鮎釣りの部屋 山渓クラブ会員、日本野鳥の会会員 横田俊英

岩魚の部屋
相模川2017年  鮎の友釣り 釣果情報

岩魚の涙

 

魚の涙については彼の芭蕉が奥くの細道への旅立ちの心境を詠った句に出てくる。

 ○行く春や 鳥啼き 魚の目は泪   芭蕉  



 「魚の目は泪」は比喩である。しかし魚の目は泪で潤んでいるようなのが普通 であり、濁った目の魚は鮮度が落ちている。芭蕉は涙を泪と書いた。この句は別 れを惜しんで集まった人々の前で、矢立の筆をとってさらさらと書いて渡したのだという。ここでは惜春の情を別 れと重ねたもので、芭蕉は鳥に喩えられ、魚は別れを惜しむ友人たちに見立てた。

 さて岩魚の目はどうなっているか。

 岩魚の目は黒い、そして三角なのだ。



 これは山女魚も同じだ。死んだ魚は知らないが水槽で泳いでいる岩魚や山女魚の目は三角で、鼻の方に三角の頂点がある。虹鱒もそうだし、ブラウン・トラウトもブルックもそうだ。私の好きな鮭鱒の類はみな目が三角だ。他の魚の目が三角なのか、どうなっているかは注意して見たことはない。

 日本の河川で釣りの対象となっている岩魚、山女魚のほとんどは稚魚放流と発眼卵放流をすることによってまかなわれている。人の入らない山奥や小さな川には自然産卵による種の保存がある。釣り人が川に列をなす人気河川では親魚が減るので、自然産卵だけでは入川する釣り人の数に釣りの対象となる魚が間に合わない。海にだって同じ現象が出ておおり、鯛やヒラメも稚魚放流によって釣り人の需要を満たしている。

 釣り人気のため各河川を管理する漁協は、釣り人の気を逸らさないために釣りになるだけの数の魚を川に入れていなければならない。こうした結果 は河川の釣り堀化を促進することになる。海でも一種の釣り堀化現象が進行している。

 岩魚の産卵



 鮭は産卵のために川に帰る。鮭、鱒の類は皆そうである。

 岩魚にしても海に出て川に産卵に戻るものがいる。山女魚にもそのようなものがいる。山女魚の降海型が桜鱒で、あまごの降海型が五月鱒(サツキマス)で、これは郡上地方での別 名が「もどり」である。

 産卵のために川に戻る鮭のうち北海道に戻るものが「あきあじ」である。南部の海岸に戻る鮭は「南部の鼻曲がり」と呼ばれて新巻鮭になる。北海道の「あきあじ」の季節は早い。九月にはそのシーズンになる。南部の鼻曲がりの本格的なシーズンは十一月を過ぎてからである。

 那須山脈に源を発する那珂川は鮭が遡上する南限の川とされている。ここでは十月に入ると鮭漁が始まる。

 多摩川に鮭の稚魚を放流することことについては賛否両論がある。反対派は多摩川には鮭がもともと遡上していないのだから、稚魚の放流は自然の生態系を乱すことになると主張している。多摩川に鮭が遡上していたのかいなかったのか私は知らない。

 その多摩川の上流には岩魚が生息しており、自然産卵を継続している。産卵時期は十月以降に始まる。多摩川の渓流釣りは九月末で禁漁になる。

 前置きが長くなったが岩魚の産卵のことを書きたかったのである。

 釣り仲間のSさんのことは私の手記に何度も登場しているが、奥さんは越後湯沢の生まれで、そのお父さんは毛針釣りの名人と呼ばれた人である。

 名人は岩魚の産卵を良く知っていて、S夫人は子どものころ父に連れていってもらって岩魚の産卵の様子を何度も見たという。岩魚の産卵場所は川の源流部の浅瀬で人が見ている前で水をバチャバチャはじかせて産卵をする。

 NHKテレビが放映した多摩川上流の岩魚の産卵は、膝ぐらいの浅瀬で行なわれていた。本当の条件は小石のある浅瀬であるが、そのような条件に恵まれなければ少し条件が悪い所でも何とか用を足そうとするのであろう。多摩川の岩魚は健気(けなげ)なものである。悲しいこととしてとらえることもできる。

 春の岩魚



 岩魚の棲む川は概して寒冷の地にある。私と岩魚とのかかわりは趣味としての釣りを通 してである。その岩魚と一年のうち、最初に出会う場所は釣に行く川と場所によって異なる。

 東京近郷では水温などの関係で岩魚のいる川は限られるので、意識しないと岩魚とは出会えない。昨年は越後湯沢を流れる魚野川であった。初釣行は解禁翌日の魚野川であったが、山女魚の小さいのを一尾釣っただけだった。岩魚の顔を見たのは何度目かの釣行の後であり、形は小さいものに終始した。

 一九九七年の解禁日の三月一日が土曜日であることから、釣友のSさんに誘われて解禁日に出かけた。昨年は湯沢駅から直進した川のたるみで三十尾ほど釣り上げたと駅前の釣具屋の主人がいっていたものだから、この言葉に期待をかけて二人で出かけたのである。この日は朝から小雨もようで、呑気に釣り場に駆けつけたのは午前八時を回ってから。その釣り場には三人ほどが竿を出していたものの、獲物を釣り上げた様子ない。われわれも空いた場所を移動しながら二時間ねばって魚の反応をみたが釣具屋の主人の話のようにはいかない。

 三月解禁の魚野川の湯沢界隈は雪の中である。湯沢は日本一の豪雪地帯であるから町中はもとより一帯が雪に閉じ込められている。岩魚の釣り場には腰まで埋まる雪の野原を通 って行かなければならないので難渋する。私が湯沢の魚野川を主な釣り場としているのは、釣り仲間のSさんがこの地に「かたくり荘」と名付けた二階建ての使いよい別 荘を持っているからである。ここを根城に魚野川の本流・支流を釣り歩くのであるが、釣り場にバリエーションがあるので飽きがこなくてよい。何よりよいのは釣りに出かけられる状態をキープして、釣りに行かないで酒を飲んでいることもできることである。仲間のある男は釣りよりも日本酒がよいとかたくり荘で飲んだくれている。

 湯沢の魚野川はこの何年かの間に釣り人が増えてしまった。本流、支流とも行く先々に必ず釣り人がいる。土、日はもとより平日だって呑気にしていられない。こんな釣り場の環境にあっても、かたくり荘の主人のSさんは釣り場情報に長けていることと一尾をものにすることへの並々ならぬ 執念を持ち合わせていることで、常にレベル以上の獲物を持ち帰る。

  Sさんの岳父と岩魚釣り



 Sさんが湯沢に別荘を建てた背景には奥さんの出身地ということがある。比較的町中のいい場所に岳父の斡旋で早い時期に土地を購入していた。現在この辺の土地は坪五十万円程で取引されている。

 岳父は鉄道員でこの地で多くの子をなし、生計の足しと楽しみのため岩魚釣に興じていた。土樽山荘は谷川岳登山の基地になっているので、この宿の宿泊客用に岩魚を供給していたという。その頃の岩魚の濃さは、S夫人の次の話から想像がつく。

 岩魚の産卵は夕暮れに始まることが多いという。S夫人達が父親に連れらて浅瀬のある沢筋で日暮れを待ち構えていると、必ずそこで岩魚の産卵が始まるのだという。岳父は岩魚の産卵をよく知っており、いつごろ何処に岩魚が集まって産卵行動に出るのかが分かっていたのである。昔の人々は自然に親しんで生きていたのである。

 岩魚の釣り方は毛ばり釣りで、現在ではテンカラ釣りと呼ぶようになっている釣り方である。かたくり荘には遺品の竿と毛ばりがガラス戸棚に入れられている。

 当時の毛ばり釣りは六月に入ってから始めたそうで、確かに岩魚釣の最盛期は真夏の時分だと思う。

 解禁の釣りは模様眺めの釣り



 三月一日の解禁日にまなじりを決して釣りに出かけることは、恥ずかしいことだと思うようになった。しかし、釣りが趣味でこの季節に別 の遊びをしていてもしょうがないので、ついつい掛けて出かけることになる。十月一日から六カ月間の禁漁期間中に渓魚達は人への警戒を解いているので釣りやすい。また大物に巡り会う可能性があるので出かける。

 とはいっても雪深い山里の本当の時期はまだまだ先なので様子見という冷静さ失ってはならない。岩魚、山女魚らの渓魚はどうした加減か良く釣れる年と釣れない年がある。人間には分かりにくい自然の摂理が働いてのことであろう。

 解禁日の大釣りを夢見て



 釣れない渓流魚も解禁日に運がいいと三十尾を超える大釣りになることがある。禁漁期間の間に岩魚、山女魚が自分の好む流れに群がっているからである。このような場所に出会うと一投ごとに必ず魚信があり、次から次へと針掛かりするからたまらない。寒さなど吹き飛んで夢中で竿を振る。魚信が遠ざかって魚籠(びく)の魚を数えると三十を遥かに超えていることは珍しくない。

 釣った岩魚は川に帰してやりいたい



 釣れない釣りを続けたり、釣れても小さな岩魚ばかりであると情けなくなる。いい川相のいい流れで、そこそこの大きさの元気がいい奴が釣れることこそ気分のいい釣りというものだ。実はこのような場所は誰でもが竿を出すから解禁後一週間もすると釣れなくなることが多い。いい場所には魚が着くのであるが、それを上回る釣人の攻略がある。だから釣人が増えた現代の川の多くは解禁の日を除くと、ここはと思う場所で岩魚は釣れない。

 魚野川攻略の名手、Sさんは多くの釣人が見逃すようなちいさな場所に丹念に竿を出す。一箇所で粘るのではなく広いエリアの小さなスポットをくまなくつぶして歩くのだ。この釣り方が人の多い川の攻略法である。そうでなければ、その日の一番乗りと朝まずめと夕まずめにしか渓魚を釣ることは難しい。

 現代の渓流釣りはそのような状況にあるから、これの解決策は一つは釣った魚はすぐ川に帰してやることである。豊かになった日本の国であるから釣れなくなることを承知で渓流魚を食べることはあるまい。目的は渓魚の釣りを楽しむことであるから、シーズンを通 して楽しむためには、釣った魚を川に帰してやることが一番てっとり早く確実な方法である。

 雪の中の解禁は手がかじかむ



 湯沢の魚野川の解禁日の三月一日は河原は雪に覆われている。

 スキー場が五月の連休まで営業しているのであるから、東京が初夏の日差しを思わせるころになっても、山の緑はまだ少し芽を吹いただけである。そんな五月にはまだまだ遠い三月一日の解禁日とその当初の釣りはまるで雪遊びである。

 晴れた日はいいが、雪の日の時もある。それもでもせっかくの休日に車を飛ばして湯沢まで来ているんだと思うと、かじかんだ手で竿を握ることになる。手がかじかむ寒さでも渓魚の方はは厳冬期から抜け出しているので、餌の川虫を追う。吹雪の中でもダウンのジャケットに身を包んで以前釣れた実績のある釣り場に足を向ける。

 堰堤下などは雪の野原をひとしきり歩いて三メートルもある護岸を鉄はしごを伝って降りなければならない。そこに先行者がいないことを祈りながらであるから、さもしいというか風情に欠けること甚だしい。これが現代の渓流釣りの現実である。

 少し大きな砂防ダムへの流れ込みでの釣りは腰までの立ち込みをしなければならないので、そんな状態で長時間粘ると腰から下が冷え込んでジンジンしてくる。「こんなことをしていたら神経痛になるぞ」という声が聞こえてくる。「いや却って冷却療法で健康にいいのではないか」などと屁理屈をこねながらポツリポツリと掛かる岩魚や山女魚についつい粘ってしまうのである。  

 このような釣り場は少々の数を釣り上げても、魚のプールになっているダムから魚が補給されるので何時でもそそそこの安定した釣果 がでるものである。その場所に人が入っていなければ何尾かをものにすることができる。こうした釣り場は、流れが太いので魚の着くき場となる筋目えお読むのが難しいから初心者には手強い。しかし筋目には必ず魚が着いているので丹念に餌を流すと魚は食いついてくるものである。

 このような流れ込みの筋目は一般に山女魚のものだが岩魚も出る。何時かの初釣行では山女魚で馴染みのある場所で虹鱒に挨拶されて閉口した。その翌年は降海型の山女魚、通 称「しらめ」のご挨拶でこれにも参った。その年の一尾目は二十七pの元気のいい山女魚がきた。ついで場所を変えて二十八p岩魚が出た。あまり時間をかけずに岩魚と山女魚にできて言うことはなし。  気分は上々で酒を飲むことができたのである。

 山桜の咲く季節



 湯沢の春は山桜が咲くとやってくる。山桜が咲くと春が来たと思えるのである。それには五月の声を聞かなくてはならない。この頃になると藪陰(やぶかげ)に薄桃色のかたくりの花が群れて咲き出す。その付近にはあけびが芽を出していることが多い。

 かたくりの花もあけびの芽もおひたしにして食べると美味しい。さっと湯をくぐらせるとかたくり(片栗)の花は紫に変色する。あけびは綺麗な緑色になる。

 春の山菜がこの頃には一斉に芽吹くので、かたくり荘の主人のSさんは釣りどころではなくなる。ウド、ゼンマイ、タラの芽、水菜、フキノトウ、ツクシ(土筆)、また春のキノコまである。

 雪国の山の斜面の」春は、重い雪を木の枝が払いのけることによって訪れる。その枝が芽を吹きかけた頃が山菜の季節で、目を川に転ずると一面 の雪の河原に陽光が眩しく、せせらぎも瀬音を大きくする。

 水温は雪解け水が流れてくるので日の照らないときは摂氏二度ほどだから、渋い釣りになる。陽光が眩しいときなどは水温が上がるので魚の動きがよくなるし、釣り人は動き回るとかなりの汗をかく。

 芽を吹くのが早い川岸の柳の木の下で行動食の握り飯をゆっくりほおばる一時は幸福感一杯でありそしてその一円は平和でもある。直射日光を浴びているとぽかぽか陽気であるが、実際の外気温度は低いので、握り飯は冷たい。暖かいお茶が欲しくなる。

 こんな日は釣り竿を出さずに岸辺を散策するのもいい。気分のいい春の日だまりに日頃は醜く濁りきってる魂を放り投げて置くのは命の洗濯といえるものである。

(1997/2/9記)



(以下、執筆予定のタイトル)

・雪渓を登って渓の岩魚にご対面

・5月の連休

・夏の河原で白中夢

・秋のよい季節に禁漁、だが茸狩りの楽しみも

・夏の河原は藪の中

・すすきが穂をつけるともうすぐ禁漁  

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魚野川の55p 岩魚と梓川のイワナ 「別荘遊びの副産物」と別荘のこと

 「釣れたよ、大物だ、55cmの大岩魚さ」



 新潟県の湯沢町を流れる魚野川を渓師、Sさんと魚野川のどこか支流で遊んでいるはずだった週末を仕事の都合でキャンセル。「悪いことをしたな」と思ってSさんの職場に顔を出してみたら、「横田さん釣れたよ、大物だよ、見せようか」といって机の中から写 真を取り出した。「えーー、まさか」というサイズの大物である。55cmの岩魚なのである。

 インスタントカメラで記念撮影



 写真はインスタントカメラで撮られていた。事もなげに巨大な岩魚を胸の前にぶら下げている。撮影者したのはSさんの湯沢での遊びの拠点「かたくり荘」の近所の友人のKちゃんであった。kちゃんは写 真好きでニコンのAF一眼レフを使っているのをみたことがある。魚野川の60p近い岩魚は地元のレストランのマスターが自前の薫製釜に入れてあるのを見たことがあった。これに近い大物を釣り上げたSさんはそのことを私に語るとき感動を抑えているのが分かった。

 感動して写真が撮れることの幸せ



 感動して写真が撮れるということは幸せなことである。55pの大岩魚をゲットしたSさんは写 真のほか魚拓を取ったという。別荘の壁に釣り上げた大物の魚拓や写真がずらりと並べてあるものだから、この「かたくり荘」を象徴するものとして知り合いのデザイナーが選んだのが渓流魚であった。かたくり荘は奥さんはの郷里なのだが、その奥さんは魚ではなくかたくりの花を望んだのだという。

 Sさんはこの意見を受け入れた。夏にはかたくりの花をあしらった「かたくり荘」のオリジナルTシャツを関係者に配った。私はLLのやつを注文しておいたら何枚か無料でくれた。 55cmの岩魚を手にしたオリジナルTシャツが本人にとって一番の記念になるのだろうか。

 老後は雪国よりも温暖の地で過ごす



 話が別荘のことになっている。Sんの土地は奥さんの親父さんの斡旋で三十年ほど前にいま思うと驚くほどの値段で買ってあったのだという。隣の敷地は奥さんの姉夫妻のZさんが喘息の子どもの転地療養のため仕事を含めて東京から越して住んでいた。このZさんは子どもが東京に出て独立したこともあって老後の居住地を焼津に決めて、土地を確保している。何年後かに始まる定年後の生活を温暖の地で送る。湯沢の住居を売却した資金で建物を建てる計画だという。

 この春、湯沢に岩魚釣りに出かけ「かたくり荘」に泊まっていたら、地元の不動産屋の案内で購入希望者が見に来ていた。売却は販売希望価格どおりにいったかどうか、確かめていない。

 学者村には片道3時間



 ニコンF2という昔のカメラを使っているFさんは長野県の美ケ原山麓の長門町にある学者村に数年前に別 荘を建た。ログハウス風のオーナーの気の済むままに設計した建物は豪勢である。

 東京からの車での片道所用時間は3時間。老後をここで暮らしてもいいつもりで建てたのだという。学者村は小高い丘に造成されている。夏はともかくとして東京の冬の暖かさに慣れた人間に向くのかどうか、しっかりした建物で断熱と暖房に配慮していたとしても冬場の寒さはきつい。

 雪国の冬の暮らしを知る人は温暖の地を選ぶ



 Zさんが湯沢から温暖の地焼津に老後の住居を移す計画でいることは、雪国の冬の暮らしの厳しさを物語るように思える。

 Fさんは学者村で老後を過ごしてもよいと思った。同じことを夏の軽井沢で考えた人は大いことであろう。その軽井沢の別 荘の冬場の寂しさや、使われなくなって荒れている建物を見ると、「夏草や兵共が夢の跡」を想起する。

 自宅を売却して八ケ岳山麓に暮らす余生



 八ケ岳山麓の小淵沢別荘の友人は、週末田舎人の暮らしを続けている。月、火、水、木の4日間は東京に借りてあるマンション暮らし。金曜日から日曜日までは小淵沢の別 荘でくつろぐ。この小淵沢の別荘地、近隣に幾つもの建物があり、ここを完全な生活の場として常駐する人が増えている。

 仕事をしていればこその余暇の快楽



 「別荘暮らし、あるいは野に出ての釣りをする楽しみは、仕事をしているからこそのものです」というのが、Sさんの弁である。  

 「かたくり荘」から歩いて五分の所に大学時代の友人のN君が暮らしている。町役場に夫妻で勤務する彼の一番のレクリエーションはジョギングとその延長のマラソンである。魚野川の釣り場から帰る途中でジョギングするN君の姿を見かけて驚いた。彼は釣りなどしない。  

 釣り場の近くにいる暮らしがうらやましいが、何時でも釣りができるとなるとむきになって川には出かけることはない。

 梓川の岩魚は語る



 上高地の梓川の本流の澄んだ流れ、支流の緩やかな親しみのある流れは、木々と山々が渾然一体となって織りなす何とも表現し難い美しい景色である。日本の桃源郷といってよいように思う。

 梓川とその多くの支流に棲む岩魚は人に姿を見せることを恐がらない。釣りが長い間禁止されているので川には岩魚があふれている。いけすで飼ってもここまでは慣れないというほどに人を怖がらない。岩魚は獲ってしまうから減るのであることを上高地を流れる梓川は物語っている。上高地が拓かれるころは獲る人が少なかったので岩魚は川に山といた。ここに渓流釣りを楽しませる原理が隠されている。

 日本的な風景の象徴はやぶ山



 上高地の美しさはヨーロッパやヒマラヤなどとは違う日本独自のものである。何が美しいかといえば化粧柳の芽吹きであり、こうした木々の緑と清冽な水と眼前にそびえる穂高連峰を中心と山々である。上高地は美しすぎてどこか構えたような所があるのも確かである。外国の山から帰ってくると日本のやぶ山が心をなごませるが、これはやぶ山が日本中どこにでもある裏山の続きであるからだろう。

 心をいやすための住まいのことに話を飛躍させると東京に至近のやぶ山のある地を選ぶとよいであろう。それも少し高台の見晴らしのよい場所に。

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