山女魚の部屋 | |
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山女魚の涙 |
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魚の涙については芭蕉が描く奥の細道への旅立ちの心境を詠った句に出てくる。 ○行く春や 鳥啼き 魚の目は泪 芭蕉芭蕉が奥の細道の旅路についたのは新暦5月16日である。日の長さはこの頃から7月の同じ頃まで夏至とそれほど変わらない。日が一番長い頃に旅路につくのは賢いことだ。深川を発ったあと千住に暫く滞在して俳席に招かれ、江戸の名残を惜しんだ。 芭蕉の句の「魚の目は泪」の泪はもちろん比喩である。岩魚の目は黒い、そして三角なのだ。これは山女魚も同じだ。死んだ魚は知らないが水槽で泳いでいる岩魚や山女魚の目は三角で、鼻のほうに三角の頂点がある。岩魚や山女魚の涙はどこから出るのだろうというのは愚問というものである。しかし魚の目は泣いたように潤んでいる。 芭蕉の奥の細道の最初の句は上記の「行く春や 鳥啼き 魚の目は泪」である。 深川の芭蕉庵をひきはらって千住に滞在して友人知己との別れの句会を開いていた芭蕉は、旧暦三月二十七日(陽暦五月十六日)に奥羽街道、日光街道の最初の宿場を出発する。 句の意味は 過ぎゆく春を惜しんで、鳥は悲しげに鳴き、また魚の目は悲しさに泪で濡れている、 というものである。 千住は宿場町であり、魚市場、野菜市場があったから、芭蕉は市場の魚のことが強く心にあったのであろう。 惜春の情と自分が長い旅に発つ別れを重ねて詠んだ句は、自分を鳥に喩え、見送りの人々を魚に喩えている。 別れの場で芭蕉は矢立の筆でさらさらとこの句をしたためて見送りの人に渡した。 その芭蕉には曽良が同行する。 芭蕉の旅は西行を慕っており、歌枕を訪ねる旅でもあり、それは漂白の詩人、杜甫や李白を敬慕してのものであった。芭蕉はこの旅の途中で死ぬ こともあると考えていたはずである。当時の旅は今の旅とは異なる。芭蕉の旅は詩をつくるための旅であり、旅の途中であるいは金を使い果 たして乞食の境涯になることも予想され、病気で倒れるかも知れない。そのことを芭蕉は「菰(こも)かぶるべく心がけにて、ござ候」と述べている。 topへ |
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