・神田。古書街の裏通りには文具屋や定食屋、居酒屋が軒を連ね、そこに楽しげに集う若者たちがいた。一九六八年、桜の咲く季節のことである。ある居酒屋に集っていたのは専修大学法学部の新入生たちで、その中には明治大学文学部に通う者がひとり混じっていた。桜吹雪の舞う武道館で入学式を終えた彼らは、夜風の心地よい桜通りで青春の門出を迎えたのである。
御茶ノ水駅から駿河台下の交差点へ下る通りを、学生たちが歩いていた。ある者はボブ・ディランの「風に吹かれて」を胸の内で歌い、ある者は社会科学研究会で覚えた「インターナショナル」を、自分にだけ聞こえる声で口ずさんでいた。その歌はかつてのパリ・コミューンから生まれたものだ。
これは、同じ風に吹かれて神田の学生街で青春を送った、五人の若者の物語である。
第一章 ボブ・ディランの「風に吹かれて」
一九六八年の春、隅田肇(すみだ はじめ)は神田にある専修大学法学部に入学した。靖国通りにはまだ都電が走っており、行き先は渋谷と新宿であった。隅田は専修大学前から都電に乗って、よく渋谷へ遊びに出た。
専修大学の神田校舎は小さく、古色蒼然とした学び舎であった。隣には英語学校のエレックがあり、校舎のまわりには木造二階建ての小さな印刷工場が幾つも立ち並んでいた。
隅田肇の下宿は、新宿から京王線で少し行った明大前にあった。隅田の隣の部屋には、明治大学文学部に入学した同い年の相沢俊夫(あいざわ としお)が暮らしていた。相沢は英文学の延長で英語の詩に魅せられ、ボブ・ディランに熱中していた。LPレコードから流れるディランの詩は、日本の歌謡曲にはない哲学めいた響きを持っていた。相沢にとって、ディランは神にも等しい存在だった。
大学は荒れていた。東大と日大では紛争が激化し、御茶ノ水の通りにはコミューンさながらの学生の騒乱が現出していた。翌年一月には東大安田講堂の攻防が控えている。神田と御茶ノ水にある中央大学、明治大学、日本大学、専修大学も騒乱の渦に巻き込まれ、学生たちはどこか落ち着かない日々を送っていた。
物価の高騰もあり、どの大学も学費の値上げを余儀なくされていた。東大・日大闘争の余波は、神田・駿河台一帯の大学にも及んでいた。専修大学でも学費の値上げが繰り返され、古い神田校舎を取り壊して高層の校舎に建て替える計画が進んでいた。相次ぐ値上げに、学生も教員も私学への公費助成を求めて声を上げた。
当時、国立大学の授業料は月額千円であった。桜通りの端にある中華料理屋の酢豚定食は三百円。国立大学のひと月の授業料の三分の一ほどである。その定食に、隅田は憧れていた。いま思えば、あの酢豚の肉の量は格別に多かった。
神田校舎は、門をくぐると中庭に出る。中庭を進むと教室への門があり、その左脇に学生自治会室があった。蒲生哲夫(がもう てつお)は入学してまもなく民主青年同盟に加わり、翌年には自治会の執行委員になっていた。隅田肇を含む、五人の仲間のひとりである。
蒲生の役目は、大きな立て看板に模造紙を貼り、学費値上げ反対と日米安保条約廃棄を訴える檄文を書くことであった。登校する学生に合わせてビラを配り、そのあと教室に行って「何故ならば」と声を張り上げて演説した。それが済むと自治会室に戻り、翌日のビラをガリ版印刷機で刷った。三年になると、その役はガリ版切りに変わった。文章は蒲生が考える。ビラは毎日新しく出した。そうすることで事態の切迫感を演出するのである。土曜と日曜には立て看板を書き換えた。
三年になるとゼミが始まった。隅田と同じゼミには、遠山健一(とおやま けんいち)、蒲生哲夫、加藤望美(かとう のぞみ)がいた。蒲生はすでに自治会の執行委員長になっていたため授業にはほとんど顔を出さず、単位を落としていた。
加藤望美は司法試験を目指していた。茨の道である。それに果敢に挑む彼女の気迫に、隅田は圧倒された。加藤望美は当時の法学部において一割にも満たない女子学生の一人であり、背の高い美人でもあった。男たちは加藤に関心を寄せており、遠山健一もまた、そのひとりであった。
隅田は、運動に身を投じる蒲生や、英文学に傾倒する相沢の熱気にあてられていた。彼らと比べて、自分はひどく平凡な人間なのだと思うようになっていた。
専修大学の経済学部には、マルクス主義経済学を教える荒木忠一教授がいた。荒木は海軍兵学校の生徒だったという変わり種である。兵学校の生徒だったとき、彼は江田島から北の空に、広島に落ちた原爆を見た。窓ガラスが激しく揺れ、キノコ雲が立ち上った。
終戦で兵学校が閉校になると、荒木は旧制会津中学校に復学した。そこから旧制浦和高校の理科に進み、新制の東京大学では文学部で歴史を専攻した。兵学校を追い出された生徒たちの多くは、似たような道を歩んだ。
東大駒場の学生自治会で、荒木は副委員長になっていた。授業料値上げ反対のストライキを決行し、委員長とともに責任を問われた。委員長は退学処分となったが、荒木の学生という身分は剥奪されずに残された。文学部で歴史を学ぶうちに、歴史の根幹を流れる経済のことが強く心に迫るようになった。大学院では経済学を選び、山田盛太郎にマルクス主義経済学を学んだ。山田の再生産表式分析は、資本主義経済を分析できるものとして注目されていた。歴史学から転じてきた荒木の力量を慮ってか、山田は急いで経済学の手ほどきをしようとはしなかった。
大学院を修了すると、荒木は法政大学の講師となり、続いて広島大学の助教授としてマルクス主義経済学を担当した。一方、山田盛太郎は東京大学を定年退官して専修大学に移り、経済学部長となっていた。この時代の専修大学経済学部は、山田によって牽引されていた。決して丁寧な振る舞いをする人ではない山田が、荒木のために経済学部助教授の席を用意して呼び寄せた。広島では研究に不便だろうというのが理由であった。荒木自身にとっては、広島大学は居心地のよい場所だったらしい。山田と荒木の関係は、時代を映す師弟の姿でもあった。
駒場でストライキを打って責任を問われた過去を知る学生のあいだで、荒木は人気があった。やがて自治会の委員長となる蒲生にとっても、心強い存在であった。その荒木が、学生部長の役職をあてがわれることがあった。学生部長は学生自治会との折衝の矢面に立つ。大学の管理者として学生と向き合う立場に、荒木教授はさぞ苦笑いしていたことだろう。
専修大学はマルクス主義経済学を教える大学として、それを知る学生には人気があった。隅田は高校を卒業するとき、京都のミッション系の名門私立大学の経済学部に合格していた。だが当時の彼には経済学が算盤の学問に思えて入学に踏ん切りがつかず、結局、専修大学の法学部を選んだ。入学してからマルクス主義経済学の中身を知り、それが算盤ではなく社会科学としての経済学であると分かったとき、隅田は「しまった」と思った。彼は法学部に籍を置いたまま、経済学部の授業を熱心に聴講した。荒木の講じる経済学はこの世界を知る手がかりであり、足がかりであると強く感じ、基礎の基礎からやり直すつもりで『資本論』のページをめくりはじめた。
第二章 一九七〇年六月二十三日 デモの隊列にいる者がすべて仲間に思えた
一九七〇年、安保条約廃棄は学費値上げ反対と抱き合わされ、闘争課題となっていた。専修大学神田校舎の学生自治会室には、蒲生哲夫ら執行委員が閉門まで詰めてガリ版を切っていた。
日米安保条約が自動延長される当日の六月二十三日、専修大学の自治会はストライキを打ち、学生たちは夜の統一デモに出て行った。先頭に立つのは蒲生である。隅田肇は誘いに応じて、隊列に加わった。なぜか加藤望美が隅田の隣にいた。隊列の端には遠山健一の姿もあった。
専修大学学生自治会の旗が高く掲げられ、学生の長い隊列が続いた。遠くには自治労などの旗が見えた。機関紙印刷の旗を持っていたのは、隅田の高校時代の同級生であった。
リーダーが「風に吹かれて」の最初の一節を歌い、皆がそれに続く。どれほどの死者が出れば人は気づくのか、その答えは風だけが知っている――突き放した、哲学的な詩である。日本の街頭に英語の歌が流れる。それは国際連帯を醸し出すものでもあった。ジョーン・バエズの「ウィ・シャル・オーバーカム」が感傷的に歌われ、五つの赤い風船の「遠い世界に」は、日本の反戦歌になっていた。
労働者、商工業者、婦人団体、学生たちのデモが都心を埋め、長い隊列が深夜まで行進した。隅田肇には、隊列にいる者がすべて仲間に思えた。
四か月後の十月二十一日には、国際反戦デーのデモがあった。自治会は再びストライキを打ち、学生たちは夜の統一デモに出て行った。先頭にはやはり蒲生がいた。六月と同じように、隊列には隅田と加藤と遠山の姿があった。卒業まであと一年余りを残す、三年生の秋である。それぞれの胸の内には、迫り来る進路への思いが交錯していた。
第三章 サイフォン珈琲の「ダボス」と学生街の喫茶店
明治大学文学部の相沢俊夫と隅田肇は、下宿が同じこともあって、空いた時間によく珈琲を飲んだ。お気に入りは、神田小川町のミズノ本店の裏にある「ダボス」であった。昭和四十一年に開いた小さな店で、主人は日産スカイラインの開発者である櫻井眞一郎のことをよく自慢げに話題にした。隣人だったのである。二人はそれを、珈琲店での心地よい暇つぶしとして聞いていた。
「ダボス」はアルコールランプのサイフォンで珈琲を淹れた。ランプの火がフラスコの底を熱する。湯が上のガラス器に吹き上がると粉を攪拌し、頃合いを見て火を落とす。熱が冷めてフラスコの気圧が下がると、上のガラス器の珈琲が吸い下ろされる。粉はネルのフィルターに残り、良い色の珈琲ができあがる。小ぶりのカップで出されて、一杯百五十円であった。
日中、「ダボス」はミズノの店員の息抜きの場であった。夜になると博報堂の社員や、名の通った紙の卸店の社員が顔を出した。午後五時を回ると、店主はカウンターの下から一升瓶を取り出し、常連と飲みはじめた。話題の中心は競馬の予想で、休日の前には馬券の手配をしていた。近所で育った司法浪人も常連のひとりであった。五時を過ぎて店に行くと、隅田は決まってジントニックを注文し、相沢もそれに倣った。ときどき一緒になる遠山健一は、酒には手を出さずいつも珈琲だった。
隅田は、遠山が加藤望美を目で追っていることに気づくようになっていた。だが遠山に対する加藤の態度は、いつも変わり映えのしないものであった。
卒業を目前にしたある日、隅田肇は加藤望美に喫茶店へ誘われた。夜は更けていた。飯田橋にある大きな深夜喫茶であった。終電が過ぎ、二人は明け方までそこで過ごした。話はとりとめのないものだった。思いつめたように声をかけてきたのに、加藤望美は肝心のことを胸にしまって、呼び出したときの緊迫感は微塵も見せなかった。二人はコートを重ねて肩から膝を覆った。加藤のコートは暖かく、それが上等な仕立てのものであることを隅田は知った。
加藤望美からの連絡は、それきり途絶えた。隅田も連絡しなかった。それぞれの道を歩みはじめたのだ。加藤望美は司法試験という、氷の世界のような冷たく厳しい試練の世界に飛び込んでいったのだと、隅田は考えた。そっとしておくしかなかった。
GAROの「学生街の喫茶店」がどこからか流れてくるたびに、隅田はあの夜を思い出した。聴いていると照れくさく、きまりの悪い歌詞である。曲はどこかで聴いたようであった。作詞は山上路夫だと誰かが語るのが耳に入った。山上路夫の綴る歌詞は、どこか現実味に欠けていると隅田は感じた。歌詞の舞台は御茶ノ水の喫茶店「丘」だとも言われるが、作詞者本人は否定している。どこにでもある情景だから、誰もが自分の通ったあの喫茶店ではないかと思う。得な歌である。
第四章 ボブ・ディラン全詩集
隅田肇は、卒業後も二年、大学に残ることが決まっていた。隣室の相沢俊夫とはこれでお別れである。ボブ・ディランを神のように崇める相沢が、英文の全詩集を持っていないことを隅田は知っていた。隅田は二冊組のそれを古書街で探し出していた。何も言わずに二冊を渡し、「あばよ」と言った。
卒業式の日の蒲生哲夫の姿を、隅田は深い感慨をもって見ていた。ご苦労だったねと思った。蒲生は自治会活動のために授業にはほとんど出なかった。それでも卒業単位はそろえていた。彼自身に学歴は要らなかったろうが、親や親戚の手前、卒業しておくに越したことはなかった。
最後の日になっても、遠山健一は加藤望美を遠くから見つめているだけであった。打ち明けたい気持ちと、拒まれることへの恐れとが、胸の内で交錯していた。
四年前に同じ教室に集った四十人の男女は、それぞれの道へ踏み出していった。
第五章 学生活動家と待ち受ける試練
蒲生哲夫は入学するとすぐに民主青年同盟に加わった。全共闘運動が盛んなころで、どこの大学もゲバルトの気配が満ちていた。学生部長や学長が団交の場に拘束される事件も相次いでいた。蒲生の活動は、そうした暴力的なものとは一線を画していた。
一九七二年に卒業すると、蒲生は民主青年同盟の専従活動家になった。「二十万人の組織だぞ」と蒲生は隅田に誇らしげに話した。かつてない組織の規模とその高揚感に、蒲生は身震いしていた。
その年の初夏のことである。蒲生の身に何かが起きたらしいことが隅田に伝わった。隅田はまだ大学に残っていたので、蒲生の動静が聞こえてきやすかった。党員でもあった蒲生は、党本部の一室に呼び出され、問い詰められているという。詳しいことは何も分からない。ただ「何かがあった」、そのことだけが伝わってきた。
後に分かったのは次のようなことだった。蒲生は「分派」の嫌疑をかけられ、党本部で査問されていた。聴取という名目での拘束に同意させられ、一週間に及ぶ軟禁状態となった。何を話せば分かってもらえるのか、蒲生は途方に暮れた。自分の行動の一つ一つが、見事なまでに調べ上げられていた。
結局、蒲生は党員権一年停止の処分を受け、専従職を解かれたために、故郷の小さな印刷工場に退いて働くことになった。
それから長い歳月が流れた。隅田肇と蒲生哲夫には、東京の居酒屋で面会する機会が一度だけあった。「おれは分派なんかじゃなかった。上に物を言える雰囲気ではなかったんだ」と蒲生は絞り出すように語った。自分と同じように査問された者が全国で数百人の規模でいたらしいことを、蒲生は後になって知ったという。幹部専従員だった川上徹も、同じ時期に同じように査問を受けていた。隅田自身は、川上という人物を直接知っているわけではなかった。
蒲生は話し続けた。ある男の身の上である。千代田区の出版社に勤め、経営支部の一員として活動していたその男の支部は、ある日議論もなしに解散となり、皆が居住地の支部に組み入れられた。居住支部に移った男は、会議を主導する立場になって地域の活動に取り組んだ。しかし、男の住まいが変わるたびに、地域の支部はリーダーを失って身動きが取れなくなった。
男は何十年も、新聞の配達と集金を続けている。車とオートバイを買い、朝の二時間を配達に費やす。新聞は、誰もが面白がって、あるいは必要に迫られて読んでいるわけではない。購読を断られるたびに、男は自分の存在を否定されたような情けない気持ちになった。また、蒲生が知る者のうち二人が心を病み、活動の前面から退いた。二人というのは、蒲生が知る専従活動家の半数に当たる。
蒲生は思いつめたように次の言葉を述べた。「悔しくてならないんだ。あの頃のみんなが、おれも含めて。そして、残念なんだ」
一言が忘れられない隅田肇であった。人それぞれの人生があるとはいえ、蒲生の境遇はあまりに過酷であった。
隅田は荒木忠一の講義を思い出した。荒木教授はときおり、ソビエト連邦の民主主義の在り方、スターリンの独裁と粛清、そして社会主義の弊害に触れた。当時はすでに、そのような歴史の暗部が明らかになっていた。
ソビエト連邦の崩壊とともに、あってはならないことが明るみに出た。モスクワのコミンテルンにいた野坂参三――のちの日本共産党議長――が、同志の山本懸蔵を密告していたのである。山本は一九三七年に逮捕され、三九年に処刑された。その非情な事実が明らかになったのは一九九二年、半世紀余りを経てからのことであった。密告しなければ自分の命が危うくなる。密告合戦が繰り広げられたスターリン時代のソビエト連邦であり、コミンテルンであった。スターリン体制への評価は厳しくなることはあっても甘くはならない。
第六章 進路と消息
卒業から一年が過ぎるころ、隅田肇は相沢俊夫の実家に電話をした。電話口の向こうで相沢の母はしばらく黙り、「東京に行ったまま、どこにいるのか分かりません」と心細げに言った。
隅田が知る同級生四十人の卒業後の様子は次のようであった。教員になった者が十人、のちに地方議会の議員になった者が三人、国会議員の秘書が一人、団体職員と労働組合の書記が三人、税理士が二人。隅田自身を含む地方公務員が七人、国家公務員が三人、農協と地方銀行の職員が五人、出版社などに勤める会社員が三人。そして、加藤望美と遠山健一、蒲生哲夫である。蒲生と同じような道を歩んだ者が、この四十人の中にもう一人いたが、ここでは名を伏せる。
法学部を卒業したあと、隅田は経済学部三年の教室にいた。『資本論』を理解したかった。高校を出るときに拒んでしまった経済学部のことが、ずっと心の片隅にあった。
経済学部での二年は、あっという間に過ぎた。卒業間近になって、指導教員に「これからどうする」と問われた。大学院に推薦するから、もう少し勉学を続けてはどうか、ということであった。隅田は、まわりの学生たちが自分よりずっと若く見えることに気づいていた。「もう良いです。学校を去ります」と答えた。母方の伯父が県議会の議長を務める縁を頼り、試験を受けてN県庁に奉職することになった。
就職先が決まっていた隅田は、経済学部の卒業式には出ず、谷川岳へ向かった。春山とはいえ谷川岳の雪は深く、山仲間と雪に穴を掘って夜を過ごすには十分な量であった。帰りの上越線の車窓から、コブシの白い花が咲いているのが見えた。山から帰ると、知り合いが隅田に「なんだか朗らかになったね」と声を掛けた。辞令を受けて県庁の職務に就く日は、間近に迫っていた。
学生でいるのはここまでだ――隅田はそう自分に言い聞かせて、N県へ向かう最終列車に乗った。見送る者は誰もなかった。加藤望美のことが、ふと頭をよぎった。
あとで知ったことだが、その年の経済学部では、必修科目である財政学の教授の気まぐれで半数の者が単位を落とし、卒業を一年先延ばしにされていた。卒業に無頓着だった隅田がこれを知ったのは、数年も後のことであった。この大学は再試験制度を廃止していた。
遠山健一は、加藤への想いに始末をつけられないまま卒業した。就職はせず、北アメリカへ渡ってバックパックひとつで旅に出た。傷心の旅でもあった。遠山の消息は、それきり途絶えた。
第七章 緑の暖かい風
卒業から数年が経ったある日、隅田肇のもとに一枚の写真が届いた。相沢俊夫からであった。奥さんと幼い子どもと三人、和服姿で実家の玄関の前で写したものだった。裏には「ボブ・ディランの詩集は今も大事に持っている」と書かれていた。ボブ・ディランへの思いは薄れても隅田肇の心遣いへの感謝は強いままであった。消息の知れなかった空白の向こうで何があったのか。一枚の写真は、それが幸福に辿り着くための青春の彷徨であったことを物語っていた。
N県庁での隅田肇の勤めは、平凡なものであった。職員がひとり気張ったところで、できることはしれている。組織の一員として決まった仕事をこなすことが勤めであった。書類をつくり、判子を押してもらいに上司の席を巡る。そうした日々が続いた。隅田は農業行政にも携わった。県庁の職員は仕事を選べないが、生まれ故郷のN県の行政に携わることに、隅田は不満を持っていなかった。若いころのように理想を語り合う相手は、いなかった。
アルプスの山々が近いこともあって、隅田は山登りで憂さを晴らした。山は、いつしか生きる励みになっていた。
一九七九年の夏、北アルプスからの帰り道に、大町市の奥にある湯俣温泉の山小屋、晴嵐荘に泊まった。早々に山を下り、河原のあるこの山荘でくつろぐつもりであった。
晴嵐荘は老夫婦が営んでいた。古い大きなステレオからは、都はるみの演歌が大音量で流れていた。食事の支度をする老夫婦の屈託のなさに、隅田は救われる思いがした。空は青く、真夏の草むらには、夏を過ごしに山へ登ってきた赤トンボが群れていた。この山荘は、電源開発のためのダム工事で賑わったことを知るのは後のことである。大きなダムができ、発電所がいくつも建設された。
午後三時を過ぎて、暑さは真昼のままの晴嵐荘にひとりの青年がやってきた。その日の宿泊者は、隅田と青年の二人だけであった。青年は入り口に立つとひょいと虫を捕まえ、当たり前のような口調でその虫の説明をした。それが初対面の挨拶の代わりだった。隅田は彼に好感を持った。明日はこのあたりで虫を採るのか、それともアルプスに踏み込むのか、隅田はあえて聞かなかった。老婦人は青年を見て「お母さんは大柄な人でしょう」と言った。見事に当たっていた。
後になって思えば、青年の姿は養老孟司や、早稲田大学の虫捕りの会で蝶班にいた田渕義雄に重なった。世代の違う二人が浮かんだのは不思議である。虫捕りもまた、生きる楽しみのひとつなのだ。あの青年はいまどこで何をしているのかと、隅田はときどき思う。
話が飛んでしまう。蒲生哲夫には誰にも語らずにいる秘密があった。学生時代に自治会の副委員長を務めていたある男が、公安警察への通報者だったのである。郷里に帰っていたその男を訪ねた者がその事実に行き当たり、それが蒲生に伝えられた。蒲生はこのことを誰にも語らない。おぞましくて、口にできないのである。順調に進んでいると思われがちな人の人生にはときに深い闇が忍び寄る。
人との距離が近い昆虫好きの青年の天真爛漫さというか、大らかさというか、あるいは爽やかさというか、そのような人の生き方への憧憬を隅田肇は抱くようになった。蒲生哲夫が口を閉ざした公安への通報者のことを隅田は知らない。
隅田肇は県庁の一室で書類を作る日々を送っていた。氷の世界にいるはずの加藤望美のことが、いつも心のどこかにあった。その加藤望美から、予測もしない電話がかかってきた。司法試験のことがどうなったか不明だが、いまは芸術として写真を撮っているという。川上村に滞在して牧畜と高原野菜の農業の暮らしの様子を撮影している。なぜ自分の電話番号を知っているのかと一瞬戸惑ったが、N県庁の職員なのだから、県庁に電話すれば分かることであった。隅田肇の心に火が灯った。隅田肇は、自分をいつも襲う寂しさは何なのかをうすうす知るようになっていた。深夜喫茶で二人のウール地のコートを重ねて肩から膝に掛け、朝まで話したあの夜のことが心から離れないことによるものであった。
あのときの加藤望美の心情はどうであったのか。十分な好意を隅田肇に寄せていたように思われた。あれは氷の世界に飛び込む決心をするための、彼女なりの儀式であったのか。ずっと分からないまま心の底に抱いているしかなかったが、加藤望美はあの時、確かに何かを求めていたのである。このことへの確信が隅田にはあった。
野辺山高原は北西の空に八ヶ岳連峰が聳え、真夏の太陽が真上から降り注いでいた。その空の下に隅田肇と加藤望美の姿があった。加藤望美は恥じらいをみせたが、それは一瞬だった。幼さを残す二十二歳のときの別れから二人はあの時のことを心に残したままでいた。野辺山高原の明るい太陽は素直なままの加藤望美にさせるのに十分であった。加藤望美の笑顔を見て隅田肇はそれをそのままに受け入れた。
五月には白い花を一杯に付けたヤマナシの木は枝を大きく広げて、その緑の葉に陽光を集めていた。陽光は葉から枝にそして幹からさらに根へと吸い込まれ、土の下で暖かい大きな塊をつくっているようであった。隅田肇と加藤望美は青々と繁ったヤマナシの木の下にいた。八ヶ岳の稜線の向こうに幸せが見えるようであった。稜線の先は諏訪であり、松本であり、長野でもあった。いずれも盆地であり、それがN県の特徴であった。N県の職員は、これらの地域を定期的に異動しながら働く。
あの稜線に登ればN県が見渡せると隅田肇が言った。加藤望美が微笑んで答えた。「二人で登りましょう」。この夏のある日のこと、八ヶ岳の赤岳から横岳へと続く稜線に隅田肇と加藤望美の姿があった。
白いビニールに覆われた苗は大きく育ち緑の畑地に変容する。そうした真夏の野辺山高原のレタス畑が足元に広がっていた。大らかな高原の広がりは二人の心の解放に似ていた。熱せられた野辺山高原の空気が暖気となって上昇して稜線を越えて諏訪方面に抜けていった。南の空には富士山が見えていた。富士山の風が絡まって少しの渦を巻いて赤岳を越えていった。加藤望美は両手を広げて緑の風と戯れた。時間も空間も太陽も風も二人のためにあった。緑の暖かい風が二人を包んだ。
加藤望美はこのままでいい、ずっとこのままがいい。加藤望美は隅田肇に手を伸ばした。手は固く結ばれた。
2026-09-22-five-days-of-training-on-how-to-use-ai-