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読書の楽しみ(2)

長期休暇と百冊の本と読書中毒見出し

 読書中毒を患う人  



 本を読む、活字を見る、活字と接していないと安心できない、寝つけない読書中毒を患う人はこの世に多い。

 読書に夢中になっているとき一日に十冊くらいの本などあっさり読み切ってしまう。そういう類の読書は精読・熟読という訳には行かないが、強い興味や問題意識がある場合には、その意識に引っかかる部分だけを拾って行けばよい。これは調べもの的読書であり、こうした読書というか資料調査の達人が司馬遼太郎であることを神田の古書店の主人が伝えている。

 論証の難しさと奇本



 そういうのは読書ではないということもあるが、読書にはこちらに強い問題意識があってするもの、作者の意識に全部のってしまう読書の二通 りがある。どちらにしても、こちらは精読したとしてもまともな理解力があるわけではなく、未知の分野では一人の意見にだけ従っていては思わぬ 落とし穴にはまってしまう恐れがある。理解が難しい分野の書物の読破に挑むのはいいが、何度読んでも分からないことにへばりつく執念は立派だとしても、それをしていては人生が終わってしまいかねない。そうした馬鹿げた状況に陥ってしまう人が実際にいるのだ。

 どこの学問分野の書物の中にも珍説・奇説のいかがわしい本が混入しているから余程注意しなくてはならない。こうした本が正々堂々と書店に並ぶということは、学問における論証性というものが極めて疑わしいことにも由来する。経済や政治に関する論説のすべてが疑わしいと思えば、一つの学問分野で幾つもの論説に触れなければならない。私のこのような態度は、学問を冒涜する似非(えせ)学問に接触し過ぎたために生まれたもので、いつの間にかへそ曲がりになってしまった。

 いつかの正月には



 夢中になると片時も本を手放せない。トイレだろうが、お風呂だろうが、路上だろうが、文章を追わずにいられなくなる。

 いつかの正月には重症の読書中毒、活字中毒を患ってしまった。事情があって家を空けられなかったのであるが、そのなぐさみが読書であった。古本屋で一冊百円の本を百冊ほど買い込んで籠城となったものだが、安い本だからといって出鱈目な本ではない。まあ教養書と文芸の類が中心で、嫌なら百円の本だから放り出せばよいと考えて、大量 に仕込んだものである。これが夏で露天風呂に入ったり出たり、ビールを飲んで昼寝をしたり、その合間に好きに本を読むというのであれば最高だ。

  読書には娯楽ための読書というのがある。娯楽映画を見るように、読書を娯楽とするものだ。私の読書のなかで一番多いのが趣味の分野の蘊蓄(うんちく)学を学ぶものである。調べ出すと分かるまでとことん突っ込むのが人間の習性のようで、このことによって人間は学問を発展させてきた。

  私のうんちく学



 私の蘊蓄学は学問というような大それたものではなく、それは釣りであったり、カメラであったり、自転車であったり、野鳥であったり、日本犬であったりする。  

 趣味の釣りの分野の本を漁るのは、最新情報、最新技術を知ることによって、釣れない釣りから脱却して、できるだけ快適な釣り生活をしたいためである。最近は名人でなければ分からないような釣りの情報が本などを通 じて大量に流れるので、そうした情報に接することによって、魚が釣れなくて釣り場をうろうろするという無駄 を少しでもなくしたいからである。

 また読書の中には仕事を上手くこなすための間接的な分野の知識を獲得のための読書というものもある。教養の修得にも似たお勉強であるが、こちらは気が向いたときにするだけだから気ままなものであり、費やす時間の絶対量 は少ない。

  週刊誌の耐用時間  電車のなかでの暇潰し用の本は欠かせない。これは読書中毒の者には絶対的で、読み物を二冊は用意していないと退屈する。こうした本を持っていないと、読書の耐用時間がわずか十分の週刊誌を買うことになり、空しさをかみしめなくてはならない。

 読書好きの幸福は好きな作家がいることである。好きな作家の本を読み尽くしてしまうと、空疎というか虚脱感といおうか、寂しい思いを味わう。

  好きな作家  



 松本清張は読み尽くしてはいないが、舞台となる年代が古くなってしまったし筆使いが今の感覚とはずれている。森村誠一は書くことがなくなってしまったようだ。司馬遼太郎は読み残しが少なくなってしまったのが残念だ。椎名誠はそれほどでもないし、誰かいい作家はいないかな。

 宮沢賢治に興味を覚える。宮沢賢治の文章物語性が強く、また科学知識が織り交ぜられている。石川啄木と宮沢賢治とどちらが偉いのかと山下清のような気持ちでいる。  

 外国の文芸は日本語への翻訳という手がはいっているので物語、ストーリーとしての面 白みは感じることができるが、文章それ自体を楽しむことは難しい。これは翻訳の限界というもので、漱石や鴎外がそうした文芸の草分けと伝えられているが、本当に優れた翻訳家というものを私は知らない。外国の文芸は、その背景に思想や哲学や宗教があるので、日本人の私にはそこまで含めて読みこなすはできない。

 ノンフィクション文芸というのがある。若い頃にはこの分野が好きで川口慧海のチベットへ潜入する探検物語が面 白かった。

  『あした来る人』



 最近は、Sさんから井上靖の『あした来る人』を手渡された。この物語の主人公は魚類学者とアルピニスト。私の子供が高校で登山部に席を置き、大学はお魚の研究分野に進む計画でいることから、この子供にと薦めてくれたものである。この本を子供にわたす前に私が読んだ。昭和三十三年ごろの朝日新聞の連載小説であるから、会話の表現形式を含めて時代感覚の古さは隠せない。子供の愛読書で文章まで真似ている椎名誠の平成軽薄体との差は著しい。

  破格値の絶版もの



 読書の対象になる本は新刊本や全集など本屋に売っているものと、絶版もので普通 の本屋にないものとがある。このほかに売ることを目的にしない記念出版物や自費出版があり、またテキストなど限定本がある。さらに社会の目をかすめて実は欲しい人がそれなりに居るアンダーグランドもの、秘本の類のものもある。

 古書店で破格値が付く本はいくつもある。



 計量の歴史学に関連する分野の本としては、日本計量協会が刊行した『メートル法沿革史』が刊行時の値段の十倍以上で売られている。日本計量 史学会では同学会の論文集の『計量史研究』のバックナンバーを計量史研究の振興のため発売時価格で放出することになった。これは全巻揃えば貴重品であること間違いない。ゆくゆく計量 の歴史の発掘や研究を手掛けようと考えている方があればこの際に購入なさってはいかが。

 本には知識が詰まっていることが多い。百科事典などは体系だった知識の宝庫ではあるが、より深い知識となると専門書に頼らなければならない。最新の知識を得ようとするとこれもまた専門書に頼ることになる。

  インターネットと読書



 ところがここに来てインターネットの普及・発達により知識へのアプローチの方法にもう一つの道が開けた。インターネットの可能性は普通 の人の想像を超えている。社会と人間生活のあらゆる情報はインターネットにのる。百科事典では補い切れなかった専門知識と最新情報がインターネットによって手軽に入手できるのである。

 インターネットがいくら発達しても、本がいくら豊富に出版されても、そこに盛られた人類の知識は、個人からは分離されたものである。個人の側からは必要な知識を本や教育機関などを通 じて獲得することができるが、人格については単純に本を読むだけではやしなうことはできない。知識が豊かであっても人格のゆがみが大きい人は少なくない。

  読書と教養



 本を読むことによって知識を豊かにし教養を高めることができるが、人間が獲得しなくてはならないと人間性については、知識伝達だけの教育や読書だけでは十分でない。人間性豊かな、つまりヒューマニズムを体得し、、豊かな知識と高い教養を身に付け、人と和することができるという、現代人にふさわしい人格を形成することは容易でない。読書はこのための必要条件であり、また友との付き合いは豊かな人格を築くのに欠かせない。

 だから人間はよく学び、よく遊ばなければならないと思うのである。

旅と駅弁と富山の鱒ずしと大学教員

 先生は駅弁の本を書いていた



 列車の旅には駅弁が付き物である。駅弁のことで私には不意をつかれたことがある。不意というより誠に意外な愉快な思い出である。

 それはいつもまじめくさってマスコミ論の講義を担当した大学の教員の思い出である。その講義には受講生は五人位 しか集まらなかった。顔を覚えられた私は欠席するのがためらわれてずっと講義を聴いた。

 卒業して二十五年も経ったある日のこと、神田の古本屋でその先生が書いた「駅弁」の食い歩き経験を元にした本を見つけたのである。講義を受けていたころに既に出版されていたその本は、先生が食いしん坊であることを証明する本なのであるが、講義の中ではそうした気配はみじんもみせなかった。 先生は駅弁を食べ終わると、その包装紙を家に持ち帰って整理しておいた。包装紙がそこそこの数になれば、人に話題を提供できる。映画評論家でもあった先生は、講演旅行の折に食べた駅弁の包装紙を集めたのであった。日本全国の駅弁が語られた楽しい本であるが、出版社に縁故があって本になったのであろう。この先生はマスコミ論の講義に特別 にテキストを指定しなかったし、テストもしなかった。授業の感想文を書かせてテストに換え、私の文章には最上級の点数をくれた。

 「とうへんぼく」の財政学の大学教員



 マスコミ論のことから嫌な大学教員のことを思い出してしまった。

 卒業年次、財政学の教員(教授)はテキストに自分の書いた一冊五〇〇〇円の無名の本を二冊も買わせた。財政学は四年次の必修科目であるのだが、この教員はどのように気が振れたのか半数の者に不合格を付けた。出席簿を付けていたこの教科の私の出席日数は規定に満たなかったので試験の結果 が気掛かりであったのだが「可」の評点であった。卒業式の日、私は苗場山に登る計画になっていて、卒業式には出ずに山にこもった。苗場山の頂上直下の雪洞で卒業式の日を過ごしていたのであるが、一年ほどして学年の半数が留年していたことを聞いて驚いた。

 採点の加算項目として出席をとっていた財政学の講義は、教員の人品いやしきこともあって 、おぼつかない出席日数のまま試験を受けた。私などはこの講義と投げやりな付き合いをしていたから不合格でも仕方ないと考えていたが、出席簿に拘束されてくそ真面 目に与太話を一年間聞かされた上、この一科目のために留年を宣告された者は気の毒である。この大学は追試はしないので卒業単位 が足りない者は有無を言わさず留年とされた。あれから25年以上経つが、最近になってもこの大学を必修科目一科目のために卒業できないでいる子を持つ親の話を聞いた。

 駅弁と富山の鱒鮨



 マスコミ論を担当していた駅弁先生につられて私は駅弁に興味を持つようになった。

 駅弁はその街その駅の象徴である。NHK、朝の連続ドラマの萌ちゃんにはアシモイ駅の駅弁売りが出てきた。アシモイ駅は架空のものだが、この年北海道は観光ブームとなった。

 富山駅の名物弁当は「鱒ずし」である。

 駅売りは「源」であるが、黒部平では「川上」が売られていた。「川上」の鱒ずしは蓋を開けても鱒の切り身が姿を現さないので戸惑うが、底に切り身が敷かれている。蓋を開けたら逆さまにして包丁を入れるのだと添付の説明書に書かれていた。六月の富山行きではこのほかに「青山」の鱒すしを食べた。「青山」は知人から聞いたもので、ホテルの近くにあったその店に足を運んで買った。ここのは鱒の切り身は見事なサーモンピンクで、酢飯がまた美味しい。

 鱒ずしの素晴らしさの一つは日持ちのすることである。夏場でも数日間は大丈夫であり、場所を選べば一週間はもつ。少し値の張ることに目をつむり、重さを厭わなければ有り難い登山のための糧になる。

 

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人間は嫉妬の動物  ジュラシック・パークは「ジェラシィー・シック・パック」(嫉妬病の大梱包)なのだ



 人間といわず動物は嫉妬する生き物のようである。

 この世の生業、人間全体の生きるための活動を経済という。経済はどの時代でも他との競争が避けがたいものであった。経済活動における競争は社会の進歩・発展の要素である。人間は経済と無縁でいられない。人間の営みそのものが経済といってよい。その一面 を文化といったり政治といったりする。  

 ここでのテーマは「嫉妬」。経済の競争のことを嫉妬と置き換えてみてもよい。ある顧客に自分の可愛い生産物なり商品を買って貰おうとするとき、他に同じことを目論む競争相手がいると、前者あるいは後者は俄然いきり立ってどんなことがあろうとも相手に負けまいとする。この世の中は競争を原理としてエイサイティングな活動を繰り返しているのである。経済がエキサイティングであるのは、その根源である人間がそもそもエキサイティングであることによる。

 人間は自然に働き掛けをして生きる動物である。人間と自然との関係もやはりエキサイティングなものである。調和ということでは、人間の生産力が増大するまでは自然へのダメージが少なかったようであるが、人類が登場することによって自然はどんな形かでねじ曲げられている。ホモサピエンスが増殖することを人口が増えるという。現代のように急激に増殖することを人口爆発という。増殖中の人類は、増殖していることを実際のところはあまり意識していない。増殖中の種族なり民族は増殖中であるいことを意識しないで増殖しているのである。増殖することは一種の自然現象なのであるが、かつてアメリカ大陸に移住して大増殖したアングロサクソンが、いまアフリカ大陸のエボニー(肌の色が黒い人々)にしかめっ面 をして避難を浴びせる。人間とは身勝手なものである。

 エキサイティングな人間は動物であるから、動物もまたエキサイティングな生き物でると決めつけてみたくなる。

 競争を通じて人間の心に生成する心情は「嫉妬」である。「嫉妬」とは競争の原理に根ざしたもらしい。繁殖欲旺盛な雄のチンパンジィーでも、あてがわれる雌に感心を示さないことがある。そうした場合には、ほかの雄の尿をそのつがいがいる檻に散布するのだという。そうすると雄は雌への支配欲を増大させて交尾をする。この話は動物作家の戸川幸夫氏が語っているものである。しかし、名古屋の動物園のゴリラの場合はこの作戦が成功しなかった。動物の世の中も道理だけでは理解できにくいもののようだ。  

 「蓼食う虫も好き好き」という。人間には不細工な男と女が大勢いる。というより伊達男や京美人は極く少数であるにも関わらず、男と女はみな所帯を持つ。ブスと思っていた女性に男が出来かかると、大概の男はわれ先にとその女を娶ろうといきり立つのである。  この世の人々の美女、美男だけが恋するのであれば、人間の社会はここまで続いてこなかったであろう。

 嫉妬が高じると殺人にまで発展する。自分が捨てた古女房が若い男と仲よくなるとその男が嫉ましくなって、女を殺したり男を殺したりという殺人事件に発展することが少なくないことをテレビのニュースがよく伝えている。

 

 

ミノルタCLEと京都への旅

京都を旅する熟年カップルと「ミノルタCLE」  



 旅に出る。京都への旅は格別のものであるようだ。

 十一月中旬の新幹線の中。幾組かの京都旅行の熟年カップルを目にした。京都の秋の旅は紅葉が良い季節ということから、この頃が非常に込み合う。宿の手配も急なことではおぼつかないことが多い。

 京都への新幹線。熟年カップルの一組は洒落たブレザーコートに身を包んでいた。ご主人のブレザーコートは、茶系統のざっくりした風合い。いかにも上等の生地を仕立てたものに見えた。これと対をなすのがご婦人の上衣で、女性物を何というのか知らないが、秋に京都あたりに着ていくのにぴったりと思える衣装。一目で夫婦そろって誂(あつら)えたものと分かる。生地の見事な張り加減から下ろしてこの旅行のために初めて着用したことは明らか。京都に気を張って出かけていることことだろう。

 別のカップルのご主人はライカを手にしていた。このカメラはライカといってもミノルタのライカで「ミノルタCLE」という自動露出方式のレンジファインダーカメラであった。付いていたレンズは広角系のものであり、そのレンズは値が張ることを私は知っている。カメラは裸で首にぶら下げており、時代を経ているにも関わらず擦り傷がないから、旅のための小道具なのであろう。そのような何組かの熟年カップルが京都駅構内に消えた。

 アウトドア雑誌から抜け出してきた姿に



 旅をビシッと決めるとなると衣装に気をつかうことになる。  熟年もジーンズをためらいなく着用する時代になった。ジーンズは年格好をキャンセルするらしい。帽子のうちのキャップが同じ働きをする。昔、流行った頭の形そのままのキャップが復活していて、この帽子をかぶると誰もがアウトドア雑誌から抜け出してきた姿になってしまう。チノパンツに格子縞のカッターシャツを着て、このキャップをかぶり、茶色の本革性の軽登山靴を履いていたら、服装に年齢が無くなってしまう。  このような人々を数多く見かけるようになった。もうじき60歳になるS氏などもハイキングに出かける時は若者と同じ姿で現れる。

 中年ダンディー氏と私



 世の中には洒落者が多くいる。ブランド品以外は決して身に付けることがない人種は何といううのか知らないが、頭のてっぺんから靴と靴下までブランド物で固める。ある旅行でご一緒した中年ダンディー氏と私の靴とがたまたま同じブランドのものであった。

 翌年の旅行に私は別の靴を履いて行ったが、お洒落の中年ダンディー氏はどういう訳か昨年と同じ靴を履いてきた。  

 ダンディー氏は私の風体をみて「横田さん、随分くだけた服装で来ましたね」。

 西郷さんの銅像の草履にはかかとがない



 日本人は靴を履いて歩くようになった。欧米人と日本人の歩行の様子は骨格からくるものなのか、その歩行の姿は明らかに違う。

 最近知ったことであるが、日本人はかかとを着けない歩き方を明治までしてきたのだという。その証拠が上野の森の西郷さんの銅像で、履いている草履にはかかとがない。

 日本人の歩き方の特徴であったことのもう一つは難波(なんば)歩き。同じ側の手と足が同時に前に出る歩き方で、昔の絵巻物がこの歩き方を証明的している。この歩き方は重い物を持って駆けるときに便利であるという。

 歩き方には民族性がにじみ出るもののようだ。

 服装には人柄が出る



 服装の話であった。

 服装には知らず知らずその人の人柄が映し出される。

 現代の日本人の裃(かみしも)は背広にネクタイである。私はこれが大嫌いな口であるが、人間は様々であり働くときはなっぱ服(作業衣)であるものの、通 勤には折り目正しく背広にネクタイ姿の人が割合に多い。

 蒸し風呂といってよい日本の夏にご苦労なことである。

(1998/11/16 京都の宿にて)

 

 

岩魚の涙



 魚の涙については彼の芭蕉が奥くの細道への旅立ちの心境を詠った句に出てくる。

 ○行く春や 鳥啼き 魚の目は泪   芭蕉  



 「魚の目は泪」は比喩である。しかし魚の目は泪で潤んでいるようなのが普通であり、濁った目の魚は鮮度が落ちている。芭蕉は涙を泪と書いた。この句は別 れを惜しんで集まった人々の前で、矢立の筆をとってさらさらと書いて渡したのだという。ここでは惜春の情を別 れと重ねたもので、芭蕉は鳥に喩えられ、魚は別れを惜しむ友人たちに見立てた。

 さて岩魚の目はどうなっているか。

 岩魚の目は黒い、そして三角なのだ。



 これは山女魚も同じだ。死んだ魚は知らないが水槽で泳いでいる岩魚や山女魚の目は三角で、鼻の方に三角の頂点がある。虹鱒もそうだし、ブラウン・トラウトもブルックもそうだ。私の好きな鮭鱒の類はみな目が三角だ。他の魚の目が三角なのか、どうなっているかは注意して見たことはない。

 日本の河川で釣りの対象となっている岩魚、山女魚のほとんどは稚魚放流と発眼卵放流をすることによってまかなわれている。人の入らない山奥や小さな川には自然産卵による種の保存がある。釣り人が川に列をなす人気河川では親魚が減るので、自然産卵だけでは入川する釣り人の数に釣りの対象となる魚が間に合わない。海にだって同じ現象が出ておおり、鯛やヒラメも稚魚放流によって釣り人の需要を満たしている。

 釣り人気のため各河川を管理する漁協は、釣り人の気を逸らさないために釣りになるだけの数の魚を川に入れていなければならない。こうした結果 は河川の釣り堀化を促進することになる。海でも一種の釣り堀化現象が進行している。

 岩魚の産卵



 鮭は産卵のために川に帰る。鮭、鱒の類は皆そうである。

 岩魚にしても海に出て川に産卵に戻るものがいる。山女魚にもそのようなものがいる。山女魚の降海型が桜鱒で、あまごの降海型が五月鱒(サツキマス)で、これは郡上地方での別 名が「もどり」である。

 産卵のために川に戻る鮭のうち北海道に戻るものが「あきあじ」である。南部の海岸に戻る鮭は「南部の鼻曲がり」と呼ばれて新巻鮭になる。北海道の「あきあじ」の季節は早い。九月にはそのシーズンになる。南部の鼻曲がりの本格的なシーズンは十一月を過ぎてからである。

 那須山脈に源を発する那珂川は鮭が遡上する南限の川とされている。ここでは十月に入ると鮭漁が始まる。

 多摩川に鮭の稚魚を放流することことについては賛否両論がある。反対派は多摩川には鮭がもともと遡上していないのだから、稚魚の放流は自然の生態系を乱すことになると主張している。多摩川に鮭が遡上していたのかいなかったのか私は知らない。

 その多摩川の上流には岩魚が生息しており、自然産卵を継続している。産卵時期は十月以降に始まる。多摩川の渓流釣りは九月末で禁漁になる。

 前置きが長くなったが岩魚の産卵のことを書きたかったのである。

 釣り仲間のSさんのことは私の手記に何度も登場しているが、奥さんは越後湯沢の生まれで、そのお父さんは毛針釣りの名人と呼ばれた人である。

 名人は岩魚の産卵を良く知っていて、S夫人は子どものころ父に連れていってもらって岩魚の産卵の様子を何度も見たという。岩魚の産卵場所は川の源流部の浅瀬で人が見ている前で水をバチャバチャはじかせて産卵をする。

 NHKテレビが放映した多摩川上流の岩魚の産卵は、膝ぐらいの浅瀬で行なわれていた。本当の条件は小石のある浅瀬であるが、そのような条件に恵まれなければ少し条件が悪い所でも何とか用を足そうとするのであろう。多摩川の岩魚は健気(けなげ)なものである。悲しいこととしてとらえることもできる。

 春の岩魚



 岩魚の棲む川は概して寒冷の地にある。私と岩魚とのかかわりは趣味としての釣りを通 してである。その岩魚と一年のうち、最初に出会う場所は釣に行く川と場所によって異なる。

 東京近郷では水温などの関係で岩魚のいる川は限られるので、意識しないと岩魚とは出会えない。昨年は越後湯沢を流れる魚野川であった。初釣行は解禁翌日の魚野川であったが、山女魚の小さいのを一尾釣っただけだった。岩魚の顔を見たのは何度目かの釣行の後であり、形は小さいものに終始した。

 一九九七年の解禁日の三月一日が土曜日であることから、釣友のSさんに誘われて解禁日に出かけた。昨年は湯沢駅から直進した川のたるみで三十尾ほど釣り上げたと駅前の釣具屋の主人がいっていたものだから、この言葉に期待をかけて二人で出かけたのである。この日は朝から小雨もようで、呑気に釣り場に駆けつけたのは午前八時を回ってから。その釣り場には三人ほどが竿を出していたものの、獲物を釣り上げた様子ない。われわれも空いた場所を移動しながら二時間ねばって魚の反応をみたが釣具屋の主人の話のようにはいかない。

 三月解禁の魚野川の湯沢界隈は雪の中である。湯沢は日本一の豪雪地帯であるから町中はもとより一帯が雪に閉じ込められている。岩魚の釣り場には腰まで埋まる雪の野原を通 って行かなければならないので難渋する。私が湯沢の魚野川を主な釣り場としているのは、釣り仲間のSさんがこの地に「かたくり荘」と名付けた二階建ての使いよい別 荘を持っているからである。ここを根城に魚野川の本流・支流を釣り歩くのであるが、釣り場にバリエーションがあるので飽きがこなくてよい。何よりよいのは釣りに出かけられる状態をキープして、釣りに行かないで酒を飲んでいることもできることである。仲間のある男は釣りよりも日本酒がよいとかたくり荘で飲んだくれている。

 湯沢の魚野川はこの何年かの間に釣り人が増えてしまった。本流、支流とも行く先々に必ず釣り人がいる。土、日はもとより平日だって呑気にしていられない。こんな釣り場の環境にあっても、かたくり荘の主人のSさんは釣り場情報に長けていることと一尾をものにすることへの並々ならぬ 執念を持ち合わせていることで、常にレベル以上の獲物を持ち帰る。

  Sさんの岳父と岩魚釣り



 Sさんが湯沢に別荘を建てた背景には奥さんの出身地ということがある。比較的町中のいい場所に岳父の斡旋で早い時期に土地を購入していた。現在この辺の土地は坪五十万円程で取引されている。

 岳父は鉄道員でこの地で多くの子をなし、生計の足しと楽しみのため岩魚釣に興じていた。土樽山荘は谷川岳登山の基地になっているので、この宿の宿泊客用に岩魚を供給していたという。その頃の岩魚の濃さは、S夫人の次の話から想像がつく。

 岩魚の産卵は夕暮れに始まることが多いという。S夫人達が父親に連れらて浅瀬のある沢筋で日暮れを待ち構えていると、必ずそこで岩魚の産卵が始まるのだという。岳父は岩魚の産卵をよく知っており、いつごろ何処に岩魚が集まって産卵行動に出るのかが分かっていたのである。昔の人々は自然に親しんで生きていたのである。

 岩魚の釣り方は毛ばり釣りで、現在ではテンカラ釣りと呼ぶようになっている釣り方である。かたくり荘には遺品の竿と毛ばりがガラス戸棚に入れられている。

 当時の毛ばり釣りは六月に入ってから始めたそうで、確かに岩魚釣の最盛期は真夏の時分だと思う。

 解禁の釣りは模様眺めの釣り



 三月一日の解禁日にまなじりを決して釣りに出かけることは、恥ずかしいことだと思うようになった。しかし、釣りが趣味でこの季節に別 の遊びをしていてもしょうがないので、ついつい掛けて出かけることになる。十月一日から六カ月間の禁漁期間中に渓魚達は人への警戒を解いているので釣りやすい。また大物に巡り会う可能性があるので出かける。

 とはいっても雪深い山里の本当の時期はまだまだ先なので様子見という冷静さ失ってはならない。岩魚、山女魚らの渓魚はどうした加減か良く釣れる年と釣れない年がある。人間には分かりにくい自然の摂理が働いてのことであろう。

 解禁日の大釣りを夢見て



 釣れない渓流魚も解禁日に運がいいと三十尾を超える大釣りになることがある。禁漁期間の間に岩魚、山女魚が自分の好む流れに群がっているからである。このような場所に出会うと一投ごとに必ず魚信があり、次から次へと針掛かりするからたまらない。寒さなど吹き飛んで夢中で竿を振る。魚信が遠ざかって魚籠(びく)の魚を数えると三十を遥かに超えていることは珍しくない。

 釣った岩魚は川に帰してやりいたい



 釣れない釣りを続けたり、釣れても小さな岩魚ばかりであると情けなくなる。いい川相のいい流れで、そこそこの大きさの元気がいい奴が釣れることこそ気分のいい釣りというものだ。実はこのような場所は誰でもが竿を出すから解禁後一週間もすると釣れなくなることが多い。いい場所には魚が着くのであるが、それを上回る釣人の攻略がある。だから釣人が増えた現代の川の多くは解禁の日を除くと、ここはと思う場所で岩魚は釣れない。

 魚野川攻略の名手、Sさんは多くの釣人が見逃すようなちいさな場所に丹念に竿を出す。一箇所で粘るのではなく広いエリアの小さなスポットをくまなくつぶして歩くのだ。この釣り方が人の多い川の攻略法である。そうでなければ、その日の一番乗りと朝まずめと夕まずめにしか渓魚を釣ることは難しい。

 現代の渓流釣りはそのような状況にあるから、これの解決策は一つは釣った魚はすぐ川に帰してやることである。豊かになった日本の国であるから釣れなくなることを承知で渓流魚を食べることはあるまい。目的は渓魚の釣りを楽しむことであるから、シーズンを通 して楽しむためには、釣った魚を川に帰してやることが一番てっとり早く確実な方法である。

 雪の中の解禁は手がかじかむ



 湯沢の魚野川の解禁日の三月一日は河原は雪に覆われている。

 スキー場が五月の連休まで営業しているのであるから、東京が初夏の日差しを思わせるころになっても、山の緑はまだ少し芽を吹いただけである。そんな五月にはまだまだ遠い三月一日の解禁日とその当初の釣りはまるで雪遊びである。

 晴れた日はいいが、雪の日の時もある。それもでもせっかくの休日に車を飛ばして湯沢まで来ているんだと思うと、かじかんだ手で竿を握ることになる。手がかじかむ寒さでも渓魚の方はは厳冬期から抜け出しているので、餌の川虫を追う。吹雪の中でもダウンのジャケットに身を包んで以前釣れた実績のある釣り場に足を向ける。

 堰堤下などは雪の野原をひとしきり歩いて三メートルもある護岸を鉄はしごを伝って降りなければならない。そこに先行者がいないことを祈りながらであるから、さもしいというか風情に欠けること甚だしい。これが現代の渓流釣りの現実である。

 少し大きな砂防ダムへの流れ込みでの釣りは腰までの立ち込みをしなければならないので、そんな状態で長時間粘ると腰から下が冷え込んでジンジンしてくる。「こんなことをしていたら神経痛になるぞ」という声が聞こえてくる。「いや却って冷却療法で健康にいいのではないか」などと屁理屈をこねながらポツリポツリと掛かる岩魚や山女魚についつい粘ってしまうのである。  

 このような釣り場は少々の数を釣り上げても、魚のプールになっているダムから魚が補給されるので何時でもそそそこの安定した釣果 がでるものである。その場所に人が入っていなければ何尾かをものにすることができる。こうした釣り場は、流れが太いので魚の着くき場となる筋目えお読むのが難しいから初心者には手強い。しかし筋目には必ず魚が着いているので丹念に餌を流すと魚は食いついてくるものである。

 このような流れ込みの筋目は一般に山女魚のものだが岩魚も出る。何時かの初釣行では山女魚で馴染みのある場所で虹鱒に挨拶されて閉口した。その翌年は降海型の山女魚、通 称「しらめ」のご挨拶でこれにも参った。その年の一尾目は二十七pの元気のいい山女魚がきた。ついで場所を変えて二十八p岩魚が出た。あまり時間をかけずに岩魚と山女魚にできて言うことはなし。  気分は上々で酒を飲むことができたのである。

 山桜の咲く季節



 湯沢の春は山桜が咲くとやってくる。山桜が咲くと春が来たと思えるのである。それには五月の声を聞かなくてはならない。この頃になると藪陰(やぶかげ)に薄桃色のかたくりの花が群れて咲き出す。その付近にはあけびが芽を出していることが多い。

 かたくりの花もあけびの芽もおひたしにして食べると美味しい。さっと湯をくぐらせるとかたくり(片栗)の花は紫に変色する。あけびは綺麗な緑色になる。

 春の山菜がこの頃には一斉に芽吹くので、かたくり荘の主人のSさんは釣りどころではなくなる。ウド、ゼンマイ、タラの芽、水菜、フキノトウ、ツクシ(土筆)、また春のキノコまである。

 雪国の山の斜面の」春は、重い雪を木の枝が払いのけることによって訪れる。その枝が芽を吹きかけた頃が山菜の季節で、目を川に転ずると一面 の雪の河原に陽光が眩しく、せせらぎも瀬音を大きくする。

 水温は雪解け水が流れてくるので日の照らないときは摂氏二度ほどだから、渋い釣りになる。陽光が眩しいときなどは水温が上がるので魚の動きがよくなるし、釣り人は動き回るとかなりの汗をかく。

 芽を吹くのが早い川岸の柳の木の下で行動食の握り飯をゆっくりほおばる一時は幸福感一杯でありそしてその一円は平和でもある。直射日光を浴びているとぽかぽか陽気であるが、実際の外気温度は低いので、握り飯は冷たい。暖かいお茶が欲しくなる。

 こんな日は釣り竿を出さずに岸辺を散策するのもいい。気分のいい春の日だまりに日頃は醜く濁りきってる魂を放り投げて置くのは命の洗濯といえるものである。

(1997/2/9記)



(以下、執筆予定のタイトル)

・雪渓を登って渓の岩魚にご対面

・5月の連休

・夏の河原で白中夢

・秋のよい季節に禁漁、だが茸狩りの楽しみも

・夏の河原は藪の中

・すすきが穂をつけるともうすぐ禁漁

 

 

山女魚の涙



 魚の涙については芭蕉が描く奥の細道への旅立ちの心境を詠った句に出てくる。

 ○行く春や 鳥啼き 魚の目は泪   芭蕉



 芭蕉が奥の細道の旅路についたのは新暦5月16日である。日の長さはこの頃から7月の同じ頃まで夏至とそれほど変わらない。日が一番長い頃に旅路につくのは賢いことだ。深川を発ったあと千住に暫く滞在して俳席に招かれ、江戸の名残を惜しんだ。  

 芭蕉の句の「魚の目は泪」の泪はもちろん比喩である。岩魚の目は黒い、そして三角なのだ。これは山女魚も同じだ。死んだ魚は知らないが水槽で泳いでいる岩魚や山女魚の目は三角で、鼻のほうに三角の頂点がある。岩魚や山女魚の涙はどこから出るのだろうというのは愚問というものである。しかし魚の目は泣いたように潤んでいる。

 芭蕉の奥の細道の最初の句は上記の「行く春や 鳥啼き 魚の目は泪」である。  深川の芭蕉庵をひきはらって千住に滞在して友人知己との別れの句会を開いていた芭蕉は、旧暦三月二十七日(陽暦五月十六日)に奥羽街道、日光街道の最初の宿場を出発する。

 句の意味は

 過ぎゆく春を惜しんで、鳥は悲しげに鳴き、また魚の目は悲しさに泪で濡れている、 というものである。

 千住は宿場町であり、魚市場、野菜市場があったから、芭蕉は市場の魚のことが強く心にあったのであろう。

 惜春の情と自分が長い旅に発つ別れを重ねて詠んだ句は、自分を鳥に喩え、見送りの人々を魚に喩えている。

 別れの場で芭蕉は矢立の筆でさらさらとこの句をしたためて見送りの人に渡した。

 その芭蕉には曽良が同行する。

 芭蕉の旅は西行を慕っており、歌枕を訪ねる旅でもあり、それは漂白の詩人、杜甫や李白を敬慕してのものであった。芭蕉はこの旅の途中で死ぬ こともあると考えていたはずである。当時の旅は今の旅とは異なる。芭蕉の旅は詩をつくるための旅であり、旅の途中であるいは金を使い果 たして乞食の境涯になることも予想され、病気で倒れるかも知れない。そのことを芭蕉は「菰(こも)かぶるべく心がけにて、ござ候」と述べている。

魚野川の55cm 岩魚と梓川のイワナ 「別 荘遊びの副産物」と別荘のこと

 「釣れたよ、大物だ、55cmの大岩魚さ」



 新潟県の湯沢町を流れる魚野川を渓師、Sさんと魚野川のどこか支流で遊んでいるはずだった週末を仕事の都合でキャンセル。「悪いことをしたな」と思ってSさんの職場に顔を出してみたら、「横田さん釣れたよ、大物だよ、見せようか」といって机の中から写 真を取り出した。「えーー、まさか」というサイズの大物である。55cmの岩魚なのである。

 インスタントカメラで記念撮影



 写真はインスタントカメラで撮られていた。事もなげに巨大な岩魚を胸の前にぶら下げている。撮影者したのはSさんの湯沢での遊びの拠点「かたくり荘」の近所の友人のKちゃんであった。kちゃんは写 真好きでニコンのAF一眼レフを使っているのをみたことがある。魚野川の60p近い岩魚は地元のレストランのマスターが自前の薫製釜に入れてあるのを見たことがあった。これに近い大物を釣り上げたSさんはそのことを私に語るとき感動を抑えているのが分かった。

 感動して写真が撮れることの幸せ



 感動して写真が撮れるということは幸せなことである。55pの大岩魚をゲットしたSさんは写 真のほか魚拓を取ったという。別荘の壁に釣り上げた大物の魚拓や写真がずらりと並べてあるものだから、この「かたくり荘」を象徴するものとして知り合いのデザイナーが選んだのが渓流魚であった。かたくり荘は奥さんはの郷里なのだが、その奥さんは魚ではなくかたくりの花を望んだのだという。

 Sさんはこの意見を受け入れた。夏にはかたくりの花をあしらった「かたくり荘」のオリジナルTシャツを関係者に配った。私はLLのやつを注文しておいたら何枚か無料でくれた。 55cmの岩魚を手にしたオリジナルTシャツが本人にとって一番の記念になるのだろうか。

 老後は雪国よりも温暖の地で過ごす



 話が別荘のことになっている。Sんの土地は奥さんの親父さんの斡旋で三十年ほど前にいま思うと驚くほどの値段で買ってあったのだという。隣の敷地は奥さんの姉夫妻のZさんが喘息の子どもの転地療養のため仕事を含めて東京から越して住んでいた。このZさんは子どもが東京に出て独立したこともあって老後の居住地を焼津に決めて、土地を確保している。何年後かに始まる定年後の生活を温暖の地で送る。湯沢の住居を売却した資金で建物を建てる計画だという。

 この春、湯沢に岩魚釣りに出かけ「かたくり荘」に泊まっていたら、地元の不動産屋の案内で購入希望者が見に来ていた。売却は販売希望価格どおりにいったかどうか、確かめていない。

 学者村には片道3時間



 ニコンF2という昔のカメラを使っているFさんは長野県の美ケ原山麓の長門町にある学者村に数年前に別 荘を建た。ログハウス風のオーナーの気の済むままに設計した建物は豪勢である。

 東京からの車での片道所用時間は3時間。老後をここで暮らしてもいいつもりで建てたのだという。学者村は小高い丘に造成されている。夏はともかくとして東京の冬の暖かさに慣れた人間に向くのかどうか、しっかりした建物で断熱と暖房に配慮していたとしても冬場の寒さはきつい。

 雪国の冬の暮らしを知る人は温暖の地を選ぶ



 Zさんが湯沢から温暖の地焼津に老後の住居を移す計画でいることは、雪国の冬の暮らしの厳しさを物語るように思える。

 Fさんは学者村で老後を過ごしてもよいと思った。同じことを夏の軽井沢で考えた人は大いことであろう。その軽井沢の別 荘の冬場の寂しさや、使われなくなって荒れている建物を見ると、「夏草や兵共が夢の跡」を想起する。

 自宅を売却して八ケ岳山麓に暮らす余生



 八ケ岳山麓の小淵沢別荘の友人は、週末田舎人の暮らしを続けている。月、火、水、木の4日間は東京に借りてあるマンション暮らし。金曜日から日曜日までは小淵沢の別 荘でくつろぐ。この小淵沢の別荘地、近隣に幾つもの建物があり、ここを完全な生活の場として常駐する人が増えている。

 仕事をしていればこその余暇の快楽



 「別荘暮らし、あるいは野に出ての釣りをする楽しみは、仕事をしているからこそのものです」というのが、Sさんの弁である。  

 「かたくり荘」から歩いて五分の所に大学時代の友人のN君が暮らしている。町役場に夫妻で勤務する彼の一番のレクリエーションはジョギングとその延長のマラソンである。魚野川の釣り場から帰る途中でジョギングするN君の姿を見かけて驚いた。彼は釣りなどしない。  

 釣り場の近くにいる暮らしがうらやましいが、何時でも釣りができるとなるとむきになって川には出かけることはない。

 梓川の岩魚は語る



 上高地の梓川の本流の澄んだ流れ、支流の緩やかな親しみのある流れは、木々と山々が渾然一体となって織りなす何とも表現し難い美しい景色である。日本の桃源郷といってよいように思う。

 梓川とその多くの支流に棲む岩魚は人に姿を見せることを恐がらない。釣りが長い間禁止されているので川には岩魚があふれている。いけすで飼ってもここまでは慣れないというほどに人を怖がらない。岩魚は獲ってしまうから減るのであることを上高地を流れる梓川は物語っている。上高地が拓かれるころは獲る人が少なかったので岩魚は川に山といた。ここに渓流釣りを楽しませる原理が隠されている。

 日本的な風景の象徴はやぶ山



 上高地の美しさはヨーロッパやヒマラヤなどとは違う日本独自のものである。何が美しいかといえば化粧柳の芽吹きであり、こうした木々の緑と清冽な水と眼前にそびえる穂高連峰を中心と山々である。上高地は美しすぎてどこか構えたような所があるのも確かである。外国の山から帰ってくると日本のやぶ山が心をなごませるが、これはやぶ山が日本中どこにでもある裏山の続きであるからだろう。

 心をいやすための住まいのことに話を飛躍させると東京に至近のやぶ山のある地を選ぶとよいであろう。それも少し高台の見晴らしのよい場所に。

 

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夏至の日の旅と北アルプスの立山越え



6月の夏至の日に旅をした。

 日が一番長いので、山登りをするととても楽しいから一年で最上の日であると思っている。富山市に出かけ、立山から黒部湖を経て信濃大町に抜ける旅行をしたのである。季節外れの早い台風が到来したので、富山市に予定外の逗留を余儀なくされた後での北アルプス立山越えであった。

 その前年の秋に同じルートを旅した。この日は室堂に宿を手配していたが、山に雪が来る寒さに里心がついて大町に出てしまった。  

 ずいぶん昔に同じルートで剣岳と立山に登ったことがある。このときは剣山荘と室堂の小屋に計二泊した。帰りに大町ルートをとったのだが、室堂からの記憶が全くない。この記憶を呼び戻すことを楽しみの一つに、北アルプス立山越えの旅を二度敢行したものの記憶は戻らなかった。

 それにしても3000メートルを超える日本アルプスを突き抜ける交通手段ができていることは驚異である。私は、海のまち富山から電車やバスやロープウエイやトローリィーバスを乗り継いで安曇野に出られることが非常に面 白いと思うのである。夏至の日の立山の室堂までのバスルートの一部には6メートルの雪の壁が残っていた。台風一過の立山の夏景色を期待したが室堂はガスに包まれていて気温は摂氏6度であった。

 黒部湖が眼下に見える黒部平にまでロープウエイで下ったところで、雲間から陽光がもれてきて新緑のダケカンバやナナカマドを美しく照らした。

 急ぐ旅ではなく、帰り道に大町でも松本でもどこでも一泊する余裕があったので、私の気持ちはゆとりに満ちていた。

 

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社会派の写真家になるには社会のことに通じていなければ



カメラと写真はワンセットであり、カメラがなければ写 真は撮れない。しかしカメラがあるからといってよい写真がとれる訳ではない。よい写 真を撮ることはなかなか大変なことであり、大学の写真学科や専門学校を卒業したした人でもまともな写 真が撮れるまでには相当の修行を要する。逆に法学部や経済学部や文学部を卒業した人でも立派な写 真を撮っていて写真家になっている人は多い。

 写真はシャッターボタンを押せば撮れるが、社会に評価されるような写 真は、写真家のような人でなければ撮れない。

 ということで写真とは何であるか、禅問答のような前置きになった。

 写真を上手に撮るには覚えておかなくてはならないことが幾つかある。撮影テクニックに属する事柄を学ぶことは楽しいことではない。

 普通の人が写真を撮る行為は、結果として時間が経過してしまうと大仰にいえばその人の生きた証となる。  

 楽しいから写真を撮るのであり、大学時代の友人のSさんはどうでもいいカメラで記念写 真をよく撮っていた。思い出になりそうなことを素直に記録するのに撮影テクニックは大した問題ではない。撮りたいものにカメラを向けてシャッターボタンを押せばいい。集合した人々がカメラフレームからはみ出したら、カメラが後ろに下がればいいだけだ。広角レンズを持っていれば思い切り接近してシャッターボタンを押すことである。  写真の大家などは撮影テクニックを学んでいることではあろうが、その最後は自分の感性で勝負をかける。それは芸術の心というべきだろうか。社会派の写 真家になるには社会のことに通じていなければならず、人と社会の関係を理解していなければならない。

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田中長徳氏とカメラと写真と私



五月のある土曜日、錦糸町の楽天地に映画『瀬戸内ムーンライトセレナーデ』をみにいったついでに、当然のこととしてライカを陳列している駅ビル内の「ヒカリカメラ」をのぞく。ライカが一台もない。そうだ、有楽町の交通 会館十二階の催し場で中古カメラフェアを開催中なのだ。ICS輸入カメラ協会主催の「ICS××周年 世界のカメラフェア」である。  ヒカリカメラと同じフロアーにある書店で写真家の田中長徳氏の新刊図書「実用本位 の私の仕事カメラ」を買って帰り、同書に記載されている自分のカメラの記述を読む。「仕事レンズ 銘玉 七選」に私がもっているレンズが含まれている。

 中古カメラ展で田中長徳氏に出会う



 翌日の日曜日、目覚めるとともに昨日同様何時間かパソコンのキーボードを打って仕事の「アリバイ」をつくる。「事務所にいってくるよ」と家をでる。行く先は言わずもがな交通 会館十二階の催し場である。

 「出かけても私には買うものがないのである」と言い聞かせての入場だ。訪問者の多くはライカファン。ライカの綺麗なのがずらりと並んでいるから、この道の好きものにはめくるめく快感ということであろう。私はなじみの松坂屋カメラとカメラのきむら日本橋店のコーナーを綿密にチェックする。会場を回っているうちに気がはいってきて時間の経過を忘れる。

 長徳さん自説を翻したのですか



 二時間も経ったろうか、会場に田中長徳氏が来ているのに気付く。中古店巡りのプロでもある同氏はどのお店の店員とも顔なじみ。お店の人からは「長徳さんはどうしてライカはM3のほうを推奨するようになったんですか」と揶揄されている。「いやぁー、僕のはいい加減でねぇー、でたらめで分裂症的なんですよ」と答えていた。カメラファンはよくてもわるくてもカメラ評論が楽しみなのである。そばで聞いていた私は長徳氏の回答は「明解」と納得。

 田中長徳氏は篠山紀信や秋山正太郎のような有名写真家ではないが、カメラファンにはカメラ評論で大きな楽しみを与えてくれている有名人である。

 この人は篠山紀信と同じく日本大学芸術学部写真学科卒業者。これを知っている同大学の付属高校に在学中の子が「写 真学科に行こうかな」。その付属高校から推薦されるのは八割程度であるものの、芸術学部は学校の成績とは別 の才能を要求される。

 田中長徳氏のニコンへの悪口



 田中長徳氏の私がもっているカメラへの悪口を書き出してみよう。「ニコンF4はでかいだけのできそこないのカメラだ」「ニコンF3はダメなAEカメラ、AEなんていらない」「ニコンF2はFの改悪版だ」。現在はこれらすべての言辞を逆転させている。

 芸術家の気まぐれなのかはじめから分裂的なのか不明だが、多くのカメラファンは自分のカメラやレンズが長徳氏に褒められれば喜び貶(け)されれば憂える。その本人がよく知った人には言い訳ができなくなって、「私はいい加減なんです」と逃げを打っているのである。とはいっても同氏のカメラ評論は魔術的であり、いまでは前言を翻すことを読者は楽しみにしている。

 だから私なども長徳氏の本がでると必ず買う固定ファンだ。


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『心の旅』と青春と「チューリップ」の音楽と

 年間100日の旅人



 旅といってもいろいろあり、ビジネスマン(サラリーマン)の場合は仕事での出張が旅の中心的なものとなる。

 社員百五十名ほどのある会社の社長は、工場、営業所の社員との打ち合わせ、得意先回りで年間百日の旅をする。社員や得意先との密接なコミニュニケーションを図ることを真剣に追及するとこの位 の出張も有り得るかなと思えるが、仕事熱心な社長であることは間違いない。

 登山という旅の形態



 旅の本流は自己の楽しみのために出かけるものであろう。私の旅の最初のものは登山と称して出かけるものであった。東京からの手軽な登山の対象となる地域は中央本線の山々で八ケ岳には夏冬通 して良く出かけた。また登山のために日本の各地を列車でよく移動した。登山という行為のなかに占める列車での移動ということ自体が私には新鮮なことであり、楽しいことであった。

 「何だ、みんな登山といいながら旅行を楽しんでいるのではないか」というのが私の登山に対する強い印象である。高校時代から登山部の連中に「旅行するお金がよくあるものだなー」ということで、その意味で憧れと敬服の念を抱いていたものである。登山を始めてみるとやはり一番お金かかるのが交通 費であった。そんなことで登山をするための移動ということが私の旅の原点である。そして列車の窓からの風景が私の日本の国の記憶であり原風景である。

 この時分の私は懐にあるお金を全部登山に費やしても何の心残りもなった。この時代は貧しくもあり、呑気でもあった。

 この国の大きさを足が覚える



 登山とも旅行ともつかない遊びをしていて、面白いと思ったことの一つに日本列島の大きさを直に感じることができたことである。それは富山から松本に抜ける登山コースとなる北アルプスの「裏銀座縦走」の経験である。富山から松本まで山稜を何日か歩くと日本列島を横切ることになるのが不思議であった。「あれっ、日本という国の大きさはこの程度のものなんだ」という実感は妙なものであった。列車や車で移動すればこの国の大きさはそれなりに分かるのであるが、自分の肉体を動かしてつかんだこの国の大きさの実感は別 物である。

 飛行機から見る世界と日本列島



 視覚的に日本の大きさを分かることができるのは飛行機から日本列島を見ることである。東京から三十分飛ぶとどこまで行けて、一時間飛ぶとここまで来るんだということで、この国の大きさが分かる。  日本の国は大きいのか小さいのか基準のとり方。経済の規模はアメリカに次いで世界の第二位 である。南北の長さで国土の大きさを計ったら小さい国ではない。人口だって一億二千万人もあれば小さな国ではない。気候的にみた利用可能な国土の面 積だって小さくはない。高等教育を受けた人の数でみても世界有数の国である。周囲の海の大きさということでも、これほど海域が大きな国はない。川の数と総延長だって世界有数であろう。

 そんなことは別にして私にとっての日本という国は数日の歩行で横切ることができる程の国なのである。

 シベリアは大きいアメリカは大きい



 「大きな大地があるものだなあ」と感心するのはシベリア上空を飛ぶときである。ソビエト社会主義共和国連邦が崩壊したあとはシベリア上空で航空機の窓を開けることができるようになった。ヨーロッパへの長旅と移動の途中眠れないことの代償はシベリアを上空から見物できることである。ときどき道路が見えて、雪の山が見えて、湖が見えるシベリアは大きな大地であると思う。

 ニューヨークからロサンゼルスに飛ぶ。これも長い旅だ。ジョンデンバーの歌声が聞こえてきそうな山脈を幾つか越え、夜の飛行の眼下に光の充満した街を幾つも越える。街にさしかかると道路の街路灯がやけに目に付く。そして思うことは「もったいない」ということである。アメリカのエネルギーは安いのだとは分かっていても、やはり「もったいないな」と思うしかない。

 京都駅の思い出



 列車の旅ではその街の印象は駅舎の印象と直結する。

 京都駅が新しくなって久しい。京都の街は寺を中心にした文化遺産に埋もれた街である。かつての京都駅表玄関の二階建ての駅舎は田舎臭いものであった。京都の街は交通 事情に通じない者にとって行動しがたい。時間を持て余した若い頃はどこを見ても同じ事なので、「えい」と駅から歩き出したものである。

 仕事の都合で京都駅に乗降するようになってからは新幹線の時間待ちで、駅舎をうろつくことが多くなった。新幹線の乗り場に近い八条口の近鉄のマーケットの中に「ふたば書房」という本屋があり、帰りの車中で読む本を物色する。時間つぶしにはこれが一番。京都の思い出は駅舎の思い出、そして八条口の本屋の想い出でもある。

 旅と鰻重の思い出



 食事は旅に出ての楽しみの一つである。

 土地には特産物があり、その一つに食べ物がある。食べ物といえば浜松は鰻(うなぎ)である。浜松に出かけたら土産話の一つにでもということで鰻の蒲焼きを食わねばならない。そこで駅前の蒲焼き屋に飛び込んで鰻重を注文。この時は二十歳そこそこの時だった。鰻など滅多に食べたことはなく、その美味しさというのがどんなものなのかも分かっていなかった。浜松の鰻重の味の結論は「大したことないなあ」。

 会社の同僚が浜松で鰻を食べてきたので「大したことなかったろう」と聞くと、「美味かったですよ」との答え。「へえ、そうかい。しかし本当かよ」と私。「ええ、Kさんにおごって貰ったのですけれどね」ときた。「確かにね、おごって貰った鰻の味は格別 かも知れないね」と私。上手い不味いといった味の感想は人それぞれであるようだ。

 名古屋は鰻の名所の一つである。



 おごって貰った鰻の味の美味さのことでは名古屋での思い出がある。ある会社をSさんとたずねた後で、熱田神宮境内の鰻屋に案内された。昼時の込み合う時間に飛び込んだのがいけなかった。人気のお店は込み合っていて随分と待たされた。すっかりおなかが空いたところで出てきたのは、ご飯の間に刻まれた鰻が二段に盛りつけられたお重であった。鰻にはほどよい腰があって、たれも濃くなく薄くなく、その鰻重はことのほか美味かった。

 その名古屋では出張の折り、繁華街の鰻屋を覗いてみた。同僚と連れだっての楽しい晩餐のはずであった。座敷にあがって日本酒をきゅうと一杯やったまでは確かにそうであった。隣に居合わせた客は社員の中年女性を二人連れていた。社員の二人は老人に向かって「社長」「社長」の言葉を連発する。その言葉が耳に触ってならない。そうしたご機嫌取りを隣で聞いているのはまことに癪なものである。懐のお金から出したせっかくの鰻が美味しいとは思えなかった。

 「社長」の国はお隣の韓国である。この国の土産物屋は日本人観光客を見かけると決まって「シャッチョ」と呼びかける。「シャッチョ」「シャッチョ」の連発は皮肉に聞こえてしまうのであるが、名古屋の鰻屋の中年女性達が「シャッチョ」とやっていれば少しは溜飲も下がるというものだ。ご馳走してくれる本当の社長に対しての敬意を込めた「社長」「社長」だったのでどうにも耳に触ってしまった。

 旅の晩酌の一本のビール



 出張先での夕食は人生の縮図のように思える。一仕事終えた後でも一人での夕食は楽しいものではない。夏ならまずはビールを一本注文する。これは儀式といってよい。ビールや日本酒を注文しないで夕食を摂ることほど情けないことはない。出てきたビールをコップに注いでグビッとやる。この一口が晩餐を盛り上げるのである。しかし、一人での晩餐は後が続かない。物思いに耽ったように黙々とそして静静とビールを飲むのである。会話をしようにも相手はいないし困ったものだ。

 京都 大原・三千院と「男二人の湯豆腐」



 京都に同僚と二人で出かけた。折角だからとレンタカーで大原の三千院に出かけてみる。「遊ばなければその土地が見えてこないのだ」と少し理屈をこねる。冬場の三千院では参道の大きなガラス張りのお店に入り湯豆腐を注文するのが通 り相場である。湯豆腐には熱燗ということで一合とっくりを二人で分けてちびりちびりとやる。隣の席に中年男女の二人連れが腰を下ろした。界隈に茶店は幾つもあり私たちの居るところに来なくても良さそうなものだが、客の居ない店には足を運びにくい。隣のカップルの会話が何となく耳にはいる。その内容がこちらを動揺させる。

 「どうも気まずいなあ」と相棒に小声で話すのだが、冬の三千院の湯豆腐の味は、忍ぶ味であったような記憶がある。

 チューリップと「心の旅」と音楽と



 東北への夏の一人旅。岩手県にある早池峰山に出かけたときだった。列車のデッキに陣取った若者達のラジカセテープからは、チューリップの「心の旅」を流れていた。東北への旅に青春と旅の感傷を主題にした音楽を持ちだすことの出来過ぎに一人旅の当方は、面 ばゆい気持ちになった。この曲に付けられている歌詞の一節は「ああ 明日の今頃は僕は汽車の中」。この時私は、この曲を初めて聞いた。作詩・作曲はグループリーダーの財津和夫。一九七三年の曲である。チューリップは一九九七年に再結成して、東京武道館でコンサートを開き、そのライブがCDになって発売された。「ああ だから今夜だけは君を抱いていたい。ああ 明日の今頃は僕は汽車の中」の一節が繰り返される甘い歌が二枚組CDの一枚目の最後の曲として登場する。聞けば恥ずかしくなる歌詞をよくも書き歌えるものだ。

 作詞作曲の財津和夫は私と同じ歳である。今はもうすっかりいいオジさんになっていて、NHKテレビに登場して「青春とは居心地が悪いものです」と語っていた。私は「生きることは恥ずかしいことである」と思っている。

 

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カールツアイスのレンズとニコンF2



旅先で人に出会った大学の写真部の知人二人の思い出がある。

 一人は八ケ岳登山の帰りの電車の中で遭遇した。

 彼らは写真を撮るために中央線沿線に出かけての帰りだった。

 私はペンタックス一眼レフカメラを最高のカメラだと思って持っていたのだが、彼はニコンが最高のカメラだといってニコマートを持っていた。

 大学一年の夏のことであった。

  もう一人の知人と旅先で出会ったのは私が大学四年の時のことであった。かれは二年先輩だから既に大学を卒業していた。その彼と平泉の中尊寺でばったりと会った。彼は学生時代カールツァイスのレンズの付いた二眼レフを推奨していたものだが、そのとき肩にぶら下げていたのはニコンF2であった。この頃、ニコンF2は最高級カメラであり、この方面 を知る者にとっては憧れのカメラであったのだ。

 その後私はニコンF2を五台ほど所有したことがあった。

 憧れとはそれが伏線となっていていろんな経緯をたどって、人に思わぬ行動をとらせるものである。

 

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「人はなぜ旅が好きなのでしょう」 旅先で突然芸術家に変身する人N氏



 私のパソコンの先生のN氏は旅行に出るといきなり写真芸術家に変身する。素人の芸術家が変身術によって撮影した写 真は、ゲェーと反吐(へど)の出る代物。旅は人の心を舞い上がらせ、「芸術家」に変身する自由を与える。こうした変身は人の迷惑にはならないが、本人が後で考えると恥ずかしくなるだけのこと。だから皆さん旅に出て、大いに変身してください。理由は不明ですが「旅は生命の源」と述べる人がいるのです。

 人はなぜ旅が好きなのでしょう。その理由と思われる説を心理学の専門家がある本で説いていました。そのうちにその説に触れてみようと考えています。

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感動すると写真が撮れる「それって幸せなこと」

仕事帰りにリコーR1sを買ってしまう  



 忙しい仕事が続いていた。ポカンと時間が空いたのでをふらりと高輪にある松坂屋カメラに足を運んだ。  

 ここは三人の兄弟が経営していて、3階は「マックカメラ」でライカを安く売っている。二階が「松坂屋カメラ」でニコンなどの中古が安い。業者が買い付けにくる店である。隣あわせで「高輪カメラ」がある。高輪カメラは新品を中心に扱っているが、金融物ということで普通 はない安さ。  

 一週間の仕事から開放されて、何か出物はないかなとまずはエレベータで3階のマックカメラに。でこぼこでも完動品のライカMシリーズを探しているのである。ショーウインドウをサーと見る。なし。  

 2階に降りて松坂屋カメラ。バードウオッチング用に明るい7倍のニコン双眼鏡をチェックしてみるが光軸がずれているらしく目が痛い。いま持っている8倍でいいではないか、とこれはパス。つぎに目がいったのがニコンの「ニコマートFTN」という昔のカメラ。昔の丸いリングの吊輪が印象的で程度もよくシャッターなどもきちんと動くが露出計はあやふや。これにf2・35oのレンズを付けて二万四千円(ボディーが一万三千円、レンズが一万一千円)。レンズだけでもと思ったが絞りリングが開放値付近で渋いのでレンズもカメラも見送り。  

 代用品としてのリコーR1s  



 隣のフロアーの高輪カメラをのぞいてみる。何か出物はないかな。特段欲しいものはないけれども安ければ買ってもいい。  

 「何かいいことないかな」と陳列棚をのぞいているうちにリコーの「R1s」(定価四万一千円)というf3.5・30o単焦点レンズ付きのコンパクトカメラが目に入った。探しているのはこのカメラを下敷きにレンズの性能を各段位 向上させた「GR1」(定価十万円)である。これが新品で半値で出ていれば買おうと思っている。  

 開発に参加した写真家の田中長徳氏の両機を比較した「ウイーン、プラハ、一九九六with R1&GR1」という写 真集を購入していてこれはいけると考えるようになっていた。店にでていた「R1s」は新品で一万九千円である。「ウーム」どうしよう。ちょっとまって、ということで隣の松坂屋カメラのよく知った店員に意見を求める。「GR1はプロカメラマンに評判がよく手放す人が少ないので中古市場には出てこないですよ、金融新品でも出てこない状態です」という。分かったならば代用で「R1s」にしよう、となる。「まっ いいか」。  

 でも私の手もとには「GR1」のカタログが何冊もあり、今なお欲しい欲しいと見つめている。  

 接写ができなかった28〜200oズームレンズ  



 リコー「R1s」を買う数日前の日曜日、家内の友人が八ケ岳山麓の小淵沢駅近くに別 荘を建てたので見物に出かけた。建物は二×四で一四〇平方メートルある。風光明媚な場所だが標高八〇〇メートルあるというから冬は青森並みの寒さになる。老後をこの場所で過ごすのだという。この建物を写 真に撮っていたら家主がこれに目をとめて写真の話が始まった。ヒマラヤやアルプスのトレッキングを楽しんでいるハイカーである。小さな写 真コンクールで最優秀賞をもらったというのを見せてもらう。  

 ヒマラヤではうまく撮れたのに  



 話が進んで、朝焼けの写真がうまく撮れない、接写がうまくいかないということで撮影のテクニックの話になる。花を接写 するのに二八oから二〇〇oまでズームレンズを使ったという。これの最短撮影距離が二メートルほどであったことから接写 のような拡大撮影がうまくいかなかったのである。さきほどの最優秀賞はヒマラヤトレッキングのときに撮影した高山植物の接写 であったのだ。ヨーロッパアルプスには二八oから二〇〇oのズームレンズだけを持っていったものだから涙を流したのである。撮りたいものとレンズの性質を考慮しなくてはならない。  

 私が「R1s」を買うことになったのは、この別荘での話が大きな刺激になっていたようだ。  

 ニコンF2とF氏  



 Fの頭文字のある男がニコンF2を昔もっていた。最近この人に私はF2売りつけた。私の手もとからコレクションに類するカメラを一掃しようとする動きの中ににF氏がいたのである。そのF氏も一本ですべてをこなそうと28〜200oレンズをF2用に買った。80oを超える望遠系は簡単に使いこなせるものではないのだが、遠くが拡大して撮れるというので素人受けし、コンパクトズームでも130oというのが出ている。私もニコンのAF用に28〜200oのレンズを用意しているが大きすぎて持ち歩きに不便なので使っていない。  

 カメラは持っていても写真はなかなか撮らないものである。F氏も大した量の写 真を撮っていない。  

 海外にどんなカメラを持って行ったらいいのか  



 写真好きの私などは海外に出かけるときに写真機を持たないなどということは考えられない。少なくとも二台のカメラは用意するし、三台になることもある。この三台をどのような構成にするかで少し悩む。ニコン二台にレンズ四本、ブローニーのリーバーサルフィルムを詰めた六×四・五センチのカメラを加えると三台になる。これにネガフィルムを詰めた「R1s」を加えると四台になってしまう。おまけにビデオカメラまで用意するとなると滑稽な事態になってしまう。  

 感動して写真が撮れることの幸せ  



 感動して写真が撮れるということは幸せなことである。55pの大岩魚をゲットしたSさんは写 真のほか魚拓を取ったという。別荘の壁に釣り上げた大物の魚拓や写真がずらりと並べてあるものだから、この「かたくり荘」を象徴するものとして知り合いのデザイナーが選んだのが渓流魚であった。かたくり荘は奥さんはの郷里なのだが、その奥さんは魚ではなくかたくりの花を望んだのだという。  

 Sさんはこの意見を受け入れた。夏にはかたくりの花をあしらった「かたくり荘」のオリジナルTシャツを関係者に配った。私はLLのやつを注文したら何枚か無料でくれた。 55pの岩魚を手にしたオリジナルTシャツが本人にとって一番の記念になるように思う。

 

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ローマの街角で  



 旅は日常からの脱出だ。 

 家と職場の事務所を往復だけで日を過ごしていると、段々と脳髄に澱が沈着して元気がなくなる。人間同じことを繰り返していると飽きてしまうのだ。日常から脱出するには休暇がよく、その休暇には旅に出るといい。旅をすると人間は元気になる。

 旅行評論家の誰かが「旅は生きるエネルギーだ」といっていた。この旅行評論家は人類が人間になるとき大移動したことが現在を生きるホモサピエンスの脳髄の奥深いところに叩き込まれていることは知らなかったようであるが、旅をすると人間が元気になることだけは経験と観察を通 じて知っていたのであろう。見慣れない景色を見ること、知らない風俗に接すること、それはエキゾチズムの体験であり、人間を元気にさせるのである。

 日本人にとってのエキゾチズムは石の家の文化の国である。イタリアのローマほど石の家の文化に包まれているところはない。

 読売巨人軍より「永久に不滅」なのが石造りの古代都市ローマである。日本の苫屋(とまや)は10年で朽ちるけれど、ローマの遺跡は紀元前からのものである。

 ローマは2度訪れている。宿泊した5つ星のホテル・エデンは石造りの立派な建物であった。内装がまた素晴らしく豪華絢爛で王宮に迷い込んだ気持ちなった。

 ファッションといえばミラノになるのであろうか。総じてイタリアンファッション。しかし旅行した先はローマであった。スペイン広場を起点にグッチやフェラガモが店を出しショッピング街を形成する。

 2泊したローマでの夕食はシーフードのサバティーニと浅草・濱清のローマ直営店。東欧が開放されたらパリやローマはこれらの国々から来る観光バスがうんと増えたという。

 普段は文化や歴史に縁遠い私もローマにおのぼりさんとして出かけたのであった。

 

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白昼夢 銀河鉄道につながる道が見えた



 夏休み、1週間です。土、日を加えますと10日間になることもあります。

 この年の夏は鮎釣りを中心にして過ごしてきました。いつも夏休みは東へ西へ、南に北に渓魚と鮎を求めて走り回ります。

 東京の人々の夏の避暑地がある中央道の混み具合は尋常ではありません。相模湖 までなら夜間は1時間で行きますが、平日では下手をすると4時間かかります。暑い暑い4時間です。

 今年は山梨県の山中湖近くの山伏峠を水源とする道志川にも出かけてみました。水がきれいなためでしょうか、小さいけれど姿の良い鮎が棲む川です。春は山女魚の川ですが夏は鮎が勢力を伸ばします。  東北は岩手の川も覗いてきました。小本川、閉伊川、鵜の住川、甲子川に出かけました。岩泉、宮古、釜石です。

 民話のふるさと「遠野」には立ち寄る暇がありませんでした。昨年は宮沢賢治生誕100周年につられて花巻の「宮沢賢治記念館」に出かけました。その賢治は私の勤務する事務所がある神田駿河台の「主婦の友」ビル脇の路上で倒れました。何かの縁と思うのは私の勝手です。

 その身勝手が高じたのでしょうか。新潟県の湯沢町土樽の上越線の高架をみて賢治の「銀河鉄道」を思い浮かべてしまいました。

 写真は私の賢治の銀河鉄道を思うあまりの真夏の白昼夢です。

 

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TOKYO 私の夏 神田・駿河台下交差点



 この年、日本列島の梅雨開けは何時だったろう。

 梅雨が開ける前に東京には猛暑がきた。

 そしてこの夏は台風が3度上陸した。梅雨明け後の台風は南洋の湿った熱い空気を運んでくるので梅雨と同じ気候に後戻りする。

 台風9号は隅田川の花火大会を一日順延させ、7月27日の日曜日に開かせた。花火見物に絶好の立地の「浅草ビューホテル」は普通 の人には予約がとれない。沿道は交通止めになるので早くにゴザで陣取れば見物が可能だがこの日はむせ返る暑さだったのでこれは止め。

 カメラ片手に吾妻橋から雷門に抜けようとすると整理の警察官が立ち止まることを許してくれない。暇なことだしと両国橋の所まで出かけてみたら、いい雰囲気の飲み屋があった。そこで一杯やって午後8時半に店を出たら花火大会は最後のドカン、ドカンやった後で、みんなぞろぞろ帰り支度であった。アレレ・・・これはしくじったと思ったが後の祭りとはこのことか。

 隅田川には屋形船が所狭しとあふれていたのでその提灯行列を見物。暗い川から屋形船の船頭の怒鳴り声が聞こえるので目をやると船と船とが喧嘩をしている。怒鳴り声はスピーカーから発せられていて、進路妨害をしたことが許せないのだといって船方が屋形船の屋根を走りながら竹棒を振り回していた。船方たちもお神酒が入って頭に血が上っているのだろう。川岸からはなかなかの見せ物であった。乗り合いの客達は興冷め顔。この日の隅田川は何時にも増して交通 渋滞であった。

 昨年の同じころ栃木県の那珂川に鮎釣り出かけての帰り道、偶然に真岡市で花火大会に遭遇。道端に車を停めてしばし他人の庭での花火の見物。また新潟県の湯沢町の花火大会は寄付をした人の名前を読み上げながら打ち上げる。小さな町の花火大会は豪勢にはなれない。侘しさをどこかに漂わせた夏の風物詩である。火事と喧嘩と花火は江戸のものなのだろう。

 話が飛んでわが事務所のある神田駿河台界隈の夏。スポーツ店と書店が同居するこの街は出版社の街でもある。大学と専門学校と予備校の街でもある。終電過ぎまで仕事をしていつものビジネスホテルに電話をしたら、予備校の夏季講習に上京してきた受験生で満室であった。受験生の夏は駿河台の夏であり、駿河台は青春の思い出の地になるのだろう。

 写真は東京神田の駿河台交差点風景。コンサイスの三省堂、角川ミニ文庫と書泉ブックマートの大きな看板が夏空に翻る。書泉ブックマートの看板は何故かずっとカワセミなのである。

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伊達男はアウトドア雑誌から抜け出した姿で上高地に現れた



 旅をビシッと決めようとすると服装に気をつかうことになるようだ。近頃は熟年もジーンズをためらいなく着用する。ジーンズは年格好をキャンセルする。ツバつきの帽子のことをキャップという。その昔、流行った頭の形そのままのキャップが復活していて、この帽子をかぶると誰もがアウトドア雑誌から抜け出した姿になる。チノパンツに格子縞のカッターシャツを着て、このキャップをかぶり、本革性の軽登山靴を履いたら、年齢が無くなってしまう。中年ダンディーのS氏はハイキングには若者と同じ姿で現れる。S氏は大学山岳部のOBで日本山岳会の会員である。「Sさん大学で何を習ったの」と聞くと、「僕は山岳士です」と答える。背が高く足も長いS氏は一緒に出かけた上高地には見事ないでたちで現れた。茶をやり、絵を描き、俳句を詠むS氏に俳句の水を向けたが一ひねりはなかった。ならばスケッチをと促した。そのS氏は私のスケッチを見て物怖じしたのである。私のスケッチは串田孫一にならったもので、早ければ3秒遅くても30秒で仕上げてしまう。3秒スケッチを見たS氏は唖然として、ついに自分の画帳を開くことがなかった。S氏のスケッチは克明に描くやつで、20年前の余白がまだ残っている画帳を上高地に持ってきた。私は写 真を撮ってスケッチして野鳥観察もするのでとても忙しい。

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飛騨高山の人力車



 飛騨高山はノーベル科学賞を受賞した白川英樹氏の故郷だ。高山は安房トンネルが開通 したので松本からの冬場の足の便がよくなった。松本からの便がいいということは、東京からは大いに近くなったということであり、嬉しい限りだ。車での旅、列車での旅と旅には様々な旅がある。飛騨高山のような古都や城下町への旅となると、旅人の方も少し身構えるようだ。旅とダンディズムということで、世の中には洒落者が結構多い。私は高山には4度出かけているが、一番新しい高山への旅は観光バスで出かけた。前年も同じような旅をした人々との団体旅行であった。旅行に参加した人々は無意識に衣装比べをしており、私がどうでもいい格好をしていったら「横田さん、今日はずいぶん楽な格好をしているじゃない」。見ているものですね、皆さん。飛騨高山は京都と似ており旅姿に気を使いたくなるところである。昔の建物をおしゃれに飾り立てての土産物屋には風情がある。高山観光の中心街である上三之町には人力車が待機していて、三千円で高山の町を案内してくれる。人力車は2人乗り。これには若いカップルがよく似合う。料金の三千円は思い出の値段ということか。夏に自家用車で郡上八幡に鮎釣りの旅をした帰りに、宮川の朝市を見物できて嬉しかった。

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春の構想



春になるから、春の遊びを構想しよう。

 何かの構想を記そうと考えていたのだが、何であったか失念してしまった。

 春になれば渓流釣りを始めるし、自転車、キャンプ、春スキーなどが出てくる。

 20インチ車の製作を楽しむことについて

 自転車関係のことをインターネットで調べることも楽しみのひとつ。

 またインターネットに自転車関連のエッセーを載せることをしてみようかな。

 その他、何か楽しいことはないかな。

 カヌー遊びを長いことしていない。

 夏場はカヌーを漕ぎ出せる川の主人公は鮎師であるから、心行くまでカヌーを川に浮かべることは出来ない。

 秋から春の終わりまでがカヌーの季節になってしまうのは日本という鮎の国の特殊事情である。

 

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夏至の日の旅と北アルプスの立山越え



6月の夏至の日に旅をした。

 日が一番長いので、山登りをするととても楽しいから一年で最上の日であると思っている。富山市に出かけ、立山から黒部湖を経て信濃大町に抜ける旅行をしたのである。季節外れの早い台風が到来したので、富山市に予定外の逗留を余儀なくされた後での北アルプス立山越えであった。

 その前年の秋に同じルートを旅した。この日は室堂に宿を手配していたが、山に雪が来る寒さに里心がついて大町に出てしまった。  

 ずいぶん昔に同じルートで剣岳と立山に登ったことがある。このときは剣山荘と室堂の小屋に計二泊した。帰りに大町ルートをとったのだが、室堂からの記憶が全くない。この記憶を呼び戻すことを楽しみの一つに、北アルプス立山越えの旅を二度敢行したものの記憶は戻らなかった。

 それにしても3000メートルを超える日本アルプスを突き抜ける交通手段ができていることは驚異である。私は、海のまち富山から電車やバスやロープウエイやトローリィーバスを乗り継いで安曇野に出られることが非常に面 白いと思うのである。夏至の日の立山の室堂までのバスルートの一部には6メートルの雪の壁が残っていた。台風一過の立山の夏景色を期待したが室堂はガスに包まれていて気温は摂氏6度であった。

 黒部湖が眼下に見える黒部平にまでロープウエイで下ったところで、雲間から陽光がもれてきて新緑のダケカンバやナナカマドを美しく照らした。

 急ぐ旅ではなく、帰り道に大町でも松本でもどこでも一泊する余裕があったので、私の気持ちはゆとりに満ちていた。

 

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日本人の旅と芭蕉と旅について(旅の考察)



 日本の旅は夏。

 夏こそが旅情をかきたてるのが現代であろうか。

 芭蕉の句の印象に残るのが夏の句である。芭蕉の有名な句は奥の細道に多い。 その中に

 ○夏草や 兵共が 夢の跡     芭蕉



  があり  

 ○閑さや 岩にしみいる 蝉の声   芭蕉    



 がある。

 芭蕉の奥の細道のハイライトの東北行脚が夏なのであるから夏を季題にした秀句があるのは頷けることである。

 芭蕉の奥の細道は歌枕を訪ねる旅であり、わが心の師とする西行の足跡を辿る旅でもある。残り少ない人生を「奥の細道」の紀行文を通 じて集約する大事業でもあったと想像される。

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「レモン社でライカM6を買いなさい」 カメラは撮るために持つのではない



 カメラマニアというのは写真そのものはもちろん好きだけれども、それよりもカメラがもっと好きなのである。

 好き者、マニアは世の中に結構いるもので、そのひとつに自転車好きがある。  自転車好きになると、一人十台の自転車を保有するのは珍しくなく、その一台の平均価格が三十万円ほどというと驚く人は多いであろう。一台三十万円という値段は、少し上等の部品を細かにサイズ指定して製作したフレームに組み付ければすぐ達してしまうものである。その意味では常識的な値段であるが、その道に通 じない者にとっては驚くような数字になってしまう。そして好き者の家には自転車が自己増殖して何時の間にか軽くそのような値がさの自転車が二けたに達してしまう。

 かような自転車オタクが集まる店に顔を出していたら、カメラを買いたいということで訳知り風の人間をまじえた会話が聞こえてきた。

 「ライカを買いたいけれど何を買えばいいですか」 と唐突にある男が声を発した。

 その男は店にいた一人の男がライカ通であることを知っていて、誰にということではない質問を投げかけたのである。

 間髪を入れずにライカ通の男は答えを返した。その間の取り方といったらまことに見事なものである。

 曰く

 「銀座のレモン社にいってM6を買いなさい」

 「レンズは三十五ミリです」

 「五十ミリを買ってはいけません」

 質問した男はその言葉を聞いてそれ以上深い質問はしなかった。

 世の中にカメラ好きは多く、そのカメラ好きは絶えずこの世に登場してくる。どんな世代の中からも一定の割合でカメラ好きが生まれくるものらしい。だから古いカメラが市場で値が付き、取引される。

 ライカというカメラはカメラ好きなら一度は手にしたいカメラであるものらしい。一台のライカが市場で二十回も取引されることはざらにある。十万円が二十回取引されると二百万円をカウントすることになる。ライカ というカメラは腐っても鯛で、壊れたものにも半端でない値が付くし、部品だって使い回しされるのである。

 かつてのライツ社、現在のライカ社のカメラほど、製造されたものが徹底してリサイクル市場に流れる商品はない。これはすごいことである。

 そういえば絵画や芸術品、骨董品も同じである。そうするとライカのカメラとはそういう性質の商品であったのだろうか。

 

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落しても平気だった二台のカメラ



 シグマとか京セラブランドの二万円で標準レンズ付で買えるAF一眼レフは気取らなくていい。  

 シグマの「SA三〇〇」は肩からコンクリートに落下したが、レンズ保護用のフィルターが割れただけで何事もなかったように動いている。

 ニコンF3も肩から落とした。タムロンのズームレンズの金属製鏡胴はコンクリートにめり込んだ。コンクリートがフィルターに張りついたままであるが、そのレンズは現役を退いていない。落としたニコンF3ファインダー内に表示されるシャッタースピードが現れないが写 真は写る。F3のファインダーは別に一つ用意していたのでそれと交換して使っている。

 ニコンF3は製造中止になった。私はF3のプロ仕様を新品のまま一台持っているので、そそそろこれを出して使おうかと考えているところである。

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律儀で頑固なニコンという会社とニコンF4



ニコンのフラッグシップ機がF4からF5に移行して月日が経つ。

 私はF5がボディーだけで三十万円を超えてとても高いのでF4をF5の発売直前に新品を半値以下で手に入れた。ニコンF5が登場した直後にF4は中古市場から消えていた。ニコンのフラッグシップ機にはよくある現象のようだ。

 ニコンF4は品数が少なく高値で取引されている。シャッターダイヤルが昔の姿であ(ったりす)るのがいいのだそうだ。ニコンはF3を継続販売していたが2000年夏に製造を中止した。F4はそれよりも早くF5発売と同時に製造を中止、ニコンF5発売後の四月末までに注文があった分を最終出荷とした。

 F3からF5に至るこの十七年の間にニコンはカメラを造らなくてもやっていけるメーカーに生まれ変わっている。そうであるから現行機のニコンF3とF5はメーカーの道楽の極みのカメラと思えるのだが、それはそれでカメラに対するニーズに対応したもので、ニコンF5は測光性能などを含めて一番優れたカメラである。

 その道楽的スペックと思える部分は報道カメラマン向けのものであるが、それでは開発コストを賄えないのでハイ・アマチュアカメラマンにも買ってもらわなくては商売にならない。カメラの世界にはプロが持つような高価なものを持って喜ぶ需要層が築かれている。

 一般の写真撮影の用途にはF3やF4やF5でなくて十分である。あえてプレス仕様をフラッグシップ機に据えているニコンという会社は古来のユーザーに対して律儀なのであろうか。ニコンは骨の髄までの頑固者のように思える。その頑固さが半導体製造機の「ステッパー」の商品化につながり、現代のコンピュータ技術の重要な一端を占めるに至っている。

 35oフィルムが何時まで報道写真の第一戦で活躍するのか怪しくなってきた。シドニーオリンピックではデジタルカメラが幅を効かせていたので、35oフィルムカメラは早晩報道カメラの分野でデジタルカメラに座を明け渡すことになろう。デジタルカメラの画素数の増大という技術進歩はめざましく、すでに新聞紙面 の写真として利用するには十分な能力を獲得している。

 「ウォー、F4はなんてすごいカメラだ」

  私はニコンF4を持っているのであるが、ニコンF4のどこが優れているかといえば、だれでもが分かることはシャッターを切る、フィルムを巻き上げること、つぎのシャッターをチャージするといった一連の動きに普及機と格段に異なる品質感が漂うことである。

 中学二年の女の子に使わせると「ウォー」と驚嘆の声を発した。この子は普段はコンパクトズームカメラを使っているのである。

 F4のシャッターがカシャと切れて、シュンとフィルムを巻き上げて、次のシャッターチャージをする時の音は品質感の固まりと思えるものなのだ。

 そんな品質感に富むカメラであるが、でも娑婆でこのカメラを振り回すことはオーバースペックの品物を見せびらかすのと同じだから、少なからず恥ずかしさを感じる。

 ニコンFEやニコンF3のマニュアルフォーカスカメラが新鮮に思える



 AFの一眼レフカメラだけを使っていると、ニコンFEやニコンF3のようなマニュアルフォーカスカメラを使うことが新鮮に思えることがある。

 2000年11月に八ヶ岳山麓と川上村方面へのドライブ兼写真撮影の遊びにニコンFEに単焦点レンズの35oと 200oを持ち出した。単焦点レンズの写真の鮮明度というか抜けの良さは魅力であり、またレンズが明るいのもいい。ニコンFEなどは液晶の外部表示がないのがよく、「シンプルニコン」の宣伝文句で発売された当時のことが思い出された。

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