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70年代の学生運動に羞恥あっても後悔はない 時代への純真さがあったから
Even if you are ashamed of the student movement in the 70's, you will not regret it because there was innocence to the times.
甲斐鐵太郞

70年代の学生運動に羞恥あっても後悔はない 時代への純真さがあったから
旅行家 甲斐鐵太郞

70年代の学生運動に羞恥あっても後悔はない 時代への純真さがあったから 甲斐鐵太郞

70年代の学生運動に羞恥あっても後悔はない 時代への純真さがあったから 甲斐鐵太郞
時代への純真さがあった 学生運動に後悔はない

清里にある清泉寮。1950年代の写真だ。

時代への純真さがあった 学生運動に後悔はない

清泉寮を建てたのはポール・ラッシュだ。

時代への純真さがあった 学生運動に後悔はない

ポール・ラッシュは聖協会の牧師であった。

時代への純真さがあった 学生運動に後悔はない

長野県川上村の畑地の西にそびえる八ヶ岳。

(タイトル)
70年代の学生運動に羞恥あっても後悔はない 時代への純真さがあったから 甲斐鐵太郞

(本文)

卒業から一年目に友人の実家に消息を尋ねると所在不明であった

 ある男の下宿には別の大学に通う同学年の友人の男がいた。その男はボブ・ディランを神のように崇(あが)めていた。1968年のテレビはアメリカのフォークグループのピーター・ポール&マリー(Peter, Paul and Mary、略称PPM)の歌を流していた。PPMの歌にボブ・ディランの「風に吹かれて」のカバー曲が含まれていた。1960年代後半にはフォークロックが芽生えておりボブ・ディランはその牽引者の一人であった。卒業は別れであるからボブ・ディランの男にある男は「ボブ・ディラン全詩集」を贈った。贈ったのは郷里のN県の公務員になることが決まっていたある男である。一年して、公務員になっていたある男はボブ・ディランを崇拝するその男の実家に電話した。母親は所在不明だと言って電話口で泣いた。

ボブ・ディランの「風に吹かれて」を早くから聴いていた男は70年安保の渦の外でロックバンド活動をしていた

 ある街で親から離れて一人暮らしをする高校生は米軍のキャンプから流れるラジオ音楽「米軍極東放送 (FEN) 」を長いアンテナを張って聴いていた。高校生は月額800円の授業料をレコード購入に使っていた。授業料未納のため高校生は2年に級できなかった。高校生は釜石市にある別の高校に移ってやり直した。釜石では三沢米軍基地から流れる米軍極東放送 (FEN)を聴いた。この時代の国立大学の授業料は月額1,200円であった。中学卒業者の給与は月に8,000円程度だ。高校生は親元を離れていて音楽にのめり込むあまりに学校生活は自堕落であった。高校生は音楽好きで米国通であるために地元の高校生にはよく知られていた。いつしか高校生仲間でバンドを組んでいた。米軍極東放送 (FEN) からはニール・ヤングがメンバーとして参加していたバッファロー・スプリングフィールド(Buffalo Springfield)の曲が流れていた。バッファロー・スプリングフィールドは、1966年4月に結成されたアメリカのロックバンド。メンバーのスティーヴン・スティルスとニール・ヤングが不仲になって1968年5月に解散した。高校生は次はフォークロックだと語っていたが、やがてロックだと叫ぶようになった。高校生は1968年に早稲田大学文学部に進学した。学校に行っても面白くない。やがて慶応、早稲田、立教そして大学進学前の高校生とバンドを組んだ。彼らはロックを志向した。日本語をロックに載せようとしていた。大学の騒動はバンド仲間の外の出来事であった。バンドは1972年12月31日解散した。彼らがバンドを組んでいた時代の大学は紛争と70年安保の渦のなかにあった。荒れた時代には授業がなかった。バンドのメンバーは大学とは関係ない別の世界で夢を追っていた。デモ隊の渦の外でロックバンドは活動した。米軍極東放送 (FEN)から流れるアメリカンポップスは乾いた音楽であった。海の向こうに夢をはせる高校生には刺激的であった。気が付くとロックバンドはボブ・ディランの「風に吹かれて」に倣って似たような題名の歌をつくっていた。ロックバンドは、はっぴいえんど。楽曲は「風をあつめて」だ。「人気のない朝の珈琲屋で暇をつぶしていたら、ガラス越しに摩天楼が見えた、それで僕も、風をあつめて空を翔(か)けたいんです」。 松本隆の詩に細野晴臣が曲をつけた。ギターの名手として知られていた高校生が鈴木茂であった。40年が過ぎたころにメンバーの一人はNHK ラジオで昭和歌謡の解説をする伝説の人になっていた。授業料をレコード購入に注ぎ込んでいた進級出来なかった高校生の姿であり瀧詠一である。

政治が熱く語られ自らの立場を問われた時代であった

 1970年当時、大学は70年安保と学費値上げなどを問題にして荒れていた。学生は押し寄せる政治の波と無縁ではいられなかった。政治が熱く語られ自らの立場が問われた。勤めにでて生きていくことは親からも社会からも強いられた定めであった。理想を描き希望を膨らませた学生生活と社会は大きく乖離していた。学園でだけ醸成が可能な理想に燃えていれば苦しみは大きくなった。企業に就職しても役所に就職しても、その労働と自分が求める生き方とは違っていた。役所ならば全員加入制の労働組合がある時代だった。胸につかえることをここで吐き出せた。企業となるとそうは行かない。このことが壁となって学生の巣立ちを阻んだ。

企業戦士になることには大いなる躊躇があった

 ある者は大きな国家試験に通ることを心の拠りどころとして職に就いた。役所勤めを隠れ蓑にして弁護士、弁理士、公認会計士などの試験に挑む者がいた。企業に入って一介のサラリーマンになる、あるいは企業戦士になることに戸惑う時代であった。有名企業に職を求めれば職階に似た組織があり没個性を強いられる。企業の門をくぐれば大学の先輩の後を追うことになる。そのようにして企業戦士となって大企業の役員に上り詰めた人間のことを「寒山の森から」の田渕義雄は否定的に語る。田渕義雄は大学を卒業することへの惑いが海外に出て行くという行動となった。卒業への躊躇を女への恋で紛らわす男がいた。恋がこの男には目的になった。卒業の苦難を回避する便利な方法である。田渕義雄は大学を卒業すると北アメリカに渡りバックパキンブした。この行動がその後のすべてを決めることになった。

女は氷の世界に踏み出すために気持ちを固めなくてはならなかった

 N県の役所に勤めることになるある男は卒業という壁に戸惑う男をみていた。N県の役所に勤めたある男には、女の気持ちは判りようがなかった。壁にもがく男が女とどのように向き合ったのか話さなかった。女は感情の高まりとも思える振る舞いをした。N県の役所に勤めることになるある男は女に呼びだされた。女は喫茶店でつまらない世間話をするだけであった。社会に放り出される女には葛藤があった。女が取り組んでいた国家試験は、役所に勤めることにが決まっているある男には怖くて手が出せないものだった。女は氷の世界に踏み出すことを決めていた。

デモ隊列でボブ・ディランの「風に吹かれて」と西岡たかしの「遠い世界に」が歌われた

 1970年の日米安保条約改定の最終期限のその日、6月28日には学生自治会はストライキを打ち、あるいは同盟休校した。学生は夜のデモ行進に参加した。隊列には普通に学生生活をする大勢がいた。デモの隊列にいると皆が同じ意識を持つ仲間であるように錯覚される。男は女にそのことを感じ、女もまた同じであった。デモ行進でボブ・ディランの「風に吹かれて」が歌われていた。1962年に発売されたアルバムのなかの一曲だ。米国のベトナム反戦デモでよく歌われていた。「どれだけ多くの死者が出れば気が付くのか。どれだけ海の上を飛べばカモメは陸地に着けるのか。知るのは風だけだ。」という詩である。日本では五つの赤い風船が「風に吹かれて」に啓発されて歌をつくった。ベトナム反戦歌の「血まみれの鳩」である。西岡たかしの詩だ。西岡たかしの「遠い世界に」はボブ・ディランの「風に吹かれて」とともに歌われた。五つの赤い風船のボーカル、藤原秀子が歌う「血まみれの鳩」と「遠い世界に」は素朴であった。五つの赤い風船は1967年結成、1972年解散した。「遠い世界に」は1968年5月8日にレコード発売された。

擦り切れた全学連旗を掲げて街頭デモの先頭に立ったこともあった

 70年代の学生運動の経験を田渕義雄が語る。「わたしの学生時代の後半は、学園紛争に明け暮れる日々としてあった。擦り切れた全学連旗を掲げて街頭デモの先頭に立ったこともあった。青い林檎にかじりついて、その酸っぱさを学んだし、機動隊の棍棒は痛いものだと知った。我々は、野良猫のように蹴散らかされた。そして、高度経済成長の渦に投げ込まれた。あの時代のあの学生運動への情熱がなんであったのかは、自分には永遠の謎としてある。だが協調性に欠ける学徒達の腹いせだったかも知れない、という羞恥は残るにしても、後悔はない。何故なら、そこには時代や社会に対する純真さがあったからである。」

チョウを追いかける田渕義雄と山小屋にいた昆虫好きの青年のこと

 田渕義雄は都内下町のガソリン販売店の三男として生まれた。小学校では担任教諭が通知表に「学業は優良といえるが、協調性に欠ける嫌いがある」と書き込む生徒であった。田渕義雄は早稲田大学文学部哲学科を卒業する。あの時代のあの学生運動への情熱がなんであったのか永遠の謎として抱え込む。田渕義雄は大学では生物の研究会にいてチョウを追いかけていた。N県の公務員になっていたある男が北アルプス登山の帰途、長野県大町市にある湯俣温泉の晴嵐荘で草鞋(くつ)を脱いだ。晴嵐荘は、高瀬ダムの上流、湯俣川と水俣川の出合いにある山小屋である。標高は1,534mだ。青嵐荘にすこし遅れて青年がやってきた。青年は草むらの昆虫ひょいと捕まえて詳しい説明をした。初めて会う人への挨拶代わりであった。晴嵐荘は老夫婦が営んでいた。山小屋には不似合いのステレオ装置からは大音量が出ていた。レコードは都はるみの演歌であった。宿泊したのはN県の公務員のある男と青年だけであった。外にでると赤トンボが草むらから飛び立った。7月終り赤トンボは高原で過ごしていた。N県の公務員のある男には昆虫青年が田渕義雄であるように思われた。三俣小屋を介して北アルプスに分け入る伊藤新道は事実上廃道になっていた。晴嵐壮の宿泊者が二人だけであったのは伊藤新道が北アルプスへの往路ではなくなっていたからである。1979年のことであった。

田渕義雄の川上村川端下における生活誌「寒山の森から」

 「寒山の森から」の田渕義雄は聖なる人である。千曲川源流の川上村川端下にある初期アメリカ風の家で暮らす。イワナ釣りには恰好の川が目の前にある。窓の向こうにロッククライミングで名高い小川山がある。著書「寒山の森から」は田渕義雄の生活から抜け出したものだ。田渕義雄はアウトドア雑誌の常連執筆者になっていた。田渕義雄が語る山暮らしには説得力があった。田渕義雄の暮らしはヘンリー・D・ソローの「ウォールデン-森の生活-」の生き写しであった。田渕義雄はフライフィッシングの名手である。フライフィッシングの訳本の仕事は自ずと田渕義雄に回ってきた。田渕義雄はロッククライミングを世に広めた。田渕義雄はバックパッカーとして行動しその様式を世に問うた。田渕義雄の北米の旅とそこでの川釣りの経験はその後の展開の起点になった。

早稲田大学文学部哲学科卒業者の田渕義雄が語る 「自分の貧困を耕せ 古いモノに向かえ 変わるべきは我々だ」

 田渕義雄はヘンリー・D・ソローの「ウォールデン-森の生活-」を意識している。田渕義雄はヘンリー・D・ソローと「ウォールデン-森の生活-」を教本にして川上村で暮らす。田渕義雄は「ウォールデン、森の生活」によって自分の心情を吐露する。「菜園を耕す如く、自分の貧困を耕せ。新しい物を疑え。新しい友達や流行の衣服を欲しがるな。古いモノに向かえ、そこに戻れ。物事は変わらない。変わるべきは我々だ」というソローの言葉を口にする。田渕義雄は早稲田大学文学部哲学科を卒業した。同時代に同じ哲学科にいた男とN県の公務員になったある男は懇意であった。哲学科の男は故あって二級建築士の資格を取り大工をしていた。薪(まき)ストーブ設計で右にでるものがいないと自負した。自らは最後のトップ屋だと語る。連れ合いは小説を書く人だ。最後のトップ屋は酔うと学生運動を語った。早稲田大学に入学するとある組織から迎えがきた。乱暴して大学を追われるとまた早稲田大学の文学部哲学科の試験を受けて再入学した。学生活動を誇りにし組織の名を簡単に口にした。公務員になったある男はその組織のことをを知らない。最後のトップ屋は母親同士の縁で上場企業の広報課長として迎えられた。博識で知能が優れた人であった。

70年代の学生運動に羞恥あっても後悔はしないはない 時代への純真さがあったから 田渕義雄

 田渕義雄の学生生活はどうであったか。1968年ころの早稲田大学であり文学部哲学科にいた。東京大学医学部で騒動がおこる。早稲田大学では学生運動が渦巻いた。60年安保から10年ほどして日本は高度成長の時期であった。早稲田大学に入学するとある組織から組織員として迎えられた男は運動のまっただ中に飛び込んだ。生物研究会にいた田渕義雄は学生時代の後半は運動の渦のなかにいた。田渕義雄は擦り切れた全学連旗を掲げて街頭デモの先頭に立った。機動隊の棍棒は痛いものだった。青い林檎にかじりついて酸っぱさを学ぶ協調性に欠ける学徒達の腹いせだったかも知れないという羞恥は残るにしても後悔はない、時代や社会に対する純真さがあったからだ、と田渕義雄は言う。

ウイ・シャル・オーヴァーカム「勝利を我等」と学生デモ

 1960年代後半にキング牧師が中心となって米国の公民権運動がもりあがった。「勝利を我等」(We Shall Overcome、ウイ・シャル・オーヴァーカム)が歌われた。霊歌「アイル・オーバーカム・サムデー」("I'll Overcome Someday")が元になっており、フォークシンガーのピート・シーガーが歌い1960年代にはアフリカ系アメリカ人公民権運動の集会の象徴歌となった。日本の1970年ころの学生デモで「ウイ・シャル・オーヴァーカム」が歌われた。歌うと自らを慰め抵抗の心が表現されているようであった。

学生自治会が全学休講を決議すれば大学はそれを認めていた

 1970年6月28日の日米安全保障条約改定によって、日米安保条約は自動改定される。日本経済は爛熟期を迎えていた。日本の政府にとって国に歯向かう学生と教職員は邪魔者であった。日本政府は懲(こら)しめにかかった。大学の自治を破壊することは学問の自由を奪うことでもあった。旧制高校はリベラルアーツということで人類が残したあらゆる学問と芸術を学ぶ場として位置づけられていた。大学や旧制高等学校の自治と思想の自由は一体のものであった。同じように新制の大学でも大学の自治、学生の自治は重んじられた。学生自治会が投票によって全学休講を決議すれば大学はそれを認めて授業を止めた。田渕義雄がいた1968年ころの早稲田大学はそうであった。

将来は議員になるから早稲田大学に移るという言葉を残して男は消えた

 社会への旅立ちの怖さを同じ大学にいる女に恋することで紛らわす男がいた。1972年のことである。その大学にいた別の男は将来は議員になることが希望であった。近道は早稲田大学を卒業することだという言葉を残して男は姿を消した。その大学には早稲田大学では教育学部にしか合格しなかったという人間が何人かいた。大学が騒がしかったその時代でも学生は学問へ満足と自分の将来を考えてた。幼い思考が見え隠れする。N県の公務員になったある男は卒業すると別の学部で二年学んだ。二年間はある本を読み理解するが目的であった。履修科目は卒業単位きっかりに選び授業へは出なかった。二年すると指導教員にこれからどうすると尋ねられた。何時しか周りの人間が若く見えるようになっていた。男はもう学校をでます、と答えた。男はN県の公務員として職を得た。

大学自治の弾圧のによって日本は世界で一番魅力のない大学になってしまった

 経済学者の宇沢弘文は国の統計の職場にいるときに、連合国軍最高司令官総司令部GHQ(ジーエイチキュー)に通訳として駆り出された。ここで戦後の日本の統制と経済の行方を決める一連の場面を見聞した。米国は日本の自動車道路を整備し高速道路を建設して米国製自動車を走らせようとした。米国の目論見は外れる。日本製の自動車が性能を上げて日本の道路に充満した。「自動車の社会的費用 (岩波新書 青版 B-47)」の著者、宇沢弘文は、賀屋興宣や児玉誉士夫が日本政府の意を受けて大学を右翼勢力が支配する体制につくり上げたことを指摘する。大学には右翼が巣食うようになり大学と学生そして教職員は弾圧された。表だっては見えなかった賀屋興宣などの策謀によって日本の大学は世界で一番魅力のない大学になってしまったと宇沢弘文は述べる。

英国の小さな政府はミルトン・フリードマンの市場原理主義による新自由主義経済に基づく社会政策であった

 米国がベトナムに内政干渉しベトナムを米国の支配下にしようとしたのがベトナム戦争である。日本では1968年からの大学紛争が1970年になるとベトナム戦争反対と日米安保反対運動へと進む。米国のベトナムへの干渉の初期に米国にいて米国内の大学教員と学生によるベトナム戦争反対運動の渦のなかに当事者として関わっていたのが宇沢弘文である。宇沢弘文は1956年にスタンフォード大学に招聘(しょうへい)された。1964年にはシカゴ大学経済学部教授になる。シカゴ大学の同僚教授がミルトン・フリードマンであった。ミルトン・フリードマンは市場競争を優先させることで経済は効率的に成長するという考えた。ミルトン・フリードマンは新自由主義の立場をとった。英首相のサッチャーが推し進めた小さな政府はミルトン・フリードマンの市場原理主義による新自由主義経済に基づく社会政策であった。サッチャーの市場原理主義による新自由主義経済は効果をあげるどころか破綻をきたす。サッチャーは60歳を超えた腎臓病患者への人工透析をさせない政策をとった。サッチャーの経済政策は英国の福祉制度を取り返しがつかないほどに壊した。これらの考え方の根底はベトナム戦争で如何に効率よく適を殺すかを研究したのと同じである。後に米国の国防長官になるロバート・マクナマラは東京大空襲を行うときに如何に最小の爆撃で最大の殺傷と最大の家屋焼失を実現するかを計算した。フリードマンの新自由主義に対して、宇沢弘文は効率重視の過度な市場競争は、格差を拡大させ社会を不安定にすることを懸念して対抗していた。水質、大気など環境汚染が何故起こるかの思索を宇沢弘文は重ねていた。

社会的共通資本の理論をつくりあげた宇沢弘文

 ミルトン・フリードマンたちの経済学への着想の逸話がある。フリードマンの考えを忠実に受け継いだ経済学者がいて、その妻が夫婦生活を苦にして自殺した。すると経済学者は夫婦生活をつづける苦痛と自殺で死ぬことの苦痛のどちらが大きいかを計算式にした。これが市場原理主義にして新自由主義者がつくりだした自殺の経済学である。教育の経済学の発想は大学に行くときの費用と労力と行かなかったこととの生涯賃金の差はどうであるか、という計算式でなりたつ。犯罪の経済学は人を殺すときの快感と捉えられて監獄に押し込められたうえ死刑になることの苦痛の比較として成立させた。自殺の経済学は現在の苦痛と死ぬときの苦痛の差として計算される。ベトナム戦争に関しては最小の兵器と兵力でいかに敵を効率よく殺すかが計算された。これらはフリードマンの考えを忠実に受け継いだ経済学者の逸話として宇沢弘文が語ったことである。新自由主義のフリードマンと社会的共通資本を着想した宇沢弘文の経済学の違いは明白である。新自由主義による経済は貧困層を増大させた。消費割合がGDPの6割ほどになる日本などの経済に新自由主義は害をなすことは明白だ。宇沢弘文は新自由主義の発想の単純さを見抜いていた。宇沢弘文は旧制一高で医学への進路に在籍していた。食糧事情がわるかったのでラグビーの練習に備えて午前中は寮で寝ていた。出席数と取得単位の不足のために受験対象は数学科だけであった。宇沢弘文は30倍の競争率の東京大学理学部数学科に入学した。最優秀で卒業する。しかし数学では飢えた人を救えないと考えて経済学に転身した。水俣病で苦しむ人々を見ているうちに医学部への志しが蘇った。公害を出させない、そして公害による被害を救済できる仕組みをつくろうとした。社会的共通資本の概念を打ち立てた。

ベトナムへ派遣米軍は1965年末に第3海兵師団、第175空挺師団、第1騎兵師団、第1歩兵師団の計184,300名になる

 米国は第二次世界大戦を通じて兵器製造産業が経済活動の大きな要素に変わっていた。終戦から五年すると朝鮮で動乱が起こる。1950年6月25日に北朝鮮が38度線を越えて侵攻した。朝鮮動乱が勃発したのである。北朝鮮軍によって南朝鮮軍は釜山の海に追い落とされそうになった。国連軍の名によって米国は北朝鮮軍を押し返した。朝鮮半島全土を戦いの場として3年間の戦いが続く。1953年7月27日に北緯38度線を境界として国連軍と中朝連合軍の朝鮮戦争休戦協定が結ばれ休戦する。朝鮮半島は北部の朝鮮民主主義人民共和国と南部の大韓民国の南北二国に分断された。

米国の戦争経済としての武器生産の継続 武器を生産し消費するのが米国の戦争経済だ

 米国の戦争経済は朝鮮からベトナムに戦場をかえて展開する。米国の戦争経済としての武器生産が継続する。武器を生産し消費するのが米国の戦争経済である。ベトナム戦争では第二次世界大戦で使われた総火力の三倍が投下された。1965年3月8日に海兵隊3,500人が南ベトナムのダナンに上陸する。ケネディ政権時代は南ベトナム軍を強化するためにアメリカ軍人を「軍事顧問及び作戦支援グループ」として駐屯させていた。その数は1960年には685人であった。ケネディはこれを15,000人に増加させ、1964年末には23,300名に増やした。ジョンソン大統領は1965年7月28日に陸軍を派遣することを決めた。ベトナムへ派遣されたアメリカ軍(陸軍と海兵隊)は1965年末までに第3海兵師団、第175空挺師団、第1騎兵師団、第1歩兵師団の合計184,300名になった。米国の地上軍の投入により戦線が拡大する。

公民権運動は公然と反戦を唱えた 1967年10月21日に首都ワシントンD.C.でベトナム反戦大集会が開かれる

 ベトナム戦争による戦費拡大は米国の福祉予算を圧縮した。キング牧師らの公民権運動は公然と反戦を唱えるようになった。1967年4月に学生を含む広汎な人々が反戦集会を開くと、これが全米に広がった。ニューヨークでは大規模な反戦デモ行進が行われた。同じ年の10月21日に首都ワシントンD.C.で最大規模の反戦集会が開かれた。1967年11月、ベトナム戦争の最高責任者であったロバート・マクナマラ国防長官が辞意を表明する。マクナマラは前年に北爆を縮小するよう大統領に進言していた。ロバート・マクナマラは自らが指揮して戦線拡大したベトナム戦争は米国に勝ち目がないことを知るようになる。ロバート・マクナマラは精神異常を来したと思われたが皮肉にも現実を見ていたのだ。1967年5月には解放民族戦線を含めた連立政権を受け入れることを主張しいた。米政府内でベトナム戦争の続行に疑問の声が出た。ジョンソン大統領は軍事強化の路線を変えなかった。1968年1月のテト攻勢の後に米国の反戦運動は大きくなる。1968年初頭には54万人のアメリカ合衆国軍人が南ベトナム領土内に投入された。

1973年1月27日パリ協定が調印された

 1973年1月23日に北ベトナムのレ・ドゥク・ト特別顧問とヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官の間で和平協定案の仮調印をする。1973年1月27日に南ベトナムのチャン・バン・ラム外相とアメリカのウィリアム・P・ロジャーズ国務長官、北ベトナムのグエン・ズイ・チン外相と南ベトナム共和国臨時革命政府のグエン・チ・ビン外相の4者の間でパリ協定が調印された。

米国では学生は徴兵の対象であり反戦運動をしたり成績が悪い学生を優先して徴兵する政策がとられていた

 米国の徴兵制は1973年1月に廃止された。1975年3月には選抜徴兵登録も廃止された。1966年ころは徴兵制であった。徴兵の年齢と大学生と大学院生の年代が重なる。アジアの小国ベトナムに米国が軍事介入し空爆による大量殺戮(さつりく)と枯れ葉剤による自然破壊など暴虐の限りをつくした。こうしたベトナムでの米軍の行動を知識層の一部は自分がなす行為として受け止めて恥じていた。学生は徴兵の対象であった。反戦運動をしている学生や成績が悪い学生を優先して徴兵する政策が実行されていた。シカゴ大学は大学院大学であった。宇沢弘文はシカゴ大学にの経済学部教授として在籍していた。学生が優先されて徴兵された。このような徴兵の選抜に反発した学生たちが、シカゴ大学当局に学生の成績表を徴兵局に送らないことを求めた。その行動の一つがシカゴ大学の学生による1966年の本部塔の占拠であった。宇沢弘文はシカゴ大学で他の三人の教授と、大学と学生との間の調停役として行動した。大学との調停が成立した。大学は学生の成績を付けないことを決める。シカゴ大学の学生は学者や研究者になる道を歩んでいる人々であった。調停役を勤めた教授たちは全国の反戦運動の動きを大学教授と学生に伝える雑誌を発行した。宇沢弘文は1966年8月に、以前から約束していたことにより英国のケンブリッジ大学に移籍する。一年してシカゴ大学に戻ると他の三人の教授は大学を追われていた。宇沢弘文の地位が保全されていたのはテニュウアという終身的な地位の保証権を保有していたからであった。米国ではその後に選抜徴兵登録制度を復活させて現在に至っている。

博士論文作成途中の三人の学生のベトナム反戦運動の結末

 宇沢弘文が受け持っていたシカゴ大学に学生に異変が起こる。博士論文作成中の優秀な三名の経済学徒がいた。一人は州立大学の教員になった。二人が山の中に籠もるようになった。一家がある州の有数の山林地主であるある学生がその一人である。森に逃げて社会から隔絶して生きているこの元学生は東京大学に移っている宇沢弘文のもとに姿をみせた。家に招いて食事をしていても幽霊と向き合っているような不気味さがあった。元学生はその後に自殺した。ベトナム帰還兵で社会に溶け込めない人々がよく森に籠もる。ある元学生は徴兵局を襲撃するという異常行動にでた。直ぐに出頭して逮捕された。10年の懲役刑を受けて刑務所を転々とした。出所後に故郷に帰ったという消息を宇沢弘文は耳にした。宇沢弘文は慨嘆を込めて述べる。これらの人々が大学に残って研究していたら米国の経済学はまったく違った姿になっていたに違いないと。ベトナム戦争期間をつうじて米国では10万人近い学生が徴兵を逃れて海外にでた。ほとんどは米国に帰らなかった。帰った者は逮捕され重い刑に処せられた。宇沢弘文が日本に戻ったのは何故か。それは米国の侵略戦争としてのベトナム戦争である。宇沢弘文はアジアの小国ベトナムを焼く尽くす軍事行動をする米国にいることが恥ずかしくてならなかった。

東京大学の運営は管理主義的運営であり教授たちは権力闘争に明け暮れる

 宇沢弘文は1968年に東京大学に戻って経済学部助教授に就任する。東京大学の教授選任の仕組みが定数主義になっていたために宇沢弘文は助教授の職責に甘んじなければならなかった。シカゴ大学はこの処置に対抗して宇沢弘文の教授職の名目を特例で残していた。宇沢弘文は1969年東京大学教授、1980年東京大学経済学部長となる。1968年4月に東京大学に戻ると、安田講堂を学生が占拠するという事件が発生した。東京大学は研究らしい研究ができなくなった。1968年に入学した東京大学の学生は卒業の1972年にはリポートを郵送する方式で合否が判定された。普通にリポートを提出すれば卒業できた。宇沢弘文は東京大学でも学生の思いに同情する。大学と学長の管理主義的な対応に反発する。養老孟司が折に触れて述べることは東京大学の管理主義的運営であり、権力闘争に明け暮れる教授たちのことである。教授会の選挙では匿名の怪文書が飛び交う。推薦された候補者に投票すると票を入れたのは養老孟司だけであった。このような東京大学を定年前に退職すると、どんよりとしてしか見えていなかった空が養老孟司には青く見えた。宇沢弘文は丸山真男教授らと東京大学改革の委員として活動する。宇沢弘文と丸山真男が構想したのは東京大学が大学院大学になることであった。宇沢弘文と丸山真男は東京大学を法律、経済学、物理学、理学、医学などの高度な学問を追究する大学院大学にする構想を提案した。しかし実現することはなかった。東京大学は入学するのが難しい大学として現在に至っている。日本の大学は二年間は高校の復習に等しい。だから大学の四年間は二年とみることができる。東京大学など旧帝国大学の理工系は大学院に進むのが普通になっている。大学院に在籍する学生の処遇を良くするというのが宇沢弘文と丸山真男の東京大学の大学院大学構想であった。

ウイ・シャル・オーヴァーカム「勝利を我等」と学生デモ

 1960年代後半にキング牧師が中心となって米国の公民権運動がもりあがった。象徴歌として「勝利を我等」(We Shall Overcome、ウイ・シャル・オーヴァーカム)が歌われた。霊歌「アイル・オーバーカム・サムデー」("I'll Overcome Someday")が元になっており、フォークシンガーのピート・シーガーが1960年代にアフリカ系アメリカ人公民権運動の集会などで歌った。日本の1970年ころの学生でもで「ウイ・シャル・オーヴァーカム」は抵抗の心の表現として歌われた。この歌によって日本の学生は慰められた。霊歌「アイル・オーバーカム・サムデー」("I'll Overcome Someday")が元歌になっていることを知る人は少ない。

米国のベトナム戦争従軍兵員数は8,744,000人、戦死47,434人、その他の死者1,0786人

 ベトナム戦争に徴兵されて駆り出された人々の戦争体験を描いた「プラトン」などの映画がある。ロン・コーヴィックの体験は1989年にオリバー・ストーン監督の「7月4日に生まれて」(Born on the Fourth of July)で映画化された。1967年、海兵隊に入隊したロンはベトナム戦争に従軍、ウィルソンなどの部下を指揮する軍曹になっていた。ロンはベトコンの攻撃を受けてパニックを起こしウィルソンを誤射して死なせる。ロンは上官に誤射を報告する。上官は勘違いだとして受け付けなかった。1968年1月、ロンは撃たれて踵(かかと)が吹き飛ぶ。つづけて背中を撃たれた。脊髄を損傷した。野戦病院で従軍牧師のが天国へのお祈りをしているときに意識を失った。ベトナム戦争を滑稽な描き方をしたのがトム・ハンクス主演による映画「フォレスト・ガンプ 一期一会」である。これらの映画には敵兵を攻撃することと相まって米兵の戦闘の悲惨さが描かれている。宇沢弘文がシカゴ大学経済学部教授をしているときに学生は徴兵され戦場に送られた。博士論文を書くために研究している学生がベトコンや北ベトナム兵に向けて銃を撃つために徴兵された。従軍兵員数は8,744,000人、戦死47,434人、その他の死者1,0786人。対象期間は1964年8月4日から1973年1月27日まで(出典はThe World Almanac and Book of Facts 2014)。ベトナムにおける暴虐を自分の行為と思い込む学生がいたことを宇沢弘文が伝える。学生が突然に徴兵されてベトナムの戦地に行き、銃を持って人を撃つ。学生のままで徴兵されて戦闘の第一線に立つ米国の若者の苦悩は大きい。日本における学生の状態と米国のそれは違う。日本でもベトナム反戦運動があった。日本の学生の学園紛争にはベトナム反戦が添えられていた。事実として日本はベトナム戦争の前線基地になっていた。沖縄の米軍基地はベトナムへ出撃するの爆撃機の基地であった。相模原補給廠(相模総合補給廠)から兵器がベトナムに送られた。相模原市には三菱の戦車に関連の施設が形を変えて残されている。

暴かれたGHQによる岸信介氏と賀屋興宣氏の釈放とその後の日本の米国支配

 賀屋興宣は東条英機内閣の閣僚であったためにのA級戦犯として終身刑の判決を受けていた。岸信介と児玉誉士夫はともにA級戦犯に指定されていた。東条英機の絞首刑のあった翌日に岸信介はGHQによって釈放された。岸信介と同時に児玉誉士夫が釈放され、賀屋興宣は間もなく釈放された。米国は岸信介を日本の総理大臣にすることを目論んでいた。釈放と米国への忠誠が引き換えになっていたことを宇沢弘文が明かす。賀屋興宣は、1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦時の東条内閣で大蔵大臣として戦時経済を担当した。賀屋興宣は、東郷茂徳外務大臣とともに米英に対する開戦には反対だった。岸信介は東条英機内閣で商工大臣として入閣し、のちに無任所の国務大臣として軍需省の次官を兼任する。岸信介と賀屋興宣のGHQによる釈放とその後の日本の米国支配との関係を宇沢弘文は暴いている。岸信介の釈放につづいて、A級戦犯に指定され終身刑の判決を受けていた賀屋興宣を釈放しGHQによる戦後日本支配構想の核心にこの二人を据えた。

東京大学法学部と岸信介と学部内反共組織

 東京大学では岸信介がそうであったのだが、法学部において反共の組織をつくっていて、現代でも公安や警察と関係している。人をこうした組織に送り込む。現代においてもこの体制が残っていて保守系の内閣に限らず革新系の内閣でもこの系列の官僚を使っている。権力機構とはどういうものか知る良い事例だ。

日本の事情に通じていたポール・ラッシュはGHQの戦後政策にかかわった

 「寒山の森から」の田渕義雄が憧れる世界が長野県川上村川端下にあった。ポール・ラッシュは八ヶ岳山麓の南斜面に聖協会の清泉寮を建てた。清泉寮を拠点に牧畜と高冷地農業を普及させた。清泉寮の初期のころの建物はアーリー・アメリカンを地で行くものであり、インディオの遺物などを陳列もしていた。ポール・ラッシュの日本での活動は高冷地農業を普及への賛辞の傍らではある活動の内容がいぶかられていた。政治学者の加藤哲郎が戦後のGHQと自民党内閣の諜報活動を暴く文章にポール・ラッシュが登場する。ポール・ラッシュは戦前から日本にいて立教大学で経済学と商業英語を教えていた。日本の事情に通じていたポール・ラッシュはGHQの日本支配体制の中心として活動する民間情報局(CIS)のウィロビー少将の下で民間情報局(CIS)文書編集課長として働いた。軍における階級は中佐であり、情報将校にして中佐の肩章をつけた軍服姿の写真がある。ポール・ラッシュはGHQの戦後政策の策定の重要な部分にかかわる。田渕義雄がこのことを知っていたかどうか。田渕義雄と清泉寮との直接のかかわりはない。清泉寮の石組みの土台を真似て田渕義雄は家を自らの手で改造し増築している。清里の象徴となっている清泉寮の建設者であるポール・ラッシュはGHQによる日本の戦後体制敷設のために働いた。ポール・ラッシュは日本の事情に通じているから戦犯の選定では意見が重んじられ、天皇の身分の処置や共産党や野党の牽制と取り扱いでも重要な役割を果たした。戦後になってGHQとしてゾルゲ事件の真相を調査した中心人物はポール・ラッシュであった。ポール・ラッシュは聖路加病院の建設や運営でも働きをする。清泉寮ととも聖路加病院は聖協会に関係した組織である。役所勤めをしていた宇沢弘文はGHQに通訳として駆り出された。日本の自動車道路網と高速道路網の建設はGHQが米国の自動車を走らせるために構想されたことを宇沢弘文は出演したNHK ラジオで暴露した。GHQ の日本語通訳のときの経験を述べたのであった。米国の自動車は売れず、日本の自動車が性能を向上させて日本の高速道路を走った。田渕義雄は自動車に一家言をもつ。いまある自動車を修理して使えば100年の間、新しく自動車を生産しなくてもよい、と述べる。宇沢弘文は自動車に乗らない。歩いて行動する。長身の宇沢弘文は肩を上下に動かして歩く。

GHQ/CISと日本の戦後体制と清泉寮をつくったポール・ラッシュ

 清泉寮をつくったポール・ラッシュは日本を良く知っていた。戦時中は米国に強制送還された。経済学者の都留重人と鶴見俊輔は逆の道順で日本に帰された。終戦に伴いポール・ラッシュは情報中佐として再来日し、GHQの民間情報局(CIS)文書編集課長として働いた。米国陸軍情報部(MIS)の情報将校で中佐というのが日本に再来日したポール・ラッシュの姿であった。ポール・ラッシュ情報中佐は、GHQ/CISで日本人戦犯・公職追放リスト作成、ゾルゲ事件報告書作成でも中心人物として働いた。清里に清泉寮を建設し、高原での牧畜や高原野菜といった農業開発を牽引した。日本のフットボールの父といわれているのがポール・ラッシュである。聖教会の牧師として米国から日本に来て立教大学で経済学と商業英語を教えていた。戦後の再来日でのポール・ラッシュは米国陸軍情報部(MIS)の情報将校にして情報中佐であった。

日本の戦後体制を策定したGHQとその関連組織

 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)そしてCIS。CISは、GHQ/SCAPの専門部(Special Staff Section)内の一機構民間諜報局(Civil Intelligence Section, CIS)は、1946年5月3日G2に移管され、同年8月29日専門部に戻されたのち、1951年8月9日廃止されG2民間諜報課へ統合された。民間諜報局(略称:CIS)つまりGHQ/SCAP, Civil Intelligence Section。民間諜報局(Civil Intelligence Section, CIS)は、1945年10月2日にGHQ/SCAPの発足とともに設置された(一般命令第13号)。発足当初の任務は、日本の治安機関に関する施策について、最高司令官に助言すること及び日本政府への指令が指示通りに遵守されているかを調査することで、民間検閲支隊(Civil Censorship Detachment, CCD)、公安課(Public Safety Division, PSD)、防諜隊(Counter Intelligence Corps, CIC)(第441防諜隊支隊(441st Civil Intelligence Coprs Detachment))が置かれた。CCDは、新聞、放送、出版物、映画、通信及び国民の手紙類の検閲を行って、日本人の思想動向や世論の動向を調査し、PSDは、日本の治安機関(警察、消防、海上保安、矯正施設)を管理・監督し、CICは、日本の警察の協力を得て占領阻害行為を取り締まり、保安上必要な情報を収集した。検閲は1949年10月に終了し、CCDは同年11月に廃止された。民間情報局(CIS)こと、CISは1946年5月3日に参謀部(General Staff Section)の参謀第2部(G-2)に吸収されたが(一般命令第22号)、同年8月29日専門部(Special Staff Section)に復帰した(一般命令第34号)。とはいえ依然としてG-2部長のウィロビー(Charles A. Willoughby)が局長を兼ね、G-2の民間諜報課が実際の運営にあたった。その後度重なる組織変更や改称、編制替を経て、1951年8月9日に廃止された(一般命令第24号)。ポール・ラッシュ中佐は、参謀第2部(G-2)の責任者ウィロビー少将の直属で民間情報局(CIS)文書編集課長の役職で仕事をした。

対敵スパイ工作をしたGHQのキャノン機関

 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)参謀部(General Staff Section)内の一機構。部長はチャールズ・ウィロビー少将が務めた。諜報活動や検閲を担当し、日本語文書の翻訳、技術情報の収集などを任務とした。1946年6月から、外国使節とGHQ/SCAPの機関との間および日本政府と占領軍との間の公式の連絡がこれに加わった。参謀第2部(さんぼうだいにぶ、英語:G-2、ジーツー)は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)参謀部(General Staff Section)内の一機構。部長はチャールズ・ウィロビー少将が務めた。諜報活動や検閲を担当し、日本語文書の翻訳、技術情報の収集などを任務とした。1946年6月から、外国使節とGHQ/SCAPの機関との間および日本政府と占領軍との間の公式の連絡がこれに加わった。GHQ/SCAPの専門部(Special Staff Section)内の一機構民間諜報局(Civil Intelligence Section, CIS)は、1946年5月3日G2に移管され、同年8月29日専門部に戻されたのち、1951年8月9日廃止されG2民間諜報課へ統合された。プレスコードに基づく検閲は、CISやG2管下の民間検閲支隊(Civil Censorship Detachment, CCD)によって実行された。G2部員の情報将校ジャック・キャノン中佐は、在日本アメリカ情報機関の一部隊キャノン機関を率いて対敵スパイ工作の任にあった。積極的に民主化政策を推し進めた民政局(GS)や局長コートニー・ホイットニー少将としばしば対立した。GHQの仕事はやがてCIAに移行する。中央情報局(ちゅうおうじょうほうきょく、英:Central Intelligence Agency、略称:CIA)は、外国での諜報を行うアメリカ合衆国の情報機関である。中央情報局長官によって統括され、アメリカ合衆国大統領直属の監督下にある。CIAは日本ではGHQの情報の仕事を受け継いだ。

自治会副委員長は公安警察への通報者になっていた 知っているのは二人である

 GHQにはさまざまな組織があり諜報機関を擁していた。諜報機関がその中心であり他はそれを補う組織といってもよい。現在は米国のCIAが恐ろしいほどに広範囲で強力な諜報活動をしていた。CIAは9・11同時自爆テロを見抜けなかった。どこかに組織的欠陥が生れていてまともには機能していなかったのだ。ある男とある女がいた大学ではあの職員がCIAのエージェントだといわれていた。CIAのエージェントになっているのはあの教員だとも囁(ささ)かれていた。ある男は社会科学研究会にいた。母親の兄が県議会議長をしていることもあって卒業後はN県の公務員になった。その男が奨学金を申請し面接を受けると担当の職員は社会科学研究会にいることを理由に拒絶した。社会科学研究会にいることは、ある思想信条の保有者と決めつけていて汚い言葉で罵(ののし)った。録音していたら職員の首が飛ぶ。同時にその大学の名に傷がつくほどの反社会的な言動であった。大学はすでに権力に取り込まれ込まれていた。大学と学生課は学生弾圧の組織と化していた。自治会の役員をしている男が言った。俺などは教員になろうとしてもはじかれるのは自明のことだ、と。大学では公安組織への協力者が暗躍していた。ある大学の自治会副委員長が公安への通報者であることが後に判明した。自治会副委員長は公安の諜報活動者になっていた。自治会副委員長を親代わりになって世話していた人が、その男の卒業後の勤務先を職場を訪ねた。職場は革新系の政治組織であった。組織の責任者はその男が公安の諜報員になっていたことを伝えた。卒業してN県の地方公務員になっていたある男にそのことが伝えられた。N県の地方公務員になったある男は、おぞましいと口を閉ざす。東京大学が閉鎖されたとき総理大臣は、岸信介の実弟の佐藤栄作である。佐藤栄作は今時の学生は黙秘権という字を書けないとテレビに向かってこき下ろした。東条英機死刑執行の翌日の1948年(昭和23年)12月24日に岸信介は釈放されて巣鴨拘置所(スガモプリズン)を出所する。岸信介がその足で向かったのは吉田茂内閣の郵政大臣だった佐藤栄作のところであった。ここで囚人服を背広に着替えた。それからは米国の意向にかなう日本の政治体制をつくるため行動する。CIAが用意したお金とおぜん立てによって日本の政治の表は岸信介が仕切り、裏では賀屋興宣と児玉誉士夫が暗躍する。佐藤栄作の首相退任会見は記者は邪魔だといってテレビカメラに向かって延々と話す異様さであった。NHKテレビでこの様子をN県の地方公務員になるある男は見ていた。

東京大学医学部の助手であった養老孟司は2年間大学に行けない状況にあった

 米国でベトナム戦争に反対する行動にでた大学教員と学生には懲罰的な仕打ちがとられた。シカゴ大学で博士課程にいた経済学徒には悲惨な結末が待っていた。日本ではどうであったか。日本の東大闘争の先頭に立った今井澄(いまい きよし)は、機動隊による安田講堂封鎖解除後に逮捕され東京拘置所に勾留された。その後復学をして1970年に卒業、医師国家試験に合格。当初は都内の医療機関に勤務し、1974年に茅野市の公立諏訪中央病院にに移った。1977年には安田講堂事件の判決が確定し服役する。1978年3月に刑期を終え、1980年に40歳で諏訪中央病院の院長に就任した。1988年に鎌田實(かまた みのる)が代わって院長になる。鎌田實は東京医科歯科大学で学生運動の先頭に立っていた。今井澄は1992年、日本社会党から参議院議員長野選挙区から立候補して当選する。後に民主党に移り1998年の参議院選挙では比例代表区から当選。参議院では決算委員長ならびに厚生委員長を歴任した。東京大学医学部の助手であった養老孟司は2年間大学に行けない状況にあった。大学における学生の暴力行動と戦時中の軍の指導者の行動は同じ根から発していると養老孟司は理解する。養老孟司は昆虫が好きでゾウムシの生態を研究している。ゾウムシによって日本列島の成り立ちがわかる。寒山の森の田渕義雄はチョウの虫である。

日本では学園紛争の渦から社会に飛び出すと企業戦士として生きる者が多かった

 今井澄や鎌田實の事例のように医学部の学生には救いの道があった。田渕義雄と同じ道にいた男は会社員の道を選び大企業の役員になった。髪をのばして無精髭で学生集会に時々出かけた男は就職が決って髪を切った。そしてもう若くはないさと言った。荒井由実の作詞・作曲の歌にあるように。社会への不満は押し殺す。企業戦士として働き、身なりと行動と思想は変容する。大企業の役員になった男の価値観はもたらされる収入と社会一般の評価のそれと同じになった。虚(むな)しさをもって卒業して外国を放浪した男の大学の仲間40人の行く末はどうであったか。教員が10名、地方議会議員が3名、国会議員秘書が1名、労組書記が3名、国家試験合格者2名である。残りの人々は地方公務員7名、国家公務員4名、農協職員と地方銀行職員が5名。残りの5名は出版社ほかに勤務する会社員である。米国の大学院大学であるシカゴ大学でベトナム反戦の運動をした学生と教員に比べて日本の学生は学園紛争の渦に巻き込まれながらもその後は穏やかに生きている。

学生街の喫茶店でのある男の出来事

 喫茶店のことである。学生街の喫茶店でのある男の出来事だ。ある男とはN県の公務員として職を得る人物だ。GARO(ガロ)の曲に「学生街の喫茶店」がある。1972年6月20日発売のレコードだ。ある男とある女の物語と時が同じだ。詩の内容つまり荒筋は「学生でにぎやかな、この店に君とよく来て訳もなくお茶を飲んだ。ボブ・ディランの歌が聴こえていた。夏の街路樹が美しく秋には枯葉が舞っていた。愛だとは知らないでサヨナラも言わないで君と別れた。」

「学生街の喫茶店」の詩の構想は御茶ノ水の喫茶店「丘」ではない

 作詞は山上路夫である。詩の舞台となった喫茶店は東京の御茶ノ水の喫茶店「丘」が想定された。山上路夫は喘息に苦しんでいたために大学には行かなかった。21歳のときに作詞家の道に進むことを決めた。山上路夫の父は昭和初期に活躍した音楽家の東辰三だ。「港が見える丘」「君待てども」「荒鷲の歌」を作詞・作曲している。山上路夫は「学生街の喫茶店」の詩のために構想したのは御茶ノ水の喫茶店「丘」ではなく一般的な意味での喫茶店であると述べている。

山上路夫は一歩踏み込んだ内容の詩はつくらない

 山上路夫作詞のヒット曲に赤い鳥の「翼をください」(1971年、作曲は村井邦彦)、ゴダイゴの「ガンダーラ」(1978年、奈良橋陽子と共同、作曲はタケカワユキヒデ)、井上順の「お世話になりました」(作曲・編曲は筒美京平)がある。「翼をください」「ガンダーラ」「お世話になりました」のいずれもどこかピント外れである。「学生街の喫茶店」はその典型だ。雰囲気はあるけれども何となく違う。山上路夫は大事な部分を曖昧にする。

消息が実家でも判らなかった男は自分の家で平和に記念撮影をしていた

 卒業から何年かしてN県の公務員になっているある男に便りが届いた。女に心惹かれて苦悩していた男からの葉書であった。女房と子どもとの正月の記念写真だ。社会と隔絶した精神の理想郷として大学に四年身を置き、女に気持ちを寄せることで社会へでることへ恐怖を紛らわしていた男の姿がそこにあった。卒業して三年ほどすると今につながる道に踏みだした。大学卒業後の消息が実家でも判らなかった男は世間への壁を乗り越えていた。郷里に帰り、実家である自分の家の玄関で写した記念写真がそのことを物語る。

役所勤めのために故郷に戻る男の姿は寂しげであった

 人生の岐路に立って躊躇する男と、氷の世界に飛び込む固い決心をした女に挟まれた別の大学に通うある男はどうしたか。母親の兄(叔父)が県議会議長の役職にあったこともあってN県の役所に職を得た。そのある男は卒業試験の発表に自分の名前だけを確認して谷川岳に向かった。山の仲間と雪に穴を掘って夜を過ごした。精神が壊れた教員が合格点を与えなかったために同級の半数が一年延ばしの卒業になっていた。そのある男は山から下りて、もう無茶はできないさ、と汽車に乗って親の元に向かった。男を見送る者はなかった。

1980年、長野県南佐久郡川上村を撮影する女

 1980年の夏に長野県南佐久郡川上村における牧畜農家の暮らしを撮影する女がいた。写真の師に憧れる結婚前の女であった。女には都会での暮らしが鬱陶(うっとう)しかった。父親が新聞記者であるため実家に身を寄せて都市暮らしを続けていた。女は川上村の農家を写す。都会暮らしの人の身勝手な考えが反映した写真であった。川上村はそのように写しては駄目だと直ぐにわかる写真であった。この時代の川上村の牧畜は輸入牛肉におされる状況にあった。働いた時間だけお金になるという暮らしは都市に暮らす人の妄想であった。

八ヶ岳山麓の自然と夏至のころの野辺山の白いビニールの畝(うね)

 川上村の1980年の暮らしを撮影したのは大学を卒業して国家試験のために勉学を続けていた女であった。女は写真の師に恋し、写真の手ほどきを受けるために夏の長野県の川上村で合宿した。写真の師は既婚者であった。道ならぬ恋の結末が危惧されるので女はやがてこの男から去った。八ヶ岳が大きく裾野を広げる山麓は冷涼であり空気は透明であった。八ヶ岳は魅力的であり女には野を駆ける身体の強さがあった。女は山登りの虜(とりこ)になった。女は太陽が一番高くなる夏至のころに赤岳に登った。赤岳から横岳を経て硫黄岳に向かう稜線から眺める川上村は白いビニールの畝(うね)に覆われていた。川上村と野辺山のレタス畑であった。小海線の高原列車で信濃川上駅に着いて村の中心部へと行く経路(みち)は谷地である。川上村の中心を流れる千曲川は野辺山の丘陵地にぶつかって右に迂回する。野辺山の空は広く、八ヶ岳の南斜面は光に満ちていた。

女の氷の世界の冷たい心は八ヶ岳の広い空と陽の光によって溶けていった

 山登りは女に日本の大きさのほどを知らせた。北アルプスの剣岳の頂上から眺める富山湾は手の先にあった。女は上高地から槍ヶ岳そして立山と剣岳へとつづく稜線歩きによって自らの体力をしりその余裕を感じた。女は山歩きによって日本の大きさを実感し、自らの身体には日本の山の尾根筋を駆け抜ける力があることを知った。山歩きは女に生きる勇気を与えた。女には生きることへの不安が消えた。女は背が高かった。色白で秀麗であった。物憂げな微笑みは男を引きつけた。ふるくに縁があったある男と女には連絡がつくようになった。男と女は一緒に登るようになった。男は東京大学を出た公務員であった。男は家の反対を押し切って女と添うことを決めた。やがて子どもが生まれた。女は国家試験へのこだわりを解いた。男にはそれは自然なことであった。八ヶ岳の広い空と陽の光は女が生きてきた氷の世界をいつしか溶解させていた。

(誤変換や誤植ほか不完全なところは推測してご判読ください)

2020-12-27-even-if-you-are-ashamed-of-the-student-movement-in-the-70s-you-will-not-regret-it- because-there-was-innocence-to-the-times-

旅のエッセー集 essay and journey(essay of journey) 旅行家 甲斐鐵太郎
essay and journey(essay of journey) by kai tetutaro

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八ヶ岳山麓 野辺山高原の野菜畑に立つ山梨の木 甲斐鐵太郎
音楽を添えてあります。下の表題をクリックしてください。
リスニングス 霧ヶ峰高原 冬の詩 甲斐鐵太郎 YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=yEzRH4au3rU


八ヶ岳高原の空と雲の詩 甲斐鐵太郎
音楽を添えてあります。下の表題をクリックしてください。
リスニングス 八ヶ岳高原の空と雲の詩 甲斐鉄太郎 YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=iDsCGeefvYk

八ヶ岳高原の野辺山高原キャベツと川上高原レタス
文章を読み込んだ音声付き動画です。下の表題をクリックしてください。
八ヶ岳高原の野辺山高原キャベツと川上高原レタス 甲斐鐵太郎 津とリングス YouTube 動画

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八ヶ岳高原の夏と清泉寮 甲斐鐵太郎
文章を読み込んだ音声付き動画です。下の表題をクリックしてください。
八ヶ岳高原の夏と清泉寮 甲斐鐵太郎 YouTube 動画

https://www.youtube.com/watch?v=W2XsKBIEo9w

世界の大学ランキングは英国が仕組んだ虚構だ

川上村川端下で暮らすナチュラリスト田渕義雄さん

田渕義雄エッセーの紹介

70年代の学生運動に羞恥あっても後悔はしないはない 時代への純真さがあったから 甲斐鐵太郞

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