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松本市 馬場家住宅の写真撮影で考えたこと 森夏之
-2026年5月1日(金)に松本市内田357-6にある馬場家住宅を見学した。馬場家住宅はソニーエプソンが大きな工場を構えるJR東日本の篠ノ井線の広丘駅から東に向かった丘陵地にある。-
Thoughts on visiting and photographing the Baba family residence

松本市の重要文化財 馬場家住宅の見学と写真撮影で考えたこと 森夏之

旅のエッセー集 甲斐鐵太郎

松本市の重要文化財 馬場家住宅の見学と写真撮影で考えたこと 森夏之

松本市の重要文化財 馬場家住宅の見学と写真撮影で考えたこと 森夏之


馬場家住宅(長野県松本市)は、日本国(文部科学大臣)が指定した国の重要文化財。江戸時代末期の豪農の佇まいを伝える貴重な建造物群として、1996年(平成8年)12月10日に指定された。指定主体は国(文化庁)。指定年月日は1996年(平成8年)12月10日。場所は長野県松本市内田357-6。


馬場家住宅の概要:主屋、表門及び左右長屋、中門、文庫蔵などが指定。その特徴:武田信玄の家臣・馬場美濃守信春の縁者を祖とするとされる、松本平を代表する豪農屋敷。


馬場家住宅の2026年5月1日の写真と絵画の比較。絵画は何時のものか不明。幾つもの箇所が写真と異なるのはデフォルメによるものなのか不明である。屋根の勾配は明らかに違う。これは絵画作者の捉え方からきている。


奥座敷からの庭の眺め。小布施の岩松院(がんしょういん)の庭園を思い出す。一茶は岩松院の池に棲むカエルをみて「やせ蛙 まけるな一茶これにあり」と詠んだ。このカエルは蟇蛙(ヒキガエル)と考えるのが普通のようだ。ヒキガエルは何となく人間臭い。


池には金魚が放されていた。鯉はこの地の冬の寒さに耐えられないだろう。鯉を放すほど大きな池ではない。蟇蛙の遊び場と考えれば大きさは適当である。


主屋二階からの表門方面の眺め。左右には長屋がある。5月1日の新緑のころはサクラが終わり、木々が緑を大きく広げる。西の方面に松本平があり、穂高連峰、乗鞍岳など北アルプスの山々がこの季節には白く輝く。


母屋の大きな座敷越しに表門が見える。その向こうに松本平があり、晴れていれば穂高連峰、乗鞍岳など北アルプスの山々が姿を現す。


表門正面の左手に土間と勝手場がある。駕籠(かご)が置かれている。大名駕籠でもないし町駕籠よりは上等。馬場家の格式を物語る駕籠(かご)である。


勝手場の食器類(左手前)と流しと水瓶。ガス、水道が普及する前の炊事場の様子であり昭和30年ごろにはこのような暮らしがあった。


炊事場の上に造られた二階部分。柱と厚い板とで構成されている。明り取りと通風のためなのか和紙を貼った格子状の三重構造の小さな窓がつけられている。


二階床板と落下防止用の手すり。屋根裏部屋であり用途は撮影者にはわからない。お蚕をする家ではない。


表門から見える母屋正面の格子窓。この格子窓が母屋の造りに重厚さを加味する。ガラス窓が普及する以前の窓の造りは雨よけに大きな配慮がなされている。内側は戸板と和紙の格子窓。


出窓の構造は雨避けの窓を支えることと一体となっている。母屋に階部分の窓格子がこの家に趣を添える。


二階屋根の下張り。居住用に細工がなされているということか。竈(かまど)の煤が上がってきて天井板をいぶし込んでいる。


通気のために天井は透かしてある。薪(まき)と炭を煮炊きのエネルギーとして使った時代が長く続いていた。


母屋の天井につながる大きな空間。現在は明かりを取るように作用しているがその昔に意味していたことは何であったか。


かつての馬屋は物置になっていて、農具が保管されている。計量器の陳列はない。松本市には松本市中央3丁目4−21に松本市はかり資料館があって1300点を収蔵、展示している。1986年に閉店した旧竹内度量衡店の土蔵造りの店舗と蔵を松本市に寄贈している。


土壁の構造を示す資料。葦、藁、土など天然素材を巧みに使っていた。人の手が掛かった、人の手を掛けなければ建たなかった江戸末期の豪農の家屋である。


5月1日(金)、雨の東京を出て午後4時過ぎ、松本平の標高690mの東斜面に馬場家住宅は5月の新緑と青空のもとにあった。

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松本市の重要文化財 馬場家住宅の見学と写真撮影で考えたこと 森夏之

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松本市の重要文化財 馬場家住宅の見学と写真撮影で考えたこと 森夏之

 スマホのカメラ機能よりも小さなデジカメのほうが好きだ。ソニーとニコンのそれを使っている。最近は撮影画像処理のソフトウエアが良くなったから露光の補正、彩度の調整によってちっちゃなデジカメでも写真を仕上げることができるようになった。以前だと時間がもったいないから写真はいじらないと決めていた。

 2026年5月1日(金)に松本市内田357-6にある馬場家住宅を見学した。馬場家住宅はソニーエプソンが大きな工場を構えるJR東日本の篠ノ井線の広丘駅から東に向かった丘陵地にある。

 この馬場家は武田24将のうちの主だった四家の一つであり、知り合いが子の末裔であった。その人の家は中央線の新宿の西にあり東京駅から同じ方面なので一緒に帰ったことがあった。徳川家、伊達家、金沢の前田家などの当主を意識していたから、武田24将の馬場家の当主に当たると考えていたのだが、武田家滅亡で武田24将はちりぢりになっていて愛知で名を成すものなど幾つかの系譜がある。重要文化財馬場家は現在の松本市内田の地で家を構えたのであった。明治期以降には外交官を出すなどの名門として生き残っている。

 その馬場家住宅の見学である。知り合いの馬場一族の末裔のことを思い出しながら、そして武田24将はどうなったか、さらにこの地に屋敷を構えた松本の馬場家が如何に生きてきたのかを考えた。現代まで大きな屋敷を構えて生きてきた松本の馬場家であり、明治期、大正期、昭和期と経過して、戦後に農地解放で大きな打撃を受けたことであろうことを想像した。

 富がどのように集まり大きな屋敷を構えて維持してきたのか。今では大きな屋敷があると固定資産税が大きくのしかかるので、普通に学校を出て普通に勤め人にしかなることができない社会であるから負担に耐え切れない。馬場家住宅はこのような事情によって大部分を松本市に寄付したのであった。

 この屋敷が建てられたころの社会構造や建築への考え方、暮らし方などそ考えて写真を撮った。柱、囲い板、土壁、二階の構造、大きな座敷とそれぞれに想像を飛躍させた見学である。筆者の思いは写真に表現されている。

武田二十四将 馬場信春の子孫のその後

 武田二十四将の一人として名高い馬場信春(信房)の馬場家は、1575年の長篠の戦いで信春が戦死した後、子孫が各地へ分かれ、江戸幕府の幕臣や郷士として存続している。

1、1575年の長篠の戦いにおいて馬場信春の最期馬場信春は、敗走する武田勝頼を逃がすための殿(しんがり)をつとめ戦死。

2、信春の死後、馬場家の一族や子孫の歩み。

江戸幕臣(旗本)
 徳川家康に仕え、江戸幕府の幕臣となった系統がある。

各地の郷士(土着)
 武田家滅亡後、武士を辞めて農民(郷士)となり、各地に定住した系統が多くある。

山梨県(甲府市)
 信春の三男の系列が甲府市朝気町周辺で武田浪人・郷士として続いている。

東京都(青梅市)
 御岳山にある「馬場家御師住宅」を営む家系として現在も続いている。

その他の地域
 越後(新潟県)、下野(栃木県)、和泉(大阪府)などにも郷士として定住した記録が残る。

3、主家の武田氏との関係

 馬場家は武田氏の親族衆ではないが、代々武田家と縁組みを重ねていたため、系図上は武田一族として扱われることもある。

馬場信春ゆかりの場所自元寺(山梨県北杜市)
 馬場信春が自身の領地に建立した寺院で、現在も馬場信春の墓がある。

馬場信春の墓(愛知県新城市)
 戦死した地である長篠城の近くにも、その功績を偲ぶ墓碑が建てられている。

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旅のエッセー集 essay and journey(essay of journey) 旅行家 甲斐鐵太郎
essay and journey(essay of journey) by kai tetutaro

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