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田中館秀三の業績・生涯と徳川義親の田中館秀三評
田中館秀三の業績・生涯と徳川義親の田中館秀三評
 

田中館秀三の業績・生涯と徳川義親の田中館秀三評

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田中館秀三の評価

徳川(1973)pp.186-187は、「田中館くんは不思議な人で、専門は何だかさっぱりわからない。なににでも食いつくが、学位論文などは出さない。親爺が著名な学者だったので、便乗して学者らしく振舞っていたとだけしか考えられない。」とし、また「学者は多く集まったが、だれも彼を信用していなかった」としながら、「こうはいうが、ぼくは彼を高く買っている。戦いのあと、博物館、図書館、試験所、研究所などの文化施設を押さえ、憲兵をつけて、破壊と掠奪から護ったのは田中館くんである。これこそ大きな功績といってよかろう。」と評している。

大石(1995)pp.30-31は、「徳川義親「田中館秀三『南方文化施設の接収』に対する評」昭和19年」からの引用として、徳川が田中館から同書を受贈されたときに、田中館を「精神異常者であって、知人は誰も相手にしなかった。著書として残ると記事となって、すべての人々は甚だ迷惑である。記事は全部、彼の夢想したことで事実ではない。軍の嘱託でも何でもない。戦争のどさくさに乗じて戦地の各場をまわり、自称嘱託にすぎない。戦地は順序も秩序も厳しいもので、自由に人の任免は出来ないのである。私の博物館長になった理由など彼は全々知らず彼は自分の手柄のやうに書いてあるが全々のでたらめである。此位全部捏造であることも珍しい。併しこれは人を騙さうとしたのではなく夢想した記事といった方がよい。悪意のものではないと思ふ。」と評していたことを紹介している。[32]

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田中館秀三

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田中館(下斗米)秀三(たなかだて(しもとまい)ひでぞう、1884年6月11日-1951年1月29日)は、日本の地理学者。火山・湖沼学、地質学、人文地理学、兵要地誌など広範な分野で業績を残し、揺籃期の東北帝国大学理学部地理学教室を主催し後進を指導した。
1908年に東京帝国大学理科大学地質学科を卒業後、東北帝国大学農科大学・北海道帝国大学で地質学の講師・助教授を務め、1910-1914年にイタリアでヴェスヴィオ山の調査を行い、1919-1920年に青島で鉱物資源などの兵要調査を行なった。1923年から東北帝国大学法文学部講師として人文地理学(地政学)を担当。1930年代には東北地方から南方への拓殖移民推進政策に関連した調査・研究を行ない、1941-1942年には仏印、英領マラヤなどで鉱物資源の兵要調査を行った。
日本軍によるシンガポール占領直後にラッフルズ博物館・植物園の接収を担当し、博物館の収蔵品の掠奪や散逸を防止したことがよく知られているが、同時に博物館による資料の収集(掠奪)や日本への移送、資料の軍事活用を担当していたことはあまり知られていない。
戦後は東北大学や法政大学で教鞭をとった。1945年9月に大本営から兵要地図を譲り受け、東北大学など各地の大学に保管した。[1]
目次 [非表示] 
1 経歴
1.1 生い立ち
1.2 東北帝国大学農科大学講師・助教授時代
1.3 北海道帝国大学農学部講師時代
1.4 東北帝国大学法文学部講師時代
1.5 南方での兵要調査
1.6 戦後
2 兵要地誌
2.1 青島民政部時代の経験
2.2 シンガポール占領後の資源調査
2.3 大本営の兵要地図の譲受と保管
3 評価
4 著作物
4.1 単著
4.2 共編著
4.3 新聞記事
5 参考文献
6 関連文献
7 外部リンク
8 脚注
経歴[編集]
生い立ち[編集]
1884年6月11日、岩手県二戸郡福岡町字横丁で、下斗米与八郎、たよの間に、6人きょうだいの5番目(3男)として生まれる[2]。命名「秀二郎」[2]。
1897年、岩手県立盛岡中学校に入学[2]。同級生に、野村長一(胡堂)、久保田晴光、板垣征四郎、1学年上に金田一京助、小野寺直助、田子一民、郷古潔、及川古志郎、1学年下に石川啄木、伊藤圭一郎がいた[2]。
1902年3月、同校を卒業し、同年9月に京都の第三高等学校に入学[2]。
1905年9月、東京帝国大学理科大学地質学科に入学[2]。当時の地質学科教授には小藤文次郎、神保小虎、横山又次郎、同級生には河野密、大湯正雄、出口雄三、小林儀一郎、村田析がいた[2]。
在学中に「秀三」と改名、また樺太を旅行した[2]。
1908年7月、同学科卒、卒業論文は神保小虎の指導による「樺太の琉化鉄鋼の研究」[2]。卒業後に中国南部を旅行した[2]。
東北帝国大学農科大学講師・助教授時代[編集]
同年11月、札幌の東北帝国大学農科大学の講師となり、学部で岩石学・海洋学などの講義を担当[3]。
1909年9月、東北帝国大学農科大学水産学科教授、兼農科大学助教授[2]。
1910年2月、文部省により、地理学及び海洋学研究のため、3カ年の予定で独・英に派遣される[2]。同年から、ナポリでヴェスヴィオ火山の調査を行なう[4]。
また赴任中にアルゼンチンで開催された汎アメリカ会議に出席した[2]。
1914年には、ナポリで火山学を講じていたジュゼッペ・デ・ロレンツォの紹介により、ナポリの王立東洋学院 Reale Istituto Orientale(ナポリ東洋大学 Universita degli Studi di Napoli "L'Orientale" の前身)の教師となる[4]。ナポリでは下斗米(しもとまい)の姓で知られていた[4]。
1915年12月、日本に帰国[5]。田中館愛橘の娘・美稲子と結婚し、田中館家の養子となる[6]。
この頃、田中館愛橘の日本式ローマ字普及運動に協力し、『ローマ字の世界』にしばしば寄稿[2]。妻との間に一女をもうけたが、その後離婚[7]。離婚後も「田中館」の姓を用いた[7]。
1915,1917年に東北帝国大学農科大学の学部で講義を担当[8]。
北海道帝国大学農学部講師時代[編集]
1919年、北海道帝国大学農学部講師兼附属水産専門部講師[2]。同年から2,3年の間、青島民政部に関係し、1922年に青島民政部の報告書『山東省ノ地質鉱山』を編じている[9]。
1922,1924,1926-1928年に北海道帝国大学農学部で地質学の講義を担当[8]。
1922年、北海道庁の河湖水理調査嘱託となり、1924年に報告書(田中館,1924)を刊行[10]。
1922年、日本学術研究会議本部委員[2]。
1923年4月、東北帝国大学法文学部講師、人文地理学(地政学)の講義を担当[11]。
1926年、日本学術研究会議の水理部主任となり、第3回汎太平洋学術会議に出席して講演[2]。同年噴火した十勝岳、樽前山の噴火調査を行う[12]。スタンフォード大学のベリー・ウィリス、八木貞助とフォッサマグナを調査[2]。
1927年、プラーグの国際地球物理学会議、ローマの国際湖沼学会議に出席のため渡欧、イタリア王立ナポリ学士院の会員に推薦される[13]。[14]
東北帝国大学法文学部講師時代[編集]
1928年、ギリシャのサントリン火山を調査[2]。
1929年、ジャワで行なわれた第4回汎太平洋学術会議に出席して講演[2]。世界動力工業会議に論文を発表[2]。帰国後の同年8月に八木貞助と焼岳、浅間山を調査し、同年9月にジャワ滞在中に噴火した北海道駒ヶ岳を調査した[2]。
1930年、国際地球物理学連合総会、火山学会副会長に推薦され、1933年まで在任[2]。
1931年、オランダ王立ジャワ自然科学協会会員に推薦される[2]。
1932年、ブラジルへ出張、南米移民団と共に渡航する[2]。その後、北米を旅行し、翌1933年1月に帰国[2]。
1933年、昭和三陸地震の津波被害の調査に着手、研究を山口弥一郎に託す[2]。
1936年、学士院の援助により、マリアナ群島の火山を調査[2]。同年、玉田秀子と再婚し、仙台市米ヶ袋下丁で暮らす。翌1937年に娘・多美子が誕生[2]。
1939年、日本学術研究会議の水理学部長となり、1943年まで在任[2]。
南方での兵要調査[編集]
1941年4月、仏印と雲南省の境界付近に賦存する燐灰石鉱床の調査・研究を行う[15]。同年12月、東北帝国大学から学術研究(同年4月からの研究の継続)のため仏印出張を命じられる[16]。
1942年1月12日『東京日日新聞』には、仏印への農業移民を提唱する談話が掲載された[17]。
1942年2月中旬、ハノイの南方軍総司令部で塚田参謀長から「シンガポール攻略後の資源調査」を現地で軍と打合せて実施するよう指示を受け、同月16日にサイゴンから日本軍占領直後のシンガポールに入る[18]。占領直後、昭南特別市長のような立場にあった豊田薫からの指示で、ラッフルズ博物館・植物園の接収にあたり、同年8月末まで博物館長・植物園長のような立場にあった[19]。
1942年3月20日-4月15日にはジャワ、同年5月28日-6月14日にはスマトラ、同年6月26日-7月14日にはマライへ出張し研究機関や文化施設を巡回した[20]。
同年9月に徳川義親が昭南博物館長・植物園長となり、佐藤瞕が植物園長代理となった後も博物館での「資源調査」を支援していたが、同年11月中旬に日本に一時帰国し、翌1943年1月16日に再び昭南入りした後、同年2月にクアラ・ルンプールやタイピンの研究機関・博物館等の事務をし、2ヶ月ほど「軍の仕事」を手伝い、同年4月29日に日本に帰国した[21]。このときの「資源調査」の成果と思しき稿に田中館(1942a,b)がある。
1943年8月、立命館大学教授となり、地理学の講義を担当[2]。
戦後[編集]
1945年9月、大本営から外邦図などの兵要地図を譲り受け、東北大学など各地の大学に保管した[22]。
同年10月、東北帝国大学教授、理学部地理学講座担当[2]。
戦中から戦後にかけて昭和新山の調査に関わり、命名を行った[4]。1948年にオスロで開催された万国火山会議に昭和新山が隆起する様子を図示したミマツダイヤグラムを提出した[23]。
1946年3月、定年のため東北帝国大学を退職、理学部講師嘱託となる[2]。GHQ顧問(経済科学局嘱託)に就任[24]。
1948年4月に、法政大学講師となり、翌年4月に同校教授となる[2]。
1951年1月29日、東京の病院で胃癌のため死去、満66歳7ヵ月[2]。国際火山学会の会誌に追悼文が掲載された[25]。
兵要地誌[編集]
青島民政部時代の経験[編集]
田中館は、1919年から数年間、青島民政部に関与していたが、このとき同部はドイツ時代に作られた図書館を全部解散して、書籍を日本の各中等学校に数冊ずつ配布することを決定、また諸調査機関の書庫を解放して重要な文書を離散させていた[26]。
青島民政部の報告書『山東省ノ地質鉱山』(田中館,1922)は、現地の図書館や諸調査機関の書庫中で発見した「重要書類」を参考にして、地下資源の調査資料としてまとめたものとされている[27]。
シンガポール占領後の資源調査[編集]
田中館は、シンガポール陥落前にシンガポール植物園の園長・副園長だったR.E.ホルタム、E.J.H.コーナー博士、市庁水産局長だったW.バートウイッスルら当時「敵性外国人」とされていた英国人を捕虜の身分で協力させ、1942年2月中旬から、「軍参謀」の許可を得て、コーナーとともに外出して市内の行政機関事務所や要人宅から図書や備品などを収集(掠奪)して博物館附属図書館に集め、整理・仕分け作業を行った[28]。
3月中旬に「或要務」を帯びて仏印・サイゴンから昭南博物館に出張して来た南方総軍獣医部の古賀忠道少尉や、3月26日にサイゴンから昭南入りした昆虫学者の江崎悌三・九州帝国大学教授、植物学者の本田正次東京帝国大学助教授、地質学の大塚弥之助・東京帝国大学助教授ら3人も資料収集に参加し、田中館が3月20日から4月15日にかけてジャワ出張で不在の間も作業は続けられた[29]。
略奪を行った事務所や個人宅の詳細は、田中館(1944)pp.58-63,66-67,72に記載があり、また加藤(1998)p.61によると、コーナーの回顧録の原著の付録に略奪を行った場所と内容の記録がある。
田中館(1944)pp.62-63には1942年3月中に約4万の図書を集め、5月頃にもまだ図書を収集していたとの記載があり、加藤(1998)p.61によるとコーナーの原著には活動により集められた資料は4万冊超、その後、倍の8万冊になったとの記載がある。
集めた図書は博物館付属図書館で整理されたが、このうちの相当数が日本へ送られたとみられている。1946年3月に設置された占領軍の民間財産管理局(CPC)は、1947年4月30日に指令第000.3号「シンガポールのラッフルズ博物館図書館より持ち去られた財物について」を発しており、図書の移入先となり、戦後図書の返還作業を行なった帝国図書館員の回想の中に「ラッフルズ」に送り返したものが「万という数」「数え切れない」ほどあった、との叙述がみられる[30]。
また田中館はジャワ・スマトラ・マレー各地を出張した際に各地の文化施設・研究機関を見て廻り、スマトラ島・メダンでは学術研究機関が占領当時のまま放置されていたため、当時の軍政部長・黒川大佐に図書館設立の必要を説き、場所を決めて市内各所に散在していた図書約2万冊を集め、元アプロス農業研究所員のオランダ人・シュリーケを図書係にして図書を整理させ、整理作業中にシンガポールに戻ったが、後で「大変役に立った」と感謝され、却って恐縮した、としている[31]。
大本営の兵要地図の譲受と保管[編集]
1945年9月に、東北大学理学部地理学講座の教授をしていたとき、東京・市ヶ谷にあって、閉鎖に向けて業務処理中だった大本営陸軍部を訪問し、旧知の間柄で、部下と共に執務にあたっていた渡辺正参謀に兵要地図の寄贈を求めた[22]。
渡辺参謀の承諾を受け、同本部や神田の明治大学地下にあった参謀本部分室から大量の外邦図や国内の地形図を、応急整理の上、リヤカーで搬出[22]。神保町のスズラン通り裏手にあった貸事務所の一室を借り、岡本次郎と三田亮一が参謀本部との間片道約4キロメートルを何度も往復して地図を運んだ[22]。
地図は、仙台へ運ばれ、東北大学理学部地理学教室に収蔵されたほか、当時資源科学研究所地理部門主任と東京大学理学部地理学教室の助教授を兼務していた多田文男らにより、数ヶ所を経て大久保の資源科学研究所に収蔵されたものなど、複数の保管先に収蔵された[22]。
評価[編集]
徳川(1973)pp.186-187は、「田中館くんは不思議な人で、専門は何だかさっぱりわからない。なににでも食いつくが、学位論文などは出さない。親爺が著名な学者だったので、便乗して学者らしく振舞っていたとだけしか考えられない。」とし、また「学者は多く集まったが、だれも彼を信用していなかった」としながら、「こうはいうが、ぼくは彼を高く買っている。戦いのあと、博物館、図書館、試験所、研究所などの文化施設を押さえ、憲兵をつけて、破壊と掠奪から護ったのは田中館くんである。これこそ大きな功績といってよかろう。」と評している。
大石(1995)pp.30-31は、「徳川義親「田中館秀三『南方文化施設の接収』に対する評」昭和19年」からの引用として、徳川が田中館から同書を受贈されたときに、田中館を「精神異常者であって、知人は誰も相手にしなかった。著書として残ると記事となって、すべての人々は甚だ迷惑である。記事は全部、彼の夢想したことで事実ではない。軍の嘱託でも何でもない。戦争のどさくさに乗じて戦地の各場をまわり、自称嘱託にすぎない。戦地は順序も秩序も厳しいもので、自由に人の任免は出来ないのである。私の博物館長になった理由など彼は全々知らず彼は自分の手柄のやうに書いてあるが全々のでたらめである。此位全部捏造であることも珍しい。併しこれは人を騙さうとしたのではなく夢想した記事といった方がよい。悪意のものではないと思ふ。」と評していたことを紹介している。[32]
著作物[編集]
単著[編集]
田中館(1975) 田中館秀三(著)田中館秀三業績刊行会(山口弥一郎ほか)(編)『田中舘秀三‐業績と追憶』世界文庫、1975年、全国書誌番号:73012802
田中館秀三業績刊行会(1975)「紹介 田中館秀三業績刊行会:"田中館秀三"」『地質学雑誌』vol.81 no.8、1975年8月、p.528、NAID:110003024712
矢沢(1976) 矢沢大二「書評と紹介 田中館秀三業績刊行会編:田中館秀三‐業績と追憶」『地学雑誌』vol.85 no.1、1976年、p.61、DOI:10.5026/jgeography.85.61
田中館(1944) 田中館秀三『南方文化施設の接収』時代社、1944年、NDLJP:1267166
田中館(1942b) 田中館秀三「マレー半島の鉱業」飯本信之・佐藤弘(編)『南洋地理大系 第4巻 マレー・ビルマ』ダイヤモンド社、1942年、pp.137-170、NDLJP:1875557/76 (閉)
田中館(1942a) 田中館秀三「フィリッピンの鉱業」飯本信之・佐藤弘(編)『南洋地理大系 第2巻 海南島・フィリッピン・内南洋』ダイヤモンド社、1942年、pp.319-346、NDLJP:1875533/168 (閉)
田中館(1941) 田中館秀三(述)『佛印燐灰石の鑛床に就て』海外鑛業協会、1941年
田中館(1937b) 田中館秀三「地理学上より見たる東北地方の開拓」『地理学』vol.5 no.4 別刷、1937年
田中館(1934a) 田中館秀三(述)『東北地方の凶作に就て』東北帝国大学法文学部経済地理学研究室、1934年、NDLJP:1100396
田中館(1931b) 田中館秀三「湖沼学」『地理学講座 第11回』、地人書館、1931年、pp.129-206、NDLJP:1876798/82 (閉)
田中館(1931a) 田中館秀三「海洋(3)」『地理学講座 第4回』、地人書館、1931年、pp.145-190、NDLJP:1876737/95 (閉)
田中館(1930b) 田中館秀三「海洋(2)」『地理学講座 第2回』、地人書館、1930年、pp.171-232、NDLJP:1876720/102 (閉)
田中館(1930a) 田中館秀三「海洋(1)」『地理学講座 第1回』、地人書館、1930年、pp.83-126、NDLJP:1876710/59 (閉)
田中館(1924) 田中館秀三『北海道火山湖研究概報』北海道庁、1924年
下斗米(1911) 下斗米秀三「回航日誌 ケープベルデ諸島及カナリー諸島の部」日本地質学会『地質学雜誌』vol.18 no.208、1911年1月、DOI:10.5575/geosoc.18.16、pp.16-29
下斗米(1910c) 下斗米秀三「回航日誌 ブラジルの部」日本地質学会『地質学雜誌』vol.17 no.207、1910年12月、DOI:10.5575/geosoc.17.207_508、pp.508-521
下斗米(1910b) 下斗米秀三「ケープ・タウンの四日間」日本地質学会『地質学雜誌』vol.17 no.204、1910年9月、DOI:10.5575/geosoc.17.389、pp.389-400
下斗米(1910a) 下斗米秀三「モウリチアス島見聞記」日本地質学会『地質学雜誌』vol.17 no.203、1910年8月、DOI:10.5575/geosoc.17.360、pp.360-366
共編著[編集]
田中館・山口(1953) 田中館秀三・山口弥一郎『東北地方の経済地理研究』古今書院、1953年、NDLJP:3017935 (閉)
田中館(1939) 田中館秀三(編)「阿武隈川水路図」『文化』vol.6 no.7、1939年
田中館・山口(1938) 田中館秀三・山口弥一郎「三陸地方の津浪に依る聚落移動」『斎藤報恩会時報』no.141-143 別刷、1938年9-11月
田中館(1937a) 田中館秀三(編)『市町村名の読方及び市町村面積人口密度表』日本書房、1937年、NDLJP:1219990 (閉)
地学雑誌(1937)「(書評)田中館秀三編 市町村名の読方及び市町村面積人口密度表」『地学雑誌』vol.49 no.12、1937年、DOI:10.5026/jgeography.49.600a、p.600
田中館・山口(1936) 田中館秀三・山口弥一郎『東北地方に於ける出作及び出稼聚落の経済地理 : 福島県南会津郡桧枝岐村の出作,岩手県二戸郡田山村の出稼』『地理学評論』vol.12 no.3 別刷、pp.218-247、1936年3月
田中館(1934b) 田中館秀三(編)『東北地方市町村別人口密度表:昭和5年』斎藤報恩会,1934年
田中館・猪鹿倉(1932) 田中館秀三・猪鹿倉忠俊『日本の水力・石炭・石油』〈岩波講座 地理学7〉岩波書店、1932年、pp.15-53、NDLJP:1240716/10 (閉)
田中館・猪鹿倉(1932) 田中館秀三・猪鹿倉忠俊『水力・石炭・石油』〈岩波講座 地理学5〉岩波書店、1932年、NDLJP:1240674
田中館(1926) 田中館秀三(編)『十勝岳爆発概報 大正15年6月25日』田中館秀三、1926年、NDLJP:981513
田中館(1922) 田中館秀三(編)『山東省ノ地質鉱山』青島守備軍民政部、1922年、NDLJP:960500
神保(1923) 神保小虎「解題 田中館秀三 山東省の地質鉱山」日本地質学会『地質学雑誌』vol.30 no.355、1923年4月、pp.180-181、NAID:110003011645
新聞記事[編集]
田中館(1942-1-12) 「農業も仏印進駐だ 東北帝大講師 田中館秀三氏談」神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 東南アジア経済事情(11-009) 『東京日日新聞』1942.1.12 2017年9月12日閲覧
参考文献[編集]
田中館の著書等については#著作物を参照。
左巻(2012) 左巻健男『面白くて眠れなくなる地学』PHP研究所、2012年。
松岡(2010) 松岡資明『日本の公文書: 開かれたアーカイブズが社会システムを支える』ポット出版、2010年。
土肥(2008) 土肥秀行「下位春吉とナポリの文芸誌『ラ・ディアーナ』-下位春吉伝(上)」イタリア書房『イタリア図書』〈特集・日伊交渉(4)〉no.39、2008年10月、p.11-17
加藤(1998) 加藤一夫「日本の旧海外植民地と図書館‐東南アジアの図書館接収問題を中心に(未定稿)」国立国会図書館『参考書誌研究』no.49、1998年3月、DOI:10.11501/3051416、pp.50-70
大石(1995) 大石勇「太平洋戦争(時)下の昭南島‐第25軍最高軍政顧問徳川義親と軍政」『徳川林政史研究所研究紀要』no.29、pp.21-51
荒俣(1991) 荒俣宏「よみがえる徳川政治-徳川義親と昭南博物館」『大東亜科学綺譚』筑摩書房、1991年、ISBN 4480860312、pp.209-258
石井(1982) E.J.H.コーナー(著)石井美樹子(訳)『思い出の昭南博物館‐占領下シンガポ−ルと徳川侯』〈中公新書〉中央公論社、1982年、全国書誌番号:82050003
湊(1982) 湊正雄「北大における地質学と北海道」北海道大学『北大百年史 通説』ぎょうせい、1982年、pp.893-907
徳川(1973) 徳川義親『最後の殿様 徳川義親自伝』講談社、1973年、全国書誌番号:73011083
関連文献[編集]
太田愛人『野村胡堂・あらえびすとその時代』教文館、2003年、pp.64-65
科学朝日『スキャンダルの科学史』朝日新聞社、1997年、p.293
岡山俊雄『日本の山地地形と氷河問題研究小史』古今書院、1974年,p.184
山口弥一郎(著)下斗米たよ(述)田中館愛橘・田中館秀三(解注)『二戸聞書』六人社、1943年10月
池田弥三郎(解説)『日本民俗誌大系 9巻』角川書店、1974年に収録
『市立函館図書館蔵 郷土資料分類目録 第4巻』市立函館図書館、1966年、p.597,598,603。
1942-1944年頃?『朝日新聞』に掲載された徳川義親の手記「昭南のこと」[2]
『水産界』no.400-411、1916年、p.762
内閣官房局『職員録』印刷局、1913年、p.30
日本工学会『明治工業史 第8巻』
日本地質学会『地質学雑誌』vol.15-16、1908年、p.52,154,159
外部リンク[編集]
東北大学附属図書館/理学部地理学教室 外邦図デジタルアーカイブ 2017年9月14日閲覧。
脚注[編集]
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↑ この記事の主な出典は、松岡(2010)頁番号未詳、土肥(2008)p.13、荒俣(1991)pp.253-256、石井(1982)、湊(1982)pp.897-899および田中館(1944)。

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2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 2.11 2.12 2.13 2.14 2.15 2.16 2.17 2.18 2.19 2.20 2.21 2.22 2.23 2.24 2.25 2.26 2.27 2.28 2.29 2.30 2.31 2.32 2.33 2.34 2.35 荒俣(1991)pp.253-256
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↑ 加藤(1998)pp.55-56、荒俣(1991)pp.253-256。

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4.0 4.1 4.2 4.3 土肥(2008)p.13
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↑ 土肥(2008)p.13、荒俣(1991)pp.253-256
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↑ 荒俣(1991)pp.253-256。下斗米家と田中館家は、以前から親類に関係にあった由(同)。また1914年発行の外国語論文では著者名が「下斗米(田中館)」となっており、婚姻に先んじて入籍していた可能性が指摘されている(同)。加藤(1998)pp.55-56では、1922年に養子になった、としている。

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7.0 7.1 荒俣(1991)p.236

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8.0 8.1 湊(1982)pp.897-899
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↑ 田中館(1944)pp.5-6
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↑ 荒俣(1991)pp.253-256には1925年刊行の記載があるが、国立国会図書館サーチによると1924・1925年刊本のデータがあり、「1915年12月」版は正誤表付きとなっているため、初版は1924年版のようである。
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↑ 荒俣(1991)pp.236,253-256。同書p.254では「法学部」としているが、同書p.236では「法文学部」としており、1934年頃の肩書きが「東北帝国大学法文学部(経済地理学研究室)講師」となっているため(加藤,1998,pp.55-56、田中館,1934a,表題・奥書)、これにより訂した。
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↑ 田中館(1926)、荒俣(1991)pp.253-256。
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↑ "加藤(1998)pp.55-56、荒俣(1991)pp.253-256"
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↑ 荒俣(1991)pp.253-256には1927年7月20日に北海道帝国大学農学部兼水産専門部の講師を解嘱になった旨記載があるが、湊(1982)pp.897-899によると1928年にも同大学で講義を担当している。
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↑ 田中館(1944)p.3
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↑ 田中館(1944)p.3
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↑ 田中館(1942)
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↑ 田中館(1944)pp.序2,3-9
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↑ 田中館(1944)pp.24-27,50-53
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↑ 田中館(1944)pp.38-40,44,47-48,56
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↑ 田中館(1944)pp.50-53,76-80

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22.0 22.1 22.2 22.3 22.4 松岡(2010)頁番号未詳
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↑ 左巻(2012)要頁番号
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↑ 荒俣(1991)pp.248,253-256
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↑ 荒俣(1991)pp.253-256、Bulletin Volcanologique vol.12 1952 pp.227-233
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↑ 田中館(1944)p.5。田中館は、図書館を廃止して図書を離散せしめるのは文化の破壊、ドイツに対する怨みを国民に植え付けることにもなる、として当時の秋山民政長官に反対を申し入れ、お叱りを被った、という(同)。
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↑ 田中館(1944)pp.5-6
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↑ 加藤(1998)pp.60-61、田中館(1944)pp.58-63。
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↑ 加藤(1998)pp.60-61、田中館(1944)pp.40,65-66
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↑ 加藤(1998)pp.65-66
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↑ 田中館(1944)pp.229-230
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↑ (編注)大石(1995)は公刊物からの引用のように記しているが、私家本ないし日記からの引用と思われる。


徳川 義親

田中館秀三の業績・生涯と徳川義親の田中館秀三評

田中舘 愛橘

 
 
 

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