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卒業記念にボブ・ディラン全詩集を渡された男のその後
College life of a man who was given a complete collection of Bob Dylan poems to commemorate his graduation
甲斐鐵太郞

卒業記念にボブ・ディラン全詩集を渡された男のその後
旅行家 甲斐鐵太郞

卒業記念にボブ・ディラン全詩集を渡された男のその後 甲斐鐵太郞

卒業記念にボブ・ディラン全詩集を渡された男のその後 甲斐鐵太郞
卒業記念にボブ・ディラン全詩集を渡された男のその後

作詞は山上路夫である。詩の舞台となった喫茶店
は東京・御茶ノ水の喫茶店「丘」が想定された。


(タイトル)
卒業記念にボブ・ディラン全詩集を渡された男のその後 甲斐鐵太郞

(本文)

卒業から一年目に友人の実家に消息を尋ねると所在不明であった

 ある男の下宿には同じ大学に通う同学年の友人がいてボブ・ディランを神のように崇(あが)めていた。卒業すると二人とも郷里に帰ることになっていたので神田の古本屋街で探した「ボブ・ディラン全詩集」を渡した。卒業から一年目に友人の実家に消息を尋ねると所在不明であった。

政治が熱く語られ自らの立場を問われた学生生活であった

 1970年当時、大学は70年安保と学費値上げなどを問題にして荒れており、学生は皆このことと無縁で学生生活をすることはできなかった。政治が熱く語られ自らの立場を問われた学生生活であった。学生たちの社会観は現実の社会と離れていたから、企業に就職しても役所に就職しても、自らの理念と相克した。役所ならば労働組合がしっかりしていたから仕事との矛盾を組合活動によって埋め合わせることができた。企業となるとそうは行かない。このことが学生の巣立ちを阻んでいた。

企業戦士になることには大いなる躊躇があった

 ある者は大きな国家試験に通ることを心の助けとして職にに就いた。弁護士、弁理士、公認会計士などがそれである。企業にはいって一介のサラリーマンとなる、あるいは企業戦士になることには大いなる躊躇があった。その躊躇を救う道として外国に苦難の旅にでる者がいた。この男はある女と恋人になることが何時しか目的になった。そうすればどのような苦難にも立ち向かえると考えたのである。

女は意に介さない男に恋を打ち明けられても戸惑うだけであった

 男の気持ちは何度か聞かされていた。女の気持ちは判らず終いであった。男は激しく悩んだ。悩んだ男が女にどのように接したのかは知らない。男は何も語らなかった。女には少しの変化があった。女は意に介さない男に恋を打ち明けられても戸惑うだけであった。両者を知るある男は女に呼びだされて喫茶店で朝まで話し相手にさせられた。話の内容はつまらない世間話であった。男が気の毒ではあった。

女は氷の世界に踏み出すために気持ちを固めなくてはならなかった

 大学卒業ということで社会に放り出される女も悩んでいた。喫茶店で朝まで四方山話に付き合わされた男には怖くて手が出せない国家試験に女は取り組んでいた。理想を求める心の反面で女は氷の世界に踏み出すために気持ちを固めなくてはならなかったのだ。社会に出て行かなくては時が来て男は悩み、女は別の決意を固めることをしなければならなかった。

デモ隊列の仲間意識は加わている男と女に共通して働いていた

 70年の日米安保条約改定の最終期限のその日、6月28日には大学の学生自治会はストライキを打ち、あるいは同盟休校して、学生に呼びかけて夜のデモに参加して行った。この隊列には普通に学生生活を送る大勢が参加した。デモの行列に加わっていると隣の人がすべて仲間であるように思う。男は女にそのことを感じ、女もまた同じであった。

デモ隊列でボブ・ディランの「風に吹かれて」と西岡たかしの「遠い世界に」が歌われた

 デモ行進のときに歌われるボブ・ディランの「風に吹かれて」があった。1962年のレコードデビューの曲であり、米国のベトナム反戦デモでよく歌われていた。「どれだけ多くの死者が出れば気が付くのか。どれだけ海の上を飛べば鳥は陸地に着けるのか。知るのは風だけである。」というのがストーリーである。日本では五つの赤い風船が「風に吹かれて」の歌詞に啓発されてベトナム反戦歌として聞えるのが「血まみれの鳩」である。西岡たかしの詩である。西岡たかしの「遠い世界に」はボブ・ディランの「風に吹かれて」と共に歌われた。藤原秀子が歌う「血まみれの鳩」と「遠い世界に」は飾らなくてよかった。五つの赤い風船は1967年結成、1972年解散した。この時代の女性ボーカルは藤原秀子であった。「遠い世界に」は1968年5月8日にレコード発売された。

社会的共通資本の理論をつくりあげた宇沢弘文

 米国のベトナムへの介入としてのベトナム戦争へについて触れる。日本では1968年からの大学紛争が1970年の日米安保反対運動への雪崩を打っていく。この前後に米国と日本にいて大学教員として当事者の立ちがから運動にかかわり、運動を見ていたのが宇沢弘文であった。宇沢弘文はシカゴ大学で教授であったが、シカゴ大学の同僚教授のミルトン・フリードマンの市場競争を優先させることで経済は効率的に成長するという考えに対し、宇沢は効率重視の過度な市場競争は、格差を拡大させ社会を不安定にすることを主張する。ミルトン・フリードマンの経済学の着想の逸話が宇沢弘文によって語られている。教育の経済学の発想は大学に行くときの費用と労力と行かなかったこととの生涯賃金の差はどうであるか、ということである。犯罪の経済学は人を殺すときの快感と捉えられて監獄に押し込められ時に死刑になることの苦痛の比較として成立させた。自殺の経済学は現在の苦痛と死ぬときの苦痛の差によって計算される。ベトナム戦争に関しては最小の兵器と兵力でいかに敵を殺すかという市場原理による計算をしていた。新自由主義のフリードマン氏と社会的共通資本を着想した宇沢弘文の経済学の違いは明白である。

ベトナムへ派遣米軍は1965年末に第3海兵師団、第175空挺師団、第1騎兵師団、第1歩兵師団の計184,300名になる

 1956年に宇沢弘文はスタンフォード大学に招聘(しょうへい)される。1964年には シカゴ大学経済学部教授となる。米国はベトナムの内戦に本格的に介入するようになる。1965年3月8日に海兵隊3,500人が南ベトナムのダナンに上陸する。ケネディ政権時代は南ベトナム軍を強化するためにアメリカ軍人を「軍事顧問及び作戦支援グループ」として駐屯させていた。その数は1960年には685人であったものをケネディが15,000人に増加させ、1964年末には23,300名にとなった。ジョンソン大統領は1965年7月28日に陸軍の派遣することを決めた。ベトナムへ派遣されたアメリカ軍(陸軍と海兵隊)は1965年末までに第3海兵師団、第175空挺師団、第1騎兵師団、第1歩兵師団の合計184,300名になった。地上軍の投入により戦線が拡大する。

米国では学生は徴兵の対象であり反戦運動をしたり成績が悪い学生を優先して徴兵する政策がとられていた

 米国の徴兵制は1973年1月に廃止される。1975年3月には選抜徴兵登録も廃止される。1966年ころには徴兵制であった。徴兵の年齢と大学生と大学院生の年代が重なる。アジアの小国ベトナムに米国が軍事介入し空爆による大量殺戮(さつりく)と枯れ葉剤による自然破壊といった暴虐を、知識層は自分がなす行為として受け止めていた。学生は徴兵の対象であり、反戦運動をしている学生や成績が悪い学生を優先して徴兵する政策が実行されていた。シカゴ大学は大学院大学であった。シカゴ大学の経済学部教授として宇沢弘文は在職していた。学生の成績表を徴兵局に送らないことを求めて1966年にシカゴ大学の学生は本部塔を占拠する。宇沢弘文氏は他の三人の教授と大学と学生の調停役として活動する。調停によって大学は学生の成績を付けないことが決められる。シカゴ大学の学生は学者研究者になる人々であったのだ。調停役を勤めた教授たちは全国の反戦運動の動きを大学教授と学生に伝える雑誌を発行していた。宇沢弘文氏が前からの約束によって1966年8月にケンブリッジ大学に行って一年後に戻る他の三人の教授は大学を追われていた。テニュウアという終身的な地位の保証権を保有していたのは宇沢弘文だけだった。米国はその後に選抜徴兵登録制度が復活して現在に至っている。

博士論文作成途中の三人の学生のベトナム反戦運動の結末

 宇沢弘文が担当していた博士論文を執筆していた優秀な学生のうち二人が山の中に籠もるようになった。一人は州立大学の教員になっていた。一人は一家がある州の有数の山林地主であり宇沢が東大に戻っていたころに一度姿をみれた。幽霊と向き合っているような不気味さがあった振り返る。この人はその後に自殺した。ある学生は徴兵局を襲撃して自ら出頭する。10年の懲役刑を受けて刑務所を転々としたのち故郷に戻ったという消息が残っている。これらの人々が大学に残って研究していたら米国の経済学はまったく違った姿になっていたに違いないと宇沢弘文は述べる。ベトナム戦争期間をつうじて米国では10万人近い学生が徴兵を逃れて海外にでていった。ほとんどは米国に帰らなかった。帰った人は逮捕され重い刑に処せられた。宇沢弘文を日本に戻らせたのはベトナム戦争であった。アジアの小国ベトナムを焼く尽くす軍事行動をする米国にいることが恥ずかしくなったのある。

東京大学の運営は管理主義的運営であり教授たちは権力闘争に明け暮れる

 宇沢弘文は1968年に東京大学に戻って経済学部助教授に就任する。シカゴ大学はこの処置に対抗して宇沢弘文の教授職の名目を特例で残していた。宇沢弘文は1969年同教授、1980年同経済学部長の経歴。1968年4月に東京大学に戻ると安田講堂を学生が占拠するという事件が発生して東京大学は研究らしい研究はほとんどできなかった。宇沢弘文は学生の思いに同情する。大学と学長の管理主義的な対応に反発する。養老孟司が折に触れて述べることは東京大学の管理主義的運営であり、教授たちが権力闘争に明け暮れることである。教授会の選挙では匿名の怪文書が飛び交う。推薦された候補者に投票すると票を入れたのは養老孟司だけであった。このような東京大学を定年前に退職したときにどんよりとしてしか見えていなかった空が青く見えた。宇沢弘文は丸山真男教授らと東京大学改革の委員として活動する。東京大学を法律、経済学、物理学、理学、医学などの高度な学問を追究する大学院大学の構想をつくるのだが実現しないままに現在に至っている。

米国のベトナム戦争従軍兵員数は8,744,000人、戦死47,434人、その他の死者1,0786人

 ベトナム戦争に徴兵されて駆り出された人々の戦争体験を描いたプラトンなどの映画がある。滑稽な描き方をしたのがトム・ハンクス主演による映画「フォレスト・ガンプ 一期一会」である。敵兵を攻撃することと相まって米兵の戦闘の悲惨な状況が描かれている。従軍兵員数は8,744,000人、戦死47,434人、その他の死者1,0786人。対象期間は1964年8月4日から1973年1月27日まで(出典はThe World Almanac and Book of Facts 2014)。ベトナムにおける暴虐を自分の行為と思い込む学生がいたことを宇沢弘文が伝える。学生生活から徴兵されたベトナムの戦地に行き、銃を持って人を撃つのであるから苦悩は大きい。日本における学生の状態と米国のそれは違う。日本でもベトナム反戦運動があった。日本の学生の学園紛争にはベトナム反戦が添えられていた。事実として日本はベトナムへ戦争の前線基地になっていた。相模原補給廠(相模総合補給廠)か兵器がベトナムに送られた。この近くには三菱の軍関連の施設がいまもある。

東京大学医学部の助手であった養老孟司は2年間大学に行けない状況にあった

 米国でベトナム戦争に反対する行動にでた大学教員と学生には懲罰的な仕打ちがとられた。シカゴ大学で博士論文課程にいた三名の経済学徒には悲惨な結末が待っていた。日本ではどうであったか。日本の東大闘争の先頭に立った今井澄(いまい きよし)は、機動隊による安田講堂封鎖解除後に逮捕され東京拘置所に勾留された。その後復学をして1970年に卒業、医師国家試験に合格。当初は都内の医療機関に勤務し、1974年に茅野市の公立諏訪中央病院に勤務。 1977年には安田講堂事件の判決が確定し服役する。1978年3月に刑期を終え、1980年に40歳で諏訪中央病院の院長に就任。1988年に鎌田實が代わって院長になる。今井澄は1992年、日本社会党から参議院議員選挙に長野選挙区に立候補し当選する。後に民主党に移り1998年の参議院選挙では比例代表区から当選。参議院では決算委員長ならびに厚生委員長を歴任した。東京大学医学部の助手であった養老孟司は2年間大学に行けない状況にあった。学生の行動と戦時中の軍の指導者の行動は同じ根から起こったと養老孟司は言いのける。

日本では学園紛争の渦から社会に飛び出すと企業戦士として生きる者が多かった

 医学部の学生には救いの道があった。田渕義雄と同じ道にいた人は会社員となって大企業の役員になった。髪をのばして無精髭で学生集会に時々出かけた男は就職が決って髪を切った。そしてもう若くはないさと言った。荒井由実の作詞・作曲の歌である。学生のころの社会への不満の行動は押し殺して企業戦士として働き、身なりと行動と思想は変容していた。この人の人生の価値観はもたらされる収入と社会一般の評価のそれと同じになっていた。ある男がいた大学の仲間40人の行く末は、教員が10名、地方議会議員が3名、国会議員秘書が1名、労組書記が3名、税理士2名である。残りの人々は地方公務員7名、国家公務員3名、農協職員と地方銀行職員が5名。残りの5名は出版社ほかに勤務する会社員である。米国の大学院大学であるシカゴ大学でベトナム反戦の運動をした学生と教員に比べて日本の学生は学園紛争の渦に巻き込まれながらもその後は穏やかな人生をである。

学生街の喫茶店での私の出来事

 喫茶店のことである。学生街の喫茶店でのある男の出来事の一つを述べた。複雑でつらい喫茶店を舞台にしてのできごとである。GARO(ガロ)の曲に「学生街の喫茶店」がある。1972年6月20日発売であり、これはある男とある女の物語と時を同じにしている。次が「学生街の喫茶店」のストーリーである。「学生でにぎやかな、この店に君とよく来て訳もなくお茶を飲んだ。ボブ・ディランの歌が聴こえていた。夏の街路樹が美しく秋には枯葉が舞っていた。愛だとは知らないでサヨナラも言わないで君と別れた。」

「学生街の喫茶店」の詩の構想は御茶ノ水の喫茶店「丘」ではない

 作詞は山上路夫である。詩の舞台となった喫茶店は東京・御茶ノ水の喫茶店「丘」が想定された。山上路夫は喘息に苦しんでいたために大学生活はなかった。21歳のときに作詞家の道に進むことを決めている。山上路夫の父は昭和初期に活躍した音楽家の東辰三だ。「港が見える丘」「君待てども」「荒鷲の歌」を作詞・作曲している。山上路夫は「学生街の喫茶店」の詩のために構想したのは御茶ノ水の喫茶店「丘」ではなく一般的な意味での喫茶店であると述べている。

山上路夫は一歩踏み込んだ形の詩をつくらない

 山上路夫作詞のヒット曲に赤い鳥「翼をください」(1971年、作曲は村井邦彦)、ゴダイゴ「ガンダーラ」(1978年、奈良橋陽子と共同、作曲はタケカワユキヒデ)、井上順「お世話になりました」作曲・編曲は筒美京平がある。「翼をください」「ガンダーラ」「お世話になりました」のいずれもどこかピント外れの部分がある。「学生街の喫茶店」はその典型だ。雰囲気はあるけれども何となく違う。山上路夫は一歩踏み込んだ形の詩をつくらない。

消息が実家でも判らなかった男は自分の家で平和に記念撮影をしていた

 卒業から何年かして男から便りが届いた。女房と子どもとの正月の記念撮影であった。社会と隔絶した精神の理想郷として大学に四年身を置いた男は卒業して三年ほどして世間に馴染むための踏ん切りをした。消息が実家でも判らなかった男のことである。その男は何時しか郷里に帰り実家の玄関で平和な記念撮影をしていたのだ。

役所勤めのために故郷に戻る男の姿は寂しげであった

 人生の岐路に立って躊躇する男と氷の世界に飛び込む固い決心をした女に挟まれた男はどうしたか。母親の兄が県議会議長の役職にあったこともあってその県の役所に勤めることになった。もう無茶はできないと諦めの境地で故郷に戻る姿は寂しげであった。

2020-12-24-college-life-of-a-man-who-was-given-a-complete-collection-of-bob-dylan-poems-to -commemorate-his-graduation-

旅のエッセー集 essay and journey(essay of journey) 旅行家 甲斐鐵太郎
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八ヶ岳高原の空と雲の詩 甲斐鐵太郎
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八ヶ岳高原の野辺山高原キャベツと川上高原レタス
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八ヶ岳高原の野辺山高原キャベツと川上高原レタス 甲斐鐵太郎 津とリングス YouTube 動画

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