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見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」
Five days of training on how to use AI

一九六八年、桜の咲く季節に、専修大学法学部の新入生たちがある居酒屋に集っていた。その中にはひとり、明治大学文学部に通う者が混じっていた。日本武道館での入学式を終えた新入生たちは、桜吹雪の舞う内堀を抜け、神田へと流れてきたのだった。桜通りに続くすずらん通りを漂う夜風が、頬に心地よかった。学生たちの青春の姿がそこにあった。ここに集った五人の若者の輪から離れて、心を寄せながらこれを見ていた者がいた。

見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」2026年9月27日・@森夏之

旅のエッセー集 甲斐鐵太郎

見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」2026年9月27日・@森夏之



作詞は山上路夫である。詩の舞台となった喫茶店は東京・御茶ノ水の喫茶店「丘」が想定された。


二〇二五年四月二十九日、野辺山高原のレタス畑の農道を訪ねた。あのヤマナシの木が白い花を咲かせるころである。木は消えていた。前の年の七月十日に、強風で倒れた。


五月には白い花を一杯に付けたヤマナシの木は枝を大きく広げて、その緑の葉に陽光を集めていた。陽光は葉から枝にそして幹からさらに根へと吸い込まれ、土の下で暖かい大きな塊をつくっているようであった。


野辺山高原の野菜畑の向こうに見える八ヶ岳が好きだ。捨てられた物置か牛小屋に逗留して夏場を過ごすことが夢であったのは若いころのことである。赤岳から硫黄岳に向かう横岳の稜線の眼下に広がる、白いビニールシートの野菜畑に注ぐ夏至の太陽は、南というよりむしろ真上から降り注ぐようなものであった。


野辺山高原から海の口の西武不動産が開発した別荘地のなかにある、八ヶ岳音楽堂に足を向けた。吉村順三が設計し、1988年に竣工している。


南の空には富士山が見えていた。富士山の風が絡まって少しの渦を巻いて赤岳を越えていった。加藤望美は両手を広げて緑の風と戯れた。時間も空間も太陽も風も二人のためにあった。緑の暖かい風が二人を包んだ。

見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」 2026年9月27日・@森夏之

序

 東京・神田。古書街の裏通りには文具屋やレストラン、居酒屋が並んでいた。表の靖国通りには洒落たビヤホールがあり、古書店街を歩く人混みがこの街の活気を物語っていた。古書店やそれに並ぶ岩波書店は巨大な本棚のようであった。学生たちにとって古書店街は、研究書や掘り出し物の資料を探す場というより、定価販売の本を少しでも安く手に入れるための場所であった。ある名の知れたビヤホールがビルの二階にあり、鈴木というオーナーがリズムよくジョッキにビールを注いでいた。このビヤホールは後に、NHKの朝ドラ「ひらり」で主人公が食事をする場面のロケ地にもなる。学生たちは、この「ランチョン」でカツレツを食べることを楽しみにしていた。神田・神保町の学生街に若者たちが集っていた。

 一九六八年、桜の咲く季節に、専修大学法学部の新入生たちがある居酒屋に集っていた。その中にはひとり、明治大学文学部に通う者が混じっていた。日本武道館での入学式を終えた新入生たちは、桜吹雪の舞う内堀を抜け、神田へと流れてきたのだった。桜通りに続くすずらん通りを漂う夜風が、頬に心地よかった。学生たちの青春の姿がそこにあった。ここに集った五人の若者の輪から離れて、心を寄せながらこれを見ていた者がいた。

第一章 ボブ・ディランの「風に吹かれて」

 一九六八年の春、隅田肇(すみだ はじめ)は神田にある専修大学法学部に入学した。靖国通りにはまだ都電が走っており、行き先は渋谷と新宿であった。隅田は専修大学前から都電に乗って、よく渋谷へ遊びに出た。その都電は一九七〇年の春には姿を消す。自動車優先の社会思想が背景にあった。

 専修大学の神田校舎は小さく、古色然としていた。隣には英語学校のエレックがあり、校舎のまわりには木造二階建ての小さな印刷工場が散在していた。この地には出版社が集まり、それに付随して印刷工場が集積していたのである。印刷工場はその後、徐々に周辺に散らばっていく。それは、東京の産業構造の変化がもたらした結果であった。

 隅田肇の下宿は、新宿から京王線で少し行った明大前にあった。隣の部屋には、明治大学文学部に入学した同い年の相沢俊夫(あいざわ としお)がいた。相沢はボブ・ディランの英詩が持つ謎めいた世界観に深く魅せられていた。単語の組み合わせが紡ぎ出す神秘的なイメージは、日本の文学や詩とは明らかに異なっていた。アイルランド民謡の影響を背景に持つディランの歌と、自らの東京での学生生活をいかに結びつけ、読み解くか。その探求こそが、相沢俊夫が英文科に身を置く最大の理由であった。

 大学は荒れていた。東大と日大では紛争が激化し、この年、御茶ノ水の通りにはコミューンさながらの学生の騒乱が現出した。この騒乱の渦の中にいたことを隅田肇に熱気を帯びて語る三学年上の者がいた。隅田たちが入学した翌年一月には東大安田講堂の事件があった。神田と御茶ノ水にある中央大学、明治大学、日本大学、専修大学も騒乱の渦に巻き込まれ、学生たちは落ち着かない日々を送っていた。法政大学と東京理科大学も近くにあったが、それぞれ市ヶ谷と飯田橋であったから、神田はこの二つの大学の学生とは距離があった。

 時代は高度成長期で、諸物価が高騰していた。国立大学も私立大学も授業料の値上げを繰り返し、東大・日大闘争の余波は神田・駿河台一帯の大学にも及んでいた。専修大学でも学費の値上げがあり、古い神田校舎を取り壊して高層の校舎に建て替える計画が進んでいた。私立大学への国の助成は、現在に比べれば無いに等しかった。相次ぐ値上げに、学生も教員も私学への公費助成を求めて声を上げた。

 当時、国立大学の授業料は月額千円、年額にして一万二千円であった。隅田肇の三歳年下の弟が一浪してある国立大学に入学したときには、授業料は三倍になっていた。それでも国立大学の授業料は、私立大学に比べて格段に安かった。私立大学での授業料値上げ反対運動は、この国立大学との格差と物価の高騰を背景にしていた。桜通りの端にある中華料理屋の酢豚定食は三百円。国立大学のひと月の授業料の三割ほどである。その定食に、隅田は憧れていた。酢豚の肉の量は格別に多かった。

 専修大学神田校舎は、門をくぐると中庭に出る。中庭を進むと教室への門があり、その左脇に学生自治会室があった。蒲生哲夫(がもう てつお)は入学してまもなく民主青年同盟に加わり、翌年には自治会の執行委員になっていた。隅田肇を含む、五人の仲間のひとりである。

 蒲生の役目は、大きな立て看板に模造紙を貼り、学費値上げ反対と日米安保条約廃棄を訴える檄文を書くことであった。学生の登校時刻にはビラを配り、そのあと教室に行って「何故ならば」と声を張り上げて演説した。それが済むと自治会室に戻り、翌日のビラをガリ版印刷機で刷った。三年生になると、その役はガリ版切りに変わった。文章は蒲生が考える。ビラは毎日新しく出した。事態の切迫感を演出するためであった。土曜と日曜には立て看板を書き換えた。

 蒲生たちには必読とされる本があった。小林多喜二が地下活動を描いた『党生活者』と、獄中で十二年を過ごした党の指導者とその妻の作家が交わした書簡集『十二年の手紙』である。蒲生はそれを読んで英雄の姿を思い描いた。自己犠牲への恐怖と、その自己犠牲が普通に暮らす家族とどのように関係するのか。もう少しの穏やかさがあっても良いのではないか。社会主義や共産主義への考え方が狭く鋭く定義されているように思えて、そのような状態に身が縮んだ。だが、運動の大義には同意するほか無かった。

 民主青年同盟に加入するとすぐに運動に没頭する自分にかすかな疑問をいだく蒲生であった。兵隊だって新兵教育をしてから戦場に送られる。戦争の現場を指揮するのは士官であり、士官学校や兵学校での教育の後のことである。大学生活の四年間に社会改革の理論と思想を学んで社会改革者になれるのか。それはあるいは一時の熱狂に過ぎないのではないか。蒲生哲夫は平凡に生きてきた人間が「闘士」に瞬時に変容するという自分の姿を不思議な思いで見ていた。

 三年の春からゼミが始まった。隅田と同じゼミには、遠山健一(とおやま けんいち)、蒲生哲夫、加藤望美(かとう のぞみ)がいた。蒲生はすでに自治会の執行委員長になっていたため授業にはほとんど顔を出さず、結局は単位を取れなかった。

 加藤望美は司法試験を目指していた。彼女の気迫に、隅田は圧倒された。加藤望美は当時の法学部において一割にも満たない女子学生の一人であり、背が高く細面で、美しい黒髪をした美人であった。男たちが加藤に関心を寄せるのは自然なことであった。遠山健一もまた、そのひとりであった。加藤望美を知る幼友達や高校の同級生は教育系の大学に進むと考えていた。体育が向いていて、体育教師として指導の笛を吹く姿こそ、周囲が思い描く望美の姿であった。

 松川事件は一九六三年九月十二日の最高裁判所で検察側の上告が棄却され、被告人全員の無罪が正式に確定する。GHQが国鉄労働組合(国労)の活動を抑え込むため仕組んだとする説がある。労働者被告の弁護団に後藤昌次郎がいた。松川事件が起きた一九四九年には三鷹事件があり、一九五二年には、鉄道事件ではないが辰野事件があった。望美の父親は三鷹事件を取材していた。書棚には三鷹事件のファイルがあった。共産党による警察署襲撃をでっち上げた辰野事件、松川事件のファイルもあった。林百郎は松川事件、三鷹事件、辰野事件の三つの事件で弁護人を務めた。望美には、弁護士として働く自分の姿が想像された。

 隅田は、蒲生や相沢のように意識が高い学生がいることと、何となくということで日々を送っている自分を対比していた。隅田の祖父母、父母は公務員であり、住まいは役所への通りにあった。勉学は飛び抜けてはいなかったが駄目ということでもなく、自分では上のほうに位置していると思っていた。将来、何になるかということは考えてはいない。ただ店先で算盤を弾く商いの仕事は性に合わないと思っていた。学生活動家として、これに没頭する蒲生、そしてボブ・ディランの詩に魅せられて、その内容を哲学的に解釈することで一人悦に入る相沢には軽い嫉妬心を覚えていた。彼らと比べて、自分はひどく平凡な人間なのだと決めてもみた。

 専修大学の経済学部には、マルクス主義経済学を教える荒木忠一教授がいた。荒木は海軍兵学校の生徒であった。兵学校にいたとき、彼は江田島から北の空に、広島に落ちた原爆を見た。窓ガラスが激しく揺れ、キノコ雲が立ち上った。

 終戦で兵学校が閉校になると、荒木は五年制の旧制会津中学校に復学した。そこから旧制浦和高校の理科に進み、新制の東京大学では文学部で歴史を専攻した。兵学校を追い出された生徒たちの多くは、似たような道を歩んだ。旧制浦和高校は、旧制東京帝国大学への進学実績において旧制第一高等学校に次ぐ存在であった。

 戦時中、旧制高等学校や大学の理科の学生には徴兵猶予があった。理科を選んでこの恩典に浴そうとする者、理学、工学で国家の役に立とうという者の二通りがあった。終戦で徴兵がなくなると、理科から文科に転じる旧制高校生が相次いだ。専修大学法学部教授の大嶋太郎もその一人である。大嶋が法学部長を、荒木が経済学部長を同じ時期に務めたこの二人は、旧制浦和高校でも同じ時期に学んでいた。二人とも理科から文科に転じ、大嶋は東京大学法学部に、一年遅れて荒木は東京大学文学部に入学した。のちに隅田肇は、法学部では大嶋教授の、経済学部では荒木教授のゼミに入ることになる。この偶然をどう理解したらよいのか、隅田は考えるのであった。大嶋教授は東大を卒業したのち、東大の社会科学研究所の研究員として、各地の農民が農民組合をつくって活動する様子を調査していた。大嶋太郎が転科する前の旧制浦和高等学校の理科の同級生に井伊浩市がいた。井伊浩市は工学部応用物理学科を卒業して政府の工業技術院に属する技術研究機関に入職し、後に通商産業省工業技術院の院長になっている。東京大学社会科学研究所で大嶋太郎の先輩にあたり、農村と漁村の組合運動の調査・研究を一緒にしていたのが福島新吾である。福島新吾がこの時代の東大社会科学研究所における組合活動と連動した党活動の手記を残している。福島新吾と二人でアダム・スミス『国富論』を輪読した吉瀬維哉(よしせ しげや)はすぐに大蔵省に入り、後に事務次官になった。福島新吾は東大社研を退職し、専修大学に転じ、法学部長に在任した。大嶋太郎は隅田肇の経済学部への学士入学の推薦者であった。東大駒場キャンパスで反イールズを掲げた試験ボイコット時、自治会副委員長を務めた荒木忠一。その同じ駒場に、井伊浩市もまた在籍していた。人のつながりの奇妙にも見える縁がある。

 福島新吾が吉瀬維哉とのアダム・スミス『国富論』の輪読に関係して残した次の言葉がある。「この事なかなか容易ではあるまい。根気を要する。しかしやりとげれば二人の為に大きな益を残してくれるだろう。敗戦後の平静を失った心のよりどころにも資するため大いに力を注ぎたいと思う。最近いろいろ反省してみて如何に自分が流れに逆らっているつもりで流されていたかを痛感し、自信を失っている」

 東大駒場の学生自治会で、荒木は副委員長になっていた。レッドパージに反対して試験ボイコットのストライキを決行し、委員長とともに責任を問われた。委員長は退学処分となったが、荒木の学生という身分は残された。文学部で歴史を学ぶうちに、歴史の根幹を流れる経済のことが強く心に迫るようになった。大学院では経済学を選び、山田盛太郎にマルクス主義経済学を学んだ。山田の再生産表式分析は、資本主義経済を分析できるものとして注目されていた。歴史学から転じてきた荒木の力量を慮ってか、山田は急いで経済学の手ほどきをしようとはしなかった。

 大学院を修了すると、荒木は法政大学の助手となり、続いて広島大学の専任講師としてマルクス主義経済学を担当した。一方、山田盛太郎は東京大学を定年退官して専修大学に移り、経済学部長となっていた。この時代の専修大学経済学部は、山田によって牽引されていた。決して丁寧な振る舞いをする人ではない山田が、荒木のために経済学部助教授の席を用意して呼び寄せた。広島では研究に不便だろうというのが理由であった。荒木には、広島大学は居心地のよい場所だった。山田と荒木の関係は、時代を映す師弟の姿でもあった。

 駒場でストライキを打って責任を問われた過去を知る学生のあいだで、荒木は人気があった。自治会の委員長となった蒲生にとっても、心強い存在であった。その荒木が、ある時期に学生部長の役職をあてがわれた。学生部長は学生自治会との折衝の矢面に立つ。大学の管理者として学生と向き合う立場に、荒木教授はさぞ苦笑いしていたことだろう。

 専修大学はマルクス主義経済学を教える大学として、それを知る学生には人気があった。隅田は高校を卒業するとき、京都のミッション系の名門私立大学の経済学部に合格していた。だが当時の彼には経済学が算盤の学問に思えて入学に踏ん切りがつかず、結局、専修大学の法学部を選んだ。入学してからマルクス主義経済学の中身を知り、それが算盤ではなく社会科学としての経済学であると分かったとき、隅田は「しまった」と思った。彼は法学部に籍を置いたまま、経済学部の授業を熱心に聴講した。荒木の講じる経済学はこの世界を知る手がかりであり、足がかりであると強く感じ、基礎の基礎からやり直すつもりで『資本論』のページをめくりはじめた。

 隅田は、経済学部教授の内田義彦(うちだ よしひこ)の『資本論の世界』を繰り返し読んだ。この本は『資本論』の内容を具体的に説くのではなく、『資本論』の視点に立つと人間と社会がどう見えるかを読み解くものである。資本主義の現実と人間回復の課題を結びつけようとする試みであった。隅田にとって内田教授は神様のような存在であり、その門下生として博士課程を終えた先輩から、『資本論の世界』の内容をたびたび教わった。人間と社会がどう見えるかを知るには、まず『資本論』を読まなければならない。のちに隅田が法学部を卒業してから経済学部に学士入学したのは、そう考えたからである。『資本論』を読んでも、内田教授の視点を得ることは難しかった。それでも隅田は同じような視点に立って、人間と社会の関係が生まれる経済的な背景を考えようとしている。内田教授もまた東京大学経済学部の出身で、山田盛太郎の門下生であった。

 隅田は経済学説史を理解しようと、アダム・スミスの『諸国民の富』(国富論)と『資本論』のページをめくった。内容を理解しようとするよりも、書き手がどのような思いで書いているのかに関心があった。『資本論』からは、ドイツ的な弁証法の方法が何となく伝わってきた。隅田の『資本論』は、神田の古本屋で見つけた、弁証法的な論理を色濃く残す訳本である。ほかの訳本を読むと、内容の薄い解説書のように思えてならなかった。

 専修大学には、マスコミ論の講義を受け持つ瓜生忠夫という講師がいた。映画評論家として知られた人である。東京帝国大学のドイツ文学科を出て、在学中は帝国大学新聞の編集長を務めた。共産党員であったために、一九五〇年にはレッドパージに遭っている。瓜生はいつも生真面目な顔で講義をした。受講生は五人ほどしか集まらなかった。顔を覚えられた隅田は欠席するのがためらわれ、結局、最後まで講義を聴き通した。瓜生はテキストを指定せず、試験もしなかった。授業の感想文を書かせて試験に代え、隅田の文章には最上級の点をつけた。

 卒業して二十五年ほど経ったある日、隅田は神田の古本屋で、瓜生が書いた駅弁の本を見つけた。『駅弁マニア』という。講演旅行の折に食べた駅弁の包装紙を持ち帰っては整理し、全国の駅弁を食べ歩いた経験をまとめた、楽しい本であった。奥付を見ると、隅田が講義を受けていたころには、すでに出版されていた。あの生真面目な講義には、食いしん坊の気配はなかった。隅田は本を手にしてクスッと笑うのであった。

第二章 一九七〇年六月二十三日 デモの隊列にいる者がすべて仲間に思えた

 一九七〇年、安保条約廃棄は学費値上げ反対と抱き合わされ、闘争課題となっていた。専修大学神田校舎の学生自治会室には、蒲生哲夫ら執行委員が閉門まで詰めてガリ版を切っていた。

 日米安保条約が自動延長される当日の六月二十三日、専修大学の学生自治会はストライキを打ち、学生たちは夜の統一デモに出て行った。先頭に立つのは蒲生である。隅田肇は誘いに応じて、隊列に加わった。なぜか加藤望美が隅田の隣にいた。隊列の端には遠山健一の姿もあった。

 専修大学学生自治会の旗が高く掲げられ、学生の長い隊列が続いた。遠くには自治労などの旗が見えた。機関紙印刷の旗を持っていたのは、隅田の高校時代の同級生であった。

 リーダーが「風に吹かれて」の最初の一節を歌い、皆がそれに続く。どれほどの死者が出れば人は気づくのか、その答えは風だけが知っている――突き放した、哲学的な詩である。日本の街頭に英語の歌が流れる。それは国際連帯を醸し出すものでもあった。ジョーン・バエズの「ウィ・シャル・オーバーカム」が感傷的に歌われ、五つの赤い風船の「遠い世界に」も、若者たちの愛唱歌になっていた。

 労働者、商工業者、婦人団体、学生たちのデモが都心を埋め、長い隊列が深夜まで行進した。隅田肇には、隊列にいる者がすべて仲間に思えた。

 その夏、学生たちの組織は最も盛り上がりを見せた。山中湖畔では平和友好祭が開かれ、テントやバンガローに泊まった若者たちが、砂浜に篝火を焚いて「燃えろよ燃えろ」などの青春歌と労働歌を歌い、踊った。燃え上がる炎は、青春と夏の輝きに重なって見えた。隅田肇と加藤望美がいた社会科学研究会は、山梨の四尾連湖で学習合宿をした。

 学生組織は鎌倉の海の家に集まって、目指す社会の姿と運動の進め方を学び合った。隅田は蒲生に誘われて、この合宿に参加した。講師は内田義彦の指導を受けて博士になっていた先輩で、その内容は『資本論の世界』そのものであった。

 合宿の合間には、浜辺で横笛を吹いたり駆けっこをしたりして笑い合う男女がいた。女は加藤望美で、男は、のちに自治会の委員長になる下級生であった。その下級生の無邪気さに、加藤望美は調子を合わせていた。海に入った一人は、見事なバタフライで泳いでみせた。鎌倉の海は明るく輝いていた。隅田は砂の上に座り、その光景を眺めていた。加藤望美の父親が読売新聞の記者であることを、隅田は彼女から聞いていた。

 四か月後の十月二十一日には、国際反戦デーのデモがあった。自治会は再びストライキを打ち、学生たちは夜の統一デモに出て行った。先頭にはやはり蒲生がいた。六月と同じように、隊列には隅田と加藤と遠山の姿があった。卒業まであと一年余り、三年生の秋である。それぞれの胸の内には、進路への思いが交錯していた。

 ストライキは、全学生の投票で決まった。決まると大学は授業を休講にした。事実上、ストライキ権が認められていたのである。それでも、自治会の委員長としてストライキを打つことは、退学を覚悟してのことであった。誰かが身体を張らなければ、運動は前に進まない。

 ある日、蒲生の父親が学生課に姿を見せた。職員たちの前での面会であった。父は息子の身を案じる言葉を口にした。蒲生には父の気持ちが分かっていた。だが引くに引けないことを、察してもらうしかなかった。蒲生の弟は地方の国立大学で寮に暮らしていた。そこでも学費値上げに反対する不払い運動があったが、家に届いた支払通知書の通りに、親はさっさと納めていた。大学卒業が生きていくために役立つということが父親の思いであった。蒲生の出身地の岩手県ではある町の三百六十人いる中学校生徒のうち高等学校に進む者がやっと六割になったところであり、三百六十人のうち大学に進むのは十二人ほど。このうち国立大学に五人進むという状況であった。親にしてみれば、何としても無事に卒業してほしいのであった。

 安保条約は延長され、学費値上げの阻止も果たせなかった。値上げの幅にいくらか手心が加えられたにすぎない。目標だけを見れば敗北であった。秋が過ぎて冬になると、組織が会議を招集しても、集まるのは三分の一ほどになった。各学部の幹部学生からも、姿を見せなくなる者が出た。会議に出ない者は、大学にも顔を出せない。教室でストライキを呼びかけ、立派な論理を説いていた者が、ある日突然大学から消える。蒲生はそういう仲間を何人も見た。幹部であれば授業には出ない。活動をやめることは、大学に来なくなることと同じであった。学問の楽しみも、社会に出るための切符である卒業も、彼らは事実上諦めさせられていた。

 蒲生の目には、別のものも見えていた。活動に加わる女子学生たちの必死さと健気さである。いちばんの重荷は、自分の立場を明かして機関紙の購読を頼んで回ることだった。こんなことを一生続けるのか。そう考えずにはいられない活動の苦しさは、恋愛への憧れと隣り合わせにあった。女子学生の三割ほどが、組織の男と結ばれていった。

 激しい闘争と、そこでの敗北を、隅田肇は蒲生哲夫の姿を通じて見ていた。蒲生はへこたれずに孤塁を守っていた。その強さがどこから来るのか考えてみたが、分からなかった。

第三章 サイフォン珈琲の「ダボス」と学生街の喫茶店

 明治大学文学部の相沢俊夫と隅田肇は、下宿が同じこともあって、空いた時間によく珈琲を飲んだ。お気に入りは、神田小川町のミズノ本店の裏にある「ダボス」であった。御茶ノ水から明治大学の坂を下り、靖国通りを渡った先の路地にある。一九六六年に開いた小さな店である。マスター(主人)は日産・フェアレディの開発者のことをよく話題にした。隣に住む人だったからだ。相沢俊夫はボブ・ディランの英文の詩を日本語に訳しては、レコードに付いている「訳詞(対訳)」は違う、こうでなければならないとブツブツ言った。ライナーノーツの解説にも文句を付けた。そこに書かれたアーティストの歴史やレコーディングの裏話は果たして本当か、などとも言う。相沢俊夫の話し相手として、隅田肇は重宝であった。

 「ダボス」はアルコールランプのサイフォンで珈琲を淹れた。ランプの火がフラスコの底を熱する。湯が上のガラス容器に吹き上がったところで粉を攪拌すると、湯と粉は泥のように混ざり合う。頃合いを見て火を落とす。その火の止め方で、珈琲の濃さが決まる。フラスコが冷えて気圧が下がると、上のガラス容器の珈琲が吸い下ろされる。粉はネルのフィルターに残り、良い色の珈琲ができあがる。小ぶりのカップで出されて、一杯百五十円であった。

 日中の「ダボス」はミズノの社員の息抜きの場であった。夜になると博報堂の社員や、名の通った紙の卸店の社員が顔を出した。午後五時を回ると、店主はカウンターの下から一升瓶を取り出し、常連と飲みはじめた。話題の中心は競馬の予想で、休日の前には馬券の手配をしていた。近所で育った司法浪人も常連のひとりであった。五時を過ぎて店に行くと、隅田は決まってジントニックを注文し、相沢もそれに倣った。ときどき一緒になる遠山健一は、いつも珈琲だった。

 神保町の交差点を挟んで、専修大学寄りの向かい側には「エルマーナ」という喫茶店があった。スペイン語で「姉妹」という意味である。ときどき姿を見せるママの妹のことかと思ったが、名の由来を聞いたことはない。広めのフロアーをママが一人で切り盛りしていた。明治大学を出た主人には早くに先立たれた。ママが主人の話をするときには明治大学の名と繋ぎ合わさった敬服の情を強くにじませた。「エルマーナ」は夜遅くまで開いていたから、学生には好都合であった。蒲生たちは毎日のようにここで珈琲を飲み、懐疑をした。

 加藤望美はママのお気に入りの女子学生であった。活発な中に憂いを見せていて、男たちの視線を浴びていることも気がかりだった。ママは進んであれこれ話しかけ、いつしか望美の身の上の相談役になっていた。望美には何となく張り詰めたところがあった。まだ幼さを残していたうえに、美人であったから、ママは寄ってくる男たちを警戒していた。夜遅くまで法律書を読んでいる加藤望美を、ママは応援していた。隅田が加藤望美の身の上を知ったのは、ママの口からであった。

 隅田は、遠山が加藤望美を目で追っていることに気づくようになっていた。人が人を好きになるのには理屈はない。大学を卒業してずっと後になって、隅田は、あのころある女性が自分に好意を寄せていたことに気づいた。その女性との距離は、縮まらないままに終わっていた。

 卒業が近いある日、隅田肇は加藤望美に喫茶店へ誘われた。夜遅くのことである。二人は飯田橋にある大きな深夜喫茶に出かけた。終電が過ぎ、二人は明け方までそこで過ごした。話はとりとめのないものだった。思いつめたように声をかけてきたのに、加藤望美はいつもと変わらない調子で話し続けた。呼び出したときの緊迫したようすを、望美は隠してしまった。いつもの素直な加藤望美として振る舞っていた。

 周囲の人々は、隅田肇と加藤望美が将来一緒になるのだろうと見ていた。エルマーナのママも同じであった。だが二人は、互いの好意口にすることがなかった。隅田肇はもう少し時間が欲しいと思っていた。このままの付き合いを続けるのが良かった。それは、彼女が司法試験に挑んでいることを考えてのことであった。そっとしておかなくてはならない。今ここで結婚という重荷を背負わせてはならない。自分はあと二年、別の学部で勉学を続ける。会う機会はあると考えていた。

 二人はコートを二枚重ねて肩から膝を覆った。加藤のコートは暖かく、それが上等な仕立てのものであることを隅田は知った。

 加藤望美からの連絡は、それきり途絶えた。隅田も連絡しなかった。加藤望美は司法試験という、冷たく厳しい氷の世界に飛び込んでいったのだ考えた。そっとしておくしかなかった。

 エルマーナのママは望美と隅田に好意的であった。経済学部に学士入学して、大学を二年延長しているときに、隅田が下級生の女子学生と話していると、「駄目」という目配せをした。これが望美と隅田を見る周囲の目であった。忠告を受けて隅田は女性との距離が近くならないようにした。

 「あのときに おもいきり なけたら いまごろ ふたり ここでうみをみていたはず」。隅田にはそのフレーズが空しく聞こえる。望美はどうなのか。

 ガロの「学生街の喫茶店」がどこからか流れてくるたびに、隅田はあの夜を思い出した。聴いていると照れくさく、きまりの悪い歌詞である。曲はどこかで聴いたことがあるような気がして、それが不思議であった。作詞は山上路夫だと誰かが語るのが聞こえた。山上路夫の綴る歌詞は、どこか現実味に欠けていると隅田は感じた。歌詞の舞台は御茶ノ水の喫茶店「丘」だとも言われるが、作詞者本人は否定している。どこにでもある情景だから、誰もが自分の通ったあの喫茶店ではないかと思う。得な歌である。

 それから三十年余りが過ぎた二〇〇〇年代の初め、隅田はN県の東京事務所に勤めることになった。二年ほど、飯田橋に寝泊まりした。加藤望美と明け方まで過ごした、あの深夜喫茶のあった町である。

 仕事の合間に事務所を抜け出して、隅田は再び「ダボス」の扉を押した。創業が明治の末という萬楽飯店の前の路地を入ったところである。店の真ん前には小さな神社があり、梅雨どきにはアジサイが咲いた。このあたりには、木造二階建家がある。東京大空襲の被災から復興した粗末な住宅である。隅田より十年年長の同郷の男性が東京電機大学卒業後にこの地に三十歳過ぎて住んでいたことに納得した。家賃が昔のままで住んでいられたのである。地権者不在の住宅だった。

 珈琲は二百五十円になっていた。これ以上値段を変えないという店主の決意を示すように、品書きは銅板に刻まれていた。サイフォンで淹れる珈琲は相変わらず上等であった。水は東京都の水道水である。壁に埋め込まれたクーラーは三十年も使っていて、ガラガラと音を立てていた。隅田はスポーツ新聞を広げながら、店主の話を聞いた。落合博満が監督にならない理由を、店主はいくつも並べてみせた。落合はその後、見事に監督業を務めた。人の見立ては難しい。

 午後五時を回ると、店主はカウンターの下から一升瓶を取り出した。博報堂の社員と紙の卸店の社員がやって来て一緒に飲む。話題は競馬の予想であった。ときどき司法浪人が顔を出した。新しくできる法科大学院に期待を寄せているのだと、店主が話していた。司法試験という言葉を聞くと、隅田は若いころの望美を思った。隅田は昔と同じように、ジントニックを頼んだ。「ダボス」は二〇一六年に五十周年を迎えていた。

第四章 ボブ・ディランの詩集

 隅田肇は、卒業後も二年、大学に残ることが決まっていた。隣室の相沢俊夫とはこれでお別れである。ボブ・ディランを神のように崇める相沢が、ディランの英文の詩集を持っていないことを隅田は知っていた。隅田は『タランチュラ』の原書を古書街で探し出していた。それを渡し、ひとこと「あばよ」と言った。

 卒業式の日の蒲生哲夫の姿を、隅田は深い感慨をもって見ていた。ご苦労だったねと思った。蒲生は自治会活動のために授業にはほとんど出なかった。それでも卒業単位はそろえていた。彼としては学歴は要らなかったろうが、親や親戚の手前、卒業しておくに越したことはなかった。

 四年前に同じ教室に集った四十人の男女は、それぞれの道へ踏み出していった。

第五章 学生活動家と待ち受ける試練

 蒲生哲夫は入学するとすぐに民主青年同盟に加わった。全共闘運動が盛んなころで、どこの大学もゲバルトの気配に満ちていた。学生部長や学長が団交の場に拘束される事件が相次いでいた。蒲生の活動は、そうした暴力的なものとは違った。

 一九七二年に卒業すると、蒲生は民主青年同盟の専従活動家になった。「二十万人の組織だぞ」と蒲生は隅田に誇らしげに話した。かつてない組織の規模とその高揚に、蒲生は身震いしていた。

 その年の夏のことである。蒲生の身に何かが起きたらしいことが隅田に伝わった。隅田はまだ大学に残っていたので、蒲生の動静が聞こえてきやすかった。党員でもあった蒲生は、党本部の一室に呼び出され、問い詰められているという。詳しいことは何も分からない。ただ「何かがあった」ことだけが伝わってきた。

 後に分かったのは次のようなことだった。蒲生は「分派」の嫌疑をかけられ、党本部で査問されていた。聴取ということで拘束に同意させられ、一週間に及ぶ軟禁状態となった。何を話せば理解されるのか、蒲生は途方に暮れた。自分の行動の一つ一つが、見事なまでに調べ上げられていた。

 結局、蒲生は党員権一年停止の処分を受け、専従職を解かれたために、故郷の小さな印刷工場に退いて働くことになった。

 それから長い歳月が流れた。隅田肇と蒲生哲夫には、東京の下町の駅前にある小さな居酒屋で会う機会が一度だけあった。店の主人は、かつて党の千代田地区委員会で学生対策部長を務めていた男であった。国鉄の労働組合から専従になった人で、蒲生とは郷里が同じだった。身体を壊して専従を退き、この店を開いた。「おれは分派なんかじゃなかった。上に物を言える雰囲気ではなかったんだ」と蒲生は絞り出すように語った。自分と同じように査問された者が全国で数百人の規模でいたらしいことを、蒲生は後になって知った。幹部専従員だった川上徹も、同じ時期に同じように査問を受けていた。隅田自身は、川上という人物を直接知っているわけではなかった。

 事件の真相が明らかになったのは、二十五年後のことである。一九九七年、川上は『査問』を出版した。党は当時、青年組織の誤りを「新日和見主義」と呼び、その芽は双葉のうちに摘み取るのだと引き締めを強めた。事実が示されないまま、その言葉が声高に繰り返された。

 言葉は本来、世間の共有物である。だが「分派」も「新日和見主義」も、事実が示されないまま、組織の側だけが意味を知る言葉として使われた。受け取った言葉を手がかりに相手を理解しようとすると、言葉はまた別のことを言いはじめ、主張はぐるぐると回る。何を話せばいいのか。査問の一週間を通じて蒲生が感じたのは、共通の理解が通じない相手と向き合うことの虚しさと怒りであった。人と向き合うとき、誰もが相手と言葉が通じることを前提にする。その前提が崩れたとき、人は深く傷つく。

 蒲生は、「査問」をめぐる空気の根にあったのは次の三つであると考えた。新左翼か既成の組織かと迷いながら、後者に身を置いた者の揺れる心。困難を極める組織の拡大運動。そして、この組織に身を置いたまま生きていけるのかという不安である。

 卒業して二年ほど経ったころ、仲間の女子学生の結婚式があった。新郎新婦は同じ学年の、別の学部の組織員であった。酒が回ると、地区委員会に勤務する学生対策部長が蒲生に話しかけてきた。あのころは随分と無茶な要求をして済まなかった、と。党の最高指導者の息子が、ある大学で学生活動をしていた。終電まで続く活動を知った指導者は、そんな激しい活動をさせては駄目だ、早く帰宅させろと組織を叱り、活動の形を改めさせたのだという。

 「おれたちは、好んでのことではない。求められてそれをったんだ」と、蒲生は叫びたかった。学生生活への配慮など、一切なかった。だからこそ幹部の学生は、活動をやめれば大学に来られなくなり、多くのすぐれた仲間が大学を去った。党の学生対策部長には悪気はなかった。蒲生たちに同情した。蒲生は、この話をずっと心の底に沈めていた。新郎は千代田区の党組織で専従になり、新婦は参議院議員の公設秘書になった。新郎は二年ほどで心を病んで職場を離れた。新婦が秘書を務めた参議院議員は落選して引退した。その議員は党の最高指導者に気に入られていなかったと伝えられている。

 蒲生は話し続けた。ある男の身の上である。千代田区の出版社に勤め、経営支部の一員として活動していたその男の支部は、議論なしに解散となり、皆が居住地の支部に組み入れられた。居住支部に移った男は、会議を主導する立場になって地域の活動に取り組んだ。しかし男がやむなく転居すると、地域の支部はリーダーを失って混乱し、活動が停滞した。

 男は何十年も、新聞の配達と集金を続けている。車とオートバイを買い、朝の二時間を配達に費やす。誰もが面白がって、あるいは必要に迫られてその新聞を読んでいるわけではないことは、男も重々承知している。購読を断られるたびに、男は自分の存在を否定されたような情けない気持ちになった。また、蒲生が知る専従活動家のうち三人が心を病み、活動の前面から退いた。三人というのは、蒲生が知る専従活動家の半数である。専修大学の学生党員の何人かは身体を壊し、ある女性は子どもを産むことができない身体状況になった。

 蒲生は思いつめたように言った。「悔しくてならないんだ。何故そのようになったんだ。あの頃のみんなが、おれも含めて。何故にと思う。悔しいだけはなく残念でもある。大学の職員室に面会に来た筒親と党の最高幹部とは何が違うんだ。おれの親だって子を思う故の行動だったんだ。言えないし、言っても届かない状態にあったのが、おれたちだったんだ」

 隅田肇には忘れられない蒲生の叫びであった。人それぞれに人生があるとはいえ、蒲生の境遇はあまりに過酷であった。十八歳の純真が、軍隊と同じか、それよりも強い縛りを受けて、崩壊していく事例の多さを解決する方法は、最高幹部が自分の子どもを救済したその内容に凝縮されていた。スターリン時代のソビエト連邦に粛清に目をまともに向けなければならない。

 隅田は荒木忠一の講義を思い出した。荒木教授はときおり、ソビエト連邦の民主主義の在り方、スターリンの独裁と粛清、そして社会主義への幻想に触れた。当時はすでに、そのような歴史の暗部は見えていた。

 ソビエト連邦の崩壊とともに、あってはならないことが明るみに出た。モスクワのコミンテルンにいた野坂参三――のちの日本共産党議長――が、コミンテルンで働いていた山本懸蔵を事実無根の密告していたのである。山本は一九三七年に逮捕され、三九年に処刑された。事実が明らかになったのは一九九二年、半世紀余りを経てからのことであった。密告しなければ自分の命が危うくなる。密告合戦が繰り広げられたのが、スターリン時代のソビエト連邦であり、コミンテルンであった。密告がなくてもスターリンは罪をつくりあげた。NHKの映像の世紀やNHKスペシャルのドキュメント番組が実際を暴く。スターリン体制への評価は、厳しくなることはあっても緩むことはない。

 ソビエト連邦のことでは、隅田にはもう一人思い出す教授がいる。法学部で比較政治機構論(政治学)を担当していた大嶋太郎である。紺のスーツを着こなす、口数の少ない人であった。授業は隅田と教授の一対一であることが多かった。隅田はソビエト連邦の実情を調べることを促され、リポートにまとめて卒業した。大嶋教授は東京都練馬区で区長公選を呼びかける先頭に立っていた。後に東京では区長公選制が実現したが教授が思い描いたものとなったか、どうか。大嶋教授には国家と地方自治に関する著書がある。地方公共団体の職員や労働組合員との学習の場を通じて交流していたしていた。地方自治の拡大が大嶋教授が日本の現実政治で取り組んでいたことである。大嶋教授の授業と、自分がN県の職員になったこととのあいだにどんな関係があるのか、隅田にはいまも分からない。

 隅田肇は、押し付けるのでなく、調べさせ考えさせる大嶋太郎教授を受けた。隅田はソビエト連邦の内実を探ろうと文献を集めた。文章の端々に散らばる、ソビエト連邦における庶民の暮らしや指導層の特権などを拾い上げた。隅田には、ソビエト大使館に出入りする知り合いの年長者がいた。諜報員と疑われるのではないかと隅田が意見を述べたことがある。ソビエト連邦に心酔するその年長者は狂ったように怒った。その年長者は、鉄は国家なりという言葉をレーニンが述べたと繰り返していた。宰相オットー・フォン・ビスマルクの言葉を、レーニンが借りたもののようである。その年長者の子どもは東大の工学部に入学し、日本一の製鉄会社に就職した。どうにも怪しい、というソビエト連邦への認識を持つようになったことが、隅田の行動に影響した。ソビエト連邦が怪しいというだけではなく、その政治体制の基盤をなすと想像される共産党の組織運営の諸規則と、その原理へと、実際の運営に幻滅した。このことが隅田の行動に後々まで作用した。

第六章 進路と消息

 卒業から一年して、隅田肇は相沢俊夫の実家に電話をした。電話口の向こうで相沢の母はしばらく黙り、「東京に行ったまま、どこにいるのか分かりません」と言った。

 隅田が知る同級生四十人の卒業後の様子は次のようであった。教員になった者が十人、のちに地方議会の議員になった者が三人、国会議員の秘書が一人、団体職員と労働組合の書記が三人、税理士が二人。隅田自身を含む地方公務員が七人、国家公務員が三人、農協と地方銀行の職員が五人、出版社などに勤める会社員が三人。そして、加藤望美と遠山健一、蒲生哲夫である。蒲生と同じような道を歩んだ者が、この四十人の中にもう一人いたが、ここでは名を伏せる。

 後年、隅田は経済学者の宇沢弘文の本やインタビューなどを通じて、米国の学生反戦活動家たちの行く末を知る。宇沢はシカゴ大学経済学部の教授であった。ベトナム戦争のさなか、米国の学生は徴兵の対象であり、反戦運動をする学生や成績の悪い学生から先に徴兵されていた。一九六六年、シカゴ大学の学生たちは、成績表を徴兵局に送らないよう求めて大学の本部を占拠した。宇沢は他の三人の教授とともに大学と学生の間に立ち、調停役になった。

 宇沢は、二部門成長モデルや、最適成長の問題における宇沢条件を数学的に定式化した経済学者である。新古典派の成長理論を数学的に整えたうえで、経済成長の不安定性と失業の発生との関係を示し、不均衡動学の理論によって、アメリカ・ケインジアンたちの論理の弱点を突いた。

 隅田肇の記憶にある後藤昌次郎は、経済学者宇沢弘文の友人としての姿であった。後藤は、宇沢弘文と旧制第一高等学校の級友であった。栄養失調のために卒業要件を満たせずにいた宇沢弘文であった。仲間とともに高等学校当局へ掛け合い、その窮状からの脱却を図った。高等学校は折れて、数学科への進学に限って認めた。経済学者宇沢博弘文が世に出現する遠因である。後藤昌次郎は旧制第一高等学校文科および理科を卒業した後で、東京大学法学部に進み、一九五四年に弁護士登録している。数学から経済学に転じた宇沢は、戦時中の飢えという自分の経験もあって、経済学に数学を生かしたいと考えた。数学科に進む前は医学を志していた。隅田肇は、数学と経済学が結びついた経済学をするとしたら、自分には限界があると思った。隅田肇が経済学部を出たあと大学院に進むことをためらわせた。宇沢弘文と後藤昌次郎の二人が望美と隅田肇の二人に作用した奇縁といえる。蒲生哲夫は同郷の人として後藤昌次郎を意識していた。後藤は岩手県和賀郡黒沢尻町(現・北上市)の生まれである。蒲生は、旧制黒沢尻中学校(現岩手県立黒沢尻北高等学校)から旧制第一高等学校、東京大学法学部、弁護士という後藤の経歴をなぞって、自分もこの道をと考えなくはなかった。学生活動家という立場になったときに、この道は自動的に消えた。大学四年間を「闘争」という場面をつくって、その活動に没頭することが、この時代の活動家に望まれていた。

 シカゴ大学で宇沢が指導していた、博士論文を書いていた優秀な学生たちの結末は痛ましいものであった。事実上の迫害を受けて二人が山に籠もった。一人はのちに自ら命を絶った。一人は徴兵局を襲撃したあとで出頭し、長い懲役刑に課せられた。ベトナム戦争の期間を通じて、十万人近い若者が徴兵を逃れて国外に出ていった。アジアの小国を焼き尽くす国の、最高の権威をもつ経済学部で教えて暮らすことが恥ずかしくなった宇沢は、一九六八年、東京大学に戻った。その東京大学では、同じ年に学生が安田講堂を占拠した。

 同級生四十人の行く末を思い浮かべながら、隅田は考えた。自分たちの時代も、大学は騒乱状態であった。それでも卒業してしまえば、活動家も一般の学生も、多くは平穏な人生を送っている。銃を持たされて戦地へ送られた米国の学生とは、日本の同じ時期の学生の苦悩は質が違う。米国の学生は生きるか死ぬかという瀬戸際にあり、日本ではロマンチズムに載って誘引された。

 日本の大学が騒がしかった時代に少し遅れて、「『いちご白書』をもう一度」がヒットした。荒井由実の作詞・作曲である。歌詞には「学生集会」や、就職が決まって髪を切るという言葉が出てくる。学生のころの社会への不満を胸の奥に押し込め、企業戦士として働くうちに、身なりも考え方も変わっていく。そういう若者は多かった。髪を切って一九七四年に上京し、会社に勤めたことになっているのが、一関工業高等専門学校の同級生フォークグループ「ニュー・サディスティック・ピンク」(後の「NSP」)である。高専卒だから、扱いは大卒に及ばない。そのような立場を歌に込めた。三人は就職はせずに、歌のプロとして浮かび上がった。東京に出て就職したように物語をつくっていた。これは意図してか偶然なのか、できあがった物語であった。「NSP」のグループが結成されたのは彼らが高専在学中の一九七二年である。同じ年に専修大学を卒業した隅田肇たち五人は、そのころ「NSP」を知らない。後年隅田は経済学部の同級の男と「NSP」のコンサートに足を運んだ。男は好きなフォークグループは五つの赤い風船であると言った。「五つの赤い風船」の演奏会(コンサート)は専修大学神田校舎から歩いて十分の神田共立講堂で1969年12月と1971年4月1日に行われていて、二回とも出かけている。女性ボーカルは藤原秀子であり、藤原秀子でなければグループが成立しないと加藤望美は言う。

 法学部を卒業したあと、隅田は経済学部三年の教室にいた。『資本論』に食らいつく日々を送っていた。高校を出るときに担任に勧められて受験し、合格していた京都のミッション系の名門私立大学の経済学部を選ばなかったことが、ずっと心の片隅にあった。隅田はこのことを誰にも話さなかった。妻にも、結婚したのちも長く伏せていた。話したのは七十歳を超えてからである。

 経済学部での二年は、あっという間に過ぎた。卒業間近になって、指導教員に「これからどうする」と問われた。大学院に推薦するから、もう少し勉学を続けてはどうかということであった隅田は、まわりの学生たちが自分よりずっと若く見えることに気づいていた。母方の伯父が県議会の議長を務める縁を頼り、試験を受けてN県庁に奉職することを選んだ。

 就職先が決まっていた隅田は、経済学部の卒業式の日に、それには出ずに谷川岳へ向かった。春山とはいえ谷川岳の雪は深く、山仲間と雪に穴を掘って夜を過ごすには十分な量であった。帰りの上越線の車窓から、コブシの白い花が咲いているのが見えた。山から帰ると、知り合いが隅田に「なんだか朗らかになったね」と声を掛けた。辞令を受けて県庁の職務に就く日が、間近に迫っていた。

 学生でいるのはここまでだ――隅田はそう自分に言い聞かせて、N県へ向かう最終列車に乗った。見送る者は誰もいなかった。加藤望美のことが、頭をよぎった。

 若い力が情熱をさまざまにたぎらせる周囲の者たちと自分を対比る癖があることが分かっていた。蒲生のように学生自治会から党の活動へと進んでいった者。相沢のように、ボブ・ディランの哲学的な英文詩の世界に没入し、自分の暮らしの始末に無頓着になった者。そうした仲間を好ましく思いながら、後ずさりする自分を思うと、皆に申し訳ないという気持ちになった。一九六六年に内田義彦が書いた岩波新書の『資本論の世界』を、隅田は法学部一年のときに手にしていた。初期マルクスの「疎外論」に惹かれて、内田義彦流の解釈を真似していたのである。それが、後期マルクスの経済学体系としての『資本論』に食らいつくことにつながっていく。

 デモの隊列にいても、「ダボス」のカウンターにいても、隅田は離れたところから同級生を見ていた。それがただの傍観だったのか、語るために記憶に残しておこうとしてのことだったのかは、はっきりしない。一度考えたことや疑問に思ったことを、ずっと心にしまっておくただ隅田であった。

 隅田の経済学部卒業の年に、必修科目である財政学の教授の気まぐれによって半数の者が単位を落とし、卒業を一年先延ばしにされた。卒業に無頓着だった隅田がこれを知ったのは、数年も後のことであった。この大学は一九七〇年度の卒業生を最後に再試験制度(追試)を廃止していた。

 法学部を卒業するときには、あるはしっこい男が、必修科目の教授を仲間数人との宴席に招いて、合格点の確約を取り付けた。教授は飯岡助五郎という侠客の子孫であることを自慢していた。千葉県の房総の生まれで、専修大学の卒業生であった。宴席で教授は、隅田たちの同級生で党員の女子学生が、在学中に二学年上の活動家と結婚したことを、冷やかすように話題にした。はしっこい男は、その女子学生と同郷であった縁で、彼女の郷里での結婚式に出ていた。学生活動家を見る大学当局の目を、教授がそのまま体現していた――宴席に出ていた者のそんな怒りの言葉を、隅田は聞いた。油断ならない、と隅田は思う。

 遠山健一も皆と一緒に卒業した。就職はせず、バックパックひとつで南米に旅に出た。

 遠山健一は学生自治会で執行委員として活動していた。党活動としてそれはあった。卒業を前にすると望美への思いが募った。時間の制約がそのようにさせた。これから党活動をどこでどのようにしていくのか。職を定めきれないままに卒業が迫っていた。遠山健一が望美に寄せている思いを隅田肇は蒲生哲夫を通じて聞いていた。あの日、突然、望美が逢いたいと言ったのは、ある衝撃によるものではないかと隅田は思った。

 遠山は隅田にカメラを貸りにきた。数日後に日本を去った。何も語らなかった。遠山は一年経って日本に戻ってきた。製パン企業に職を求めた。この会社はメキシコに本拠を置き北米・南米で事業を展開して、その後には世界有数の規模に成長している。遠山は帰国後に、党から一年間の行状の調査を受けた。叱られる内容を白状するしかなかった。このことが蒲生から伝えられたが、隅田は聞こえていないように対応していた。蒲生の身には異変が起こり、遠山には失望と虚無が晴れない霧のように纏わりついていた。それからの蒲生と遠山の去就は追わないことを、彼らへの労わりとして隅田肇は心に決めた。

 やがて、その遠山の心が伝わる女性が出現した。子どもができていて、三人で遊園地で遊ぶ写真を年賀状代わりに送ってきた。奥さんは普通の顔立ちであり、遠山には笑顔がなかった。子どもは無邪気に両親の手にぶら下がっていた。遠山からの年賀状はそれっきりになった。製パン工場での勤務はそのまなで東京にいるのか。年賀状の住所には郷里の宮崎となっていた。

第七章 緑の暖かい風

 卒業から数年が経ったある日、隅田肇のもとに一通の封筒が届いた。差出人は相沢俊夫であった。封を開けると、一枚の写真が出てきた。相沢と奥さんと幼い子どもの三人が、和服姿で実家の玄関の前に立っていた。裏には「ボブ・ディランの詩集は今も大事に持っている」と、見覚えのある几帳面な文字で書かれていた。ボブ・ディランへの思いは薄れても、あの春に手渡した心遣いへの感謝は変わらずにいるのだと、隅田は受け取った。消息の知れなかった空白の向こうで何があったのか。一枚の写真は、それが幸福に辿り着くための青春の彷徨であったことを物語っていた。

 N県庁での隅田肇の勤めは、平凡なものであった。職員がひとり気張ったところで、できることはしれている。組織の一員として決まった仕事をこなすことが勤めであった。書類をつくり、判子を押してもらいに上司の席を巡る。そうした日々が続いた。隅田は農業行政にも携わった。県庁の職員は職務の内容を選べないが、生まれ故郷のN県の行政に携わることに、隅田は不満を持っていなかった。若いころのように理想を語り合う相手は、いなかった。

 長く勤めるうちに、隅田には見えてきたことがある。難しい試験を通って入ってきた職員でも、配属された職場で本当に仕事ができる者は三分の一ほどである。まずまずの者が三分の一、残りの三分の一は、いてもいなくても同じであった。学校の名前も試験の点数も、人の仕事の力を表すものではない。大工の世界では、十三の歳から鉋をかけさせ、見込みがなければ親方が引導を渡す。仕事は、やらせてみなければ分からない。一段ずつ踏みしめて登っていく力こそが才能なのだと、隅田は思うようになった。

 アルプスの山々が近いこともあって、隅田は山登りで憂さを晴らした。山は、いつしか生きる励みになっていた。山岳誌の表紙を飾る辻まことの画文を、隅田は好んで眺めた。

 県庁に入って間もない一九七〇年代の中ほど、隅田は海ノ口自然郷にある八ヶ岳高原ヒュッテに二泊した。佐久地域での仕事を終えたあとの連休であった。東京にあった旧徳川邸の洋館を移築した建物である。県庁の机の前で過ごす日々とは別の世界があった。窓の外には、八ヶ岳東麓の森が広がっていた。

 一九七九年の七月、北アルプスからの帰り道に、隅田は廃道同然になっていることを知らないまま、登山地図の案内どおりに伊藤新道を下った。人が通った痕跡の消えた急斜面の砂地を横切るのは、並の危険ではなかった。命からがらであった。怒りが湧いてきた。登山地図には道がコースタイムとともにはっきり描かれ、危険度も区分して書いてあった。だが下ってきた道は、地図の記載を遥かに超えて、最上級の危険度をも上回っていた。廃道になったのは、下流のダムの貯水が谷筋の水分量を増やし、地形を変えたためである。ダムの完成から半世紀近くを経て、谷の状態はようやく落ち着いてきたものと思われる。伊藤新道は近年、道を拓いた山小屋の関係者の手で再建され、復活している。

 肝を冷やして辿り着いた湯俣温泉の晴嵐荘は、隅田をほっとさせる山小屋であった。大町市の奥の河原にある晴嵐荘は夏の陽を浴び、青い空とともに高原の保養地のように見えた。

 晴嵐荘は老夫婦だけで切り盛りしていた。この山小屋のわが家にも似た雰囲気は、登山者に好かれる。夫婦はためらいもなく演歌のレコードを大音量で流す。レコードはもっぱら都はるみである。古い大きなステレオで奏でられる「アンコ椿は恋の花」が、頭の中でぐるぐる回る。食事の支度をする老夫婦の屈託のなさに、隅田は俗世の温もりのようなものを覚えた。真夏の草むらには、山へ登ってきて夏を過ごす赤トンボが群れていた。この山荘が発電用のダム工事で賑わったことを知ったのは、後のことである。大きなダムができ、発電所がいくつも建設された。大音量のステレオと都はるみの演歌は、飯場として営業していたころの名残ではないか。そう思いついたのは、四十年近く経ってからのことだった。

 午後三時を過ぎても、暑さと日の強さは真昼のままであった。これが七月という季節であった。その晴嵐荘に、ひとりの青年がやってきた。その日の宿泊者は、隅田と青年の二人だけであった。青年は入り口に立つとひょいと虫を捕まえ、当たり前のような口調で虫の説明をした。それが初対面の挨拶代わりだった。隅田は彼の清々しさに好感を持った。明日はこのあたりで虫を採るのか、それともアルプスに踏み込むのか、隅田はあえて聞かなかった。老婦人は青年を見て「お母さんは大柄な人でしょう」と言った。見事に当たっていた。

 後になって思えば、青年の姿は養老孟司や田渕義雄に重なった。世代の違う二人が浮かんだのは不思議である。

 養老孟司は、東大闘争のころ医学部の助手であった。大学は封鎖され、二年のあいだ研究室に行けなかったという。東京大学の管理主義的な運営と、教授たちの権力争いに嫌気がさして定年前に大学を去ったとき、どんよりとしか見えなかった空が青く見えた、と養老は語っている。養老は恩師の医学部の教授から、教養とは相手を理解する能力だと教わった。

 田渕義雄は、東京の下町のガソリン屋の三男に生まれた。小学校の通信簿には、学業はおおむね優良だが協調性に欠ける、と書かれていた。早稲田大学の文学部哲学科に進み、生物の研究会で蝶を追って山に分け入った。学生時代の後半には学費値上げをめぐる紛争が続き、田渕はいつしか学生の先頭に立っていた。擦り切れた全学連旗を掲げたデモの先頭にいた。田渕は後に、「青い林檎にかじりついて、その酸っぱさを学んだ」と、機動隊には「野良猫のように蹴散らかされた」と書いている。

 出版社勤めを経た田渕は、アメリカとカナダを旅してマス釣りをした。釣りはフライフィッシングであった。やがて田渕は『フライフィッシング教書』を書いて、日本におけるこの釣りの先駆者となった。そして一九八二年、三十八歳で川上村の川端下(かわはけ)に移り住んだ。金峰山の麓、標高千四百メートルの雑木林の片隅に建てた板張りの家である。電気も水道もまだ来ていなかった。台湾製の薪ストーブ一台と、ガソリンランタンの灯りで最初の日々を過ごした。ミズナラ、コナラのドングリが屋根に落ちてコロコロと転がる音を、田渕は喜んで聞いていた。村外れには、ロッククライミングの聖地として知られる小川山がそびえている。田渕の山荘は小川山とは切り離せない。北米をバックパックひとつで旅したという田渕の話を読んで、隅田は消息を追わずにきた遠山健一のことを思った。

 田渕は、ヘンリー・D・ソローとその著書『ウォールデン――森の生活』を信奉する。ソローはウォールデン湖のほとりに小屋を建て、二年二か月のあいだ自給に近い暮らしをした。読書と思索の年月である。菜園を耕すように自分の貧困を耕せ、とソローは書いた。田渕の文章は、都会の暮らしに息苦しさを覚える人々の癒やしとなっていた。小学館の雑誌『BE-PAL』(ビーパル)の常連執筆者に田渕義雄がいた。養老孟司はときどき登場している。

 虫捕りも生きる楽しみのひとつなのだ。生物の教員にでもなっているのだろうか、あの青年はいまどこで何をしているのかと、隅田は何年たっても思う。

 田渕に刺激されずとも、一九八〇年代は田舎暮らしに人の心が動く時代であった。東京で働く同級生の中にも、週末を田舎で過ごすようになった者がいた。一人は蓼科山の北側の長門町に週末の家を建てた。南に蓼科山が見える土地である。ここで過ごす週末が良いのだと言って、ランドクルーザーのディーゼル車を駆って通った。後年になって隅田が釣りに誘うと、「殺生」だからと応じなかった。どのような経緯によるのか、その友人は石綿を吸い込んだことがもとで肺を病んだ。病は突然に訪れたのだという。もう一人は新潟県の湯沢町に別荘を持ち、町を流れる魚野川でイワナやヤマメ、アユを釣った。どちらの家にも薪ストーブが据えられていた。薪は地元の人から買う。その費用が馬鹿にならないと、二人はそろって口にした。

 N県には、東大闘争の先頭に立った今井澄がいた。安田講堂の封鎖解除のあと逮捕された今井は、復学して医師となり、一九七四年に茅野市の諏訪中央病院に赴任した。安田講堂事件の判決が確定すると服役し、刑期を終えて病院に戻ると、一九八〇年、四十歳で院長になった。のちには参議院議員にもなる。闘争の渦から出て、地域の医療に生きる道を選んだ人がいることを、隅田は県の仕事を通じて知った。一方、養老孟司は医学部の助手だったころ、今井澄たち全共闘によって研究室から追い出されていた。あの学生たちは結局、戦中の軍人と変わらないと養老は述べる。養老孟司は彼らへの強い恨みを残している。大学は違っても、全学連旗を掲げてデモの先頭にいた田渕義雄は、養老から見れば今井澄たち全共闘と同じ側の学生だったことになる。そのように隅田は思う。

 蒲生哲夫には、誰にも語らずにいる秘密があった。学生時代に自治会の副委員長を務めていたある男が、公安警察への通報者だったのである。郷里に帰っていたその男を訪ねた者がその事実に行き当たり、それが蒲生に伝えられた。蒲生はこのことを誰にも語らない。おぞましくて、口にできないのである。人の人生には、ときに深い闇が忍び寄る。

 人との距離が近い昆虫好きの青年の天真爛漫さ、大らかさ、あるいは爽やかさ。そのような生き方への憧憬を、隅田肇は抱くようになった。蒲生哲夫が口を閉ざした公安への通報者がいたことを、隅田は知らない。

 加藤望美は、空しさを抱えたまま卒業後の一年を過ごしていた。収入のないまま司法試験に挑み続けることには、罪の意識があった。国家公務員になっていた同級生が、同じ職場の臨時職員になれるよう手立てをしてくれた。正規の職員になるために国家公務員試験を受けると、合格した。法律の勉強を積んできたので、ほかの科目に時間を割けたからである。こうして望美は国家公務員の職を得た。厚生省であった。霞が関の厚生省の職場には、自由と明るさがあった。望美はその仕事が好きであった。働くとはどういうことか、また仕事の内容によって分け隔てに似た感情が生じるのはなぜかと、考えてみたりもした。

 国家公務員の仕事をしながら、司法試験の勉強は続けていた。職場には法曹資格を持つ上司がいた。厚生省から検察庁に出向する人事交流があることも知った。二年ほど検察庁へ出向して、どのような業務をするのかは聞くことができなかった。検察事務を補助する程度なのか、特捜検事や重大刑事事件に関わる業務なのか、望美は知らない。出向しては戻ってくる身近な先輩職員を見ているうちに、法曹への憧れが別の方向へ移っていくようで、望美は恐かった。霞が関の職務の繁忙と労働組合の活動が重なり、それぞれに責任を負ううちに、司法試験の勉強のための時間は消えていった。とくに労働組合の重要な役職に推されてからは、その時間は皆無となった。七年間の霞が関での勤務の後半四年は、このようであった。そうした状況のなかで、法曹への願望は、公務員としての業務と組合活動への情熱に変わっていた。卒業後の一年と、そのあとの国家公務員としての七年は、そのようにして過ぎていった。

 隅田肇は県庁の一室で書類を作る日々を送っていた。氷の世界にいるはずの加藤望美のことが、いつも心のどこかにあった。一九八〇年の夏、その加藤望美から、予想もしない電話がかかってきた。司法試験がどうなったのかは分からないが、いまは趣味で芸術写真を撮っているという。川上村に滞在して、牧畜や高原野菜づくりの暮らしを撮影しているとのことだった。牧畜農家は輸入牛肉に押されて苦しい時期にあった。働いた時間がそのままお金になる暮らしとは違うのだと、加藤望美は言った。都会の人間が勝手に思い描く農村の姿を、私は写しているだけではないか。彼女は自分の写真をそう疑ってもいた。なぜ自分の電話番号を知っているのかと一瞬戸惑ったが、N県庁の職員なのだから、県庁に電話すれば分かることであった。隅田肇の心に火が灯った。隅田は、自分をいつも襲う寂しさが何なのかを、うすうす知るようになっていた。それは、深夜喫茶で二人のウール地のコートを重ねて肩から膝に掛け、朝まで話したあの夜のことが心から離れないせいであった。

 あのときの加藤望美の心情はどうであったのか。十分な好意を隅田肇に寄せていたはずだ。あれは氷の世界に飛び込む決心をするための、彼女なりの儀式であったのか。そのように考えても納得は行かない。あのことが心の底に沈んだままでいた。加藤望美はあの時、確かに何かを求めていた。このことへの確信が隅田にはあった。しかし彼女の決心を挫くことはできなかった。心に澱を抱えたまま、隅田は過ごしてきた。

 野辺山高原の北西の空には、赤岳を主峰とする八ヶ岳連峰が聳えていた。真上から降り注ぐ真夏の太陽は、八ヶ岳連峰を平板に見せていた。稜線は光で満ちていた。その空の下に隅田肇と加藤望美の姿があった。加藤望美は恥じらいをみせたが、それは一瞬だった。憂いを見せた微笑みをするのが望美であり、隅田の心をゆすった。幼さの残る二十二歳での別離から、二人はあの時のことを心にしまったままでいた。野辺山高原の明るい太陽は、加藤望美を素直にさせるのに十分であった。素直な加藤望美の振る舞いと、その微笑みに隅田は八年の空白が消えたのだと思った。

 加藤望美は、眼下に広がる白い畝のことを隅田に話す。春、四月の終わりから、野辺山から川上村にかけての畑ではレタスの植え付けが始まる。盛り上げた畝に白いビニールを掛け、そこに穴を開けて苗を植えていくのだと。植え付けは時期をずらして夏まで続く。事情を知らなければ、八ヶ岳の南東に広がる白い畝は謎の光景である。川上村は、夏場にレタスやキャベツを出荷する高冷地農業の村である。のちには、その労働の多くを、中国や東南アジアからの働き手が担うようになった。

 五月には白い花をいっぱいに付けたヤマナシの木が、枝を大きく広げて、その緑の葉に陽光を集めていた。陽光は葉から枝へ、枝から幹へ、さらに根へと吸い込まれ、土の下で暖かい大きな塊をつくった。レタス畑の農道のど真ん中に立ち、道を左右に分けている古木である。樹齢は二百年を超える。隅田肇と加藤望美は青々と繁ったヤマナシの木の下にいた。八ヶ岳の稜線の向こうに幸せが見えるようであった。稜線の先は松本、伊那、佐久、善光寺の四つの平である。盆地を平と呼び変えており、盆地が集合しているのがN県の特徴である。N県の職員は、これらの地域を定期的に異動しながら働く。

 あの稜線に登ればN県が見渡せると隅田肇が言った。加藤望美が微笑んで「一緒に登りたいな」と返した。

 その夏のある日のこと、八ヶ岳の赤岳から横岳へと続く稜線に、隅田肇と加藤望美の姿があった。

 白いビニールに覆われた苗は大きく育ち、畑は緑に変わっていた。そうした真夏の野辺山高原のレタス畑が足元に広がっていた。大らかな高原の広がりは、二人の心を解き放つものであった。熱せられた野辺山高原の空気が暖気となって上昇し、稜線を越えて諏訪方面に抜けていく。南の空には富士山が見えていた。富士山からの風が小さな渦を巻き、赤岳を越えていった。加藤望美は両手を広げて緑の風と戯れた。その無邪気な姿を見て、隅田は「ああ、昔の望美だ」と思った。時間も空間も太陽も風も、二人のためにあった。緑の暖かい風がぐるりと回った。

 このままでいい、ずっとこのままがいい。望美は決意を示すように隅田に手を伸ばした。手は固く結ばれた。

 加藤望美は隅田肇との暮らしを選んだ。望美が職場に相談すると、隅田の職場であるN県庁ではなく、善光寺平のある市役所に転職する手配がなされた。女性職員が国家公務員から地方公務員へ移ることは、制度として確立されてはいないものの、状況にあわせた策として運用されていた。望美は東京の人からN県の人になった。厚生省での望美の仕事は、医療や年金などで地方公共団体を相手にすることもあり、その連絡事務も業務であった。地方公共団体の職員が霞が関に寄せる思いを肌で感じてきたことも、望美の移籍への壁を低くした。

 隅田肇と望美の子どもは女の子であった。娘は中学生になるころには、ませた態度で外からの電話の応対をしていた。高校生になるとそれは冴えた。望美の母親、つまり祖母をそっくり真似ていた。意識していたのではなく、そうなってしまった。娘は中学校から善光寺平で二番手とされる学校を選んで通い、高校を経て運営母体の大学に進んだ。小学校のころにはピアノを習い、高校生になると知り合いのギター教室に通った。水泳ではN県で二位になった。大学ではサッカー部のマネージャーをし、フラダンス教室に通った。大学四年の後半には、東海大学医学部付属東京病院に入院した祖父、つまり望美の父親のもとに毎日顔を出し、話し相手になった。

 娘は、大阪大学工学部で化学を学び、大企業に就職したあとで米国の大学に留学したことがある、いとこ(従姉妹)に、就職のことを問われた。娘は就職活動をしていなかった。いとこは「お嫁に行けば済むことだ」と言った。仕事への欲は何もないまま、娘は大学を卒業した。最初の仕事はクロネコの配達で、リヤカーや手押し車で、東京都江東区住吉の狭い区域を回った。錦糸町のダンス教室に通うためであった。映画『フラガール』のモデルになった人が運営するフラダンスのスクールである。そのうちに講師の資格を得た。講師をしていたとき、教え子の一人がプロのダンサーになった。その後に娘は、フラダンスの道を捨てた。勤めは派遣会社を通じてのものに変わっていた。一緒に働いていた若い女性の同僚が、簡単に解雇される世界であった。娘は幾つかの派遣先で働いた。ある派遣先では、天下りしてきた官僚に代わって文章を書いていた。いつしか、その人に劣らない力を身につけた。やがて、大阪大学の大学院を修了した先輩が、厚生労働省の社会人経験者採用の手続きをしてくれた。その国家公務員の係長級の採用試験を受けると、何事もなかったように通った。三十倍の競争率だったと知ったのは、何か月も後のことである。派遣の仲間があっさりと職場を去っていくのが、いちばん悲しかったと娘は言った。派遣労働に従事する身分の不安定さや報酬の低さなど、日本社会が陥っている悪しき状況を嫌というほど知っていた。

 母親の望美は厚生省に勤務していた。厚生省は労働省と統合されていて、娘の勤務先は厚生労働省の名称になっていた。採用試験の手続きで世話した先輩が、娘の母親の勤務先が厚生省であったことを知っていたかは不明である。採用に際しては親のことのほか、プライバシーに関わることは不問になっている。同じ霞が関勤務となった望美とその娘である。望美のことを知る者が何人かいた。そして、そっくりだと言った。

終章 太陽に満たされた高原の林

 隅田肇は二〇二四年十二月の半ば、蓼科山の麓の山荘に足を運んだ。N県庁に近い住まいと山荘を行き来している。山荘は雪の中にあった。積雪は平年より少なかった。標高千六百メートルの敷地に生えるシラビソは、クリスマス・ツリーのように雪を背負っていた。薪ストーブはいまでは飾りになっていて、煙突の傘には二十センチメートルの雪が載っている。暖房には石油ストーブを使う。田渕義雄のように薪を用意する意欲は、もう消えている。

 冷えた山荘を温めるために、最初に業務用の大きな石油ストーブをボーと焚く。一階から、吹き抜けを通って二階に一気に暖気がのぼる。家が温まったところでその火を止め、代わりに二階のアラジンのブルーフレーム・ヒーターを燃やす。この家のアラジンは二代目である。先代は燃焼筒が錆びて役目を終えた。燃焼筒を傾けて芯にライターの火を近づけると、小さな窓の向こうに青い炎が立つ。着火に電池を使う構造にはなっていない。着火の都度、燃焼筒を傾けて、そのあとにチャッカマンを使う。一九三〇年代にイギリスで生まれたストーブを、いまは日本のメーカーが作り続けている。天板に陶板を載せれば、食パンも焼ける。

 ある日のこと、一階のコロナの丸形石油ストーブに載せていた鍋で、タスマニア産の煮込み用の牛肉を入れたカレーが煮えた。肉は、低い火で長く煮込むほど柔らかくなる。晴れた日で、二階のバルコニーの餌台には、ヒマワリの種を目当てに野鳥がひっきりなしにやってくる。ゴジュウカラが居つくようになり、コガラとシジュウカラがせわしく出入りする。少し遅れて、ヤマガラも姿を見せるようになった。

 暖かくなった二階に上がり、アラジンの青い炎を眺めながら、隅田は串田孫一のことを思う。山の随筆で知られ、日曜の朝のFM東京で、穏やかな口調で「音楽の絵本」の朗読を長く続けた人である。串田の書斎にはルンペン・ストーブが置かれ、そのまわりにウインザーチェアが並んでいたという。訪ねてきた編集者とは、ストーブの周りに置かれた幾つもの椅子に座って長い語らいをした。田渕義雄は、薪を作るときに出る枝でウインザーチェアを自作した。この二人は隅田の敬愛する人であり、隅田の中では二人が渾然一体となっている。椅子と薪ストーブといえば、隅田には串田孫一と田渕義雄なのである。串田の仕事部屋は、串田が亡くなったのち、北海道斜里町の北のアルプ美術館に移され、机の上の小物まで元のとおりに復元されている。

 串田は、霧ヶ峰の車山の肩にあるコロボックルヒュッテを建てた手塚宗求と長く交流した。ヒュッテに泊まっては思索し、霧ヶ峰の風景を水彩に描いた。四月の後立山に二人で登ったときには、串田のキスリングに、カンダハーの締め具を付けたスキーが載っていた。

 長い親交は、ある日ふいに終わった。手塚が書き残している。ひょっこり山に登ってきた串田は、少し語らっただけで山を下りていった。強い風が吹いていた。手塚は串田の背に向かって大きな声で呼びかけたが、声は風に消された。串田は振り向かなかった。

 隅田にはその場面を読むたびに、「あばよ」と言ってボブ・ディランの詩集を渡したことが甦る。言葉は春の風に消えた。その後に相沢は姿を消したからである。

 一九六八年の夏、明大前の下宿で、隅田はソニーの左右が分かれるFMステレオラジオを鳴らし、FM東海が流す「音楽の絵本」を聴いた。一九六五年に始まり、のちにFM東京に移って三十年続いた番組である。その回のテーマは「氷」であった。のちに加藤望美が飛び込んでいった「氷の世界」を思うとき、隅田の耳には、なぜかあのときの串田の声がよみがえる。

 串田の『若き日の山』や『山のパンセ』を読むようになったのは、そのあとのことである。ある回で串田は、東京天文台の古畑正秋と対談したときの話をしていた。冬の霧ヶ峰で、夜の雪の中を奇妙な光がゆっくりと水平に流れていくのを見た。串田が詳しく話すのを黙って聞いていた古畑は、ひとこと、それは流星です、と言った。都会の空では観測もままならない天文学者は、早寝をして朝早く起き、小鳥を観察していると、まじめな口調で話した。番組の最終回は一九九四年、「冬の記憶」という詩の朗読であった。

 山中湖の砂浜で、仲間たちが篝火を囲んで「燃えろよ燃えろ」を歌った夏があったと、蒲生から聞いた。串田孫一が詞を付けた、フランス民謡のキャンプソングである。いま目の前で揺れているのは、あの夏の赤い炎ではない。風も音もない、青く静かな炎である。その日の午後は、そうして過ぎていった。

 年が明けて、二〇二五年四月二十九日、隅田は野辺山高原のレタス畑の農道を訪ねた。あのヤマナシの木が白い花を咲かせるころである。

 木は消えていた。前の年の七月十日に、強風で倒れたのである。隅田はそれを知らなかった。幹のあった場所には、切り株のような残り物は何もなかった。ただの土くれのまわりに、細いひこばえが何本か伸びていた。

 古木は、すでに樹勢が衰えていた。上の枝は朽ち、八ヶ岳に向かって左手の枝も同じように朽ちて、右手の枝だけが大きく伸びていた。強風は、その伸びた枝の方角へ木を押し倒した。花の勢いも衰え、葉の茂みもまばらになっていた。樹齢二百五十年の太い幹ではあったが、栄養を吸い上げていたのは、わずかな部分にすぎなかったのだ。

 八ヶ岳へ向かって真っすぐに延びる農道の、そのど真ん中に立っていた木である。木は道を左右に分け、畑に通う車の流れを整える役目も果たしていた。あたりには、この木より背が高く、大きく枝を広げて白い花をいっぱいに付けるヤマナシが何本もある。だが、道の真ん中に立つ木はもうない。山梨の北杜市には、支柱に支えられて生きながらえ、観光名所になった山高神代ザクラがある。このヤマナシが名所になっていたら、農家は困っただろうと隅田は思った。

 倒れた木のそばでは、大きなトラクターが畑を耕していた。この日はレタスの苗の植え付けが行われていた。高原の最上部の畑では、インドネシアから来た若者たちが働いていた。その向こうで、別のヤマナシの木が元気な白い花を咲かせていた。レタスは、野辺山のある南牧村を豊かにした。

 あの夏、望美と二人で立った木の下には、もう何もない。それでも、ひこばえは伸びている。

 五月一日には、南佐久南部漁業協同組合へ釣りの年券を買いに出かけた。八千四百円で、千曲川上流のイワナもヤマメもアユも釣ることができる。組合の裏手を、千曲川の上流が流れていた。今年は川上村のイワナを釣りたい。田渕義雄がフライロッドを振った川端下で、同じように。帰りに、川端下の田渕の家の前を通った。いつか秋の薄日の中で見たときには、幻想的に見えた板張りの家である。薪小屋が並び、「寒山家具工房」という小さな表札が掛かっている。木工室は、のちに地下に増やしたのだという。まわりの林のすぐ隣まで、レタス畑が迫っていた。家の向こうには、小川山の岩峰が鋭くそびえていた。

 五月四日には、近くの知人からコンクリート・ミキサーを譲り受けた。手土産にと、街の珈琲店で豆とケーキを買って訪ねた。この知人からは、建設中の談話室に使うガラス付きの窓枠も、たくさん譲ってもらっている。自分の山荘を改修するために用意して、余ったものだという。知人の敷地は斜面にあり、窓枠もミキサーも急な坂を下ろして運んだ。

 五月二十一日、隅田は蓼科山の麓の山荘にいた。百年を経た欧州赤松のログで建てた山荘である。N県のどの出先機関への異動があっても通いやすい位置を選んだ。善光寺平の夏の暑さは東京を超えている。盆地に降りれば、どこも同じように暑い。涼しいと思って選んだ松本平の暑さに、ある原子力学者が喘いでいた。どの盆地も夏は暑い。諏訪湖の標高は八百メートル。それでも、やはり暑い。蓼科山の麓を選んだのには、そのような事情がある。長い勤めの合間に、少しずつ手を入れてきた。ベランダを広げて屋根を付けた談話室に、隅田はパソコンを持ち出していた。去年は雪が来る前に屋根を付けようと奮闘し、十一月にどうにか間に合わせた。だが四十センチの雪をのせた談話室は冷凍庫のようになり、春まで寛ぐことはできなかった。この春は、譲り受けたミキサーでコンクリートを打って土台を固め、一メートルの雪にも台風の大風にも耐える支柱を建てるつもりでいる。

 正午の談話室は摂氏二十二度であった。庭は自然のままにしてある。カラマツ、ミズナラ、コナラ、シラカバ、モミジが太陽の光をほどよく遮り、夏でも最高気温は摂氏二十五度に届くかどうかである。背の低いクマザサが地面を覆っているので、世に言う雑草は生えない。敷地のシラビソが背丈を伸ばし、かつて見えていた蓼科山や北横岳、縞枯山は木立に隠れてしまった。前の道路に出れば、蓼科山はまだ大きく見える。

 新緑の林で、ハルゼミが鳴いていた。夏が近い。セミの命は羽化して一週間と、隅田は子どものころに教わった。だが近ごろ、岡山の高校生が印を付けて放したアブラゼミが、三十二日も生きていたことが確かめられた。教科書に書かれたことも、ときには疑ってみなければならない。隅田はスノーピークのパーコレーターで珈琲を沸かし、砂糖を入れて飲んだ。ガスコンロの小さなボンベは、去年ひと夏放っておいたら、ガスが出なくなった。調べると、ホースをつなぐ口の小さな穴に、蜂がサナギの殻を残していた。管に卵を一つだけ産む蜂が、ボンベの口を命をつなぐ場所に使っていたのである。珈琲を淹れていると、ときどき神保町の「エルマーナ」とママのことを思い出す。

 隅田は、一日に十五時間も椅子に座っていることがある。パソコンに向かうときには、高山の飛騨産業(キツツキマーク)のロッキングチェアを使う。背もたれが高く、肘掛けが付いている。キーボードを打つ肘を、その肘掛けに休ませておける。寛いで本を読むときには、机の脇に置いた、同じ飛騨産業のクッション付きの揺り椅子に移る。

 机にしっかり向かい、キーボードを打つときには、高山の柏木工の椅子にする。釘を一本も使わない上等な椅子で、望美のお気に入りである。隅田はそれを借りて使う。

 こうしたウインザータイプの椅子を幾つも集めるようになったのは、田渕義雄の暮らしに惹かれたからである。田渕は、薪にするはずだったナラの木で椅子を作った。ストーブにくべるはずの枝が背もたれになり、はぎ合わせた板が座面になる。食堂の椅子も、書き物の椅子も、揺り椅子も、机や食卓も自分で作った。写真で見る田渕の揺り椅子は、背もたれが大きく後ろに倒れていて、背当ての丸木は十本あった。隅田の揺り椅子は八本で、背中を指圧されるような痛みがあるから、専用の厚布を当てている。田渕も、板の座面には薄い布地やクッションを敷いていた。

 自分が元気なうちに作らせたほうがいいよ、と田渕は言っていた。田渕が作る椅子は何気ないようでいて、大事な要件を満たしているのであった。隅田は、それを頼まないままにきている。

 談話室の前のミズナラが、年ごとに傾きを強めている。樹齢は三十年ほどである。かつてはミズナラを薪にし、そのあとからまた若木が育つという循環があった。その循環が途切れたところに、こうした「問題」が生まれるのだと隅田は思う。

 晴嵐荘の青年がひょいと捕まえた虫のことを、隅田はいまもときどき思い出す。チョウは、卵から幼虫、サナギを経て成虫になる。サナギの中で、幼虫の体はいったん溶けてどろどろになる。それでも、成虫原基という小さな細胞の塊だけは残っていて、溶けた体を養分にして、眼や脚や翅をつくりあげる。葉をかみ砕いていたイモムシの顎と、蜜を吸うチョウの口とのあいだには、何のつながりもないのだという。近ごろは、サナギの中で起きていることを、断層撮影で覗けるようになった。

 人も似たようなものかもしれない、と隅田は思う。軍国少年だった荒木教授も、社会変革運動に身を投じた蒲生も、時代の中で一度は身が溶けるような思いをしたのだろう。それでも、小さな芯のようなものだけは残って、次の姿をつくっていったのではないか。自分の中に残った成虫原基は何だったのか。見ていたこと、そのものだったのかもしれない。

 ある夏の日、霧ヶ峰の車山で遊ぶ隅田の指に、アサギマダラが止まった。本州から台湾まで渡ることもあるチョウだ。地を這っていた虫が翅を得て、ゆらゆらと遠くへ旅していく。

 夕暮れの庭では、オオカメノキの白い花が際立っていた。葉が亀の甲羅に似ていることから付いた名だ。寒い高地を好む木である。オオカメノキは、涸沢の紅葉をナナカマドと競う。上高地によく出かけ、涸沢にも足を延ばす望美の撮影対象である。

 談話室では、及川恒平の「夏・二人で」が小さな音でくり返し流れている。真夏にうきうきと歩いた神田神保町のすずらん通り。銀座の飾り窓で、白く長いウェディングドレスを見ていた望美。きれいなレストランに入りたいとも言った。いつかの夏に「ゆめのみちをたどって きえてしまう」ヘイケボタルの光にも似た儚(はかな)さに心は震え、素直な心を閉ざしていた一九七〇年を遠い眼で追う。

 ハルゼミの声がやむと、傾いてはいても光量が落ちないた陽光に満たされた緑の木々は風が静まって寂静の一時を迎えていた。談話室の窓を大きく広げた。十分だ、こんなものだ。夏の日、特に春から夏にかけての日は暮れそうで暮れないんだ。隅田の安楽椅子が静かに揺れた。

(了)


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